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抱きしめて

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 帰りたくないと思いながら、バスを降りる。
 家の最寄りのバス停から家までは徒歩で五分くらいかかる。会社をきっかり定時で上がって帰ってきたが、もうそろそろ日が落ちそうな時間になってしまった。

 早く帰ってご飯つくらなきゃ。

 そうは思うが中々足は進まない。
夕方になってもまだ外は暑い。家に向かう坂道を登ると汗が滲み始めた。
 低いヒールとはいえ、パンプスで凸凹舗装の道を歩き続けるのはつらい。通勤用の靴が必要だなぁ、と考え始めたところで家が見え始めた。

 着いてしまった。
 もう覚悟を決めるしかない。

 朝陽は神妙な面持ちで立て付けの悪いドアを開けた。相変わらず大きな音がする。
 しかし、いくら様子を見ても伊呂波は現れない。嫌な予感がして慌てて家に上がる。部屋の中はどこも真っ暗で伊呂波がいる気配はしない。

「伊呂波?」

 気まずいと思っていたのも忘れて名前を呼ぶ。すぐに返事が返ってくるのを期待していたが反応はない。

「伊呂波? ねぇ、どこにいるの?」

 静まり返る室内に朝陽の声だけが響く。
 伊呂波がいない。その事実が急激に朝陽を押しつぶしてくる。
 嘘、どこに行ったの?
 朝陽は半泣きになりながら家の中を駆け回った。しかし、どこにも伊呂波はいない。最後の望みをかけて一番奥の部屋の前に来た。ここに居なかったら完全に伊呂波が出て行ってしまったことになる。
 祈るような気持ちでふすまに手をかける。目を閉じて、息を吐きながら一気に開けた。
 部屋の中は他の部屋より更に暗い気がした。目を凝らさなければ様子が分からないほど光が届いていない。

「伊呂波?」

 涙声で名前を呼ぶ。すると部屋の奥で何かが動いた。

「伊呂波? いるの?」

 朝陽の声に動揺するかのように息を飲む音がした。
 返事はしてくれないけれど、目の前にいる人物は伊呂波だと分かる。
 朝陽はそっと手を伸ばすと、それに触れた。何か布のようなものを被っているが、冷たい体温に安心する。

「伊呂波だよね? どうしたの?」

 優しく問いかけるが相変わらず返事はない。朝陽は伸ばしていた手を引っ込めようとした。しかし、布の下から出てきた手に手首を掴まれる。

「朝陽……?」
「うん。ただいま」
「もう帰ってこないかと思った」
「なんで? ここがあたしの家だよ」
「そっか」

 安堵感を感じさせる溜息まじりの声がした。

「電気つけてもいい? 暗くてよく見えなくて」
「ちょっと待って!」

 伊呂波は何故か焦った声を出した。

「あの、驚かないって約束してくれる?」
「? ……うん」
「それなら」

 伊呂波の言いたいことが分からず、朝陽は勢いで返事をした。
 電気をつけると、いきなりの光に視界が乱れた。段々目が慣れてくると、部屋の中の状況が見えてきた。
 部屋の真ん中には朝陽のタオルケットを頭からすっぽりと被った伊呂波がいた。
 ただし、半分くらいの大きさの。

「え、ええええ!?」
「驚かないっていったのに……」
「だって」

 伊呂波は子どもの姿をしていた。まさかの展開に口が開きっぱなしになる。

「伊呂波……だよね?」
「……うん」
「なんで子どもの姿に?」
「時々、……なる」

 言葉を飲みこんだような間があった。あやしいと思うが追及もできない。

「えっと、大丈夫なの?」
「うん。あ、でも」
「なに?」
「やっぱりなんでもない」
「え、気になるよ!」

 伊呂波は逡巡している。忙しなく瞳を泳がせている。

「言ったら、朝陽怒ると思う」
「あたしが? なんで?」
「決まりごとを破るから」

 決まりごとを破るということは、つまり。

「朝陽が抱きしめてくれたら早く治る。……と思う」
「え、」

 どういった理屈なのかは分からない。しかし、この状況で伊呂波がふざけているとも思えない。
 もし、子どもの状態が正常でないならば治してあげたいとも思う。
 幸か不幸か、子どもの伊呂波には大人の時に感じる抵抗感がない。
 大人の時は美しい顔立ちだったが、子どもになると年相応になり、はっきり言ってすごく可愛い。元々子どもが好きな朝陽は抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。

「あの、本当に抱きしめたら治るの……?」
「確証はないけど、多分」
「じ、じゃあ……」

 大義名分ができてしまい理性が崩れる。朝陽は腕を広げると思い切り伊呂波を抱きしめた。華奢で頼りない体つきに愛おしさが増す。後頭部を撫でると羨ましいくらい艶やかな黒髪が指の隙間からこぼれ落ちた。
 伊呂波も朝陽の背中に腕を回してくる。更に密着するが嫌悪感が全くない。むしろ頼りにされているような感覚になって高揚感が増す。

 か、可愛い……

 どのくらいそうしていただろう。
 伊呂波が朝陽の首元に顔を埋めた。髪の毛が首をくすぐり、思わず肩をすくめる。すると、段々と両腕に感じる感触が変わっていくのが分かった。

「伊呂波?」

 伊呂波の様子を確認しようと身体を離そうとしたが、今度は朝陽が強い力で抱きしめられた。

「え、ちょっと──」
「少しだけこのまま、話させて」

 神妙な声に朝陽は抵抗するのをやめた。

「朝のこと、ごめん」
「え」
「朝陽が嫌がること言った」

 あれはどう考えても朝陽が悪い。もう少し言い方を変えられたの筈なのに勢いにまかせて冷たい態度をとってしまった。
 それなのに伊呂波に謝らせてしまった。このままでいいはずがない。

「違う、伊呂波は悪くない! あたしが言葉足らずだったから……」
「でも朝陽を嫌な気分にさせたことは事実だから」
「伊呂波は悪くないんだってば! 伊呂波も言ってたけど、あたしすごく頑固なの! だから意固地になって冷たい態度をとっちゃうの!」

 拓真の時もそうだった。価値観の違いを感じたことは確かだが、話し合いもせず別れてしまった。
 伊呂波とはそうなりたくないと、思う。

「だから謝らないで」

 朝陽が懇願すると伊呂波は抱きしめる力を更に強めた。

「じゃあ、おあいこってことで、いい?」
「そうしてもらえると嬉しいです……」

 伊呂波は朝陽を抱きしめたまま動かなくなった。朝陽もしばらくはそれに付き合っていたが、違和感を感じて両手で伊呂波の胸を押し返した。両手に感じる厚い胸板。もう完全に元に戻っている。

「伊呂波! もう治ってるよ!」
「あーうん。そうだね」

 伊呂波はもごもごと口ごもりながら名残惜しそうに朝陽の腕を掴んだ。

「あ、もうこんな時間!」

 朝陽は勢いよく立ちあがると伊呂波の手を無意識に振り払った。

「あ……」
「ちょっと待ってて。すぐにご飯作るね」

 それだけ言い残し、朝陽は出て行ってしまった。一人部屋に残された伊呂波は寂しそうに自分の手を見つめ続けた。
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