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行かないで

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 伊呂波との同居は順調すぎるくらい順調で、なんの問題もなく二週間近く過ぎた。
 いつの間にか遠くで眺めているだけだった伊呂波も家事を手伝ってくれるようになり、朝陽の負担も大分減った。
 信仰深い人にこの状況を見られてしまったら、きっと罰あたりだと怒られるだろう。しかし、伊呂波は伊呂波で新しいことにチャレンジするのが楽しいらしく、自ら進んで行動を起こしてくれるので、無下にもできない。
 本人がやりたいというのなら神だろうが人間だろうが尊重すべきだろう、と自分を納得させた。
 そして、伊呂波が手伝ってくれるようになり、改めたことが一つだけあった。

「はい、伊呂波の分」
「ありがとう」

 朝陽はご飯を茶碗によそうと伊呂波の前に差し出した。自分の分も用意すると向かいの席に着いた。

「いただきます」
「いただきます」

 二人で声を揃えて挨拶する。少し前まで忙しなく過ごしていたとは思えないほどの優雅な朝食。
 あれから朝陽はちゃんと朝食をとるようになった。初めのうちは軽いものしか受け付けなかった胃も、一般的な朝食と呼ばれる類いのものも食べられるようになった。
 更に新たな発見で、伊呂波は洋食も好きなことが分かり、レパートリーも広がった。
 朝から気分がいいと、仕事も捗る。まさに良いことずくめで伊呂波に感謝した。

「あ、そうだ、今日帰るの遅くなるね」
「え、なんで?」
「会社の送別会があるんだよ。ちょっと億劫だけど、関わりのあった人だから断れなくて」
「そうなんだ……」

 ただの連絡のつもりだったが、伊呂波はなにかに引っかかったらしく、黙り込んでしまった。

「ご飯はちゃんと用意していくから大丈夫だよ」
「そこは心配してないんだけど……」
「じゃあ何か気になることがあるの?」
「ん~」

 朝陽はできるだけ、伊呂波とコミュニケーションをとろうと努めていた。なるべく理由を聞くようにして、伊呂波を理解しようとする。。
 自分の頑固で思い込む性格をどうにかしようと思ってのことだったが、伊呂波相手だと中々上手くいかない。

「会社って、男の人、いる?」
「? 半分くらいが男性かな」

 思い出しながら人数を数える。営業職だから部署的には男性が多いけど、会社全体の割合は同じくらいのはずだ。
 朝陽がそう言うと、伊呂波はあからさまにショックを受けたような顔をした。
 まさか社員全員が女性の会社だと思っていたのだろうか。女性だけの会社もなくはないが多くはない。伊呂波の人間社会に対する知識の度合いが良く分からない。
 考えてみれば、伊呂波はこの家にある程度の家電は教えてあげればすぐに使えるようになった。会社に行く、と言った時も特に疑問はもたれなかった。流石にスマートフォンやパソコンは操作が分からないようだが、全くの無知というわけではないのが面白い。

「行かないで」
「え、無理だよ。出るって言っちゃったもん」

 朝陽はばっさりと切り捨てる。一々伊呂波の言うことにまともに取り合っていたら遅刻してしまう。
 急激に元気をなくしていく伊呂波とは対照的に朝陽は身体が温まり始めてきたのを感じた。朝食の力は偉大だな、と改めて感じる。

「朝陽、そこをなんとか……」
「今回ばかりは本当に無理なんだって」
「う……」
「代わりに明日は休みだから伊呂波に付き合うよ」
「本当!?」
「うん。何かやりたいこと考えておいて」
「分かった!」

 伊呂波の扱いがなんとなく分かり始めた。子どもを諭すように接していれば大概のことが丸く収まる。元々、外見よりは少し幼い印象の伊呂波だったが、子どもの姿を見てから、一層子どものように思えてきてしまった。
 あわよくば子どものままの姿でいてくれないかな、とすら思ってしまう。
 現に、機嫌が直ったのか、伊呂波は嬉しそうにご飯を食べ始めた。
 朝陽はその様子にホッと胸を撫で下ろした。


「じゃあ、行ってくるね」

 玄関でお見送りをしに来てくれた伊呂波に声をかける。最近、朝は毎日お見送りをしてくれるようになった。わざわざいいのに、と思いつつ、やっぱり気に掛けてくれるのは嬉しい。

「朝陽」

 名前を呼ばれる。見ると伊呂波が両手を大きく広げて立っている。

「やらなきゃだめ?」
「やってくれたら僕が嬉しい」

 いけしゃあしゃあと言ってのけるが、不思議と憎めない。朝陽は少しの抵抗の後、息を吐いた。

「分かったよ」

 朝陽は伊呂波の胸に飛び込むと軽く背中に腕を回した。
 頭一つ高い身長差に視界が全て伊呂波で埋まる。
 伊呂波は朝陽の腰に手を回したが、朝陽は伊呂波の背中をなだめる様にとんとんと二回叩いた。

「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はいはい」

 ふわりと花のような伊呂波の香りが鼻に届いた。近すぎる距離を意識する前に慌てて離れる。
 一度伊呂波を抱きしめてから、伊呂波は事あるごとにハグを求めてきた。と、いってもいやらしい意味合いは全くなく、それだから余計に性質が悪かった。
 抱きしめると伊呂波はいつも嬉しそうに笑ってくれた。海外ではハグなんてコミュニケーションの一環でしかないし、こんなことで伊呂波が喜んでくれるならしてもいいかなと思う。
 毒されてきていると言ってしまえばそれまでだが。

 伊呂波は名残惜しそうに朝陽の髪をすくい上げ、しばらく弄んでいたが、やがて離した。伊呂波の離れたくないオーラを強く感じるが、仕事には行かなくてはならない。
 朝陽は我が子を家に残して仕事に行く親のような気持ちで家を出た。
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