三度目の庄司

西原衣都

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第4話

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 もはや、耳が麻痺して気にもならなくなってきた蝉時雨。わかったのは、セミは早起きだってことだ。

 縁側のカーテンを開くと、快晴である。おそらく、真夏日こえて酷暑日になりそうな空だ。真っ青な空に遠くに真っ白な雲が見える。

「よし」

 いつの間にか向希も縁側に出て私に並ぶ。『よし』って何だよ。

「有ちゃん、今日は早起きだね」
「別にっ」
「ぶっ、そんな早起きじゃないっての」
 時計を見ると、確かに全然早起きじゃない時間で、からかわれたのだとようやく気がついた。

「わかるよ、わかる。俺も楽しみで早く目覚めちゃったしなあ」
「川行くだけじゃん、毎日行ってるじゃん!」
「有ちゃん、声がデカイって。聞こえるよ」

 慌てて、口を押さえた私に、向希が仏壇上の遺影を指差すものだから、またからかわれたのだと気付いた。祖父母はとっくに出掛けているに違いなかった。

「もう!」
「はは。残念ながら朝からは行きません。夏とはいえ水に浸かってたら冷えるし、朝夕は蚊とかの虫が多い。昼下がりにしよう」

 わかんないけど、向希に任せることにした。向希の方が詳しいだろうから。

「じゃあ、ブランチでいいよ」
「え、俺朝ごはん食べたのに」
「……いただきます」

 急いで台所へと向かった。

「有ちゃん、顔洗ってー」
「……はい」

 あれ、いつもは全然平気だったのに、寝起きで喋ってたことが恥ずかしかった。今までがどうかしてたのかもしれないが……。

 ずっと向希と一緒にいるが、少し離れたこんな一瞬にすら、向希のことを考えている時間が増えたのは気のせいではないだろう。

 メッシュバッグにバスタオルやら何やらを詰め込んでいる向希に
「私は何持って行けばいい?」
 と一応聞いてみる。
「日焼け止め」
「はい」

 家から水着で歩く。

「帰りは結構距離があるから歩いてるうちに乾きそうだね」
「だな」

 ふと、会話が途切れた。こういう時、向希は私に心配そうな顔を向ける。私は、ふっと笑ってしまう。
「もう、大丈夫だってば」
 昨日話したことで私が落ち込んでないか心配してるのだ。ここへ来てから向希はずっと私を心配している。

「吐き出せないとさ、溜まるんだけど、言葉に出来ないもやもやが多くてさ。これはもうどうしようもない。向ちゃんの言う通り、お父さんやお母さんやおじいちゃんおばあちゃんもそうだと思う。言っても仕方がないというか。結局、うまくいってるんだからいーじゃんって言われたらそうなんだけど、それじゃあ気が済まない感じ。それを全員が抱えているんだろうね」

 全員、ていうのは勿論、向希もそうだと思う。んだけど、涼やかな顔からは何も見えてはこない。

「だな。予定調和を望むよ、親は。生きやすくしてやりたい。だから、自分の失敗と成功を子供に伝える。『あれしちゃダメ、こうしなさい、ああしなさい』ややこしいんだよ。俺たちの存在を失敗って言ってしまうと、存在を否定してしまう。俺たちのせいで、俺たちのため」
「知らんわ、そんなん!」
「けど、今もお世話になってる」
「ううううう、ありがとうございます」
「あはは! まあ、満足が増すためには適度のストレスが必要っていうからね。簡単にクリアできたらつまらないって」
「……ゲーム? ねえ、ゲームに例えた?」

 喋っていて気がつかなかったけど、いつもの道と違う。あれ、どこ行くんだろう。周りをぐるり見渡した。

「向ちゃん、どこ行くの?」
「ああ。もうちょい上流で、人の来ないとこ」
「人の来ないとこ? 別にいいのに」

 向希は、私をてっぺんから爪先まで見て、「やだね」と行った。そこはいつもの場所より早く到着した。

「着いた」
 少し奥まっていて、地元の人しか知らなさそうだ。あんまり川幅は広くはなかったが、流れが穏やかで岩肌に面したところは薄い緑色をしていた。あの辺りは深さがありそうだ。

「着いたからって、すぐに入らない」
 強い口調で言われ、向希は私を一体なんだと思っているのだろうか。
「はいはい。準備体操をしろって言うんじゃないでしょうね」
 私の言葉を無視して、向希は水温を確かめるように自分の足に水をかける。何がわかったのか頷くと、ばしゃばしゃと川へ入って行った。何が始まるのかと、背中を見ていると、くるりこちらを向いて手を広げて見せた。

「ここ。ここから急に深くなるから気をつけるように。万が一足を滑らせた場合は落ち着いて、上を向いて力を抜くと……」
 向希はそれを説明しながらやってみせる。目の前をゆらゆらと向希が流れていった。

「勝手に岸に着く」
「はあ」

 向希は流れ着いた場所から、元いた場所に再び行くと、今度は潜り始めた。

 ざばぁと顔を出すと、「よし」と言って戻って来る。今度は陸をずんずん歩き、二メートルほどある岩の上へ上ると、そこから飛び込んだ。

 始終無表情で遊び出すから、私は唖然とそれを見ていた。あの人、何をしているのだろう。

「危ないものはなかった。雨も数日降ってないから急な増水もないとは思う。だが、油断は禁物だ。溺れるなよ。振りじゃないからな。助けないぞ」

 真顔で言うから笑わないでいることに必死だった。雨がしばらく降ってない。だから今日だったんだ。「ぶふ」まずい、吹いてしまった。

「安全な川などないのだ」
「はい、わかってます」

 いつの間に買ったのか、向希は浮き輪をシューシュー膨らませ始めた。輪っかになって、取っ手も付いてる。
「水分はこっち」
 保冷剤内臓の小さなクーラーバッグには二人分の飲み物が入れられていた。

「入ってよし!」

 スポッと浮き輪を被せられ、私はやっと川に入る許可を貰えた。

「あー、写真撮りたい。向ちゃん、そこからスマホ取って~」
「ん」
「そういえば、お母さんからもお父さんからも全然連絡ないなあ」

 聞こえない振りをしている向希に、あいつが連絡を取っているのだと悟る。同じ境遇にいるようで、親側の人間め。危うく懐柔させられるところだった。写真を数枚撮ると、満足してスマホを置いた。そして、私のそんな様子を向希が微笑ましそうに見ていて調子が狂う。

 気まずさに、川に入ることにした。
「冷たい、うわあ、気持ちいい」

 ああ、夏が染み込んでいく。味わっていたら、後方からばしゃばしゃと聞こえて来た。

「有ちゃん! ってなんだよ。足でもつったのかと思った」
「夏を味わってたの」
「ああ、うん」

 怪訝な顔だ。いいじゃないか、少しくらいこの感傷に付き合ってくれても。
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