余りもの

青ヒカリ

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余りもの⑤

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「本当にありがとうございます」

「いやいや。むしろ助かってます」

「正社員は給料がいいですね。生活の設計も立てやすい。引っ越そうかな」

「いいじゃないですか」

 会社の昼休憩に浩太と太郎は食堂でご飯を食べている。

「手先起用らしいですね。評判ですよ。僕は不器用な方なんで羨ましいです」

「いやいや。僕も不器用は不器用だと思うんですけどね。実験は得意かもしれないけど」

 太郎はスープに入らないように長い髪を後ろにまくっている。

「大きな戦力ですよ」

 浩太はうどんをすする。

「ここのうどん美味しいですね」

「そうでしょ。それに太くてコシがあるからね。食べごたえもあるし」

「太郎さんは専門、何なんですか?」

「僕は物理やってるんですけど、どちらかといえば数学に近いかもしれません」

「僕は化学だからちょっと違いますね」

「まあ、うちの会社は下請けですけど、いろんなことができる人がいるのが特徴ですからね」

 太郎はそう言うと、とり天を一口で食べた。

「そうだ。全然違う話なんですけどいいですかね。なんとなく、浩太さんならわかってくれるかもしれないと思ったんですけど。あのー、僕は動物園とか水族館とかが楽しい意味がわからないんですよ。人間とさえ意思疎通が難しいのに、意思疎通できない生物たちを見て何をどうキャッキャできるのか」

「ああ、ハハハ。ちょっと分かる。ペットとしての犬や猫も本当は何考えているのかわからないのに、人間の思うままに鎖をつけたり家の中に閉じ込めたり、自分の思い込みで怒って、しつけてとかは僕もよくわからないです」

「そうそうそう。そういうこと。あれ何なんですかね」

「でも動物を見てれば何か感じ取れるんじゃないんですかね。受け手がどう思うかみたいな」

 太郎は「うーん、それもそうかもしれないですね」と言うと、うどんをすすらずに口に入れ、嚙み切った。

「そういえば。太郎さんはネットカフェ、よく行ってるんですか?」

「そうですね。うーん、ネットカフェがいいわけでもないんですけど、ネットカフェ以外の建物が壊れそうになるので。怖いので。しょうがなくという感じですね。まあ、あんまり周りの人は理解してくれないですけど」

 浩太がうどんをすする。

「あとは、あれですね。大学で研究してると無意識に緊張状態が続いてしまって自分の部屋でも無気力状態になっちゃうことがあるから、そういうときも鳥越さんに話聞いてもらったりしてます。なんか小学校のときの思い出が蘇ってきてしまって無気力状態になってしまうというか」

「小学校ですか」

「鉄棒で逆上がりがどうしてもできずに居残り練習をさせられたの嫌だったんですよ。めちゃくちゃ練習やらされて、先生の介助もありながらようやく逆上がりできたとき、先生は泣きながら褒めてくれたんですけど、僕はやっと家で本が読めるとしか思わなかったんですよね」

「確かに、それはそうかもしれないですね」

「本人が望んでないことを頑張ったとしても、達成感も感動も得られないですよ」

「僕も、生まれつき胃が小さいんですけどもっと食べろとか言われたり、大学入ってもお酒飲めないのにもっと飲めとか言われたり。それはそっちのエゴであって、するかどうかは本人に任せてくれよって思います」

「そうですよね。あ、あと、もう一ついいですかね。これも浩太さんならわかってくれるかも。なんで小学生はランドセルを使わなくちゃいけないんですかね?」

「考えたことなかったけど。ランドセル以外のリュックとかでもいいってことですか?」

「はい。リュックでもナップザックでも良くないですか。まあ貧困でランドセルも買ってもらえない子供もいますけど、そういう話じゃなくて。なんか同級生にランドセルを隠された日があって、それはしょうがないと思ったんですけど、ランドセルがなくてどうしようもないから次の日ナップザックで登校したら廊下ですれ違った先生に怒られたんですよ」

「それはいろいろと酷いですね」

「だから未だにその抵抗でナップザック使ってるんです」

「ランドセルは見つかったんですか?」

「友だちが場所を教えてくれました。でも僕が思うに、たぶんその友だちがランドセルを隠した張本人なんですけどね」

「なにそれ。そいつムカつかないですか? ていうかそんなやつ友だちじゃないでしょ」

「うーん、それは悩ましいところというか。自分でもあんまりわからないですけど、その人は僕にとっては友だちなんですよね。仲は良かったですし、ランドセルを隠された後も仲良くしてました。第一、本当にいじめたかったら置き場所教えないですよ」

「そうですかね。怖くなって教えただけじゃないですか?」

「本当のところはわからないですけどね。どうなんでしょう。でも別にその人を恨んだりとかもしなかったですよ。優しくて気さくな人だと今でも思ってます」

「そうなのかなあ」

「ほら、さっき言ってたように、結局受け手がどう思うかもあるんじゃないですかね」

「そうかもしれないですけど、客観的に見てランドセル隠すやつはヤバいと思うけどなあ」

「でも、僕は動物には思い入れはないですけど、人間は他人であっても排除したくないです。先生は嫌いですけど。でも、その結果社会から自分が排除されてるような状況になっちゃったら困るんですけどね」

「けっこういじめられてたんですか?」

「小二の一年間だけですけどね。クラス替えの後はなくなったので、別に大したことなかったですけど。僕も悪かったですし」

「太郎さんは悪くないでしょ」

「でも、トイレでこの便器舐められるやついるかって僕のほうを見て言われて、自ら便器を舐めてしまったりとかもあったりして。でも床に落ちた給食のみかんを食べさせられたときは、初めて怒ってドロップキックしようとしたんですけど蹴り慣れてなくて、空振りしちゃったりしました。ハハハ」

「太郎さん、お人好しすぎますよ」

「でも、学校でひとりでいてもちゃんと勉強して成績が良ければ親には褒められてたので、別にいいかと思っちゃってましたね。それはそれで今考えれば、今よりも随分と気楽でした」

「僕もいじめられたことあって、いじめていた人に謝られたこともあったけど今でも許してないですよ」

 浩太はいじめられていたところから抜け出すために、小五のクラス替えの後から明るいふりをしようと努めていたときのことを思い出した。隣の席の幸助に一生懸命話しかけていたら幸助と友達になった。お笑いの話をするうちにいつの間にかお笑い芸人に憧れるようになった。幸助と仲良くする浩太の姿を見て、いじめていた同級生が「変な奴だと思ってた。ごめん。かまってほしかっただけなんだ。ドッキリみたいなもんだったのよ。そうだ、今度一緒に遊ぼうよ」と言われたこともあったが、そのとき浩太は苦しそうに息を吸ってから作り笑いをして、何も言葉を発さずに無視した。

「許せばいいじゃないですか。子どものときは知識も判断能力もないわけだから。少なくとも僕はそんな風に思わないと、人間を恨んだりしてしまうと、自分を嫌なやつだと思ってしまって気持ちを保てないんですよ」

「そうですかね。太郎さんは個性があるから大丈夫ですよ。わかんないけど」

「ハハハ。ありがとうございます」

   ◇

 黒いテレビ台に置かれたテレビを見ながらあぐらをかいている前田が「おごってくださいよ、浩太さん。正社員はさぞ楽しいんでしょうねえ」と声を出す。浩太はキッチンに立ち鍋のお湯の中に入った太麺を箸で解しながら「馬鹿にしてるんですか。芸人さんのほうが楽しかったですよ」と嘲笑うように答えた。

「ラーメンはまだですか」

「もうすぐですよ。太麺なんでちょっと時間がかかるんです。待ってください」

 テレビから聞こえる笑い声に呼応して前田のガハハという笑い声も部屋に響く。浩太は鍋を片手で持ち、粉末が入った二つの器にお湯と麺を流す。両手でラーメンが入った器を二つ持ち、前田の後ろにあるテーブルに置く。キッチンに戻る。箸二つと、冷蔵庫から二リットルの緑茶とリンゴジュースを取りだし抱えるように持ち、テーブルへ向かう。

 浩太が「できましたよ」と前田に声をかける。前田はズボンを上げながらゆっくりと体を起こす。

「細麵のほうが美味しくないか」

「僕は太麺のほうが好きなんで」

「わかりましたよ。正社員様に従います」

 前田は麺をすすり、すぐに「美味しい」と口にした。

「でしょ。これ、会社の近くのラーメン屋が出したインスタント麺なんですよ。好きで、昼はしょっちゅうそこ行ってるんですよ」

 四分後、前田は麺をすべて食べおわり、器を抱えてスープをすすっていた。浩太は二本ずつ麺をすすっており、まだ半分ほど麺が残っていた。前田はスープも飲み終わるとフーと息を吐き、リンゴジュースを飲み、再びテレビのほうを向き直して寝転がった。浩太は一定の速さで食べ続けている。前田はテレビを見て笑い声をあげながら、頬についている手を震わせていた。床についた肘はその居場所をむず痒く思っているかのように動いている。浩太はラーメンを食べ終わると、二つの器を両手に持ちながらキッチンへ歩く。流しに着くと、右手の器のみを傾けスープを流していった。器の底には十円玉ほどの大きさの粉末が残っていた。器を二つとも水で流す。さらにタワシを使って洗剤で洗い、ティッシュで拭き、引き出しに入れた。

 浩太はあぐらをかいている前田の後ろに前田の背中を見るように体育座りをしている。「最近どうですか」と語りかけると、前田は振り返らずに低いテンションで「何が?」と答えた。

「いいネタできてますか?」

「まあ。賞レースで使えるネタは幾つかある」

「おっ。期待しちゃいますよ。けっこうウケるネタができてるんですね」

「もうちょっとかけないとだけどね。でもこの間のライブでさあ、ちょっと大きい劇場だと相変わらず嫌な客いたなあ。酷かった」

 ネタ中に携帯を弄る客、目当ての芸人の出番が終わると帰り出す客、SNSで全組のネタの点数を書く客などに前田は文句をつけていった。

「自分でコントロールできないことは考えてもしょうがないですよ」

「大人になりやがって。そんな考えできるんなら芸人やってねえよ。最近は彼女とも喧嘩するしさあ。香水のにおいがするって言われちゃって。慌てて後輩の芸人の間で香水が流行っていて、それが点いちゃったんだって言ったけど信じてくれなくて」

 浩太は立ちあがる。前田の横に座りなおして「マッチングアプリ使ってるのバレたんですか?」と聞いた。

「それはバレてないと思うけどなあ」

「そもそも彼女いるのに使っちゃダメですよ。でも前田さん、出待ちのファン多いんだから、アプリ使う必要ないでしょ」

「俺じゃねえよ、みんな相方のファンだよ」

「そうでしたっけ。でも劇場によくお笑いを見に来るファンの中に誰にでもやらせてくれる人がいるっていう噂は聞いたことありますけど」

「ああ、いるらしいな。でも芸人はバンドマンじゃないんだから。芸人は意外とファンに手出しづらいもんだよ。それに俺はそもそもそんなにファンのこと好きじゃないし」

「えー、それはそれで良くないですよ」

「俺は、けっこうファンって鬱陶しいと思っちゃうんだよなあ。ファンよりもじいちゃんばあちゃんのほうが癒されるよ」

「介護ですか」

「ああ。劇場では俺の思い通りに相方は動いてほしいし、思い通りのところで思い通りの程度客にも笑ってほしい。でも介護やってるときはじいちゃんばあちゃんをコントロールしようなんて思わないんだよな。そこでは受け取るコミュニケーションが大事で、それが俺を人間的に成長させてくれてるような気がしてけっこう楽しいんだ」

「受け取るコミュニケーション、難しいですね」

 前田が「お前には百年早いよ。もちろん苦しいことも多いけどさ。理不尽に怒られたり唾吐かれたりすることあるから」と言うと、チャイムが鳴り「ウッ」と前田がビクッとした。浩太は「誰だろう」と呟きながらドアを開けた。

「こちらです。印鑑お願いします」

 浩太は財布から印鑑を取り出し、受領印を押した。灰色と銀色の間の色をした印鑑はチタンの光沢を放っている。

「ん、あれ。浩太じゃん」

「ああ、ああ久しぶりだな。ごめん、名前なんだっけ?」

「高村だよ。もう忘れたの?」

「ごめんごめん、顔は覚えてるんだけど。宅配やってるんだね」

「そうそう。バイトよ」

「高村。すごい汗だけど大丈夫か」

「太った人間にトラックの中は暑い。冷房が足りない。それに重い荷物を運ぶ重労働もしないといけないから汗ダラダラ出てくるし」

「それだったら宅配やめればいいじゃん」

「ここくらいしかバイト受からなかったからしょうがないんだよ。もうすぐにでも辞めたいんだけど、奨学金も返さないといけないし」

「はんこお願い」
 
 浩太が印鑑を出す。

「その印鑑、ちょっと光ってるね」

「ああ、これね。じいちゃんが大学の卒業祝いでくれたんだ。もう時代的にサインで済ませちゃうことも多いだろうからいまどき印鑑かよって思ったけど」

「いいなあ。かっこいいよ」

 浩太は「ありがとう」と言って段ボールを受け取った。

「あ、そういえば前に浩太がやってた横綱の名前を叫ぶネタめっちゃ面白かったなあ。浩太はもう芸人やってないんだっけ?」

「ああ。本当に面白かったの?」

「めちゃくちゃ。もったいないなあ。超面白かった。俺がやりたいくらい」

「俺はもうネタなんてやらないから、やりたければやってくれよ」

「マジ? いいのかよ。あ、時間ヤバいんだった、予定より運ぶの遅れてるんだよ。じゃあね」

 高村がドアから出ていく。浩太はドアが閉まるのと同時に「頑張って」と言った。浩太は段ボールを玄関近くに置いてリビングへ戻る。

「運んできたの芸人でしたよ」

「誰?」

「同期の高村でした」

「高村? 聞いたことないなあ」

「シーズンインパクトの高村ですよ。ほら、あのお相撲さんみたいに太った」

「いやあ、わかんねえなあ。お前と同期ってことはまだ四年目とかだろ」

 浩太は段ボールのガムテープを剥がして丸め、段ボールを開けた。前田はあぐらをかいてテレビを見たまま、「何届いたの?」と浩太に大きなしゃがれ声を向けた。

「小学校の卒業文集です。なんか、小さいときに親とどう接してたかなって思い出せなかったから、卒業文集見れば思い出せるかと思って」

 前田は興味がなさそうに寝ころんだ。浩太は卒業文集をパラパラとめくっていく。浩太のページには将来の夢の欄にプロ野球選手と書かれていた。浩太はそれを見て、野球の少年団に入っていたクラスメイトに『プロになるのは無理だからやめた方がいいよ』と言われたこと思い出していた。壁に掛けられたスーツを見て溜息をついた。

 浩太は「前田さん、これ捨ててください」と言って丸めたガムテープを前田に向かって投げた。テレビを見ていた前田は背中に当たったガムテープをガハハという笑い声と共に拾い、笑顔のままビニール袋にガムテープを捨てた。

 前田の笑顔を見て、浩太の頭には小学生のときに父親としたキャッチボールでの楽しそうだった父親の笑顔が浮かんだ。父親の笑顔は柔和な笑顔であり、そのキャッチボールは綿雲の上でしているかのように穏やかだと感じていたことを思い出した。

 浩太は卒業文集を段ボールの中に戻した。テレビを見ながら前田の背中に近づき、背中近くにあぐらをかいた。前田は寝ころんだまま「よし、フライドポテト食べに行くぞ」と言った。

   ◇

 浩太は辺りの座席を見渡す。

「今日はいないですね、あの大食いのお姉ちゃん」

「そうだな。そういえば、この間ユーチューブ見てたらあのお姉ちゃんが出てきてびっくりしたよ」

 前田はケチャップのついたフライドポテトを口にした。

「えー、そうなんですか。何の動画ですか?」

「ファミレスの中で小声で話しながら大食いしてる動画だった」

 前田はリンゴジュースを一気飲みする。

「あの人ユーチューバーだったのか。生で初めてユーチューバー見たなあ」

 浩太はマルゲリータの一切れ目を手に取った。伸びているチーズを歯で切って頬張り、飲みこんだ。

「動画の中でお姉ちゃんが話してたんだけど、知ってるか? ユーチューバーって自宅の中をあんまり映さないらしいぞ」

「だから、あのお姉ちゃんもファミレスで撮ってたんですかね」

「かもな。間取りとかから住所が特定されてマンションに迷惑になるらしい。ファンがマンションの近くに来ちゃって、引っ越した後もそのマンションは事故物件扱いされちゃうこともあるんだって」

「へえ。ユーチューバーも大変ですね。まあでも芸能人はみんなそんなもんですよね」

「顔を覚えられてたらいろいろあるよね。だからファンは厄介なんだよ」

「というかみんなよくそんな顔を覚えられますよね。僕は毎日のように会ってないと顔と名前一致しないですよ」

「確かに言われてみれば、浩太はライブのときも芸人仲間のことを名前であんまり呼んでなかったかもな。でも覚えようとすれば覚えられるだろ。覚える気がないんじゃないの?」

「覚えようとはしてるんですけどね。会ったことあることは分かっても、名前と一致しないんですよ。怠慢、努力不足だと思われちゃうと思うんですけど」

「そういうもんかね。でも俺のことは覚えられるんだな」

「顔が前田って感じなんですよ」

「何だそれ」

「遅刻も僕はしたくてしてるわけじゃないんですけどね」

 浩太はケチャップのついていないフライドポテトを探して手に取り、口に運んだ。浩太はフライドポテトを噛みながら「普通にできるはずのことが僕はできなくて、普通であることに憧れるんですけど普通にはなれないし」と言った。

「普通じゃないのは芸人にとってはいいことだけど、浩太は今は芸人じゃないからどうなのかね。仕事は普通にやっていけてるのか?」

「実験室で毎日違うことをするので何とかやっていけてます。毎日同じことをするのは僕は無理だと思うので」

「何か頭良さそうな仕事だな」

「全然そんなことないですよ。小さい会社ですし、実験の委託を受け持つ感じです」

「俺は学校で落ちこぼれだったから。運転免許の筆記に何回も落ちたくらいだから。お前勉強ができたんだな。っていうかそれなら科学にまつわるネタとか作れば良かったのに」

「いやいや。ネタ作れるのは特殊技能なので。ネタ作りは幸助に頼るしかなかったので。幸助は全然勉強できないですから」

 前田は羨望とも違う、諦めのような目を浩太に向けていた。

   ◇

 浩太は前から三人目に並んでいる。スマホ画面の「ちょっと遅れそうです」という文字を見て、右足のかかと以外を一定のリズムで浮かせながらパタパタさせる。電車がホームに到着すると舌打ちしながら電車に乗る。両側のドアのちょうど真ん中に立ち、ドアギリギリに立つスーツ姿のサラリーマンの後ろ姿を見つめる。サラリーマンは片手に持ったスマホから目を離さないまま、ちょうど食べ終わったサンドイッチの袋を手提げバッグの中に入れた。

 四分ほど経つと電車が止まり、浩太は降りるサラリーマンの後ろ姿についていき、ホームに降り立つ。ドアが閉まり、電車は過ぎ去る。浩太はあまりに閑散とした駅のホームを見て、降りる駅を間違えたことに気づいた。振り返り、誰も並んでいない列の一番前に線を踏みながら並んだ。目下の線路は、茶色くサビていた。

 電車が来ると浩太は乗り、またもや両側のドアのちょうど真ん中に立った。電車が止まると、浩太は急いで降り、エスカレーターまで小走りで行き、エスカレーターに乗ると、動く段を一段飛ばしで昇っていった。

 浩太は駅前のカフェに入り、丸椅子に座った。丸い机の上にあるスパゲッティとサラダのランチセットが三種類載ったメニュー表を見つめる。

「浩太さんですか」

 浩太はヒールの靴を目にし、そのまま顔を上げると前だけシャツをインしており右腕に鈍い青色ビーズのアクセサリーをつけた女性が目に入った。浩太はさらに顔を上へ上げると、そこにはあの大食いの女性がいた。浩太は目を丸く、口をあんぐりと開けた。女性は「レイです。けっこう待ちました?」と語りかけた。浩太は見上げながら「いえ、ちょっとだけ待ちました」と答え、女性の顔から目を離さないでいた。女性が席に座ると、鼻を衝く化学薬品のような香水のにおいがした。

「何ですか、どうかしました?」

「いや、そうか。後ろ姿しか見てなかったから」

「あ、タイプじゃなかったです? ハハハ、ごめんなさい」

「いや、あの、よくファミレスで大食いしてませんか?」

「え、あ、はい。してます。ハハハ、まさかユーチューーブ見てくれてるんですか。登録者数五百人しかいないのに」

「ユーチューブじゃなくて。たぶんよく行かれてるファミレスが僕の家の近くで、たまに見かけてたんですよ」

「なんだ、ぬか喜びでした。ハハハ。へえ、ご近所さんだったんですね」

 店員がレイの前に水を置く。レイは水を半分ほど飲み、ビールを飲んだ後のように気持ち良さそうに息を吐く。

「喉乾いちゃってたんですよねえ」

 浩太も水を一口飲んで「ここの水ちょっとレモンの味しますよね。オシャレですね」と笑顔で話すが、レイは「レモン味ってオシャレなんですか? 別に普通じゃないですか。感覚が違うのかな」と首を傾げた。浩太は苦笑いした後に「まあ僕はダサいですからね。信用しないほうがいいです」と言った。

 浩太は改めてレイのことを眺め、立っているとミニスカートを履いているように見えていたが座るとショートパンツだとわかり、シャツが前だけインされていることにも気づいた。

「そういえばシャツを前だけ入れるのって流行ってるんですか? 最近ちょくちょく見ますよね」

 レイは「当たり前じゃないですか。かわいいでしょ」と笑わずに言った。浩太は再び苦笑いをした後、「そうですね」と言った。レイは辺りを見回す。

「ちょっと待って。ここってどの椅子もテーブルも丸いのね、かわいい」

「ご注文お決まりでしょうか」

 ベージュのエプロンを纏った女性店員が二人に尋ねた。浩太はセットA、レイは悩みながらもセットBを頼んだ。店員が「セットAとセットBですね。ご注文以上でよろしいでしょうか」と聞いた。レイは右手を口に当てながら「そう言われると。もうワンセット頼んじゃおうかな。うーん。いやこれで大丈夫です」と言った。店員は「メニューお下げしますね」と言い、二人から離れた。浩太は笑みを浮かべながら「全然、他にも頼みたかったらいいですよ」と言った。

「いや、昨日飲みすぎちゃったから。あんまり食欲ないのよ」

「なるほど。結構飲まれるんですか?」

「そんなに強くはない。でもハイボールならいくらでもいけるかも。ゆっくりだけど」

「ゆっくりでも凄い。僕は全然飲めないんで」

「そっか」

 いつのまにかレイの顔は店内の女性アイドルがステージで歌い踊る映像が流れている大きな画面に向けられていた。

「最近お掃除ロボット欲しいんだよね。掃除って世の中で一番面倒じゃん」

「それはわかります」

「だよね」

「どうせ掃除してもいつかはまた汚れて元通りになっちゃうのを想像できちゃうから掃除する気が失せるんですよね」

「それな。マジそう」

 店員がサラダを二つ運んできた。レイは「美味しそう。映えるわあ」と言い、携帯でサラダを撮ってから食べ始めた。一分もしないうちに彼女は食べ終わり、空の皿も写真に撮っていた。浩太はまだ八割以上残っていた。浩太が一生懸命サラダを食べていると、店員がスパゲッティをテーブルに置き、レイの食べ終わった皿を店員は持っていった。浩太の前にはペペロンチーノ、レイの前にはカルボナーラスパゲッティ。レイはまたもやスパゲッティを写真に撮り、食べ始めた。浩太は「ペペロンチーノ美味しい。久しぶりに食べた」と言い、サラダをまだ半分残しながらも、フォークをスパゲッティに移した。一巻きしたところで「最近はファミレス行ってないんですか?」と聞くと、レイは「ああ、大食いのユーチューブ辞めちゃったからね。ユーチューブは私の居場所じゃなかったみたい」と答えた。

「なんだ、そうなんですね。難しいもんなんですね」

「今はインスタの時代だって気づいたから、インスタやってるのよ。ほらこれ」

 レイはフォロー数が千、フォロワー数が七百であるインスタのアカウント画面を浩太に見せた。

「フォローよろしく」

「ああ、はい。しておきます」

「お願いね。今して」

「今ですか?」

 レイは浩太から目を離さない。浩太は「はい」と言ってスマホを取りだし、レイのアカウントをフォローした。
 
「やったあ。一人増えた。ハハハ。え、フォロワー少ないね」

「すみません」

「いや、いいけど」

 レイのカルボナーラはすでに半分ほどになっていた。

「アプリでは何人か会ってるんですか?」

 レイはフォークを置きスマホをいじりながら「けっこう会ってるよ」と答えた。

「そうなんですね、僕は今日が初めてです」

「そうなんだ、へえ」

 レイは言葉を発するときは浩太のほうを見ることはほとんどない。基本的にアイドルが映っている画面を見ており、言葉を発していないときは食事を進めている。

「お仕事何されてるんでしたっけ?」

「理系の仕事ですね。実験したりとか」

 レイは低いテンションのまま「へえ。かっこいい」と声を出した。

「いやいや、地味な仕事ですよ」

「どういうことするんですか?」

「ガラス器具のフラスコとかの中に薬品を入れて反応させていって新しい物質を作るみたいな感じです。ほら、いわゆる科学者みたいにフラスコを振ったら液体の色が変わるみたいな。あんな感じです」

 レイは浩太が話している間はカルボナーラを食べ続ける。浩太が話し終わると「ああ、わからないですけど。それ楽しいんですか?」と聞いた。浩太は口角を上げ両目を窄めながら「一応毎日違うことするんで楽しいです」と言った。レイは口をとがらせながら「それめっちゃいいね。ていうかなんでニヤニヤしてるの?」と言った。浩太は目を見開き「え、ニヤニヤしてました?」と聞くとレイは口をとがらせたまま頷き「うん。そんなに実験が楽しいの?」と言った。

「そうなのかなあ。そうなのかも」

 レイは口角を少し上げて「なんか陰キャっぽい」と言った。

「そうですか?」

「理系って陰キャじゃん。何か苦手なんだよね、陰キャ。陰キャって自分のこと嫌いじゃん、本当は好きなのに」

 レイはすでに空になった皿を前に、アイドルが映っている画面を見ながら言葉を続ける。

「ハハハ。どうせ暗い自分が好きなのに、って思っちゃう。暗い自分を嫌いにならないと性格変えられないのに。最初は無理矢理にでも明るくしないとどう頑張っても治らないと思うんだけど」

「そうですかねえ」

 浩太は一生懸命スパゲッティをすすった。レイはそれから画面から目を離さず何も口にしなくなった。新たに二十代のカップルが店に入ってきて、浩太の後ろの席に座った。女が眉をしかめながら「ねえ、アプリ本当にやめてくれた?」と言った。男が「やめたって昨日も言ったじゃん」と言う。

「じゃあ携帯見せてよ」

「信用できないの?」

「だって好きなんだもん」

「俺も好きだって」

「それは嬉しい」

「だろ。俺のこと信用してよ」

「もっと好きになりたいから」

 浩太はまだ一生懸命スパゲッティをすすっている。

「どうしたらいいかな。そうだこの間、赤ちゃんがスーパーで泣いて騒いでたからそいつにメンチ切ってやったんだよ。そしたら泣きやんだ」

「え、すご。超能力じゃん」

「そう。カッコいいでしょ。だから信じて」

「ヤバすぎ。それは信じるわ。っていうかスーパーでうるさくするってマジ威力業務妨害だよね。うるさくする赤ちゃんはマジ病院戻れって感じ」

「ハハハ。マジそれ」

 浩太はスパゲッティを食べきり、半分残っていたサラダも皿を持ちながらかきこんだ。レイが「そろそろ行きますか」と声をかけ伝票を持ってレジへ進んだ。カップルの女は「ねえ、じゃんけんで勝ったほうからチューしよ」と男に提案していた。浩太はレイが会計している後ろでカップルの会話に聞き耳を立てていた。

「それマジ名案じゃん。凄い暇つぶし」

「最初はグー。え、ズルい。何でグー出さないの? ていうかチョキだから負けだよ」

「勝ったほうからチューするっていうルールでしょ」

「え、まさかチューしてほしいからわざと負けたの?」

「ハハハ」

「マジ最高なんだけど。天才すぎる。今の動画撮っておけばよかった。絶対バズッたって」

 レイが「もしもーし、お会計ですよ」と浩太に迫った。浩太は「あ、すみません」と言い、財布からお金を出した。

 カップルは会話を続けている。

「ねえねえ、今日は?」

「ちゃんと買ってあるから大丈夫だよ」

「やっぱ天才だわ。中学から私のこと好きなだけある。わかってるね」

「だろ」

 浩太は会計を終えて店の外に出た。浩太が店のドアを開けたところでくしゃみ音を聞いた。レイは「怖い」と言ってドアを閉めたところの浩太の背中に隠れた。浩太は彼女の香水とその奥のたまごや生クリーム、ブラックペッパー、パンツェッタが混じったにおいを首筋に感じた。浩太は横目でレイのチークが濃いことにも気がついた。レイが足をパタパタさせると、レイの近くにいた猫は落としたのであろうネズミを咥えなおして逃げていき、店とその横の建物の間に入っていった。

「すみません」

「いや、こちらこそすみません。今の猫、くしゃみしましたよね。猫のくしゃみって縁起良いって言いますよね」

「私のくしゃみです。こっちに車停めてるんで。ありがとうございました。楽しかったです」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 浩太はパチンコ店のほうへ向かっていく彼女の後ろ姿からすぐに目を離し、太陽の光を右手で隠しながらパチンコ店とは逆にある駅のほうへ歩いていった。歩くレイのシャツは風に吹かれてなびいていて、背中が見えそうになっていた。

   ◇

 ホームにある電光掲示板によるとあと四分で電車が到着するころ、浩太のポケットが振動した。

「もしもし」

「浩太? いま大丈夫?」

「うん」

「あのね、お父さんが倒れちゃってね。命に別状はないんだけど、しばらく入院になるかもしれない」

 浩太の母である聡子によると、浩太の父である浩平は勤務していた中学校で倒れて救急車で運ばれたとのこと。現在心臓病の手術中らしい。

「そっかあ。こういうときは、もっと早く連絡してくれてもいいからね」

「いやあ、そうね。私もちょっと動転してて。おじいちゃんのこともあったから、またかと思ってね。浩太もくれぐれも気をつけて」

「うん。母さんもね」

「ちょっとごめん、電車が来たから」

「はいはい」

 浩太は電話を切った。スマホの画面を見ると何度も電話が来ていたようだが、浩太は振動にも着信音にも気づかなかったらしい。浩太は振り返り、椅子のあるところまで歩き、ドアが閉まる電車を見ながら腰を下ろした。

   ◇

 浩太は傘を差しながら小さな公園を通り抜け、実家のドア前で止まった。リュックから財布を取り出し、財布の中から鍵を手に取る。鍵を刺し、ドアを開ける。靴を脱いでいると聡子がリビングから玄関に寄ってきて「おかえりなさい」と浩太に声をかけた。

「父さんは大丈夫?」

「まだ入院してる。手術はうまくいったわよ」

「良かった。え、すぐ死ぬとかってある?」

 浩太は母親である聡子の「命に別状はないらしいけど次に血管が詰まっちゃったら厳しいみたい」という言葉を聞きながら、聡子を追い返すかのようにリビングに進む。

「おいおい、なんか酒臭いよ」

 浩太は聡子を追い越しキッチンにある流しで手を洗った。

「さっきまでつまみを作りながら、食べながら飲んでたのよ」

「まさか最近は毎日飲んでるの? 酒は絶対体に良くないんだから、あんまり飲まないでよ。なんで酒飲むの?」

「うーん、誤魔化せるのよ。浩太は飲まないからわからないか。暴れたり、人に迷惑かけたりしないんだからいいでしょ」

「ストレス発散みたいなこと? 別に酒である必要はないでしょ」

「そんなこと言われても……」

 間が空いたあと、聡子は「究極的には意味なんてないわよ。飲みたいから飲むだけ。学校に行くのに意味とかないでしょ、それと同じ。飲みすぎることもないし、ちゃんと制御はできるわよ」と言って、椅子に座った。

「父さんは何が原因? 生活習慣?」

「何かしらね。運動は野球部顧問だったからしてたと思うけど。結構激務ではあったから、生徒に寄り添いたいけど時間がないから寄り添えないとかよく言ってたからストレスもあったのかなあ。あと、少食だったから栄養が足りなかったりしたのかしら。肉は好きで食べてたけど。私がもっと強引に色々食べさせれば良かったわ。こんなに早いと思わなかった。でも浩太もお父さんと同じで少食よね。浩太もちゃんと食べるのよ」

「はいはい。ある程度は遺伝なのかな」

「お父さんのお母さまも早くに亡くなってるからねえ」

 聡子はリビングのテーブル隅に置いてあった缶ビールを飲みほした。

「あれ浩太、顔変わった? 整形した?」

「ハハハ。してないよ」

「サラリーマンになったから? なんか端正な顔つきになったわね」

「そう? 自分じゃ全然わかんないや」

 浩太は冷凍庫からバニラのアイスバーを取って自分の部屋に行った。浩太は畳に寝ころびながらアイスの袋を破ってバニラアイスを舐めだした。今日、保安検査場に並んでいるときに自分の名前を呼ばれて優先で検査場を通ったことを思い出していた。自分としては余裕をもって行ったはずなのに航空会社にとっては二十分前が保安検査場の期限だったらしい。融通してもらったのがなんだかむず痒くて、そのときの自分への落胆が未だに浩太の心に押し寄せていた。

浩太はバニラアイスが垂れるのをギリギリで口でとらえてこぼれないようにした。食べるスピードを速め、一気に食べきる。木の棒だけが残り、その棒を力を入れずに持ったまま浩太は目を閉じた。木の棒の先端が目の前に突きつけられている感覚になる。さっきまで木の棒にまとわりついていたバニラアイスはすでに浩太の体に入っている。バニラアイスを返せと言っているかのような雑音にまみれた木の棒が浩太の目へと迫ってくる。浩太は思わず目を開ける。木の棒は右手にあり、全く目の前にはなかった。

   ◇

 浩太が病室を覗くと、父親である浩平は目を瞑っていた。ベッドの横には点滴がある。テレビは消えていた。浩平の身体は重力に負けてベットに寝かせつけられているようで、病気によって皺や筋肉の小ささなど目に見える形で老いが身体の表面にも現れている。浩太は直感的に父親が自分よりも弱い人間だと思い、不安とどこか安心の気持ちも抱いた。

 浩平が半目を開け、「おお、来てたのか」と消え入るような声で聡子に語りかけた。浩太が「おう」と声を出した。浩平は「あれ、この声は浩太じゃないか。来るほどのことじゃないのに。まだ死なないから大丈夫だよ。ハハハ」と口角を上げて笑った。

「本当かよ。けっこうやつれてるよ」

「元からこんなだよ。ほら俺って食が細いしよ。今日は仕事は?」

 浩太が「有給余ってるから」と言うと、浩平は「そうか」と言い再び目を閉じた。

「あらまた寝ちゃうの? せっかく来たのに」

「ん、いやいや。目閉じるだけだよ」

「あっそう。何か欲しいものはないの?」

「歯ブラシとか、髭剃り。あとテレビ見れるカード。暇でしょうがない」

 浩平は目を瞑ったまま。

「歯ブラシと髭剃りは持ってきたわよ。あとはカードね、一階にあったはずだから買ってくる」
聡子は病室を出て左に曲がった。

 浩太はベッドに身体が当たるか当たらないかくらいの距離に立ったまま。一分ほど静寂が続いた後、浩平が目をカッと全開に見開き「浩太」と言った。

「何?」

「仕事をしていないと自分が何者かを話すのが難しくなるなあ」

「うん」

「それが大変。家族以外と会いたくなくなるから、仕事はできるだけやったほうがいいぞ」

「うん。そういうもんか。あれ、心臓病だよね。けっこう病気は苦しい?」

「そうだなあ。胸が苦しくなって、あとは一時的に左半身の自由が利かなくなっちゃって。それで病院に行った」

「不随になりかけたんだ。怖い」

「なんでかはわからないけど今でも息を吸うのが辛い。息を吸いたいだけなのにな。息が思うようにできないと、人間として生きることを否定されてるような気持ちになるぞ」

 浩平はベッドについている手すりを握り「あと、わがままかもしれないけど、死んだら俺のことを忘れて欲しい」と呟いた。

「何それ。忘れないと思うよ」

「自分のことだけ考えればいいんだ。俺の死に惑わされるんじゃないぞ」

「惑わされることなんかあるのかなあ」

「あったときは気をつけろ。でも、眠れない夜は俺のことを思い出して乗り切って欲しい。これもわがままだけど」
 
 浩太は「え。覚えればいいんだか、忘れればいいんだかわかんないよ」と笑みを浮かべながら言った。浩平は目を見開き、口角を下げたまま「両方だよ。都合よく俺を使ってくれっていうことだ」と言った。

「うーん。とりあえず言葉は受け取ったけど」

 聡子が病室に戻ってきた。カードを掲げながら「とりあえず一枚でいいでしょ?」と言った。浩平の「おう。もう入れちゃってくれ」という言葉と同時に、すでに聡子はカードを入れ、電源をつけるとテレビがついた。

 画面には以前、浩太の部屋に宅配で来ていた高村が脂肪で溢れた身体を晒していた。パンツ一丁で歴代の横綱の本名を音楽に乗せて叫んでいる。浩太が「これ、俺のネタだ」と呟いた。途中で高村の声が飛んでしまい口パクみたいになっていたが、高村は時折混じる長い外国人力士の名前を挟みながら歴代横綱の本名を必死に叫び続けていた。やっていること自体は浩太と同じことだが、そのネタ番組の中では高村が大笑いを取っていた。

「私にはわからないけど、面白いみたいね。でもこんなネタやってたの、あんた」

「いや一回しかやってないし、コンビのときはもっとちゃんとしたネタやってたよ」

 浩平は目を瞑っている。浩太が「父さんあんまり今日は元気ない感じ?」と聞くと浩平は瞼を開けず「そんなことない」と答えた。

「今日は鳥越さんも来るかもしれないわよ」

「ああそう。いつ頃?」

 聡子が「もうそろそろじゃないかしら」と言って腕時計をチラッと見た。

「私はそろそろ行くけど、浩太はどうする?」

「行く。また来るね」

 浩平は「はいはい」と言い、浩太と聡子は病室を出た。廊下を横並びで歩く。聡子は浩太を見ながら「まあ、子どもは親を選べないからね」と言った。

「どういうこと?」

「お父さんが寿命の短い家系に生まれても誰も責任とれないし、受け入れるしかないのよ」

「ああ。それを言ったら子どもは生まれること自体も選べないよね」

「それを言われると親は辛いわよ。私たちは浩太に出会うために結婚したのかもって思ってるから。ほら、カレンダーの今日の日付に丸をつけていたから、やっぱりお父さんは浩太が来るの楽しみにしてたんだと思うわよ」

「そう? 気づかなかった」

 二人が階段を降りようと右に曲がると、目の前に鳥越が現れた。鳥越が立ち止まって「おお、来てたんですね。元気でした?」と聞くと、聡子は「元気だったけど、ちょっと眠そうだったわ」と答えた。

「そうですか。今日は行かないほうがいいですかね?」

「いや、鳥越さん来るかもしれないとは言ってあるから、大丈夫だと思う」

「とりあえず行ってみますね。もともとそんなに長居はしないつもりなので」

「行ってらっしゃい」

 聡子と浩太は階段を降り、一階の外来の前にある椅子に座った。聡子は自動販売機でコーヒーと緑茶を買った。「緑茶でいい?」と言いながら緑茶を浩太に渡した。

「ありがとう」

「どういたしまして。親の無償の愛です。親は子どもに頼られるのはどんなことでも嬉しいのよ」

「ハハハ。どうも」

 浩太は蓋を開け、喉を二回鳴らしてゴクゴクと飲む。

「鳥越さんと会うの久しぶりだから、ちょっと話してから帰る」

「そうかい。じゃあ私は先に帰るわね」

 聡子は自動ドアを通り、病院を出た。浩太はスマホでSNSを見ると、前田が「めっちゃウケた。今年はなんか違う気がする」と賞レースの一回戦で手ごたえをつかんで有頂天になっているようだった。調子に乗って「彼女が言うには今日一ウケだったらしいです」と彼女とのツーショットの写真も載せていた。前田の彼女は三十代くらいのロングヘア―で、浩太は可愛いとも可愛くないとも思わなかった。どこにでもいるような普通の女性だと思った。

   ◇

「まだ浩太くんいたんだ。浩平はあれだな、全然普通に喋れるしちょっと安心したよ。すぐにどうこうっていう感じではなさそうだね」

「そうですね」

 鳥越は浩太の前に座って浩太の顔をまっすぐ見ながら「あ、ちょうど良かった。俺、結婚するわ」と言った。浩太は大きく目を見開いた。

「え、相手いないんじゃなかったんですか」

「いや、いなかったんだけど、恥ずかしながらできちゃったからさあ」

「あら、おめでとうございます。お相手は?」

「浩太くんは知らない人だよ。知り合ってからは長かったし気も合うから、今のところまだ想像だけど結婚生活も楽しそうではある」

「びっくりしました。あ、お金。これくらいしか渡せないですけど」

 浩太はリュックの中の財布から一万円を鳥越の前に出した。

「いやいや。お金なんぞいいよ。いっぱいネットカフェで働いてくれたんだから。十分よ」 

 鳥越は一万円を突き返すが、浩太は「いえいえ、受け取ってください」と言って一万円を押し返した。鳥越は「えー、本当かよ。まさか浩太くんに結婚祝いもらう日が来るとは思わなかった」と一万円を受け取り、折ってポケットに入れた。

 鳥越が右斜め上に視線を移して「あ、そういえばネットカフェはつぶすことにしたよ。俺もサラリーマンになるわ」と言った。

「え、儲かってなかったんですか?」

「うーん、俺一人だけならまだいいんだけど、子どももできるから」

「それはちょっと寂しいですね。僕が帰る場所がなくなっちゃいます」

「浩太くんはもう大丈夫だろ。顔がスッキリしてる。立派だよ。俺も浩太みたいなサラリーマンになりたいよ。いやあ。実は浩太くんが赤ちゃんのときにおしめ替えたことだって、抱っこしたことだってあるんだからね。感慨深いよ」

「そうなんですね。小さいときの僕ってどんな感じでしたか?」

「笑ってたよ。泣いていても浩平があやしたらすぐに泣きやんで笑ってた。寝てるときも笑顔だった。大きな自信を持ってるような笑顔だった。大きくなって久しぶりに会ったとき、笑顔がその時のままで俺も笑顔になっちゃった」

「笑顔かあ。赤ちゃんの時は表情筋を鍛えたかっただけじゃないですかね」

「冷たい言い方だな」

「ハハハ。自分の笑顔について言われるのは恥ずかしいですよ」

「その笑顔。笑顔を見たら何か応えたくなる」

「そうですかね」

   ◇

「今回決勝に行けなかったら多分解散だからなあ。まだ一回戦だけど、とりあえずは良かった」

 浩太は畳に寝転んだ状態で前田に「そうなんですか」と言った。前田はあぐらをかいた状態で「別に古田と話したわけじゃないけど、もう空気で何となくわかるだろ。十年以上やってたらわかるさ。良くも悪くも」と言った。

 前田は養成所で知り合って組んだ最初のコンビを一年で解散した。古田もちょうど同じタイミングでコンビを解散して、お互い余っていて元々仲も良かった二人が組んで八年ほどになる。

「そういえば浩太がいなくなっちまったから、新ネタをかける単独ライブの手伝い頼めるやつがいなくて困っちゃったんだよ。高村に頼んだよ」

「高村まだそんなのやってくれるんですね。売れてきてるのに」

「テレビは出始めてるよな」

「平場のフリートークがおもしろいですもんね。脈略ないこと言うから面白いですよね」

「天然だと思われてるだろうなあ。本人はなんか、滑ることが前提の台本をよく作家に書かれて、滑った後の司会者のツッコミで笑いが起きる感じになっちゃうからそれが嫌だって言ってたけど」

「結果そうなるのはいいですけど、台本からそうなってるのは確かに嫌ですね」

「だよなあ。あとテレビにちょっと出始めたから、挨拶が前と違う態度が変わった人がたくさんいるらしい。でも来年はもう高村には頼めないだろうなあ」

「そういやこの間テレビで高村がネタやってるの見たんですけど僕のネタやってましたよ」

「マジ? パクった?」

「いや、承諾してるんでパクってはないですよ。でもなんかそれが僕のネタよりも圧倒的に面白くなってて悲しくなってました。笑いましたけど、泣きそうになりました」

「泣き笑い? そんなに面白かったのか」

「泣き笑いとは違います。面白いことをしてる人って哀れでもあるじゃないですか」

「高村哀れだったか。ガハハ」

「なんか、自分のことも哀れに感じちゃいましたね。自分の姿を重ねちゃって」

「なんかメンブレしてんな。めっちゃメンタルブレイク中じゃん。メソメソすんじゃねえよ。贅沢な悩みだなあ」

 前田はリンゴジュースを一気飲みした。

「ネタでこれだけウケたからちょっとは前向きになれたなあ。浩太は顔が全然前と違っていい顔してるよ。俺らの一進一退、自転車操業の生活とはおさらばしてるんだもんな。本当に顔が全然違う」

「いや、サラリーマンにはサラリーマンの大変さがありますよ。会議で全然喋れないですし。自分がいる意味あるのかなって思ったり」

「贅沢言うなって」

「うーん、贅沢なんですかね。相変わらず遅刻しちゃうし」

「それはお前が悪い」

「ハハハ。それはそうですね」

「一回戦の打ち上げは明日の何時までやろうか」

「え、明日は仕事なんですよ」

「なんだよ。付き合い悪いなあ。忙しいですね、正社員さんは。明日は何時くらいに帰るんだ?」

「夜ですよ。まさかずっとこの家にいるつもりですか?」

「いいじゃねえか。まだ打ち上げしたいから」

   ◇

 浩太が「すみません」と言いながらドアを開けるとそこには誰もいなかった。「邪魔だよ」という声を聞いて浩太が後ろを振り返ると、会社の先輩が立っていた。

「すみません」

「もう会議は終わっちゃったよ」

「そうですよね。すみません」

「そういえば浩太くん、芸人やってたんだって? 面白いこと得意なの?」

「いや、三年くらいしかやってなかったので」

「遅刻って面白いの?」

「え、どういうことですか」

「そのままだよ。何回も遅刻してるけど、それって面白いからやってるのかなと思って」

「いえ、わざとではないです、すみません」

「いや、俺に謝られても。笑ったほうがいいなら言ってね。笑うから」

「ハハハ。大丈夫です」

「あ、浩太くん」

 部長が先輩の横から顔を出し「浩太くんは昨日の続きでいいので、お願いします」と言った。浩太の「二階ですよね?」という問いに対して部長が「はい」と言うと、浩太は先輩と部長を避けるように左に抜けていった。浩太は右の手すりを持ちながら階段を上がり二階に向かう。

 浩太は実験室に入ると机の上のノートを開いて実験手順を確認する。局所排気装置であるドラフトチャンバー内に重曹水とチオ硫酸ナトリウム水溶液を入れた桶を置く。棚からフラスコを取り出してスターラーを入れ、精密天秤に設置する。ドラフト横にある引き出しから試薬瓶を取り出し机に置く。再度ノートを見て必要な重量を確認する。手袋を両手にはめ、引き出しから薬さじを取り出して異物がついていないか確かめたあと、精密天秤の重さをゼロにする。薬さじで試薬瓶の中から白色粉末をすくいフラスコへと注意深く入れる。最初はたくさん入れていく。次第にごく少量の粉末を薬さじで試薬瓶からすくい、ゆっくりと少しずつフラスコの中に粉末を入れていくようにする。必要量ちょうどの重さになると、薬さじをフラスコから離す。使用後の薬さじはドラフト内の重曹水とチオ硫酸ナトリウム水溶液にゆっくりと、汚れているほうを奥に向けて沈めていく。少し気泡が出て、気泡が収まったところで薬さじから手を放す。手袋を両手とも外してゴミ箱へ捨てる。

 ノートで再び必要重量を確認してから、使用した粉末の試薬瓶を引き出しに戻す。別の試薬瓶を取り出して精密天秤の横に置く。再び手袋をして新たに薬さじを取り出す。精密天秤の表示をゼロにしてから、さっきよりも少し水分を含んだ白色粉末を試薬瓶からすくいフラスコに入れていく。計りおわると、薬さじは流しの近くある廃液タンクのところで汚れを流してからかごに入れる。手袋を外してごみ箱に捨て、試薬瓶を閉めて引き出しに戻す。フラスコを精密天秤から取り出し、ドラフト内のクランプに挟む。桶に氷水を入れてスターラーに置き、クランプを下に動かすことでフラスコを氷水の中に入れる。

 部屋を出て、廊下を挟んだ溶媒のガロン瓶が並ぶ部屋に行く。右手でガロン瓶を持ち、元の部屋に戻る。ドラフト中にガロン瓶を置く。もう一度ノートを見て、必要な液量を確認する。ガロン瓶の蓋を開け、シリンジに針をはめてしっかりと締めて液漏れしないようにする。針をガロン瓶の中に入れ、シリンジの筒を引っ張って液を吸っていく。筒をゆっくり徐々に引っ張っていき、目標の液量程度入ったらシリンジの針を上に向ける。空気が針の近くにたまる。さらに筒を押していくと空気が針から抜けていき、シリンジ内の空気量が少なくなっていく。シリンジ内から空気が出きると、液量がちょうどであることを確認してから針を下に向ける。針をフラスコ内に入れ、フラスコの壁面に伝わらせるよう液を入れていく。筒をゆっくりと押し出すと、針先から液がポタポタと垂れて壁面を伝っていく。指の関節に当たった筒の強さを感じながら、筒を加速度的に押しこんでいく。液の流れる速度が速くなっていく。液滴が繋がって線になると、手にさらに力を入れて筒の押し出す速さを一定に戻す。液をフラスコ中へ放出していく。シリンジ内の液がどんどんと少なくなっていく。筒を押し切り、シリンジをドラフト中に置く。

 スターラーのつまみを回し、スターラーを動かす。スターラーが暴れないようつまみを調整する。しばらく様子を見る。粉末が液に溶けていく。ガロン瓶の蓋を閉めてガロン瓶が並ぶ部屋へと戻しに行く。元の部屋に戻り、クランプを上に動かし氷水の入った桶をスターラーから下ろす。フラスコの外面についた水滴をワイプで拭き、ワイプをゴミ箱に捨てる。フラスコ置き用のコルクをスターラーに置き、クランプを下に動かしてフラスコをコルクにはめる。椅子をドラフトの下に引き寄せて座る。白色粉末はなかなか溶けなく、液の中で回っていく。壁面にも粉末がこびりついてとれない。回転をより速くすると液中の粉は溶けるものの、壁面の粉末は残ったまま。もっと速くすると、スターラーがフラスコの壁面にぶつかってガラスの音が響きわるので、スターラーを遅くする。また少しずつ回転を速くしていきスターラーが暴れないギリギリの速さにして手をつまみから離す。浩太はフラスコを見つめる。後ろの机には開かれたノート、その周りには積み上げられた本と論文コピーの紙。壁面に引っついた粉の中の小さな一粒一粒が浩太には少しずつ液に溶けているような気がして、いつか溶けきるのではないかと見つめ続ける。

 小学四年のクラスの中で、スポーツ大会に挑むグループ分けで浩太は一人残ってしまった。担任の先生は「三十分時間をあげるからみんなで決めてね」とだけ言って教室を出て行っていた。教室には生徒たちしかいなかった。パンパンに教科書が入った机の前に浩太は座っている。どのグループに入るか逡巡して動けないでいた。サッカー、卓球、バトミントン、バレーボール、ソフトボール、バスケットボール。浩太は近所の他クラスの友だちとよく公園で野球をしていたのでソフトボールをやりたかったが、野球の少年団に入っている人たちで枠は埋まってしまっていた。教室では競技ごとに各々の場所でまとまっていたが、浩太はひとり自分の席に座りながら目を泳がせていた。学級委員長の先導で浩太はターンオーバー可能で一人多くても大丈夫なバスケに入れられた。イケイケのバスケ軍団の中に入れられた。スポーツ大会本番の日の朝、母親に食欲がない、体調が悪いと言って、浩太は学校をズル休みした。その次の日、浩太は学校には行ったものの誰も浩太の前日の休みには触れてこなかった。それから小学校を卒業するまで、陰で「余りもの」というあだ名が浩太にはついていた。上履きのかかとを踏んで靴を脱がせられる、掃除の時間に雑巾を絞った水を飲ませられる、ズボンを脱がされてパンツ一丁でベランダに締め出される、髪を掴まれ雪に顔を押し付けられて目に入った雪の粒で目を赤くさせられるなどのいじめが浩太を襲っっていった。そのことは親に知られないまま浩太は小学校を卒業した。親にいじめを言ってしまうと、浩太にとって、そのときに親の中で生きていたであろう自分が消えてしまうのが怖かった。余りものであることの価値は浩太には見いだせなかった。

 中学生になると自然といじめはなくなったが、浩太は塾の宿題をこなすのが苦手で宿題をためてしまうようになった。浩太はそのことも親にだまっていて宿題をやらないまま塾に行っていた。こっぴどく塾では怒られていたが、学校の勉強をしてはいたので成績は落ちずに大学にも行けた。

 小三のときまでは父親である浩平とキャッチボールなどでよく遊んでいたが、浩太が小四のころから浩平は顧問になった野球部の練習で忙しくなった。浩平は野球をやったことなかったのに、息子とよくキャッチボールをしているからというだけで野球部顧問にさせられた。隣の中学で野球部顧問をしている父親と練習試合かなんかで当たったら恥ずかしいからと、浩太は中学で本当は入りたかった野球部に入らなかった。母親は家事をしている上に仕事もしていたので忙しそうで、浩太は迷惑だろうと変に気を遣って親に話しかけられなくなっていた。

 フラスコの壁面の粉は半分くらいになっていたが、まだ残っていた。部長が実験室に来て「ちょっと」と声をかけた。浩太は「なんでしょう」と言い、部長に近づいていった。

「将来も含めて期待してるし、十分貢献してくれてるのは分かってる。でも、会社は会議も大事だから、会議の時間は守ってほしい。浩太くんの力をぜひ生かしてほしいから、ね」

 浩太は「わかりました」と言って、ドラフトのほうを見つめた。

「あ、ごめんね。実験中だったね」

「いえいえ」

 部長は「期待してるから」と言って実験室を出ていった。浩太はドラフトに戻る。フラスコ壁面の粉はまだ溶けきっていなかった。

「この間のレクリエーションも来なかったな」

「そうそう。あいつのためにやったようなもんだったのにな」

「いい加減にしろよ。縁故入社はやっぱり良くないよなあ」

 廊下から浩太の耳に二人の声が聞こえていた。浩太は廊下のほうを見ずにフラスコを見つめ続ける。十分後、粉が全て溶けきったところで浩太は実験室を出た。

   ◇

 水たまりに雨が落ちて、水たまりが徐々にまたその範囲を広げる。浩太が差す傘にぶつかった雨粒は重力に従って降りていき傘から離れ、ずぶ濡れの浩太のリュックとシャツの間に垂れ落ちる。アパートへ近づくにしたがって背中の滲みは徐々に広がっていく。

 浩太は傘を後ろに避けて前方の視界を開けると、自分の部屋の電気が消えていることを確認した。部屋の中は見えない。浩太はアパートの前に落ちている空のペットボトルを跨いで階段を上った。

 ドアの前に着き、ポストに手を入れるとそこにあるはずの鍵はなかった。ポストの穴から中を覗き見ると、玄関には前田がいつも履いているスニーカーと、女性用のヒールの靴があった。しゃがんでいる浩太の背中はフルマラソンを走った後の汗くらい濡れていた。

 浩太はドアのギリギリで呆然として一分ほど経ったころ、チャイムを鳴らした。布が擦れる音と慌ただしく床の鳴る音が聞こえた。玄関に足音が近づいてくる。ガチャっと鍵の開く音がした。ドアの隙間から前田が顔を覗かせ、「早いな」と言った。

「いいじゃないですか、僕の部屋なんで」

「連絡くれればよかったのに」

「自分の部屋に帰るのに連絡するんですか?」

「ちょっと待ってくれ」

「ここは自分の部屋です。使うんなら家賃払ってください」

 浩太はドアと上半身裸の前田の間を縫うように入りこんでいった。ベッドには布団にくるまって座る、あおの大食いの女性レイがいた。浩太が「なんでここにいるんですか」と声を上げると、レイは「え、あんたこそなんでいるの」と目を丸くした。

「びっくりしたあ。前田さん、もうここに来ないでください。パラサイトするのは実家だけにしてください」

「ごめんごめん。えーと、ほら、これが打ち上げだよ」

「ウケれば何をしてもいいんですか。僕はもう芸人じゃないんです。芸人仲間は他で見つけてください」

「キツイなあ。笑えねえ。冷たいなあ。ネットカフェに行く金もなくなっちまったんだよ」

「出ていけよ」

「はあ。出ていくから出ていくから。分かったから彼女に服を着させてやってくれ」

 浩太はリュックを床に乱雑に置き、トイレに入り「早くして出ていってくれ」と言った。浩太はトイレの中でさっきまで嗅いでいた化学薬品のようなにおいのする香水と自分以外の人のにおいを感じた。浩太は水滴が床に飛んでいることに気づき、床をタオルで拭いた。ドアの外からは床の鳴る音が聞こえてくる。やがて音が収まる。前田が「浩太、もういいよ」と言うと、浩太はトイレのドアを開けた。玄関からはヒールがなくなっていた。

「消えてくれ。金ならやるから。今までおごってくれて、ありがとうございました」

「すまん。久しぶりにウケて浮かれてたんだ。わかるだろ」

 浩太は「僕も辛いんですよ」と言ってリュックから財布を取り出し、一万円を前田の手に握らせた。前田は「さすがにこれは受け取れないよ」と一万円を押し返すが、浩太は「今更なんですか。これは手切れ金じゃないです。これまでのお世話になったお礼です。出ていってください」と言って前田の胸を両手で掴み、玄関まで押していった。前田は「分かった。出ていくし、もう来ないから」と言って靴を履き、ドアを開け出ていった。浩太が鍵を閉めると、ドアのポストが開き、前田の手が入ってきた。手を開くと、一万円が手から離れてポストの中に落ちた。浩太はその一万円を拾い、靴箱から鍵を取り出し、それぞれ財布に入れ、財布をリュックの中に投げ入れた。浩太はベッドの上にビーズのブレスレットを三つ見つけ、ベッドではなく床に寝転び目を瞑った。

   ◇

 明かりの少ない中、鳥越がバックヤードから顔を出し「浩太くんじゃん」と言った。浩太がネットカフェの通路に立ちつくしている。

「すみません」

「こんな夜中にどうした?」

「いや、なんでもないです。なんでもないですけど、父さんってなんで高校教師になったんですかね?」

「人に教えるのがうまかったからじゃないかな。だからクラスの中で人望があったんだよ。モテてはいなかったけどな」

「ハハハ。鳥越さんのほうがモテてたんですよね。分かってますよ」

「父親のこと気になる?」

「いや。何か、親にちゃんとした姿を見せたいんですよね。父親はもう時間がないし」

「肩ひじ張る必要ないと思うけど。浩太くんがやりたいことをするのが最大の親孝行だよ」

 鳥越はスマホで時間を確認してから電気スイッチを押すと、室内の電気がパッとついた。

「浩太くんは一人一切れのピザが目の前にあったとき、みんなが先に手に取って最後に余ったものを手に取るか、一番最初に取るか、どうする?」

「うーん、どうするだろう」

「俺はだけど、一番最初に一番でかいのを取って、そのことを周りが笑ってくれるような人間になりたいと思う。浩太くんは浩太くんなりの答えでいい。どの順番にどの大きさのピザをとってもいいと思う。それはきっと、浩太くんが決意をもって決断したものならばみんな尊重してくれると思うよ」

 鳥越はそう言うと、受付の横にある売り物のカップ麺や下着類の補充を始めた。

「金はいいから、気の済むまでここにいていいよ。席空いてるから。それにちょうど良かった、伝えたかったことあったんだ。俺、ネットカフェを続けることにしたから」

「え、そうだったんですか。またどうして?」

「別に大した理由もないよ。先代のじいさんの想いを考え直してとかじゃなくて、単純に自分がやりたいことだと思ったから。楽しいから。妻もネットカフェを手伝ってくれるみたいだから。夫婦そろって大変だとは思うけどね」

「そうなんですね。鳥越さん、いい人に巡り合ったんですね」

「うちはいつでも店員足りないから。また働きたくなったらいつでも歓迎だけど、バイトする? 正社員でもいいけど、ハハハ」

「そうですねえ。ちょっと考えさせてください。でもありがとうございます」

 鳥越が「うん。働きたくなったらいつでも言って」と言いバックヤードに下がろうとすると、バックヤードから三十代くらいのロングヘア―の女性が現れた。浩太の顔を見るとその女性は目を丸くして「あれ、鳥越さんお知合いですか?」と大声で聞いた。鳥越は小声で「シーッ。ああ、前にここでバイトしてくれてた浩太くん」と浩太に手のひらを向けて紹介した。

「やっぱり。柳平がよく家に行ってる浩太くんだ。確かに香水のにおいするね。わたし、前田柳平と付き合ってる瞳と言います」

 瞳はデートのときに前田がネットカフェに連れてきたことがあった。そこで瞳は鳥越と知り合って、バイトまでするようになったとのこと。前田の彼女である瞳は、前田の出ているお笑いライブを見に行ったときに浩太のことを見たことがあった。また、自らが浮気を疑うほど前田が浩太の家に行っていたと聞いていたことから浩太のことは特に覚えていたらしい。

「浩太くん、最近柳平と連絡とってる?」

「前田さんとは、最近はほとんどとってないですね」

「なんか借金がひどくなっちゃったみたいでお金がなくて。私も貸せるだけ貸してるんだけどさ」

「え、そうなんですか。僕に借金しておごってくれてたんですかね。すみません」

「いやいや。なんか借金は最近膨れ上がったみたいなんだよね」

 前田は瞳がプレゼントした万年筆まで売ってしまうほど借金に苦しんでいたらしい。

「あとなんか、お金貸してほしいって言われたときにいろいろ聞いたんだけど、一回買った婚約指輪も私にプロポーズする前に売っちゃったんだって。それ聞いて私はどう思えばいいのかわかんなかったけど」

「そうなんですか。知らなかった。すみません僕、めちゃくちゃ奢ってもらってたんで」

「そんなのはいいんだけど、ちょっと元気づけてあげてくれない? 私じゃ無理なのよ。全部は気持ちを共有できないから。本当か分からないけど死ぬとか言いだしてさあ。ダメな先輩で申し訳ないけど」

「全然ダメな先輩じゃないですよ。お世話になってますから」

「柳平、優しいんだけどね」

   ◇

 順番にマイクの前にコンビが出てきて、掛け合いを行う。賞レースの二回戦、大きな会場の客席はまばらに埋まっており、時折笑い声は起きるがそれは浩太を始めとして数人のみの声。大半のお客さんは三十代以上の男性。朝から行われている長丁場において椅子にほぼ寝転がっているかのように背筋が後ろに曲がった姿勢で見ている人が多い。携帯にメモをしながらネタを聞いている人もいる。

 司会の人が出てきて休憩に入る旨が伝えられた。前田が浩太の後ろから「おう、浩太じゃん」と声をかけ、浩太の横に座った。浩太が「あ、いるのバレてましたか。端のほうだったのに」と言うと前田は「すぐ見つけたよ」と浩太の肩を叩いた。

 浩太は「前田さん、面白かったですよ」と言うが、前田からしたら手ごたえがなかったようで「笑いの感じで大体わかるよ。来てほしいところで笑いが来てなかったから、落ちるだろうなあ。いろいろ言い訳つけて三回戦にまだ上がれるんじゃないかって期待を持ちすぎるのも良くないだろ」と呟く。

「笑いの量的にはボーダーラインですかね」

「ひいき目に見てもそのくらいだな。ネタの間、相方もあんまり笑ってなかったしなあ。俺のネタが面白くねえんだろうなあ」

 前田は無人の舞台を遠い目をしながら見つめた。

「ボケとツッコミが頻繁に入れ替わるからちょっと分かりづらかったかもしれないですね」

「それはちょっと思ったんだけど、佐藤にはこのほうがウケが良かったからさあ」

「まだ佐藤の言うこと聞いてるんですか」

「しょうがねえだろ。佐藤くらいしかもうネタを見てくれる人がいないんだ」

「自分のことを信じましょうよ。あれ、作家といったら幸助とかは見てくれないんですか。さすがに後輩すぎるか」

「ああ、幸助か。幸助のこと最近全然見ねえぞ。本当に作家やってんのかなあ」

「そうなんだ。幸助、もう会うこともないだろうなあ」

 トイレに行きたいであろうお客さんが前田の横を通る。前田とぶつかりそうだが、かすれる程度でおさまった。前田は気にせず浩太のほうを向いている。

「今日はどうしたんだ。俺のことが恋しくなったのか」

「ハハハ。いやいや、別に前田さんに会いたかったわけじゃないです。お笑いが見たくなっただけですよ」
前田は「素直じゃねえなあ。まったくさあ。うん、この間は俺が悪かったよ、すまん」と、浩太に頭を下げた。浩太は息を吐きながら「んー、頭下げないでくださいよ前田先輩。そういやそんなこともありましたね。まあ芸人は変わったやつがなるもんですし」と言った。

「悪いな。芸人、俺もそろそろ潮時だと思ってる。ガハハ、金もねえし」

 浩太は前の席の背もたれを見つめながら「面白いですけどね、前田さん。でも僕には止められないです。芸人は大変ですしね」と言った。前田は「だよな。そうなんだよ」と息を吐き、すぐに息を吸った。

「なんかさあ、介護を本格的にやろうかな。介護で受け持ってたじいさんが最近死んじまったんだよ。そういうの初めてだったからさ、家族以外の他人の死」

 それを聞いて、浩太は前田の顔を見た。

「巡回してきたお医者さんがそのじいさんの呼吸を聴診器で聴いたとき、雑音が多いって言われた日があったんだよ。次の日に死んだ」

「そうなんですね。どんな感覚なんですか?」

「ご家族ほどは深く付き合ってないから、思い入れ過ぎるのも違うだろうし、でも俺にとってはけっこう仲良くしてもらってたし、芸人の仕事も話したりしてて応援してくれてたし。真剣に考えたというか、もっとじいさんにしてやれることがあったんじゃないかって」

「僕には介護の仕事は絶対できないなあ。前田さんに向いてるかも。不躾にコミュニケーション取れそうだから」

「ガハハ。失礼だな」

「向いてると思いますよ」

「ほら、いじめは施設でもないわけじゃないからさ、職員からとかじいさん同士とかでも。そんなときに軽い笑いで意外と解決することがあるっていうか。根本的な解決にはなってないかもしれないけど。だから介護現場でもお笑いって必要じゃんって思って」

「いいじゃないですか」

 浩太は前の席の背もたれに視線を戻した。

「その死んだじいさんはうまく喋れなくなってきてたから、記憶力も悪くて。それを別のじいさんが嘲笑してたんだよ。それ見てちょっとムカついちゃってさ」

「悪意がある笑い方だったんですか?」

「うーん、俺にはそう見えた。だから、笑いがあれば何でもいいってわけじゃないんだよなあ。難しい。結局いじめといじりなんて区別できないんだよなあ。笑いを生もうとすると、そのせいで人を傷つける可能性があるのは避けようがないことで、だからちょっとは笑いをかじっていたやつが笑いを生み出すトライをしていく必要があるんじゃないかって思うんだよ。たとえそれが舞台の上じゃなくても」

「笑わせることと傷つけることは表裏一体ですもんね。それに、和ませようと思って意識的に笑ったら真面目にしろと言われたり、笑ったことで意見に同意したとみなされたり」

「そうそう。笑いって面倒くさいな」

「本当ですよ」

「落ちこぼれが夢を見て、努力せずにお金持ちになりたくて芸人になったけどダメだった。一年目でやたらウケた日があったけど、結局その日のウケを超えられなかったなあ」

 浩太は前田が一年目でやたらウケた日があったという話を何度も聞いたことがあった。客が笑いすぎて途中から息ができなくて笑いが少なくなっていき、ネタ中に前田の相方である古田も前田のボケに笑いが止まらなくなってしまうところがあったほどだったらしい。二人が舞台を降りてもまだ客席はザワザワしていて、次の芸人もなかなか舞台に出られなかったらしい。

「あれは幻想、幻聴だったのかな。もう今は笑い声に慣れてしまってただの笑い声では満足できなくなっちゃってるだけならいいけど」
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