さようなら、にせの牛神さま

naokokngt

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第2章

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マスクが、その手を僕の鼻に押し付けていた。息苦しいなあ。

「元婚約者さんは、そういうことをしたんだね」
牛さんのその誰も責めるわけでもない言葉に、僕はしばらく沈黙した。

そういえば僕は、
「本当におまえはそんな嫌がらせをしたのか?」
と聞くことはしなかった。
「なんでおまえ、そんな馬鹿馬鹿しい嫌がらせをしたんだよ」
と、まず、責めた。

そう、僕は飴の女性の言葉を信じた。
あの元婚約者なら、そういうひどいことはやるかもしれないなと僕は思っていたんだな。

飴の女性の話の前に、とっくに僕の心は離れていたのだ。
あとひと押しを探していただけで。

「あのは、ぼくちょっと失礼な事聞くけどね。元婚約者さんの良いところって、あったの?」
と、牛さんは聞いた。
僕はしばらく考えた。
「朝、起こしてくれるんだ。えっそんなことって思うだろ?馬鹿みたいだろ?でも僕は朝がすっごく弱くてさ。
そしたら、
”じゃあモーニングコールしてあげるよ”
って。
毎日じゃ大変だから、僕がお願いしたときだけどさ。でも、いつも明るく引き受けてくれた。
そうだな、そのときの電話の声とか、”明日起こして、頼むよ”と僕が頼んだときのLineのやりとり、”OK”のスタンプとかさ…そうだな、そういうやつも、山を歩きながら捨てたかったものかもしれないな」

「それで、捨てられたかな?」
と牛さんが聞く。
僕はしばらく考える。アスファルトが足を絶えず蹴り飛ばしている。
「ある程度のものは、な」
と、僕は答えた。
「ある程度なら、上出来じゃない?」
と、牛さんは言った。
「そうだよな」
僕はうなずく。

今日は、ひとりでちゃんと起きた。まだ暗いうちに。
もしかしたら、僕は眠ったと思いこんでいるけれど、眠らなかったのかもしれない。

背中のリュックはそれほど重くはなかった。
僕にはこれ以外荷物はない。もっとたくさん持ってくるべきだったかとときどき不安にはなるが、その度に、次の瞬間には「ま、これで良いか」という気持ちになった。
頬にあたる冷たい風がちくちくした。水を含んだ食器洗い用のスポンジぐらいの感触だ。これがたわしの感覚になったらまずいが、その前にもう山を降りることができるようだ。下の道路の脇に立つ看板が見えてきた。

「君は山を降りてもまだ歩くの?」
と、牛さんは聞いた。
「まさか」
と僕は目を大きく開けて言った。
「そんな疲れることはしないさ。そういうのは山を降りたら終わり。僕が終わりと思ったら終わりだよ。降りたら普通にバスに乗るさ。降りてすぐのところに停留所があるはずだ」
牛さんは
「それがいいよね」とうなずいた。
牛さんの顔の変化はよくわからないが、笑ったようにも見えた。

「君に祝福の魔法をさずけるよ」
とつぜん牛さんは言った。
「とつぜんなに?なんか神さまっぽいぞ」
「茶化さないでよ。君はこれまで大変だったし、これからも大変そうだから、ちょっと手助けしてあげるよ」
「魔法さずけてくれるの?すごく嬉しいんだけど」 
僕の心臓はちょいとばかり踊った。
なんだろう。空が飛べるとか、ないか。お金が降ってくる魔法とか。いや、それもないか。では、なんだろうな。

僕の心を読んだか読まないか、牛さんは明るい声で言った。
「君がふたつの足で歩くと、それだけで畑を耕せる。そしてふたつの足で数人と数個の荷物を乗せた荷台を引ける。そんな能力をさずけたよ」

「え?」
僕の頭の中で、空白がひらひらと落ちていった。
牛さんは
「どんなことに使えるかなあ」
と、語り始めた。そして話しているうちに、良いアイディアかも、というような晴れ晴れとした顔になっていった。
「お金に困ったときに便利かなあ。”僕、機械と同じくらいうまく耕せますよ”、”複数人とタンス乗せても荷台を引けますよ”、ええと、なんていうんだっけ。そう、夜逃げ。”夜逃げどうですか?僕は家財と家族積んで夜中に出発できますよ、安いですよ”そんなふうに使えるよ」

「いや、いいんだけど、うん」
僕は牛さんの言葉をきちんと飲みこもうとした。

耕せる。
そして荷台を引ける。
うん、そうか。

「たしかになんか、その、役に立つかも。いや、僕には思いもつかない視点からの手助けだったもので」
と、僕が言うと牛さんは、自分の首を傾げて、それから、
「そう」
と、先ほどとは違う声音で言った。
僕の声の中の戸惑いに気づいたのだろうか。
「でも、あげられる魔法それぐらいしかないんだよね」
牛さんの声からは、寂しそうな響きも感じた。
そうだ、牛さんは精一杯のことをしてくれたのだ。
だから僕は反省し、明るい声を出した。
「ありがとう。そうだ、この先この能力が役に立つ気がしてきた。いや、絶対役に立つわ、いま確信した」
「えっ?そう?マジで言ってる?」
「ああ、マジで」
牛さんはにっこりした。
そう、今度こそ間違いない。牛さんはにっこりしたのだ。

山の下のバス停で、僕らは別れた。
屋根のないバス停には、僕ひとりだった。
バスはしばらく後で到着する予定だが、とんでもなく長い間待つわけではなさそうだった。

前の道路を、乗用車が一台走っていった。
「じゃあ、元気でね」
と、牛さんは僕の前に立って言った。
「牛さんもな」
と僕は言った。
牛さんはゆっくりと後ろを向くと、それほど遅くもなく速くもなく、ほどほどのスピードで歩いていった。
ふと、空気が揺れたように感じた。そして冷たい風がほんの少しの間だけぬるくなった。

おい、臭いんだけど。

これは、牛さんのおならかもしれないと僕は思った。
正しいおならか、間違ったおならかはわからないけれど。

やがて臭いが消えて、ぬるさも消えた。
牛さんの後ろ姿も消えていた。

ああ、行ってしまったんだな。
どこに行ったのか。
どこへ行くんだろうな。

さようなら、にせの牛神さま。
いつか君がほんとうの牛神さまになったら、きっと愉快だろう。
僕もどこかで畑を耕すかあ。
誰か、喜んでくれるかあ?

雪が、ちらつきはじめた。
僕の住んでいた町も元婚約者も、そして先ほどとおった山の道も、やがて雪の後ろ側に隠れていくだろう。
ある程度は、ね。

少し湿ったマスクの中で、僕は息をはいた。

*****終わり*****
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