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二人の決まりごと

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「朝陽、怒ってる……?」
「別に怒ってません」
「嘘だ。まともに口聞いてくれなくなったじゃないか」

 朝陽は伊呂波の反論を無視して布団を押し入れから出してきた。邪魔だと言わんばかりの態度で伊呂波を避け、敷布団を敷く。
 時計の針は十時を指している。寝るには早い時間だが、今日も色々と疲れたため、もう休むことにしたのだ。
 何より、明日は月曜日で初めてこの家から出社しなくてはならかった。一応、丁度いいバスの時間は調べてあり、問題はなさそうだが、念には念を入れ早めに家を出るつもりでいた。
 伊呂波に構っていられない状況で、ずっと傍に居られて内心困っていた。

「夜ごはんの時も無言だったし、その後もずっと……」

 伊呂波は項垂れている。

「朝陽にそんな態度とり続けられるのは悲しいよ。どうしたら許してくれる?」

 正直、伊呂波への怒りはもう収まっていた。残った羞恥心と引くに引けなくなった気持ちでこんな態度をとってしまっている。
 いい大人なのだから落とし所は弁えないといけないと思いつつもタイミングが分からない。
 明日の朝になれば素直になれるかもしれないと思っていたのに、伊呂波は今すぐに仲直りをしたいようで、何回も食い下がってくる。
 朝陽は仕方なく折れることにした。

「もう、怒ってないですよ」
「えっ」
「だからもう怒ってないです! ちょっと恥ずかしさはありますけど」

 伊呂波の表情がみるみる明るくなっていく。最初からこうしていれば良かったのだ。伊呂波に落ち込んだ顔をさせ続けるのは朝陽の本意ではない。

「本当?」
「はい。だからそんな暗い顔しないでください」
「~~~~朝陽っ」

 少し元気づけようとしただけなのに、伊呂波は思い切り朝陽に抱きつき、そのまま布団へと二人で倒れこんだ。ひやりとした感覚が全身を包む。
 朝陽は無言のまま伊呂波を引きはがすと、布団の上に正座させた。完全に不敬な態度だが、この際気にしていられない。

「ちょっとお話があります」

 伊呂波だけを正座させておくのもどうかと思い、向かい合うように自分も正座する。

「なに?」
「今後の方針についてですが」

 完全に社内会議の空気だ。しかし朝陽は有無を言わせず続ける。

「ちゃんと決まりごとを作っておこうと思います。そうしないと調和が乱れてしまうので」

 例えば今みたいな。

「調和……」
「まず、必要以上にあたしに近付かないでください」
「やっぱり僕が近付くと朝陽は嫌……?」
「そういうわけじゃないです。節度のない距離が嫌なんです」
「節度……」

 唸るような声を出す伊呂波を無視して続ける。勢いで押し切る作戦だ。

「後、部屋は別々にしてください」
「え!」

 部屋を別々にしても伊呂波に困ることはないと思っていたが、意外な反応に驚く。

「もしかして寝室も!?」
「もちろ……はぁ!?」
「それって一緒に寝られないってこと?」
「ああああ当たり前です!」
「僕たち夫婦だよね!?」
「あ……」

 そういえばそうだった。
 しかしここで負けるわけにはいかない。
 この話し合いには朝陽のプライバシーがかかっている。快適に暮らしていくためには絶対に譲れない。

「今時寝室を分ける夫婦は珍しくありません」
「でも僕は朝陽と一緒に寝たい」

 先程からこの男は恥ずかしげもなくとんでもないことを言う。
 自分が主張していることの意味が分かっているのだろうか。

「それに、……伊呂波さまと一緒に寝るのは、その、まだ恥ずかしいです……」

 いかにもな含みを持たせてそう言うと伊呂波はようやく意味を理解したように瞳を泳がせた。
 実際はどちらかというと『そういうこと』の心配よりも自分のプライバシーの心配でいっぱいだったが、伊呂波には効いたようだ。
 そもそも伊呂波は神様で朝陽は人間だ。そんな二人がどうこうなるはずもないと思っている。

「そういうことなら……待つよ」

 いくら待ってもその時はこないだろうなと思いながらも勿論口には出さない。
 毎日伊呂波と一緒に寝るなんて絶対に無理に決まっている。

「あのさ、僕も決まりごと決めてもいい?」
「それは……はい」

 流石に自分だけルールを押し付けるのはフェアではない。朝陽は素直に頷いた。

「僕のこと呼び捨てにして。それと敬語もやめて。壁感じて寂しい」
「え……」

 まさかそんなことだとは思わず、呆気にとられる

「いろは……」
「うん。もっと呼んで」
「伊呂波」

 呼ぶたびに嬉しそうに笑うから堪らなくなる。

「これからたくさん僕のこと、呼んで?」
「う、……分かった」

 改めて意識しだすと伊呂波の顔の良さに直視できなくなる。
 自分の顔の良さを自覚していない男ほど厄介なものはないなと思う。そもそも人間と神様で美しさの基準が同じとは限らないが。

「そういうことで、話し合いは終わり! もう寝るから出て行って」
「えぇー」
「だってもう眠たいし」
「折角夫婦の時間が出来たんだからもっとおしゃべりしようよ」
「明日にしようよ。別にあたしは逃げないし」
「そうだけど……」
「はい、じゃあおやすみ!」

 朝陽は伊呂波を立たせると背中を押して部屋から追い出した。
 これで朝に絶叫するはめになることはなくなっただろう。距離の近さも釘を刺したし、一応心配事はなくなった。
 朝陽は大きく伸びをすると、布団に倒れこんだ。先程まで伊呂波が座っていた場所はひやりと冷たく、心地よさを感じながら目を閉じた。


 目を開けると、そこには天井があった。横を確認しても伊呂波の姿は見えない。ちゃんと『決まりごと』は守られているらしい。
 清々しい目覚めに気分が上がる。スマートフォンを見ると目覚ましが鳴る五分前だった。
 朝陽は立ち上がると廊下につながるふすまを開けた。すると目の前に伊呂波の顔があった。

「…………まさか」
「違う! 今来たんだよ!」

 朝陽は足元で後ろ脚で毛づくろいをしている玄に視線を向けた。

「本当だぞ」
「そういうことなら、まぁ……」
「玄の言うことは信じるんだ!?」
「だって伊呂波、前科があるし」
「うっ」
「自業自得だな」

 馬鹿にするように笑う玄の傍を横切り台所へと向かう。

「あれ、朝陽? もう起きるの?」
「うん、今日仕事だし」
「仕事……」

 朝陽は冷蔵庫を開けると食材を物色し始めた。今日は昨日と違って昼の分も一度に準備しなくてはならない。
 てきぱき支度しないと遅刻する。朝陽は伊呂波の存在を忘れて夢中で料理を始めた。

「出来た! 時間は……間に合いそう。よかった」

 朝陽は急いで後片付けをすると、部屋の隅でこちらを見ている伊呂波を手招きした。構ってもらえると分かった犬のようにすかさず近づいてくる。大きく揺れる尻尾が見えるような気がしてきた。

「これ、お昼の分だから」

 用意した昼ごはんの説明をすると、すぐに自室に戻ろうとした。が、何故か引き止められた。
 もしかして、その都度用意しないといけないのだろうか。
 それだとしたら困る。

「朝陽、ご飯食べてないよね?」
「え、ああ、あたしいつも平日は朝ごはん食べないから大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ」

 人の事情も知らない癖に口を出してきた伊呂波に少しいらついた。
 心配してくれているのは分かるし、朝食を食べた方がいいのも分かっているが人には人の生活スタイルがある。そこに軽々しく踏み込んでほしくはない。

「時間ないから」

 それだけ言うと、朝陽は自室に戻った。
 準備を済ませて玄関に出ても伊呂波の姿は見えなかった。
 少しだけ後ろ髪を引かれるが、朝陽は差し迫った時間に追い立てられ家を出た。
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