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アクアリウム

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 この水族館のメインである大水槽。天高くそびえ立つ水のセカイ。そこでは大小さまざまな魚たちが泳いでいる。
 群れをなすもの。ゆったりと進むもの。一匹狼を気取っているもの。
 ぼくらとの境界線であるガラスは、ごく普遍的な世界と名のつく絵画にも見えるし、弱肉強食を知らせないベールにも見える。
 ……なんて、たかが展示物に思いを馳せていても仕方ないか。
 ぼくはもう一度見上げた。

「あのでっけえ魚みたいにすいすい泳げたら、気持ちいいだろうな。海も」

 突如として、そんな言葉が頭に響いた。
 思わず辺りを確かめたけど、それを言ったらしい人はいない。めいめいガラスの向こうの魚を見上げている。
 もしかしたら、むかしだれかが言ったことを、いま思い出したのかもしれない。
 とすると、それはいつで、どんなときのことなのか。
 にわかに胸が弾んだ。どうしてかわからないけどどきどきしてきて、ついさっき聞こえた声さえ見えない。

「人夢!」

 ぼくははっとなった。そういえば一人じゃないんだった。
 声のしたほうへ目を向ければ、いつしか太陽と比喩するようになった満面の笑みが近づいてくる。

「勇気くん」
「あっちにさ、いたよ。あいつ」
「いたっ? ほんと?」

 こっち、こっちと手を引く勇気くんに連れられて、ぼくは、とある水槽の近くに立った。
 さすが人気者なだけあって、真正面で見る位置に来れるまで、ちょっと時間がかかった。
 ぼくと勇気くんは頬を寄せ合うように腰をかがめ、水槽の向こうの「チンアナゴ」に挨拶した。
 テレビで見るよりも砂から長く伸びている。短いのもいて、まるで競うようにピンと体を張っている。

「へえ。すげー」

 勇気くんは笑いながら、チンアナゴの気を引こうと指を振った。
 それを真似ようとぼくも手を上げたところで、小さな子どもたちが次々に顔を覗かせた。勇気くんとぼくのあいだに無理やり入ろうとする。
 仕方ねえかと、勇気くんは、親指の先を後ろへ投げた。もう行こうを示している。ぼくは頷いて、二人でチンアナゴの水槽をあとにした。
 春休み最終日のきょう、ぼくと勇気くんは、念願だった水族館デートを満喫していた。
 県北西部の海沿いにある県立の水族館だ。
 休日じゃないからそれほど混んでないと踏んできたものの、ぼくらが休みであるなら、ほとんどの学生は休みなわけで、結構な人で賑わっていた。
 家族連れもちゃんといるし、ぼくらみたいに子どもたちだけってグループもいる。
 今度は、アーチ状の水槽の下を歩いた。泳いでる魚たちのお腹が見える。ときおりペンギンもやってきて、文字通り空を飛ぶかのように僕らの頭上を行き交った。
 あまり人のいない地味な展示場では手を繋いだ。それでも人が全く来ないってわけじゃないから、声がしたらぱっと離す。ぼくも勇気くんも、最後のほうはそのスリルを楽しみながら、水槽のあいだを歩いた。
 海ガメの水槽を覗いてるときだった。勇気くんがお腹を押さえながら携帯を開いた。
 それでぼくも気づく。

「あ、お昼」
「うん。急に腹減った」
「じゃ、外行こう。きょう、天気がよくてほんとによかったね」

 水族館には、外でお弁当を広げられる芝生の広場がある。木のテーブルと椅子もあって、ラッキーなことに、一つだけだれも使ってなかった。
 途中にあった自販機で買った飲み物を置き、向かい合って座る。背負ってきたリュックから、ぼくは二人分のお弁当を出した。
 おにぎり二つずつと、おかずの入っているランチボックスを一つずつ。
 はいと、勇気くんのぶんを前に置いた。勇気くんはまず、お弁当と一緒に置いたおしぼりを手にした。

「すげえな。人夢って抜かりないのな」
「ねえ、これ見て」

 ぼくはお弁当には手をつけず、ズボンのポケットに忍ばせていたあれを出した。
 おにぎりをかじっていた勇気くんが目を丸くした。

「おっ、とうとう買ってもらえたんだ」
「うん。きのう、善之さんとお店へ行ったんだ。ほんとはスマホがよかったんだけど、まずはガラケーからだって」

 とはいえ、憧れだった携帯をようやく持つことができて、ガラケーでも嬉しくてしょうがなかった。ゆうべはベッドで一緒に寝たぐらいだし。
 それを言ったら、勇気くんが吹き出した。そして、自分の携帯を出し、連絡先を交換しようとぼくの携帯に近づけた。

「俺もガラケーだから、人夢がスマホ持ったら、ちょっとショックだったかも」

 赤外線通信は、きのうお兄さんたちとしたから、やり方はわかっている。
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