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【後日談】草食系神様の備忘録【2】

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「ねぇ! なにしてるの?」
「えっ、…………えっ?」

 人間に自分は見えないはずだった。それなのに、目の前の女の子は確実に伊呂波を目で捉え、真っ直ぐとした声で質問してきた。

 不思議な子だな、と思った。人間に、自分は不気味に見えるらしいことは今まで生きてきて嫌になるほど痛感していた。伊呂波は化け物、と蔑まれた時のことを思い出し眉を顰める。そういう反応が普通なのだ。
 それなのに、女の子はいたって普通に、まるで友達に接するかのように、声をかけてきた。
 伊呂波はしげしげと女の子を眺めた。すると女の子が盆踊りに誘ってきた。

「僕はいいや」

 人間の踊りに興味はない。ましてや自分が踊るなんて、想像もできなくて、伊呂波は首を傾げた。
 女の子はしつこく伊呂波を問い詰め始めた。なぜ目の前の女の子はこんなにも自分を誘うのか。踊り自体に興味はないが、女の子には興味が出始めた。

 拒否し続けると頑固な女の子は急にヘソを曲げてしまった。くるりと背を向け足早に去っていこうとする。

「ちょっと待って」

 女の子の背中でふわふわと揺れる黄色の兵児帯を見た瞬間、伊呂波の中に未練のような感情が芽生えた。もう少し一緒にいたい、と。

 引き止めたはいいが、何を話したらいいのか分からない。伊呂波は人間の文化に疎い。共通の話題を探してようやく思いついたのが、この土地に関することだった。
 もうすぐ自分は消える。その前に、この土地の人々がちゃんと幸せに暮らせているのか、知りたくなった。

「今、楽しい?」

 どうか、幸せであってほしい。

「うん! あなたは?」

 女の子の返しに伊呂波は虚をつかれた。
 自分の幸せなんて考えたことなど一度もなかったからだ。
 即答できずに、言葉を濁していると、またもや女の子は伊呂波の顔を覗き込んで、質問してきた。

「ううん、楽しいよ」

 自然と、口からそう出た。自分でも驚いた。初めて自覚する感情に、なにかが込み上げて来る。熱い、この熱は痛みを伴いながら、同時に冷え切った心がほぐれていくのを感じた。

「そっか! 良かった!」

 笑った女の子の顔が伊呂波の瞳に強烈に焼き付く。一秒にも満たない時間が永遠に感じた。
 その永遠を本物にしたくて、伊呂波は目を閉じた。

 その後、女の子は伊呂波に花を押し付け去っていった。花は感謝や愛情を示すために贈るのだと、覚えたての知識を披露しながら、得意げにはにかんだ。
 もう誰かに花を贈ることはないかもしれないが、気まぐれに覚えておこうと思った。

 伊呂波は優しく花に触れた。すると、冷たかった自身の身体に温度が戻るのを感じた。今にも消えそうだった自分の輪郭が、はっきりとしてくるような感覚に伊呂波は胸に手を当てた。

(じゃあまたね!)

 女の子の最後の約束を思いだす。
 またね。
 もしかしたら、また会えるのかもしれない。予想もしていなかった未来への執着に、徐々に弱々しいながらも力が戻ってくるのを感じた。それと同時に、急に女の子が恋しくなった。
 またね。
 その約束は果たされないかもしれない。それでも伊呂波は初めて感じたこの想いを大切にしたいと思った。

***

 いよいよ今日、朝陽がこの家にやって来る。この時をどれほど楽しみにしていたことか。
 玄に顔がだらしないだとか、落ち着きがないだとか、散々揶揄われたが、そんなことは全く気にならなかった。
 伊呂波は薔薇の花を用意して花瓶に生けた。朝陽に感謝と大好きを込めて贈る、初めてのプレゼント。
 喜んでくれるかな?
 僕からって分かるかな?
 大好きな朝陽とようやく再会できる。伊呂波は胸を躍らせながら準備をし始めた。



 どうしよう……
 伊呂波は物陰から朝陽を観察し、ため息をついた。
 朝陽は伊呂波との再会を喜んでくれると思っていた。しかし、家にきた朝陽は伊呂波の姿のを探すどころか、全く気にもせず、一日目が終わろうとしている。
 伊呂波の中に嫌な予感が生まれる。その予感は見事的中し、朝陽は伊呂波のことを覚えていないことが分かった。
 それどころか、伊呂波を拒絶し涙を流した。
 喜ばせようとしていたのに泣かせてしまった。伊呂波にとってその涙は衝撃的だった。

 怖がらせないように距離を詰めることは容易ではなく、次第に伊呂波は朝陽との間に壁を設けることにした。
 朝陽が伊呂波のことを思い出さないなら、朝陽はこちらの世界に染まるべきではない。そう考えた伊呂波は自分が朝陽を諦められるように自分を強く律し始めた。
 伊呂波さえ、朝陽への想いを断ち切れば、朝陽を縛る枷は無くなる。例え、それが自分の消失に繋がるとしても、伊呂波は朝陽の幸せの方が大事だった。

 それでも朝陽が知らない男に言い寄られているのを見たときは、考えるよりも前に身体が動いてしまった。伊呂波は自分の理性がこんなにも脆いものだと初めて知った。
 朝陽の口から他の男の名前を聞きたくない、その一心で二人の間に割って入った。
 それだけでは足りず、朝陽を抱きしめた。腕の中で震えながら自分の名前を呼ぶ朝陽に愛おしさと怒りが湧き上がった。人間に対して怒りを覚えるのは初めてで、この凶暴な感情は本当に自分の中にあるものなのかと疑った。
 気安く朝陽の名前を呼ぶ男に、伊呂波は我慢の限界を迎えた。凶暴な感情も手伝って、朝陽を引き寄せる。
 朝陽は自分のものだと知らしめたい、そんな独りよがりな行動は、寸前で辛うじて残っていた理性によって阻まれた。本当はもっと、見せつけるように、朝陽を貪るつもりだった。
 しかしそんなことをすれば、朝陽は完全に心を閉ざしてしまう。それが何よりも怖かった。
 人間に干渉してはいけないという決まりすらも忘れるほどの怒りを伊呂波は感じ、同時にこの怒りが朝陽に向いてしまうかもしれないことを恐れた。

 離れるなら早い方がいい。
 後戻りができなくなる前に。

 しかしそんな理性とは裏腹に、離れたくないと切望してしまう自分に、心底嫌気がさした。

 伊呂波は自分の気持ちを殺すことにした。
 うまくやれていたかは甚だ疑問だが。
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