ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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最終話

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 朝から……いや、夜からばたばたしっぱなしで、あまり食べていなかった。睡眠だって十分ではない。次の日の朝九時に業者が来ると思うと、そわそわしてしまう。
 朝一でマットレスや毛布を不織布の布団カバーに詰めこんで、残しておいた洋服に着替えて脱いだものはどうしよう、などと考えてしまい、眠るどころじゃなかった。

 部屋に敷き詰められた段ボール箱は、大学入学当時、ここに越してきたときの二倍はある。四年間でいつのまにこんなに増えたのか……おそらく、いちばんの原因は出版社が大量に見本本や掲載雑誌を送ってくることだ。
 それを一冊だって捨てられず、とうとう部屋の収納のキャパシティを超えてしまい、それがちょうど大学卒業の時期と重なったため、引っ越しに踏み切ったのだ。
 仕事がしやすいように、もう少し東京に近づいた、新幹線も通っている駅の近くに1LDKのマンションを借りることにした。憧れの仕事部屋ができるのだ。寝室も兼ねた部屋にするしかないけど、今のわたしには贅沢すぎるくらいだ。

 大学一年の冬、漫画新人賞で大賞を受賞した。その新人賞は、わたしが受賞する前の三年間、大賞は該当なしがつづいていた。
 若狭あかねは大変期待され……本人の目線で言うとプレッシャーをかけられ、華々しくデビューした。

 デビュー作が好評で、あまり間をあけず二作目も雑誌に掲載された。読み切りを何度か描いたのち、短期連載を挟んで、今は何とか長期連載の仲間入りをしている。
 デビューしてからの三年間は大学と漫画家の二重生活で、何かと苦労があったが、わたしには強い味方がいた。

 ペンネームに名前をわけてくれた、こんなわたしを漫画家にさせてくれた、高校の後輩。

 まほろと出会っていなかったら、今のわたしは存在しない。まほろを亡くしたときは出会わない方がよかったとすら思ったが、今では別れの悲しさと思い出の楽しさが、ちょうど天秤でつりあっている状態になっている気がする。
 昔、いっしょに漫画を描いていたときのことを思い出し、やっぱりまほろの方がトーン削りが上手だなと思っては笑えるようになっていた。

 水周りの掃除をしながら九時になるのを待っていると、五分前にインターホンが鳴った。作業着を来た引っ越し業者のスタッフは三人。ハキハキとあいさつをして、テキパキと動きはじめる。
 わたしは段ボール箱がどいたところから、邪魔にならないように床掃除に勤しんだ。だいぶ切っていなくて伸びっぱなしの髪が、顔にかかってくる。こんなに伸びたことがないので、この部屋にはヘアゴムがないのだ。

 段ボール箱はすべて片づき、次は家具に取りかかる。クッション材でくるまれ、冷蔵庫や洗濯機や本棚が、軽いわけがないのに軽々と運び出される。
 わたしはぽろぽろと出てくる四年もののゴミを拾いながら、空になっていく部屋を振り返った。

 まほろが……意識がからだのかたちを取った、半透明のまほろがいなくなってから、わたしはひとり暮らしの寂しさを知った。
 朝、おはようと言いあう人がいない。
 ごはんを作って、いつもより美味しくできたときも、カレールウをもう一個加えるか迷ったときも、ひとりで一喜一憂しなければならない。
 帰ってきても当然部屋は暗いし、締め切り前の眠気とはひとりで戦わなくてはならない。

 まほろの存在はわたしの心の中に、大きすぎるほどの居場所を占めていた。大切なことに気づくのはいつもちょっと遅い。

「梅若さん、ベッド通るんで、場所空けてもらっていいですか?」

 業者の声ではっと我に返る。わたしは廊下のまんなかで、床に雑巾を当てたまま動きを止めてしまっていた。慌てて部屋の奥へと引っこむ。
「申し訳ないです」と大げさな抑揚をつけた発声をして、ふたりのスタッフがベッドを持ち上げる。横倒しにしてどこにもぶつけることなく、廊下をすっと通っていく。針に糸が通るような、すっきりとした気分になる。

 ベッドを見送り、部屋を見渡す。完全に空になった。と思ったが、ベッドがあったところにスケッチブックが落ちている。ずいぶんと壁側だ。それは今まで見つからないはずだ。
 にしても、どうしてこんなところに? ゆらゆらと歩み寄り、しゃがみこんで手を伸ばした。表面が少しだけほこりっぽい。

 表紙をめくる。A4サイズの画用紙のまんなかに、小さい文字が記されている。

『先輩へ』

 少しかたちのいびつな、可愛らしい文字を見た瞬間、ぶわっと、いつかも感じたことのあるあたたかい風がからだを吹き抜けた。
 指先についていたほこりを服にこすりつけ、押し花をそっと剥がすような慎重さで、ページをめくった。

『先輩、勝手にスケッチブックを使ってごめんなさい。どうしても、伝えたいことがあったので、許してください』

 鉛筆で書かれた文字列は、全体的に右上がりだ。行のいちばん右にビー玉を置いたら、ゆっくりと左へ転がるだろう。

『先輩がこれを見つけたということは、お引っ越しするということでしょう。まさか、先輩が自分から大掃除するとは思えません。してないですよね?』

 思わず笑みが漏れる。馬鹿にしないでほしい。わたしだって、年末になれば大掃除したくなる。
 ただ、それは本棚に限ることで、本や漫画の取捨選択をするのだが、それだけに十日もかかるという、呆れるほどひどい仕事効率だ。窓すら拭いたことがないのだ。ベッドを動かそうなんて考えつくはずもない。

『あたし、こんなお別れになるなら、先輩とはじめから出会ってなければよかったのにって思ったこともあります』

 わたしだってある。まほろと同じことを考えていたと思うと、残りひとつだった肉まんを仲良く半分こして食べるようなあたたかさがあった。

『でも、先輩と再会できてからの毎日はとても楽しくて、ずっとこのまま、あのまま、半透明の姿で生きていくのもいいかなとか思ったりしました。でも、そしたら先輩を邪魔しちゃう。漫画に関してじゃなく、先輩の人生の邪魔になっちゃうから』

 邪魔? なるわけがない。むしろ、ずっといられるんだったらいればよかったのに。

『だって、あの姿のあたしは先輩だけのものだけど、先輩はあたしがひとり占めしちゃダメだった。先輩の未来に待っている広い世界を、あたしは狭めることしかできないから。だから、あたしの身体も連れて、天国に帰ることに決めたんです』

 やはり、まほろの意識が消えるのと同じ日に身体まで息を引き取るというのは、単なる偶然じゃなかったのだ。覚めることのない眠りについたまほろの顔を見て浮かんできた、ぬいぐるみに息を止められるという光景は真実に近かったのだろう。

『先輩が絵を描いているところをずっと見ていたかった。先輩といっしょに漫画を描いて、休憩にはまほろカフェを開いて、ときどき取材を兼ねて旅行に行って……。そんな美術部の延長みたいな夢しか見ていませんでした。生きていたとしても叶うわけがないようなてんこ盛りの夢。ちょっと欲張りすぎたかな』

  少し広めに行間が空き、まほろの声が聞こえてくるような文字はこうつづいていた。

『先輩を三ヶ月もひとり占めできただけで、幸せでした。先輩、あたしのことを見ていてくれて、ありがとうございました』

 残りのページには、まほろが作ってくれたアレンジティーのレシピや、美術室の風景、わたしと思しきうしろ姿などが描かれていた。美術部のころからあまり絵を見せてくれなかったまほろだが、その絵にはまほろの素直な眼差しが感じられた。

 スケッチブックを閉じ、胸に抱きしめる。

「まほろ……」

 まほろに直接言ったことはない言葉をつぶやいた。
 まほろもきっと、同じ気持ちでいたんじゃないかな、と思いながら。
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