三度目の庄司

西原衣都

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2 常識的な家出

第5話

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 静まり返った家の中で耳を澄ましたけど、祖母はまた出かけてしまったらしかった。

「向ちゃん……」
 
 そうだ、違和感の正体は、向希のこの口の悪さだった。

「ろくな発想じゃない。それこそ二の舞」
 心から蔑まれた気がして、視線を落とした。

「自分の承認欲求満たすのにここへ来ておいて、それはないだろう。別のとこでしろよ」
「向ちゃんにはわからないよ」
「じいちゃんもばあちゃんもお前と俺がここへ来て嬉しいんだ」
「うん、わかってる」

 私も向希も同じように、愛してくれてる。だけどここでは、私にだけ気を使われているのではないかと思ってしまう。もっと私に夢中になってくれる人はいないのか。勝手だけど。

 頭が真っ白になったあの日からずっと喉と胸に何かが詰まっていて、何をしていても、誰といても心の底から楽しめなかった。ずっとずっと気にしながら生きていた。感情の半分が使われていないじゃないかって思う。

「ちゃんとした相手を選んでくれよ、せめて」
 ふっと表情を緩めて向希は父親みたいなことを言った。

「あの家に生まれて恋愛や結婚に夢なんて見れないよ」
「そう? 俺は見てるよ、でっかい夢」
 向希が茶化すから、私も気が抜けた。
「へぇ」
「ほんとだって」
「じゃあ、その夢教えてよ」
「いいけど」

 向希が、全然向希らしくない口ぶりで話すから、私もいつもより話してしまう。だって、向希、自分のこと『俺』って言ってる。友達の前ならいつもそうなのかな?


「向ちゃん有ちゃん、どっちか手伝ってー」

 祖母の呼ぶ声に向ちゃんは
「僕が行くね」
 って、いつもの顔で笑った。

 向希のでっかい夢って何だろう。将来に夢は見られるけど、結婚に夢を見るのは難しい。……どうだろ。向希は両親が離婚してる間、ここで育ったのだから、祖父母を見てると夢も見られるのだろうか。

 ――家を出る前

 あの空気は耐え難いものがあった。父も母も元々二人で仲良く話す夫婦ではないが、以前は無言でも自然な空気が流れていた。ここしばらくは自然を装っていたのだ。自然にふるまえばふるまうほど不自然な空気が流れるのだ。

 夫婦というのは儚い。血がつながってないのだから。
 大西有希に戻るのかな。戻っても、ここへ来ていいのかな。大西か、庄司かで祖父母の気持ちに変化があるわけではない。それでもそこに大きな隔たりがあるような気がしていた。どちらに引き取られるか選択の意思があっても、離婚後に父の姓を名乗るのが可能でも私は母を選び、大西に戻るだろう。

 私はよろよろ立ち上がり、祖母と向希の元へと向かった。
「私も手伝う」

 祖母が大量の買い物をしてきてそれを向希が運び冷蔵庫へと入れていた。
「雨の中、大変だったよね、おばあちゃん。料理は僕と有ちゃんが作るからね」
「そう? ありがとう」

 向希が私に顔を向けると“わかってんだろうな。そのくらいはしろよ”という爽やかな作り笑顔で脅迫した。

「うん。ごめんね、すごい雨なのに」
 素直に謝った。縁側でごろごろしててごめん。


 ――私はこの日も、飽きもせずに縁側で仰向けに寝転がって、蝉時雨を顔に浴びていた。

 けたたましい声に耳鳴りがしそうだ。数日前に梅雨明けしたと思ったら瞬く間に容赦ない灼熱の太陽が照らす。外に出るのが億劫になってしまう。

 向希は夜遅くまで起きて勉強し、日中も勉強の合間に仕事に出ている祖父母に代わって家のことをしていた。あのDKの中には主婦が入っているに違いない。想像するとおかしくてふふふと笑いが漏れてしまった。
 スパーンと小気味いい音を立てて襖が開くと、向希かつかつかとやってきた。

「あ、ごめん。向ちゃん勉強の邪魔しちゃっ……」
「なんて、体たらくだ」
 向希は私の寝転がっていた足をつんと蹴飛ばした。
「ちょ、何よ」
「じいちゃんばあちゃんの世代がバリバリ働きに出てるというのに、一番若いお前は何をしてるんだ。一日中ごろごろ、ごろごろ」
 ふっ、主婦じゃなくてオヤジが入ってるんじゃなかろうか。
「許してよ、不幸に酔ってるんだから。八月に入ったらちゃんと勉強する」
「お前ねぇ、それが俺に通用すると思ってんの?」

 確かに。境遇は向希と一緒だ。だけど
「私はまだ受け入れ期なのよ」と口を尖らせてみたけど、通用はしなかった。そりゃそうか。私も事実を知ってはや六年目なのだから。
 向希はため息を吐くとあきらめたように私の横に腰を掛けた。ずっと間近で見下ろされてるのも変で、私も起き上がって向希をまねて足を前に投げ出した姿勢で座った。

「受験、失敗しても知らないからな」
「大丈夫だよ。推薦だし」
「推薦だって、100パーじゃないだろ」
「うん。まぁね。油断さえしなければ」
 “してんじゃねーか”て向希の目にくすくす笑う。

「ここへ逃げてくる前にね、高校生活逃げ出してでもどっか行きたくなったんだけど、私が推薦蹴っ飛ばすという不義理をしたら、来年からあの大学からの推薦はうちの高校に来ないかもしれないぁって、後輩のために留まったよね」
「ばーか。どこへ行くんだよ」
「考えたら、どこも行くところがないんだよ。ここか、向こうのおばあちゃんちか、留さんちくらい。友達の家は一日が限界だし、彼氏はいないし、誰かナンパでもしてくれないかなって」
 向希の目が苛立ちを灯す。チッと舌打ちが聞こえた。
「はは、しないよ。そんな勇気ない。お父さんとお母さんの教えてくれた常識の倫理観が私を守るんだよね。不思議なもんだ」

 父と母が嫌だというのに、父と母に迷惑をかけたくないなんて。

「勇気はそこじゃないだろ。言えばいいだろ。離婚して欲しくないって」
「子供のために離婚しないって言われる方がヤだよ。私のためにお父さんきっと我慢しちゃうよ。好きに出来ないんだよ」
「馬鹿だな、とっくに好きにしてるんだよ、あの人たち。だから、俺たちがいるんだろ」

 呆れたように肩をすくめた向希に吹き出してしまった。
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