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ベランダで君と
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「うん、気にしないでね」
僕の隣で、なみは言った。小さい声だけど、地面に根を埋め込んだんじゃないかと思うくらい、決意というものを感じられる声だった。
なみの左の頬は、いまも赤いだろうか。赤いだろうな。
なみは一緒に住んでいる奴に殴られたのだ。なみは何も言わなかったが、そんなことはすぐにわかった。
なみが家に来たのが20分ほど前。彼女は、ドア越しにとても明るい声を出していた。
僕はドアを開け、そしてすぐに固まった保冷剤とタオルを用意した。
ベランダから、僕らは街並みを見ていた。
アパートの僕の部屋は2階だが、高い建物は近くにないのでわりと遠くまで見えた。
向こうで新幹線が走っている。あれは車庫から出てきたものだな。これから駅に行くのだ。そしてホームからわずかな客を乗せ、最終の1本前の新幹線は出発するのだ。
部屋に通じる窓はあけておいた。中からは少しずつエアコンの風が流れてきているけれど、外の生温かい湿り気を多く含んだ風には太刀打ちできないようだった。
梅雨はそろそろ明けるころだ。今日は晴れていて、そういえば星が浮かんでいる。
「炭酸グレープジュースなんて飲むんだ」
と、僕の左で立っているなみは可笑しそうに言った。その頬を保冷剤を包んだタオルで冷やしながら。「やっちゃんにグレープジュースなんてあわないよ」
「悪かったな」と僕はふてくされた口元を作って言った。僕の冷蔵庫にあるノンアルコールドリンクは、缶の炭酸グレープジュースと炭酸オレンジジュースだった。
炭酸グレープジュースはなみの手に、炭酸オレンジジュースは僕の手にある。僕はあまり飲んでいない。ほんの少しだけ中身が減った缶が重い。
「やっちゃん、ビール飲んで、ぷはあとかおっさんぽいこと言っていてほしい」
なみは言った。
「ぷはあ」と僕は言った。
なみは笑った。
僕も笑った。
しばらくして、なみが言った。
「わたしのことは、うん、気にしないでね」
Tシャツに汗がまとわりついていた。どこかからとぎれとぎれで音楽が聴こえてきた。誰かが窓を開けてラジオでも聞いてるんだろう。聞いたことある曲だった。サーファーたちが砂浜で踊り出すとかなんとかという歌詞。最近CMでこの曲が流れまくっていたな。なんのCMだったかな。
ああ、ビールだ。くっきりした青い色の海。サーファーたちが海ではなくビールに向かって砂浜を走っている、というCM。そこに待っているのはビーチパラソルと、白いテーブルと、パイナップル模様がたくさん散りばめられたワンピースを着て、たくさんのビールを抱えたアイドルだった。僕は、アイドルがなみだとしても悪くないよねと言った。
「わたし?」なみが、また笑った。
「なみがビール持って待っていても良いんじゃないかなと思ったんだよね。いや別に僕が持って待っていても良いんだけど」
「何言ってんの」
なみは、笑いながら左頬に押し付けていたタオルを離した。
画面には、やがてどこかから出てきた水着のダンサーたちが大人数で踊りはじめる。サーファーたちはその中で美味しそうにビールを飲む。ダンサーたちの中になみは紛れてしまい、僕はなみを見失う。
みんな楽しくビールを飲んでいる。なみだけがいない。
僕は人ごみをかきわけて、なみを探す。どこにもいない。僕はたったひとりになる。
たったひとりで、砂浜を歩く。
今まで、なみと恋人同士になったことはなかったかな。
太陽は真上。影はできない。
「わたし、ずっとねぼすけだったよね」と、クラクションの音のあとに、なみは言った。
ベランダにふく、生温かい夜の風。
「なんだっけ?」僕は聞いた。
「わたしたちが高校生のとき、わたしはよく寝坊した。そしてやっちゃんの自転車の後ろに乗せてもらった」と、なみは言った。
「そうだったっけ」と、僕はまるで忘れていたかのように言ってみた。
「そうだよ。やっちゃんは忘れたかもしれないけどね」
「覚えてるよ」
覚えてるよ。と僕は心の中でもう一度言った。忘れるわけない。
高校の前にはすごく急な坂があって、そこを登りきったものだけが学校にたどり着けるのだった。ひとりで自転車を漕ぐのさえもきつかったのに、いくら軽いとは言え女性ひとり乗せるとしんどいなんてもんじゃなかった。前からは、駆け足で昇ろうとする真夏の太陽の光。
でも僕にとってはそんなしんどさなんてどうでもよかった。
なみの触れてくる温かさをいつまでも感じたかったことと、僕の汗がとても恥ずかしかったこと。
なみが、汗くさい僕を嫌いになったらどうしようと、ずっとずっと思っていた。
「なみが、汗くさい僕を嫌いになったらどうしようとずっとずっと思ってたよ」
僕は、なみのいない砂浜でつぶやいた。
目の端に淡い影が見えた。
太陽は真上。砂の上には影なんてないはずだ。
でも僕には、ワンピースの布の影が揺らめいたのがわかった。
小さくパイナップルが飛んだ。
「嫌いになるわけないよ」
なみの声が聞こえた。
明日も、なみが寝坊してくれないかなと思っていた。明日も自転車の後ろに乗ってくれないかな。まあ明日は早起きするかもしれないな。そしたら、明後日寝坊するかな。
明日、明後日、その次も、僕はきっとドキドキしているのだろうな。
どこか遠くでクラクションがまた聞こえた。近くの道路で大声で笑いあう声が聞こえて、そしてすぐ消えた。
ゆっくり点滅している街灯。
オレンジジュースの缶がぬるくなっていた。
隣で、なみは空を見ていた。
星は、遠くにかすかに光っていた。
「なあ」と僕はつぶやくように言った。
「うん」と、なみは小さく答えた。
「あいつのところなんて帰るなよ」
僕は地面に穴をあけ、声の根を深く深く沈めていく。さっきのなみの声の、隣の土の中に。
なみの前髪が、風に揺れた。
僕の隣で、なみは言った。小さい声だけど、地面に根を埋め込んだんじゃないかと思うくらい、決意というものを感じられる声だった。
なみの左の頬は、いまも赤いだろうか。赤いだろうな。
なみは一緒に住んでいる奴に殴られたのだ。なみは何も言わなかったが、そんなことはすぐにわかった。
なみが家に来たのが20分ほど前。彼女は、ドア越しにとても明るい声を出していた。
僕はドアを開け、そしてすぐに固まった保冷剤とタオルを用意した。
ベランダから、僕らは街並みを見ていた。
アパートの僕の部屋は2階だが、高い建物は近くにないのでわりと遠くまで見えた。
向こうで新幹線が走っている。あれは車庫から出てきたものだな。これから駅に行くのだ。そしてホームからわずかな客を乗せ、最終の1本前の新幹線は出発するのだ。
部屋に通じる窓はあけておいた。中からは少しずつエアコンの風が流れてきているけれど、外の生温かい湿り気を多く含んだ風には太刀打ちできないようだった。
梅雨はそろそろ明けるころだ。今日は晴れていて、そういえば星が浮かんでいる。
「炭酸グレープジュースなんて飲むんだ」
と、僕の左で立っているなみは可笑しそうに言った。その頬を保冷剤を包んだタオルで冷やしながら。「やっちゃんにグレープジュースなんてあわないよ」
「悪かったな」と僕はふてくされた口元を作って言った。僕の冷蔵庫にあるノンアルコールドリンクは、缶の炭酸グレープジュースと炭酸オレンジジュースだった。
炭酸グレープジュースはなみの手に、炭酸オレンジジュースは僕の手にある。僕はあまり飲んでいない。ほんの少しだけ中身が減った缶が重い。
「やっちゃん、ビール飲んで、ぷはあとかおっさんぽいこと言っていてほしい」
なみは言った。
「ぷはあ」と僕は言った。
なみは笑った。
僕も笑った。
しばらくして、なみが言った。
「わたしのことは、うん、気にしないでね」
Tシャツに汗がまとわりついていた。どこかからとぎれとぎれで音楽が聴こえてきた。誰かが窓を開けてラジオでも聞いてるんだろう。聞いたことある曲だった。サーファーたちが砂浜で踊り出すとかなんとかという歌詞。最近CMでこの曲が流れまくっていたな。なんのCMだったかな。
ああ、ビールだ。くっきりした青い色の海。サーファーたちが海ではなくビールに向かって砂浜を走っている、というCM。そこに待っているのはビーチパラソルと、白いテーブルと、パイナップル模様がたくさん散りばめられたワンピースを着て、たくさんのビールを抱えたアイドルだった。僕は、アイドルがなみだとしても悪くないよねと言った。
「わたし?」なみが、また笑った。
「なみがビール持って待っていても良いんじゃないかなと思ったんだよね。いや別に僕が持って待っていても良いんだけど」
「何言ってんの」
なみは、笑いながら左頬に押し付けていたタオルを離した。
画面には、やがてどこかから出てきた水着のダンサーたちが大人数で踊りはじめる。サーファーたちはその中で美味しそうにビールを飲む。ダンサーたちの中になみは紛れてしまい、僕はなみを見失う。
みんな楽しくビールを飲んでいる。なみだけがいない。
僕は人ごみをかきわけて、なみを探す。どこにもいない。僕はたったひとりになる。
たったひとりで、砂浜を歩く。
今まで、なみと恋人同士になったことはなかったかな。
太陽は真上。影はできない。
「わたし、ずっとねぼすけだったよね」と、クラクションの音のあとに、なみは言った。
ベランダにふく、生温かい夜の風。
「なんだっけ?」僕は聞いた。
「わたしたちが高校生のとき、わたしはよく寝坊した。そしてやっちゃんの自転車の後ろに乗せてもらった」と、なみは言った。
「そうだったっけ」と、僕はまるで忘れていたかのように言ってみた。
「そうだよ。やっちゃんは忘れたかもしれないけどね」
「覚えてるよ」
覚えてるよ。と僕は心の中でもう一度言った。忘れるわけない。
高校の前にはすごく急な坂があって、そこを登りきったものだけが学校にたどり着けるのだった。ひとりで自転車を漕ぐのさえもきつかったのに、いくら軽いとは言え女性ひとり乗せるとしんどいなんてもんじゃなかった。前からは、駆け足で昇ろうとする真夏の太陽の光。
でも僕にとってはそんなしんどさなんてどうでもよかった。
なみの触れてくる温かさをいつまでも感じたかったことと、僕の汗がとても恥ずかしかったこと。
なみが、汗くさい僕を嫌いになったらどうしようと、ずっとずっと思っていた。
「なみが、汗くさい僕を嫌いになったらどうしようとずっとずっと思ってたよ」
僕は、なみのいない砂浜でつぶやいた。
目の端に淡い影が見えた。
太陽は真上。砂の上には影なんてないはずだ。
でも僕には、ワンピースの布の影が揺らめいたのがわかった。
小さくパイナップルが飛んだ。
「嫌いになるわけないよ」
なみの声が聞こえた。
明日も、なみが寝坊してくれないかなと思っていた。明日も自転車の後ろに乗ってくれないかな。まあ明日は早起きするかもしれないな。そしたら、明後日寝坊するかな。
明日、明後日、その次も、僕はきっとドキドキしているのだろうな。
どこか遠くでクラクションがまた聞こえた。近くの道路で大声で笑いあう声が聞こえて、そしてすぐ消えた。
ゆっくり点滅している街灯。
オレンジジュースの缶がぬるくなっていた。
隣で、なみは空を見ていた。
星は、遠くにかすかに光っていた。
「なあ」と僕はつぶやくように言った。
「うん」と、なみは小さく答えた。
「あいつのところなんて帰るなよ」
僕は地面に穴をあけ、声の根を深く深く沈めていく。さっきのなみの声の、隣の土の中に。
なみの前髪が、風に揺れた。
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