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忠告

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 なぜか豪さんは立ち止まっている。
 その大きな背中。プールでの姿がよみがえる。

「お前、あのチビ坊主になにチクってんだよ」

 表情は見えなくても、声の調子が怒りをあらわにしていた。

「あいつ、わざわざプールにまで来てなに言うのかと思ったら、お前とちゃんと仲良くしろ、だと。ふざけんなって話だろ」

“仲良くしろ”

 その言葉が繰り返し頭の中で響いた。
 もはや、豪さんの背中は見えてなかったし、声も聞こえてなかった。
 ふと、ゆうべの健ちゃんとのやりとりを思い出した。その健ちゃんになにかを告げられて、不愉快そうにしていた三津谷さんも思い出す。
 三津谷さんは、プールでもずっと不機嫌だった。
 ぼくの脳裏に一抹の不安がよぎる。

「おい、聞いてんのか」

 豪さんの声が急に迫ってきた。
 ハッとして顔を上げると、ぼくを鋭く見下ろしていた。
 なにもされてないけど、その迫力があまりに近いところにあって、逃げるように後ろへ倒れたぼくは、しりもちをついてしまった。

「なにが仲良くしろだ。なにが弟だ。マジふざけんな」

 拳が見えた。指のつけ根に傷がついてて、赤くにじむものもある。
 豪さんが、ぼくのことを三津谷さんに言われたとき、もし、こんなふうに怒ったとしたら──。
 ゆうべの衝撃が瞳の奥をかすめる。一清さんと豪さんの対峙が、いま想像しているものと、どうしても重なってしまう。

「……殴ったんですか?」
「あ?」

 ぼくは素早く立ち上がり、握りしめていた手紙を豪さんへ投げつけた。

「ひどい。三津谷さんを殴るなんて!」

 そのまま、振り返りもしないで、家を飛び出した。
 もしかしたら、病院へ行くほどのケガを負わせられたのかもしれない。
 それを考えると、いても立ってもいられなくなって、とにかく走った。三津谷さんにいますぐ会いたい。そして、謝りたい。
 しかし、ぼくの足は途中で止まった。
 三津谷さんの家を知らないことにいまになって気づいた。
 目頭で涙を抑え、乱れた息を整える。

「……」

 それに、豪さんに「ひどい」なんて言う資格、ぼくにはないんだ。
 三津谷さんがどれだけ気にかけてくれて、心配してくれていたのか。ぼくはこれっぽっちも気づかず、一方的に怒鳴ってしまったんだ。
 そして、ぼくがあの家にいかなければ、豪さんをイライラさせることも、暴力をふるわせることもなかった。

「会いたくないに決まってる……」

 それを悟った瞬間、行き先を失ったこの足は、あてもなくさまよい始めた。
 気づけば、大通りに出ていた。
 そこに道があるから、ぼくはただ進むだけだ。
 そのとき、一台の自転車が追い越していった。カゴにビニール傘がささっている。

「あ」

 ぼくは立ち止まり、自分の両手を見つめた。
 傘──。
 そういえば、三津谷さんに言われてプールの傘立てに入れたけど、そのあとをどうしたのかよく覚えていない。
 ぼくは振り返った。
 いまは帰る気にもならないし……。
 ちょうど青信号になった横断歩道が目に入る。ぼくは早足で渡り、プールからの帰り道に出てきた小路へと入った。
 とりあえず道なりに進もうと思った矢先、冷たいものが頭に当たった。
 それがなにかに気づいた途端に本降りになって、雷も鳴り始めた。

「うわっ」

 雨を避けるべく、ひときわ明るい建物へと駆け込んだ。
 住宅のあいだにあるコンビニ。ぼくは出入り口を素通りして、ひさしのある店先で真っ黒な空を見上げた。
 それと同時に閃光が走る。コンビニのガラス窓を震わすぐらいの大きな音が鳴り響いた。
 ぼくは、とっさに耳を塞いで首を縮めた。
 目をつむっていてもわかる、まぶたを突き刺すような稲光と、若干かすんだ低い雷鳴。
 早くどっかいけと、呪文のように繰り返していたぼくの腕を、だれかが掴んだ。二重にびっくりして、ぱっと目を開ければ、スーツ姿の背の高い男の人が立っていた。

「篠原、こんなところでどうした? しかも制服のままで」
「先生──」

 小林先生だった。傘をすぼめ、眉根を寄せてぼくと視線を合わせる。
 そのまなざしが、どこかお父さんを思い出させて、一気に涙があふれてきた。
 三津谷さんと豪さんのこと。さらには、この雷の音が、ぼくを混乱させたんだ。

「篠原?」
「……すみません」
「なにかあったのか?」

 涙を拭い、ぼくは首を横に振った。
 助けを求めたかったけれど、それを素直に言うことができなかった。

「とにかくこっちへ」

 先生は傘を開くと、ぼくの肩を抱くようにして、コンビニの駐車場を歩いた。
 どうするんだろうと戸惑っていたら、一台の車の前で止まった。
 先生に促されるまま、助手席のシートに収まる。
 雨粒が、車の屋根やフロントガラスを叩きつける中、ぼくは深く鼻をすすった。
 先生が運転席に乗り込む。けど、すぐに車を出すことも、なにかを訊くこともしなかった。

「……先生、あの」
「いいから。話したくないなら、無理には聞かない」
「……」
「とは言え、いつまでもこうしているわけにはいかないな」
「ぼく、降ります」

 ドアを開けようとしたら、となりから手が伸びてきた。

「違う。そういう意味じゃない。第一、車に乗せたのは俺だろう?」
「……」
「きみさえ差し支えなかったら、俺のところに来るか? そんなに遠くもないから」

 涙でぐしゃぐしゃだろう顔を向けたら、小林先生は、苦笑いを声にも出していた。
 それが逆に、なにもかも汲んでくれている感じがして、また涙があふれてきた。
 なら、せめて雨があがるまで──。

「おじゃまします……」
「よし。と、その前に……。まずはこれで顔を拭きなさい」

 上着のポケットから、先生はハンカチを取り出して、ぼくの鼻に当てた。



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