God Gave Rock 'n' Roll to You

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God Gave Rock 'n' Roll to You

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  急に何もかもが嫌になった。
  こんな家出ていこう、と突然思い立った。なんともロックでいいじゃないか、憧れてたパンクガールに生まれ変わるチャンスだ。
  初めての家出になにを持って行っていいかわからなくて、とりあえずいつもの鞄にいつものものを詰めた。財布とケータイがあれば最低限生きていけるだろう。寒くない格好をして、部屋を見渡して、ベッドの脇に置いたベースに目が止まった。
  私はこいつが嫌いだ。だって、嫌な思い出しかない。それでも人生の半分以上をこいつと過ごしてきたし、ここに置いていくのも可哀想な気がする。それに持っているものの中ではいちばん高い。本当にいらなくなったらどこかで売ったっていい。
  ケースに楽器と少しの機材を詰めた。いつものように玄関のドアを開けた。イヤホンを耳にぶち込む。空は晴れている。ヴァンヘイレンの『ドリームス』が私を包んだ。


  最寄りの駅に向かいながら、リョウにラインをした。
《いま何してんの?》
  返事はすぐに返ってきた。
《バイト終わってひとりでドライブしてる。遊ぼうぜ》
  さすがは自称親友、テレパシストみたいだ。すぐに返信が来るってことは信号待ちだろう、と見当をつけ即刻電話をすると、ものの数秒で繋がった。
「ね、いまどこ?」
  スピーカーホンにしているらしく、車内でキッスの『ゴッド・ゲイヴ・ロックンロール・トゥー・ユー』が流れているのが聴こえた。すぐに車のエンジンが動く音、やっぱり信号待ちだったらしい。
「いまー? とりあえずお前んちの方向かい始めてるけど、どうする?」
「乗ってく。どっかで待つわ」
「了解。あ、俺スタバのコーヒーが飲みたいなぁ、ガス代代わりに買ってくれないかなぁ~?」
「スタバは禁煙だから嫌。ドトールで待ってるからコンビニで買っておいてあげる」
「えー仕方ないなあー」
  待ち合わせに近所のドトールを指定し、喫煙席に陣取った。煙草に火をつけて煙をため息とともに吐き出す。ため息程度で逃げる幸せなんて逃げちまえ、ゼロのものはそれ以上減らない。
  バンドのグループラインが動いている。そういえば今日の夜はスタジオだった。私がいなくちゃバンドが回らないかな、と一瞬だけ脳裏にちらついた考えを、紫煙がかき消していく。悲しいけど、私の代わりなんていくらでもいる。それにこんないい子のふりをしてまで我慢することはない、ない、大丈夫。しっかりと自分に言い聞かせる。もう一度ため息をついてケータイの電源を落とし、煙草を消して、頰杖をついた手のひらに顔を埋めた。
  どれくらい経っただろう、頭をぐしゃぐしゃされて顔をあげるとリョウが立っていた。
「よ! 何してんの」
「……何してんだろうね」
「知るか、そんなん俺に聞くなよ。ってかお前、俺のコーヒー買ってねえだろ!」
「あっ忘れてた」
  リョウはいつも通りだらしない顔で笑った。車すぐそこに止めてあるからコンビニ寄ってから出よ、と先に歩き出す。慌ててグラスを返却口に置き荷物を背負ってあとに続く。近くのコンビニで、コーヒーをふたつ買った。リョウは、ごちそうさまでーす、とへらへら笑い、つられて私も笑った。こいつといるとくだらないことで笑えるから、つくづく幸せな野郎だと思う。
  私が助手席に乗り込みリョウがエンジンをかけると、パンテラの『セメタリー・ゲイツ』が流れ始めた。
「パンテラかよ、嫌なんですけど~」
「なんで? かっけえじゃん」
「さっきまでキッスだったじゃん、どういう基準でシャッフルしてんの」
「ん? 俺の好きな曲プレイリスト。神だろ」
  なにを誇ってるのか知らないが誇らしげにそんなことを言いながらも、好きなのかけていいよ、と車のスピーカーに繋がったiPodを渡してくる。午後にぴったりの曲を探して、ガンズ・アンド・ローゼズのファーストアルバムを選んだ。
「おっいいセンスしてんじゃん」
  車が発進した。『スウィート・チャイルド・オー・マイン』を口ずさむリョウを横目で見る。
「……Where do we go」
「さあね。どっか行きたいとこある?」
「ほんと無計画だねあんた。行先すら決めないでドライブ誘うなよ」
「お前が几帳面すぎんだよ、行先なんて気分で決めようぜ。はい、どこ行きたい」
  押し黙ってしまった。だってその通りだ。いつも私は綿密に計画を立てて、シミュレーションを散々して、結局理想と現実との差異を見て、ぺしゃんこに潰れてしまう。その計画だって、必ずしも自分のやりたい流れではない。それでも真面目に生きることを刷り込まれてきた。自分の意見より周りの空気と顔色を見て、最善の策を取ることを強いられてきた。
考え込む私にリョウがにやにやと笑いかける。
「早く決めろよ~、じゃないと心霊スポット巡りにするぞ」
「なにそれ、昼間じゃ怖くないじゃない」
「じゃあほら、今の気分でどうぞ! はいっドゥルルルルルルル……ダンっ!」
  口でドラムロールをするリョウは本当に馬鹿だ。能天気に、私の気も知らないで。
「……海」
  リョウの底抜けの明るさに押されたのか、思ってもいなかったワードが口から出た。
「おっリクエスト出たね~、じゃあ海向かうか~! 運転がんばっちゃうぞ~」
  リョウはノリノリでカーナビを操作する。運転中は操作するなっていつも言っているのに。私のムッとした空気が伝わったのか、顔を見てもいないはずなのにリョウがまたへらへらと笑った。
「まーたまた、ちょっとくらい大丈夫だって~。ほんと真面目なんだから」
「だって、事故って二人とも死んだりしたらどーすんのよ」
「俺は今日死んでも後悔しない、って思えるように日々生きてるもん。だいじょぶだいじょぶ」
  前を向いたまま左手をハンドルから離してヒラヒラする。なんだかイラついてその手を思いっきり叩いたら、パシッといい音がした。いててて~やっぱり凄腕ベーシストは腕力があるねぇ、などと茶化すのでもう一発叩いておいた。今度は、ドラムも向いてるんじゃないの~、とこれまた暖簾に腕押しな反応、もちろんシカトだ。
  私がまた黙ってしまったからか、しばらくリョウは話しかけてこなかった。ふんふん鼻歌を歌いながら車を走らせる。
  リョウの運転は荒い。二年前にやっていたバンドで機材運びを手伝ってくれていた関係で、今までも数回乗ったことがあった。当時からあまりに不安定な運転のおかげで、メンバーは各々の機材をがっちり押さえていなくてはならず、そのたびに私は口うるさく安全運転について語ったものだった。それから機材運びは頼まなくなったものの、私は個人的にリョウと仲良くなって、たまにこうして遊びに行くようになった。リョウが新しいバンドに入ることになった時、私が友達と喧嘩した時、リョウに好きな女の子ができた時、私が前のバンドをやめた時、リョウが彼女にふられた時、私が忙しくて息抜きしたくなった時……。だらだらと話を聞いてもらったり、くだらないアドバイスをしあったりする。真面目な大学生の私と、1歳上の高卒フリーターバンドマンのリョウ、性格も考え方も真逆。それなのに、私が親友なんて呼べるのはこいつくらいだ。
  運転を任せたまま、私はずっとリョウの言葉の意味を考えていた。今日死んでも後悔しないように生きている、とリョウは言ったけど、私はそんなに吹っ切れてない。何もかもが嫌になったはずなのに、家出までしたはずなのに、まだ死にたくはない、と生にしがみついている。でも、しがみつくほど素晴らしい人生か? 嫌なことばっかりじゃなかったのか?
  リョウは何も聞いて来なかった。いつもそうだ。私の考えがまとまって口を開くのを、呑気な顔で待っている。本当になにも考えていないのか平静を装っているのかはわからない。
「なぁーガンズ飽きた、違うのにしよ」
「は? 何がいいのよ」
  信号待ちでリョウが、私の手からiPodを奪う。クイーンのベスト盤をシャッフルで流し始めたらしい。『ナウ・アイム・ヒア』を口笛で合わせながら発進させるリョウを横目で盗み見た。
  少しずつ空いてきた道を太陽を背にして走る。空はまだ青い。


  父親はかつて、プロを目指したベーシストだったらしい。30半ばでやっと夢を諦め、今では普通のサラリーマンでいろんな会社を転々としている。そのコンプレックスもあってか私への期待は無限だった。小さい頃からピアノをやらされ、小学生でベースを与えられて、中学生の頃には父の「教育」はかなり厳しくなっていた。平日は学校から帰ってくるなり練習練習の嵐、週末は決まったフレーズが弾けるようになるまで家に閉じ込められたり、あまりにも弾けないと癇癪を起こした父に殴られたり蹴られたりするなんて、日常茶飯事だった。
当たり前だがベースは着々とうまくなり、高校のころにはインディーズでアルバムも出すほどになった。今は多少緩くなった方だとはいえ、ライブのたびに見に来ては細かく評価される。少しでも文句を言えば、お前が小学生のころに自分からベースをやりたいと言い出したんだろう、と言われる。ちなみにそんな記憶はあんまりない。その後の辛い練習で、初期衝動は薄れてしまったのだろうか。

「お父さんの言うことなんて聞いてちゃダメよ、バカで稼げもしないような人になるわ」というのが、母親の口ぐせだった。父にベースをやらされる一方で、母には成績も上位を取るようにと口うるさく言われた。初めは父の暴行を止めていた母だったが、そんなことで父が止まらないとわかってからは見て見ぬ振りをするようになっていた。両親はよく喧嘩をしていた、なのに外泊なんかに関しては二人そろって厳しく、大学生になって女友達と遊ぶから、と連絡を入れても、鬼のように電話が入り、家に帰るとそれぞれから数時間ずつ説教を受けた。大学に入って今までよりはマシにはなったものの、20歳になってまでこの束縛の厳しさは解せない。


  いつの間にか車内の音楽がクイーンになっていた。リョウが隣で『ボヘミアン・ラプソディ』を歌っている。
「Mama, ooo...... I don't want to die... I sometimes wish I'd never been born at all...」
  メロディーにあわせて少しだけ口ずさんでみた。ママって誰だろう。きっと私の母親のことじゃない。
  家族みんなが仲良かった頃のことを思い出そうとしてみた。父親の背におぶわれて夢現を漂う記憶が蘇ってきた。たしかディズニーランドの帰りだ、もう15年くらい前のことのような気がする。
「お前またベースラインだけ歌って、つまんねー女だな」
  リョウが呆れたように笑ってやっと気づく。あんなにベースが嫌いなのに、有名な曲のベースラインはだいたい歌えるし、初めて聴く曲でも耳が無意識にベースとドラムばかり拾ってしまう。刷り込みって恐ろしい。
「そういうリョウだってギターリフばっか歌って気持ち悪い男」
「しょうがないじゃん、ギタリストだもん」
「私だってベーシストだもん」
「たしかに。お互い様だな」
  つられて私もにやにやと笑った。リョウがギターソロをトゥルトゥル口ずさみ、私がソロ裏のベースをどぅんどぅん歌う。なんだこのコラボ。雲が増えてきて空の青と綺麗なコントラストを作っている。


  海へと続く道はひたすらまっすぐで、空はどこまでも広くて単調だった。いつの間にか変えたのか、気づけばスピーカーからはボン・ジョヴィの『アイル・ビー・ゼア・フォー・ユー』が流れていて、ダッシュボードのiPodを見ると、「アリーナロックのバラードベスト」というなんとも私好みなプレイリストが選択されていた。キッスにナイトレンジャー、ボストンにエアロスミスと錚々たる顔ぶれに、なぜか言葉にしきれない安心感のようなものを覚えて、何も言わずに助手席のシートに深く沈み込んだ。
  車はずっとおなじ一本道をおなじ速度で走っていた。車内の曲はガンズ・アンド・ローゼズの『ノーベンバー・レイン』に変わっていた。不安になって、リョウを探してあたりを見渡すと、運転席には誰もいない……これは、夢だ。
  雨が降っていた。ワイパーが幕のように動き、リアウィンドウから見えていた目の前の景色が、見たことのあるものに変わった。
  父親だ。ベースの練習をさせられていたのか、左手の指先がじくじく痛い。父親が手を振りあげている。何度も見た光景。いつのものかなんてもうわからない。いつもの、鼻の奥が鈍く痛む感覚が蘇った。懐かしい。殴られるのは嫌なのに、時々この感覚を味わうと懐かしいと感じてしまう。私はベースのネックを顔の前で盾にする。私のことはどんなに殴っても、ベースには優しくしか触れないと知っている。父親の舌打ちが聞こえた。
  またワイパーが動く。風景が変わる。今度は……客席の風景だ。たしか、初めてライブハウスのステージにたった時。小学5年生だっただろうか。ベースを始めて1年、小さな手でまだ弾ききれもしない曲とベースを携え、それでも客席を見下ろし歓声を浴びた時の気持ちがありありと目の前にある。
  ワイパーの音。母親の背中が見える。最近の光景だ。俯いて眺めているのは通帳。あんたが国立大学に受からなかったからよ。だから私は大学なんか行かないで働きたかったのに。馬鹿言わないで、いまどき大学くらい出なきゃ何も出来ないのよ。じゃあ文句言わないでよ。でもうちの経済状況で、私立大学に4年間通わせたら生活はぎりぎりなの。だから自主退学するってば、やりたいこともやりたい仕事もないし。馬鹿言わないでってば!  机を叩く音。酒瓶が転がる。ため息。私はあなたに成功してほしいだけなのに……あなたのためだけを思っているのに、どうしてこうなるの……。
  またワイパー。これはいつだろう。またライブハウス、今度は私がフロアにいて、父親がステージでベースを弾いている。プレーヤーたちの溢れる笑顔。父親がドラマーと楽しげにアイコンタクトする。ドラマーも笑い返す。しっかりがっちり安定したリズム隊。その嬉しそうな顔につい私の表情も緩む。ギターが魂をこめてソロを歌い上げる。ボーカルが客を煽る。周りを見れば観客もみな楽しそうに思い思いに拳を振り上げたり、身体を揺らしたりしている。めくるめく照明。腹の底に響く音。頭の奥に刺さるメロディー。煙草とスモークの煙。笑顔、笑顔、笑顔。楽しくなって笑いすぎて、いつの間にか涙が出ていた……。


「……い!  おい!  起きろ」
  頭をがっしり掴まれて、はっと目を覚ました。リョウが車を走らせながら左手で、私のこめかみを左右からぐりぐり指圧していた。
「いってぇー……何すんだよてめえ、人が気持ちよく寝てたのに」
「気持ちよく、は嘘だろアホが。ほれ」
  前を向いたままでティッシュを箱ごと差し出してくる。サイドミラーを覗くと、寝ている間に本当に泣いていたようで、慌てて涙を拭う。
  リョウは何も言わない。口ずさむエアロスミスは、傾きかけてきた陽射しによく合った。
「……ね、私は大きくなったら何になるんだと思う?」
  何も考えずに口に出してから、変なことを聞いたなぁとぼんやり思った。
  案の定リョウはへらへらと笑った。
「知るかよ~お前が決めることだろ。それに、大きくなったらって何だ、お前もうハタチだろ?  お花屋さんとかプリキュアとかかよ。まあ君の決めたことなら応援するけどな」
「アホは海に堕ちろ」
  茶化した声にイライラしてしまって、リョウの左膝を叩こうと右手を上げて、やめた。リョウだってこんなこと本気で言っているわけじゃない。私の八つ当たりにすぎない。やめとけ。そう、もうハタチなんだ。
  ちょうど信号で車を停車させたリョウが、体の横に戻した私の右手を見てなぜか驚いた顔をした。「……叩かないの?」
「叩かれたいの?」
「別に、君が叩きたいなら叩かれてやってもいいよ?」
「なんだそのツンデレなのにドMみたいな発言は」
  からかうつもりで笑って言ったのに、リョウは思いのほか真面目な顔で前を向いた。信号は青。
「いや、いまの一瞬で我慢と葛藤が伝わった気がしてね。我慢しすぎはよくないよ」
  ……結局軽く叩くことになった。馬鹿野郎、そんなことは私がいちばんわかってる。でも癖は癖だ。
「だって、もうハタチだし、大人だし、……大人はきっと我慢しなきゃいけないことがたくさんあるんだ……」
「誰が決めたんだそんなこと」
「え……誰か、世間のひととか」
「誰か誰か、世間世間って、それ決めてんの全部君だろう?  アホはどっちだよ」
  優しい声なのにどこか殺気を帯びている気がした。
「ごめ……あの、なんか怒ってる……?」
「まあそりゃね、前から思ってたんだよ。俺は我慢なんてしないし、自分の決めたとおり生きようってのをモットーにしてる。でも俺が唯一ずっと我慢してたこと、なんだと思う?  てめえのその生き様にアドバイスしてやることだよ」
  なんかよくわかんないけど怒っているらしいリョウの言葉を、私は黙って聞いていることにした。リョウはいつも通りの口調で淡々と話し続ける。
「別に、お前の人生だ。お前が決めることだ。俺が口出しする問題じゃないと思って黙ってた。お前がそれで不満なく楽しく生きてるならそれでいい」
「……なにその投げやりな態度」
  説教が終わるまで静かにしていようと思ったけど、つい口を挟んでしまった。リョウも淡々と被せてくる。
「投げやりじゃねえよ、お前じゃあ俺にどうしてほしいんだよ。お前の代わりに、いろんな分岐点のたびに俺が選択をしろっていうのかよ?  お前の代わりに、人生のレールを俺が敷けばいいのかよ? それじゃお前の親と一緒じゃねえかよ!  それでお前が失敗したら、代わりに選択した奴の、代わりにレールを敷いた奴のせいにするのかよ!  おかしいと思わねえのかよ、自分で責任もって決めなかった、お前自身の責任だろうがよ!」
  無表情に吐き捨てて黙ってしまった。微かなエンジンの音と、スティーブ・ペリーが『フェイスフリー』を高らかに歌い上げる声だけが、白々しく着地点を探して舞った。
「…………ごめん」
「なんで俺に謝るんだ。俺が怒ってるからか?  謝るならまず、お前の人生に謝れ」
  語尾が少し震えた声を押し止めるように、リョウは大きく深呼吸をした。それから感情のこもらない小さな声で、お前生きてて楽しいか?  と聞いた。楽しくないならそんな人生やめちゃえよ、と。


  大きな海水浴場だというのに、広大な駐車場はガラ空きだった。
  あのあと私たちはずっと黙ったままだった。リョウは鼻歌も口笛もせずに、ロックバラードのプレイリストを延々とリピートにしたまま車を走らせ続けた。私も、何も言わなかった。こんな時どうすればいいか、何を言えばいいかわからなかったからだ。
  リョウと喧嘩するは初めてだった……もっとも、これを喧嘩と呼ぶのかはわからないが。私が拗ねても怒っても、リョウはいつもフォローしてくれて、私の機嫌をとってくれていたんだってことに、いまやっと気がついた。そもそも私は誰とも喧嘩なんかしたことがなかったのかもしれない。喧嘩になる前に自分が引いて、適当に同意して、自分の意見を持たないで周りの流れに乗っていれば、物事は誰かがどうにかしてくれるし、そうやって誰かに任せて自分は息を殺していれば、物事なんていつの間にか過ぎ去っていくと思っていた。リョウの言うことはなにも間違っていない。
  だだっ広い駐車場に、リョウの車だけがぽつんと止まった。私たちは黙って音楽を止めた。たった一瞬の静かな密室がたまらなく怖かったから、慌ててドアを開けた。潮の香りが鼻にツンと刺さった。
  黙って歩くリョウの背中を、数メートルの距離を保ったまま黙って追う。
  ビーチに続く階段を登るとそこは海と空だけの世界で、つい感嘆の声を漏らしてしまった。
「うわぁ……」
  私のため息ともつかない声を聞いて、リョウがやっと立ち止まり振り返った。ちょっと淋しそうに微笑んでいて、それでももう怒っていない様子だったので安心して、私も少し笑った。歩きにくい砂の上をぱたぱた小走りに、リョウの隣に追いつく。
「……誰もいないね」
「そうだね。俺らだけ取り残されたみたい」
  静かな世界だった。そこには、どこまでも広い空に、沈みつつある夕陽に、真っ青な空に、私たちに、穏やかな波の音だけがあった。
「……さっきは言いすぎた、ごめん」
  リョウが困ったようにこちらを向いたので、私が慌ててしまった。
「気にしてないよ、だって君の言うことが全部正しいんだもん」
「ま、それもそうだな」
  不遜にへらへらと笑うリョウはもういつものリョウに戻っていて、私もつられてへらへら笑った。海に沿ってビーチを歩く。遠くにサーファーの姿を数人見ただけで、他には本当に誰もいなかった。
「みんなが死んじゃった世界にいるみたい」
  私が呟くと、リョウはにやにやしながら、右手の人差し指と親指を立ててピストルの形を作った。はるか遠くに見えるサーファーの影に向けて引き金を引くフリをする。
「バーン。バンバンバーン」
  私が苦笑する。
「ガキなの?」
「正確に言うと、ガキの頃からのクセかな」
  わけがわからない、という顔でリョウを見る私に、リョウは前を向いたままでまたバーン、と発砲した。
「昔から、気に入らないこととか、俺の進路を邪魔するやつはこうやって頭の中で撃ち殺すことにしてるんだ。そうすれば俺の世界は、俺の味方しか生き残らなくなる」
  そういってこっちに向き直って立ち止まり、にやっと笑う。
「お前もやってみろよ。要らないものは片っ端から撃ち殺せ」
「やだそんなガキ臭いこと」
「安心しろ、自分の人生すら自分で決めてこなかったお前は、誰がどう見てもガキだ」
  しかたなく真似をして右手でピストルを作る。
  見渡す限りどこまでも続く海と空と私たちだけの世界に、いろいろなものを描いてみた。
  父親。母親。リョウの車に積んだままのベース。私の人生を狂わせたロックとかいう音楽。見えない未来。やり直せない過去。誰かの笑顔。
  少しずつ世界が夕陽に染まり始める。
  迷ったあげくに、自分のこめかみにピストルを当てた。
  ゆるやかに続く波の音に重ねて、銃声と、初めてベースを持ってステージに上がった時の歓声がこだました。

  バーン。

  遠くでリョウの声が聞こえた。
「それでいいんだよ。お前の人生だ、お前が決めな」

  世界が真っ赤に染まる。
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