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第1章
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「まあ、婚約破棄しちゃったんだよな」
僕はそんなふうに牛さんに話し始めた。
僕の隣を歩く牛さんは先ほど、
「ぼくはにせの牛神さまなんだ」
と、僕が今までの人生においてなかなか聞くことのない自己紹介をしてくれていた。
雪は二週間前に降った。
でもそれはぱらぱらと、空の残りものをよかったらどうぞ、と遠慮がちに差し出したみたいな雪だった。
あれ以来、この周辺に雪は降っていない。
寒いだけの日々が続いていた。
僕はわりと低い山の、わりと大きな舗装された道を大きめのリュックをかついで歩いていた。
朝、起きたばかりの太陽の光がうすく僕に届いていた。
山の中には雪は残っていたが、道路には残っていない。
ここはバスも通る道だし、そりゃ、雪も消えるか。
しかしこの時間はバスは通ってない。人も僕以外いない。
そもそもこの道は、あまり歩く人はいない。
いま僕は、感染症防止のためマスクをしていたが、それが防寒になって助かっていた。
僕の隣を歩く牛さんは、見かけは白と黒の、本当に普通の牛だった。
いや、普通よりは少し大きめだったかもしれない。
牛の普通のサイズって?と聞かれても、僕にはよくわからないのだが。
ほんの数分前だ。僕がこの山道をえっちらおっちら歩いていたら、後ろからやってきたこの牛さんが話しかけてきたのだ。
「なんで歩いてるの?バスとか車には乗らないの?」
って。
僕としては、とりあえず
「いやその前に、なんであんたしゃべってるん?」
と聞いてみた。当然の疑問だと思う。
「そりゃ不思議だよねえ」
と、牛さんだってその疑問には納得したようで、うなずいた。
「ぼくは乳を出すことはできない牛だったんだよ。でも、普通の牛よりずっと長く生きてるんだ。そしたら魔法が使えるようになったの。しゃべれるようにもなった。すごいでしょ」
「すげえな」
と、僕は心から言った。
「しゃべれるだけじゃなくて、この人なんか悩みあるっぽいなあ、とか、苦しそうだなあっていうのが普通の牛よりも、いや、普通の人よりもわかるみたいなんだよね。カウンセリングみたいなこともやったんだあ」
「すげえな」
と、僕はやはり心から言った。
「あと、畑を耕すのも、人や荷物を乗せて引くのもとてもとても上手なんだよ。耕した畑は豊作になり、そして乗せた人を幸せな気持ちにさせるんだよ」
「すごすぎるな」
と、僕はますます心から言った。
「そ、だからさあ、村とか町に長く滞在しすぎると、神様だって言われちゃうんだよね」
牛さんの声が少し曇った。
「ああなるほど」
僕はうなずきながら言う。そうでなくても今の時代「この人は神」とか、すぐ言っちゃうしな。
牛さんは曇った声のままで言う。
「神様みたいに、完璧に人を救うことなんてできない。ただぼくのできることを一生懸命やったら、その人がちょっと笑顔になるのが幸せだったんだけどさ。それにしゃべれるケモノってわりといるんだよ、珍しくないんだ。それなのに、周りから”あなたは神様ですね”とか言われるとね…」
「ああ、実際は神様じゃないし、勘違いされて辛いってこと?」
「いや、調子にのって”そうです、ぼく、神様ですっ”とか言っちゃうんだよね」
「は?」
僕は思わず牛さんの体を見つめてしまった。黒の大きな大陸が目に入る。
「だって褒められるの嬉しいじゃない?」
と、牛さんは目を輝かせて言った。
「でも嘘なんだろ?」
も、僕は指摘した。
「そうなんだよ、僕はにせの牛神さまなんだ」
と、牛さんはため息をついた。
「どうしてぼく、こんなんだろうなあ。褒められるのが好きなんだよ。それに神様であることを否定するより、はいって言っちゃったほうが楽しいことが起きる気がしない?でも楽しいことは続かないんだよね、にせの神様であることがバレそうになるんだ。そして最後に逃げるんだ。今回だってある村から逃げてきた。君の町よりもうちょっと遠いとこだよ。ぼくだって逃げたくなかったよ。でも今回はほんとうにほんとうに今までになく、まずいことになっちゃったんだ」
落ち込んだ牛さんに、僕は声をかけた。
「僕も結構ひどいことをして町を出てきた。何をしたかと言うと、まあ、婚約破棄しちゃったんだよな」
「婚約破棄って、いまラノベとかで流行りのやつだよねえ」
と、牛さんは顔をあげると、面白い形の虫を見つけたみたいな声で言った。落ち込んだことはもう忘れたのだろうか。
「そうなの?ラノベとかよく知らんけど」
僕は苦笑したあとで、その笑みを解いて言葉を続けた。
「フィクションの中で流行ってるからといって、実際にやって良いわけないけどな。フィクションなんていろいろやってるだろ?強盗も殺人も。でも普通、現実ではやらないよな?」
「君はやっちゃったんだろ?婚約破棄」
と、牛さんは僕に確認してくれた。
「まあ、なあ」
と、僕は空を見上げる。
右の目の端に入るのは、山肌から細長くしかし中途半端な意志で伸びた枝。その枝を持つ木はかなり大きい。
そのうち切り落とされるのかなとぼんやり思う。
空には、濃い灰色の大きな重そうな雲が半分くらい、だが青空も必死に耐えながら輝いていた。
今日こそ雪が降るだろうか。
降っても良いから、もう30分持ち堪えてほしいな、僕がこの山を降りるまで、と祈る。
そして牛さんに言う。
「たぶん、僕は彼女のことを、元婚約者のことを好きだったよ。ある日さあ、
”そろそろでしょ?”
と彼女が言ってきてね。
”うん、じゃあ結婚しようか”
って僕は言った。
それで婚約したらさ、今度は彼女の嫌なところが目につくようになった。
彼女さ、日に三回は人の悪口を言うんだ。政治家とか芸能人とかじゃなくて、まわりにいる人の悪口。その人君の友達じゃない?っていう人の悪口もさ。そしたらなんか気持ちが冷めちゃってさ。
この人と一生一緒にいるの、キツいなあって思い始めて、でももう向こうの両親に挨拶しちゃったし、でも、それにしたってさあ、ちょっと嫌な部分が大きくなりすぎているなあ、って、思ってね。
そんなある日、職場の女性にもらった飴を家で食べようとしたら、
”なにそれ、その味あなた買ったことないでしょ?誰からもらったの?”
とか言われて喧嘩になって、そこで、
”結婚やめよう”
って言っちゃったんだ。そしたら彼女は激怒して、彼女の両親も激怒して、まあ、僕と僕の両親は平謝りだよ」
「なかなか大変だねえ」
牛さんは低く唸るように言った。
「まあ、小さい町なんだよね。彼女の父親がわりと有名人だったりもして。僕は職場を失い、両親に家から出て行けと言われることになった」
「そして、向こうの町から、この山道を通って別の町に行くわけなんだね。でも、なんで歩いてるの?バス乗らないの?っていう最初のぼくの質問に戻るんだけど」
僕はどう答えようかしばらく考えたがうまくまとまらなかったので、仕方ない、考えながら言うことにした。
「なんでバスに乗らないのって?そうだよなあ。あのさ、みんなが言うんだ”お前はバスに乗って楽して町を出るのに相応しくない人間だ”って」
「みんな」
「歩いて出て行けって、さ。確かに僕は最初は”うるせえなバスぐらい乗せろよ”、って思った。
でもさ、だんだん、僕自身も気持ちが変わってきてさ。
僕は、彼女とのことを山にひとつひとつ捨てて行きたくなった。それは歩くことで達成できそうな気がしたんだ。
変ない言い方だな。とにかく”彼女とのことを捨てて行きたくなった”」
「彼女とのこと…悪口を言うところとか?」
牛さんが聞いてきた。
僕は何回かうなずくと長い言葉を紡いでいった。
「悪口言うところも、そうだけど、他にも捨てたいことがある。
ーこんなことがあったんだ。
僕に飴をくれた職場の女性。飴の女性って呼ぶけどね。
元婚約者も職場の同僚だった。つまり飴の女性とも一緒に働いていた。元婚約者は僕と婚約してからすぐに会社やめたんだ。
飴の女性はね、その日、職場で僕とふたりきりになっていた。
そしたら彼女は僕に話し始めた。
”わたし、あなたの婚約者がまだこの会社にいたころに、彼女からされてしまったことがあるんだ”
とね。
それは、そう、嫌がらせのたぐいだった。
暴力を振るうとか、彼女の体を傷つけたわけじゃない。でも心を傷つけていた。それがさ、ひとつひとつ、本当にくだらなくて情けないものでさ。
”そんなくだらないことをするために、元婚約者は…あいつは自分の貴重な人生を消費していたのかよ?”
って思ったものだよ。
飴の女性が受けたくだらない嫌がらせのひとつがさ…。
何年か前の話だけど、飴の女性が新しく買った香水をつけて職場に行ったんだって。
”ちょっと強い香りだったかな”
と彼女は自分で気にしていた。
そしたら元婚約者がさ、飴の女性とふたりになった時に、彼女の前にわざわざ行って、鼻をつまんで厚紙でばたばた仰いだんだって。
信じられるか?
今どき小学生でもそんなことやらないだろ。ハタチ過ぎた大人が何をやってるんだよって。
僕はすごく腹が立ったわけさ。
まあそれ以外にもいっぱいあってさ、そういうくだらない嫌がらせの話。
飴の女性の話を聞くうちに、道路に捨てられたガムを踏んじゃった気持ちになったな。そう、味がなくなってしかも薄汚れたやつをさ。
飴の女性はさ、そういう話の後で
”こんな話をしてごめんね”
って、そこで飴をくれたんだ。
そしてその日、僕は元婚約者と大喧嘩をした。
あいつは、よりにもよって
"なにそれ、あなたその味買ったことないでしょ?"
と、もらった飴について文句を言ったんだ。
腹を立てた僕は、言うつもりのなかったことを言って、聞くつもりのなかったことを聞いた。
”なんでおまえ、そんな馬鹿馬鹿しい嫌がらせをしたんだよ"
ってね。彼女は反省した素振りなど微塵も見せなかった。それどころか”ははっ”て笑ってさらにすごいことを言った。
”馬鹿馬鹿しい?わたしが必死に考えた嫌がらせを馬鹿馬鹿しいなんて言わないでよ。なんでそんなことしたのかって?気に入らないからよ、彼女のことが。彼女の声が。しゃべり方が。あの女、やっぱり嫌がらせして正解だった。男に媚びて言いつける女。傷つけて正解"
”気に入らないからって相手を傷つけて良い理由にはならないだろ?"
と僕は言った。元婚約者は笑いを止めて僕を睨んだ。
”なによあなた、どうしてわたしの味方をしてくれないの?あの女の声としゃべり方が、わたしにとってどれだけ不快なのか聞かないの?”
あのときの元婚約者の顔、あのときの顔なんだよ、この山を歩きながら、あの顔を、全部捨てていきたいなあって思ったんだ」
僕はそんなふうに牛さんに話し始めた。
僕の隣を歩く牛さんは先ほど、
「ぼくはにせの牛神さまなんだ」
と、僕が今までの人生においてなかなか聞くことのない自己紹介をしてくれていた。
雪は二週間前に降った。
でもそれはぱらぱらと、空の残りものをよかったらどうぞ、と遠慮がちに差し出したみたいな雪だった。
あれ以来、この周辺に雪は降っていない。
寒いだけの日々が続いていた。
僕はわりと低い山の、わりと大きな舗装された道を大きめのリュックをかついで歩いていた。
朝、起きたばかりの太陽の光がうすく僕に届いていた。
山の中には雪は残っていたが、道路には残っていない。
ここはバスも通る道だし、そりゃ、雪も消えるか。
しかしこの時間はバスは通ってない。人も僕以外いない。
そもそもこの道は、あまり歩く人はいない。
いま僕は、感染症防止のためマスクをしていたが、それが防寒になって助かっていた。
僕の隣を歩く牛さんは、見かけは白と黒の、本当に普通の牛だった。
いや、普通よりは少し大きめだったかもしれない。
牛の普通のサイズって?と聞かれても、僕にはよくわからないのだが。
ほんの数分前だ。僕がこの山道をえっちらおっちら歩いていたら、後ろからやってきたこの牛さんが話しかけてきたのだ。
「なんで歩いてるの?バスとか車には乗らないの?」
って。
僕としては、とりあえず
「いやその前に、なんであんたしゃべってるん?」
と聞いてみた。当然の疑問だと思う。
「そりゃ不思議だよねえ」
と、牛さんだってその疑問には納得したようで、うなずいた。
「ぼくは乳を出すことはできない牛だったんだよ。でも、普通の牛よりずっと長く生きてるんだ。そしたら魔法が使えるようになったの。しゃべれるようにもなった。すごいでしょ」
「すげえな」
と、僕は心から言った。
「しゃべれるだけじゃなくて、この人なんか悩みあるっぽいなあ、とか、苦しそうだなあっていうのが普通の牛よりも、いや、普通の人よりもわかるみたいなんだよね。カウンセリングみたいなこともやったんだあ」
「すげえな」
と、僕はやはり心から言った。
「あと、畑を耕すのも、人や荷物を乗せて引くのもとてもとても上手なんだよ。耕した畑は豊作になり、そして乗せた人を幸せな気持ちにさせるんだよ」
「すごすぎるな」
と、僕はますます心から言った。
「そ、だからさあ、村とか町に長く滞在しすぎると、神様だって言われちゃうんだよね」
牛さんの声が少し曇った。
「ああなるほど」
僕はうなずきながら言う。そうでなくても今の時代「この人は神」とか、すぐ言っちゃうしな。
牛さんは曇った声のままで言う。
「神様みたいに、完璧に人を救うことなんてできない。ただぼくのできることを一生懸命やったら、その人がちょっと笑顔になるのが幸せだったんだけどさ。それにしゃべれるケモノってわりといるんだよ、珍しくないんだ。それなのに、周りから”あなたは神様ですね”とか言われるとね…」
「ああ、実際は神様じゃないし、勘違いされて辛いってこと?」
「いや、調子にのって”そうです、ぼく、神様ですっ”とか言っちゃうんだよね」
「は?」
僕は思わず牛さんの体を見つめてしまった。黒の大きな大陸が目に入る。
「だって褒められるの嬉しいじゃない?」
と、牛さんは目を輝かせて言った。
「でも嘘なんだろ?」
も、僕は指摘した。
「そうなんだよ、僕はにせの牛神さまなんだ」
と、牛さんはため息をついた。
「どうしてぼく、こんなんだろうなあ。褒められるのが好きなんだよ。それに神様であることを否定するより、はいって言っちゃったほうが楽しいことが起きる気がしない?でも楽しいことは続かないんだよね、にせの神様であることがバレそうになるんだ。そして最後に逃げるんだ。今回だってある村から逃げてきた。君の町よりもうちょっと遠いとこだよ。ぼくだって逃げたくなかったよ。でも今回はほんとうにほんとうに今までになく、まずいことになっちゃったんだ」
落ち込んだ牛さんに、僕は声をかけた。
「僕も結構ひどいことをして町を出てきた。何をしたかと言うと、まあ、婚約破棄しちゃったんだよな」
「婚約破棄って、いまラノベとかで流行りのやつだよねえ」
と、牛さんは顔をあげると、面白い形の虫を見つけたみたいな声で言った。落ち込んだことはもう忘れたのだろうか。
「そうなの?ラノベとかよく知らんけど」
僕は苦笑したあとで、その笑みを解いて言葉を続けた。
「フィクションの中で流行ってるからといって、実際にやって良いわけないけどな。フィクションなんていろいろやってるだろ?強盗も殺人も。でも普通、現実ではやらないよな?」
「君はやっちゃったんだろ?婚約破棄」
と、牛さんは僕に確認してくれた。
「まあ、なあ」
と、僕は空を見上げる。
右の目の端に入るのは、山肌から細長くしかし中途半端な意志で伸びた枝。その枝を持つ木はかなり大きい。
そのうち切り落とされるのかなとぼんやり思う。
空には、濃い灰色の大きな重そうな雲が半分くらい、だが青空も必死に耐えながら輝いていた。
今日こそ雪が降るだろうか。
降っても良いから、もう30分持ち堪えてほしいな、僕がこの山を降りるまで、と祈る。
そして牛さんに言う。
「たぶん、僕は彼女のことを、元婚約者のことを好きだったよ。ある日さあ、
”そろそろでしょ?”
と彼女が言ってきてね。
”うん、じゃあ結婚しようか”
って僕は言った。
それで婚約したらさ、今度は彼女の嫌なところが目につくようになった。
彼女さ、日に三回は人の悪口を言うんだ。政治家とか芸能人とかじゃなくて、まわりにいる人の悪口。その人君の友達じゃない?っていう人の悪口もさ。そしたらなんか気持ちが冷めちゃってさ。
この人と一生一緒にいるの、キツいなあって思い始めて、でももう向こうの両親に挨拶しちゃったし、でも、それにしたってさあ、ちょっと嫌な部分が大きくなりすぎているなあ、って、思ってね。
そんなある日、職場の女性にもらった飴を家で食べようとしたら、
”なにそれ、その味あなた買ったことないでしょ?誰からもらったの?”
とか言われて喧嘩になって、そこで、
”結婚やめよう”
って言っちゃったんだ。そしたら彼女は激怒して、彼女の両親も激怒して、まあ、僕と僕の両親は平謝りだよ」
「なかなか大変だねえ」
牛さんは低く唸るように言った。
「まあ、小さい町なんだよね。彼女の父親がわりと有名人だったりもして。僕は職場を失い、両親に家から出て行けと言われることになった」
「そして、向こうの町から、この山道を通って別の町に行くわけなんだね。でも、なんで歩いてるの?バス乗らないの?っていう最初のぼくの質問に戻るんだけど」
僕はどう答えようかしばらく考えたがうまくまとまらなかったので、仕方ない、考えながら言うことにした。
「なんでバスに乗らないのって?そうだよなあ。あのさ、みんなが言うんだ”お前はバスに乗って楽して町を出るのに相応しくない人間だ”って」
「みんな」
「歩いて出て行けって、さ。確かに僕は最初は”うるせえなバスぐらい乗せろよ”、って思った。
でもさ、だんだん、僕自身も気持ちが変わってきてさ。
僕は、彼女とのことを山にひとつひとつ捨てて行きたくなった。それは歩くことで達成できそうな気がしたんだ。
変ない言い方だな。とにかく”彼女とのことを捨てて行きたくなった”」
「彼女とのこと…悪口を言うところとか?」
牛さんが聞いてきた。
僕は何回かうなずくと長い言葉を紡いでいった。
「悪口言うところも、そうだけど、他にも捨てたいことがある。
ーこんなことがあったんだ。
僕に飴をくれた職場の女性。飴の女性って呼ぶけどね。
元婚約者も職場の同僚だった。つまり飴の女性とも一緒に働いていた。元婚約者は僕と婚約してからすぐに会社やめたんだ。
飴の女性はね、その日、職場で僕とふたりきりになっていた。
そしたら彼女は僕に話し始めた。
”わたし、あなたの婚約者がまだこの会社にいたころに、彼女からされてしまったことがあるんだ”
とね。
それは、そう、嫌がらせのたぐいだった。
暴力を振るうとか、彼女の体を傷つけたわけじゃない。でも心を傷つけていた。それがさ、ひとつひとつ、本当にくだらなくて情けないものでさ。
”そんなくだらないことをするために、元婚約者は…あいつは自分の貴重な人生を消費していたのかよ?”
って思ったものだよ。
飴の女性が受けたくだらない嫌がらせのひとつがさ…。
何年か前の話だけど、飴の女性が新しく買った香水をつけて職場に行ったんだって。
”ちょっと強い香りだったかな”
と彼女は自分で気にしていた。
そしたら元婚約者がさ、飴の女性とふたりになった時に、彼女の前にわざわざ行って、鼻をつまんで厚紙でばたばた仰いだんだって。
信じられるか?
今どき小学生でもそんなことやらないだろ。ハタチ過ぎた大人が何をやってるんだよって。
僕はすごく腹が立ったわけさ。
まあそれ以外にもいっぱいあってさ、そういうくだらない嫌がらせの話。
飴の女性の話を聞くうちに、道路に捨てられたガムを踏んじゃった気持ちになったな。そう、味がなくなってしかも薄汚れたやつをさ。
飴の女性はさ、そういう話の後で
”こんな話をしてごめんね”
って、そこで飴をくれたんだ。
そしてその日、僕は元婚約者と大喧嘩をした。
あいつは、よりにもよって
"なにそれ、あなたその味買ったことないでしょ?"
と、もらった飴について文句を言ったんだ。
腹を立てた僕は、言うつもりのなかったことを言って、聞くつもりのなかったことを聞いた。
”なんでおまえ、そんな馬鹿馬鹿しい嫌がらせをしたんだよ"
ってね。彼女は反省した素振りなど微塵も見せなかった。それどころか”ははっ”て笑ってさらにすごいことを言った。
”馬鹿馬鹿しい?わたしが必死に考えた嫌がらせを馬鹿馬鹿しいなんて言わないでよ。なんでそんなことしたのかって?気に入らないからよ、彼女のことが。彼女の声が。しゃべり方が。あの女、やっぱり嫌がらせして正解だった。男に媚びて言いつける女。傷つけて正解"
”気に入らないからって相手を傷つけて良い理由にはならないだろ?"
と僕は言った。元婚約者は笑いを止めて僕を睨んだ。
”なによあなた、どうしてわたしの味方をしてくれないの?あの女の声としゃべり方が、わたしにとってどれだけ不快なのか聞かないの?”
あのときの元婚約者の顔、あのときの顔なんだよ、この山を歩きながら、あの顔を、全部捨てていきたいなあって思ったんだ」
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