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くまりん時間
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雨はずっと降り続けていた。激しくではない。強く自己主張はしていない。しかし降り続けている。
梅雨に入ったのか入ってないのか、どうだったかなとニュースを思い出そうとするが、はっきりと思い出せない。
ぬるま湯のような空気がわたしたちを包んでいる。
わたしの前髪から雨粒が落ちてきて、眉間をつたう。気持ち悪い。濡れたブラウスも肌に張り付いてきている。これまた気持ち悪い。
背中の塀垣は、黒い板塀で、ところどころ色が剥げてきている。ポスターを貼った跡も見える。そのポスターは100年昔のものだったかもしれない。
目の前は横断歩道で、30秒だか60秒だか120秒だか、測るたびに時間は変わるけど、まあ忘れることなく信号は赤になったり青になったりしていた。
さて、わたしはここで雨の中、傘もなく突っ立っている。
流行りの曲がよく歌っている「今はもう会えない君と歩いたことを思い出しながら雨に濡れている」気持ちになってみたとか、そういう趣味があるわけではない。そんなことしたら風邪ひくじゃないか。君のことを思い出しても、わたしなら傘をさす。
わたしはいま、立ったまま、体の一部しか動かなくなってしまっている。
首は少しは動いて振り返ることくらいはできるが、腰は曲がらない。指は動かせるが肘や肩は動かせない。右手で手提げかばんを持っていて、その指も動かせるが、間違えて落としたらおそらく拾えない。ファスナーを閉めているから、落としても中の財布とスマートフォンは散らばらないと思うけれど。
足も、指は動かせる。だが、それだけ。歩けない。しかも腕時計の文字盤の部分が見えなくて時間が本当にわからない。
こんな事態になって1時間くらいたったかな。
会社、どうしようか。会社について深く考えようとすると、胃が喉までせり上がってくる気持ちになるので、深くは考えないようにしていた。
通行人は何人かが振り返ったが、ほとんどの人が無関心に(あるいは無関心を装って)通り過ぎていった。まあ、こんなものだ。
そうこうしているうちに、左隣にくまりんがあらわれた。茶色い、くまのぬいぐるみだ。
わたしはくまりんと呼んでいる。向こうが「わたしはくまりんだ」と言ったわけじゃない。わたしが、「あなたはくまりんだ」、と感じたのだ。
くまりんは、わたしが幼稚園のころ、祖母からもらったぬいぐるみだ。祖母はもちろん、わたしが喜ぶと思ってプレゼントしたのだろう。
しかし、4歳だか5歳の子どもの体の大きさくらいあるふかふかした毛並みのくまのぬいぐるみは、わたしにとって巨大すぎて、実は、絵本の中の悪者のオオカミと同じくらい怖い存在だった。だが、祖母はにこにこしていたし、両親もにこにこしていたので、わたしは笑うしかなかった。
おばあちゃん、くまりんをどうもありがとう、とにっこりしながら言うしかなかった。
くまりんはわたしの左隣で正面を向いて立っていた。道路で立つぬいぐるみなど存在するだろうか。まあ、存在したとしても数は少ないんだと思う。立っていると、わたしの臀部まで届くくらいの背たけ。ただ、中身は軽そうだから体当たりされても、大人になったわたしなら倒れないだろう。
そう、くまりんなんてほとんど怖くない。
まあちょっと怖いけど。
くまりんは、まったくもって濡れていなかった。細かい雨は、わたしを湿らせていくが、くまりんのことは湿らせていかなかった。雨はくまりんの数センチ上で空気に溶けていくように消えていた。
ならばくまりんのからだは陽を浴びてしゃっきりしたシーツのように生き生きとしているのかと問われると、答えは全く反対だった。茶色のからだにはよく見るとシミのようなものがあったり、ところどころほころびて糸がだらっとからだに張り付いていたり、ひどいのは背中右側のほころびで、中身の綿がミニチュアの入道雲のようにもくもくと飛び出ていた。
そして、わたしは首しか動かせないのではっきりと見えたわけではないが、くまりんは右目がない。目をあらわすボタンがふたつつけられているはずだが、いま、右目はない。
それはおそらく間違いないのだろう。
なぜなら、くまりんは自分で「わたしには右目がない」と言っているからだ。
くまりんはここ半年くらい、わたしの前に何度かあらわれている。そしてわたしに向かっていくつかの文章を発した後で、ふっと消えている。だいたい1ヶ月に一度のペースだ。
くまりんが現れるときは、わたしの体が動かなくなり、そうしていつもわたしの左側にやってくる。
いつも背中から綿を出している。
いつも右目がない。
「痛い、怖い」
と、くまりんはいつも通りに言った。
わたしは答えなかった。
くまりんは続けた。
「毎日毎日、右目をとられるんだ。朝はちゃんと両目がある。でもわかるんだ、わたしはこれから右目がとられるのだろうって。それはとても怖い。その痛みを知っている。そして天上から大きな手が降りてきて、わたしの右目をむしっていく。痛みの記憶は、わたしの心臓に刻みつけられているんだよ。そういうことが、毎日同じことが、起こるんだ。ひどくてひどくてつらいんだ」
このくまのぬいぐるみに「あなたくまりんなの?」と聞いてみたことがある。
幼い頃大切にしていたぬいぐるみが、かつての持ち主に何か警告をするために現れるというのは、ファンタジー的な話でよくあるパターンかとも思う。
だが、くまのぬいぐるみはわたしの問いに答えなかった。その問いだけではなく、くまのぬいぐるみはわたしのいかなる問いにも答えなかった。
いかなる問いにも。
よく考えてみたら「幼いころ大切にしていた」というわけではないことに気づき、そして途中から話しかけるのも面倒になり、もう、くまりんで良いことにしよう、とわたしは思うことにした。
このくまりんは、なぜ右目がないのだろう。
わたしの持っていたくまりんは、すでにわたしの手元にはないのだが、どうやってなくなったのだっけ。何度か思い出そうとしたが、まったく覚えていなかった。
何度か一緒におままごとをして遊んだ記憶はあったけれど。
しかし、一番覚えているのは、祖母からもらった日に「怖い」と感じたことだった。
理由は先ほど言ったように、わたしにとって大きすぎたこともあったが、さらにくまりんはわたしから見て「むしゃくしゃ」しているように見えたのだ。
「わたしは、来たくない場所に来た。もっと可愛らしく、賢そうで、優しそうなあたたかみのある子どものところに来たかった。なんなのだろう、この、がたがたふるえてる貧相なカエルみたいな子どもは」
初めて会った日、くまりんはわたしにそんなふうに挨拶をした。
「あなたが今日会社を飛び出したこと、知ってるんだ」
突然、隣からそんな声がした。
今日は、くまりんがわたしに話しかけている?そんなことは今までなかった。
今までは、くまりんは右目がなくて痛いこと、そして毎日目を取られる恐怖でいっぱいであることを語って消えていた。
だが、雨が静かに空気を隠してゆく今日、くまりんはついにわたしに話しかけてきたのだ。
そう、わたしは今日、会社を飛び出してきた。
きっかけは給湯室の流し台だ。流し台に、お客様用のコーヒーカップが汚れたまま置いてあった。わたしは何も考えることなくそのコーヒーカップを洗った。
そして、自分の席に戻りしばらく経った後で、わたしが属しているチームのリーダーのエハナさんがわたしに話しかけてきた。
「なんですか?」とわたしは聞いた。
「さっき、あなたはわたしのコーヒーカップを洗ったね?」エハナさんは怒っているようだった。
わたしはなんのことを言っているのかさっぱりわからなかった。「確かにコーヒーカップは洗いました。でもあれはお客様のカップでは…」
「わたしが使いました」と、エハナさんは両腕を組んだ。「お客様用のカップだったけど、たまたまちょっと使った。それを自分で洗おうと思ってましたよ。でも、その前に勝手にあなたがカップを洗った。覚えておいてほしいんだけど、わたしは人にカップを洗われるがものすごく嫌いです。それ、わたしは親しい人たちに言っているはずだけど、あなたはその人たちから聞いてないって言うんですか?」
エハナさんが何を言っているのか、言葉の意味はわかったが、いや待ってよ、この人何言ってるの?
わたしは、エハナさんとはどうももともと気が合わない、というか、嫌われているのだろうなと思っていた。チームリーダーゆえ、わたしと会話をする機会は多いはずだったが、エハナさんからの指示はいつも別の人を通してわたしに伝わっていた。直接話すときは、エハナさんはいつもわたしから顔を背けていた。嫌われた理由はわからない。チームの中で、わたしの業務の成績は良いほうだ。しかし何かしらエハナさんを腹立たせることをやったのだと思うのだが、それでもいくらなんでもそのカップの話はおかしいだろうよ。
しかし、そこでわたしは「それはおかしな理屈ですね」と言えなかった。体がこわばっていることを感じた。
そこには、ほかに8人ほど同じチームの人間がいたが、誰ひとりわたしたちの会話に入らなかった。聞こえないフリをしているのだろうと思う。
エハナさんはしばらく黙って、そしてため息をつき「本当に、いろいろな人がいる。わたしには理解できない」と言った。
理解できないのはこっちだよ、とわたしは言いたかった。しかし、口は動かなかった。
その後誰かがエハナさんに仕事のことで話しかけて、「ああ、それは…」と長そうな会話になり、そしてふたりで別の場所に行った。
残ったわたしに、誰も話しかけてこなかった。あなた邪魔、という雰囲気が上流からうねるように流れてきた。
わたしは息が苦しくなったので、お茶を買うフリをして手提げかばんに財布とスマートフォンだけ入れて、外に出た。
外に出てすぐ雨は降りはじめ、ああ傘を忘れたな、と、横断歩道を渡って会社に帰りますかというところで体がかたまった。
そしていま、隣にいるくまりんが言った。「わたしの目は、わたし自身が毎日ひきちぎっている。なぜなら、わたしの目はわたしの裏切り者だからだ。だから許せないんだ」
「それ本気で言ってる?」とわたしは思わず聞いた。くまりんはその問いに答えず、面白いことを言いはじめた。
「ひきちぎったその目をわたしが捨てている。そして捨てた目を、毎日エハナさんが拾っているんだ」
わたしはしばらく考えてから言った。
「エハナさんはその目をどうしてるの?」
「エハナさんは、その目を毎日わたしに縫いつけている。でも右目はわたしにとってずっと昔から裏切り者なんだ。だからひきちぎるしかないんだ。エハナさんは、わたしの目が、わたしの裏切り者だとよく知っている。わたしの苦しみをエハナさんは知っているんだ」
「エハナさんをあなたから遠ざけなくては」と、わたしは言った。
「あなたには無理」とくまりんは言った。
「だいたいあなたのことは最初から信用してない。エハナさんに土下座することもできない。ただ逃げるだけ」
そして、くまりんはわたしのほうを向いた。
右目がない。ただ、黒い糸が、弱々しくあちこちにのたうっている。死にかけた蛇の集団みたいだ。
くまりんは、わたしを見て言った。
「あなたのことを信用しない」
そして、ちぎられた右目の跡へ吸い込まれるようにして、くまりんは消えた。
くまりん時間は終わりを告げた。
気がつくと、雨はいつのまにかやんでいた。
体はすべて動くようになっている。
わたしは手提げ袋を持ち上げた。財布とスマートフォン。中身は変わっていない。袋が少し湿っていたので心配だったが、ファスナーを閉めていたこともあるのか、財布にもスマートフォンにも水はついていなかった。
髪とブラウスは水を吸っていたが、まあ、もう仕方ない。乾くのを待つだけだ。
腕時計を確認すると、会社を出てから1時間と少しだけ経っていた。戻ったら叱られるだろうか。誰も気づかないかな。誰も気づかないふりをするかな。
くまりんは、幼いわたしのことをずっと上から見下ろしていた。ちっとも優しいぬいぐるみではなかった。ただ、わたしを冷めた目で見ている同居人だった。
この人、なんでおままごとなんてしてるの?ただのごっこ遊びじゃない。早く大人になりなさいよ、そんなおままごとが通用する世界じゃないの。
くまりんは幼いわたしに、そんなことを言っていた。
「わたしの目は裏切り者だ」
くまりんは、自分のことを怯えた目で見るわたしを嫌っていたのだろう。見たくなかったのだろう。わたしを見たくなかったのだろう。なのに、右目はわたしを映してしまうのだ。そんなことは許せないのだ。だから自分で自分の目をひきちぎった、の、かもしれない。
まあ、可能性だね。
「あなたがわたしを受け入れてくれたら、わたしだってあなたを受け入れたのに」
くまりんは、なんでそんなに思いつめていたんだろうね。
「あなたを好きになれなくて申し訳なかった」
わたしはくまりんにつぶやいた。
あなたの痛みと恐怖を可哀想に思う。でも、あなたの痛みと恐怖を、わたしは見たいとは思わない。右目のないあなたを、わたしは見ることが嫌なのだ。
ごめんね。
会社に戻ろう。
長い時間いなかったことについては、申し訳ない、と謝ろう。理由はまあ、ちょっと気分が悪くなって休んでいたとか、いろいろ言える。確かに気分は悪くなってたし、確かに休んでいたのだ、大きな意味においては。
ただ、コーヒーカップのことは絶対に謝らない。馬鹿馬鹿しいことは、馬鹿馬鹿しいとちゃんと思っていよう。
くまりん。
くまりんの目。
くまりん。
横断歩道の信号が、青になった。
梅雨に入ったのか入ってないのか、どうだったかなとニュースを思い出そうとするが、はっきりと思い出せない。
ぬるま湯のような空気がわたしたちを包んでいる。
わたしの前髪から雨粒が落ちてきて、眉間をつたう。気持ち悪い。濡れたブラウスも肌に張り付いてきている。これまた気持ち悪い。
背中の塀垣は、黒い板塀で、ところどころ色が剥げてきている。ポスターを貼った跡も見える。そのポスターは100年昔のものだったかもしれない。
目の前は横断歩道で、30秒だか60秒だか120秒だか、測るたびに時間は変わるけど、まあ忘れることなく信号は赤になったり青になったりしていた。
さて、わたしはここで雨の中、傘もなく突っ立っている。
流行りの曲がよく歌っている「今はもう会えない君と歩いたことを思い出しながら雨に濡れている」気持ちになってみたとか、そういう趣味があるわけではない。そんなことしたら風邪ひくじゃないか。君のことを思い出しても、わたしなら傘をさす。
わたしはいま、立ったまま、体の一部しか動かなくなってしまっている。
首は少しは動いて振り返ることくらいはできるが、腰は曲がらない。指は動かせるが肘や肩は動かせない。右手で手提げかばんを持っていて、その指も動かせるが、間違えて落としたらおそらく拾えない。ファスナーを閉めているから、落としても中の財布とスマートフォンは散らばらないと思うけれど。
足も、指は動かせる。だが、それだけ。歩けない。しかも腕時計の文字盤の部分が見えなくて時間が本当にわからない。
こんな事態になって1時間くらいたったかな。
会社、どうしようか。会社について深く考えようとすると、胃が喉までせり上がってくる気持ちになるので、深くは考えないようにしていた。
通行人は何人かが振り返ったが、ほとんどの人が無関心に(あるいは無関心を装って)通り過ぎていった。まあ、こんなものだ。
そうこうしているうちに、左隣にくまりんがあらわれた。茶色い、くまのぬいぐるみだ。
わたしはくまりんと呼んでいる。向こうが「わたしはくまりんだ」と言ったわけじゃない。わたしが、「あなたはくまりんだ」、と感じたのだ。
くまりんは、わたしが幼稚園のころ、祖母からもらったぬいぐるみだ。祖母はもちろん、わたしが喜ぶと思ってプレゼントしたのだろう。
しかし、4歳だか5歳の子どもの体の大きさくらいあるふかふかした毛並みのくまのぬいぐるみは、わたしにとって巨大すぎて、実は、絵本の中の悪者のオオカミと同じくらい怖い存在だった。だが、祖母はにこにこしていたし、両親もにこにこしていたので、わたしは笑うしかなかった。
おばあちゃん、くまりんをどうもありがとう、とにっこりしながら言うしかなかった。
くまりんはわたしの左隣で正面を向いて立っていた。道路で立つぬいぐるみなど存在するだろうか。まあ、存在したとしても数は少ないんだと思う。立っていると、わたしの臀部まで届くくらいの背たけ。ただ、中身は軽そうだから体当たりされても、大人になったわたしなら倒れないだろう。
そう、くまりんなんてほとんど怖くない。
まあちょっと怖いけど。
くまりんは、まったくもって濡れていなかった。細かい雨は、わたしを湿らせていくが、くまりんのことは湿らせていかなかった。雨はくまりんの数センチ上で空気に溶けていくように消えていた。
ならばくまりんのからだは陽を浴びてしゃっきりしたシーツのように生き生きとしているのかと問われると、答えは全く反対だった。茶色のからだにはよく見るとシミのようなものがあったり、ところどころほころびて糸がだらっとからだに張り付いていたり、ひどいのは背中右側のほころびで、中身の綿がミニチュアの入道雲のようにもくもくと飛び出ていた。
そして、わたしは首しか動かせないのではっきりと見えたわけではないが、くまりんは右目がない。目をあらわすボタンがふたつつけられているはずだが、いま、右目はない。
それはおそらく間違いないのだろう。
なぜなら、くまりんは自分で「わたしには右目がない」と言っているからだ。
くまりんはここ半年くらい、わたしの前に何度かあらわれている。そしてわたしに向かっていくつかの文章を発した後で、ふっと消えている。だいたい1ヶ月に一度のペースだ。
くまりんが現れるときは、わたしの体が動かなくなり、そうしていつもわたしの左側にやってくる。
いつも背中から綿を出している。
いつも右目がない。
「痛い、怖い」
と、くまりんはいつも通りに言った。
わたしは答えなかった。
くまりんは続けた。
「毎日毎日、右目をとられるんだ。朝はちゃんと両目がある。でもわかるんだ、わたしはこれから右目がとられるのだろうって。それはとても怖い。その痛みを知っている。そして天上から大きな手が降りてきて、わたしの右目をむしっていく。痛みの記憶は、わたしの心臓に刻みつけられているんだよ。そういうことが、毎日同じことが、起こるんだ。ひどくてひどくてつらいんだ」
このくまのぬいぐるみに「あなたくまりんなの?」と聞いてみたことがある。
幼い頃大切にしていたぬいぐるみが、かつての持ち主に何か警告をするために現れるというのは、ファンタジー的な話でよくあるパターンかとも思う。
だが、くまのぬいぐるみはわたしの問いに答えなかった。その問いだけではなく、くまのぬいぐるみはわたしのいかなる問いにも答えなかった。
いかなる問いにも。
よく考えてみたら「幼いころ大切にしていた」というわけではないことに気づき、そして途中から話しかけるのも面倒になり、もう、くまりんで良いことにしよう、とわたしは思うことにした。
このくまりんは、なぜ右目がないのだろう。
わたしの持っていたくまりんは、すでにわたしの手元にはないのだが、どうやってなくなったのだっけ。何度か思い出そうとしたが、まったく覚えていなかった。
何度か一緒におままごとをして遊んだ記憶はあったけれど。
しかし、一番覚えているのは、祖母からもらった日に「怖い」と感じたことだった。
理由は先ほど言ったように、わたしにとって大きすぎたこともあったが、さらにくまりんはわたしから見て「むしゃくしゃ」しているように見えたのだ。
「わたしは、来たくない場所に来た。もっと可愛らしく、賢そうで、優しそうなあたたかみのある子どものところに来たかった。なんなのだろう、この、がたがたふるえてる貧相なカエルみたいな子どもは」
初めて会った日、くまりんはわたしにそんなふうに挨拶をした。
「あなたが今日会社を飛び出したこと、知ってるんだ」
突然、隣からそんな声がした。
今日は、くまりんがわたしに話しかけている?そんなことは今までなかった。
今までは、くまりんは右目がなくて痛いこと、そして毎日目を取られる恐怖でいっぱいであることを語って消えていた。
だが、雨が静かに空気を隠してゆく今日、くまりんはついにわたしに話しかけてきたのだ。
そう、わたしは今日、会社を飛び出してきた。
きっかけは給湯室の流し台だ。流し台に、お客様用のコーヒーカップが汚れたまま置いてあった。わたしは何も考えることなくそのコーヒーカップを洗った。
そして、自分の席に戻りしばらく経った後で、わたしが属しているチームのリーダーのエハナさんがわたしに話しかけてきた。
「なんですか?」とわたしは聞いた。
「さっき、あなたはわたしのコーヒーカップを洗ったね?」エハナさんは怒っているようだった。
わたしはなんのことを言っているのかさっぱりわからなかった。「確かにコーヒーカップは洗いました。でもあれはお客様のカップでは…」
「わたしが使いました」と、エハナさんは両腕を組んだ。「お客様用のカップだったけど、たまたまちょっと使った。それを自分で洗おうと思ってましたよ。でも、その前に勝手にあなたがカップを洗った。覚えておいてほしいんだけど、わたしは人にカップを洗われるがものすごく嫌いです。それ、わたしは親しい人たちに言っているはずだけど、あなたはその人たちから聞いてないって言うんですか?」
エハナさんが何を言っているのか、言葉の意味はわかったが、いや待ってよ、この人何言ってるの?
わたしは、エハナさんとはどうももともと気が合わない、というか、嫌われているのだろうなと思っていた。チームリーダーゆえ、わたしと会話をする機会は多いはずだったが、エハナさんからの指示はいつも別の人を通してわたしに伝わっていた。直接話すときは、エハナさんはいつもわたしから顔を背けていた。嫌われた理由はわからない。チームの中で、わたしの業務の成績は良いほうだ。しかし何かしらエハナさんを腹立たせることをやったのだと思うのだが、それでもいくらなんでもそのカップの話はおかしいだろうよ。
しかし、そこでわたしは「それはおかしな理屈ですね」と言えなかった。体がこわばっていることを感じた。
そこには、ほかに8人ほど同じチームの人間がいたが、誰ひとりわたしたちの会話に入らなかった。聞こえないフリをしているのだろうと思う。
エハナさんはしばらく黙って、そしてため息をつき「本当に、いろいろな人がいる。わたしには理解できない」と言った。
理解できないのはこっちだよ、とわたしは言いたかった。しかし、口は動かなかった。
その後誰かがエハナさんに仕事のことで話しかけて、「ああ、それは…」と長そうな会話になり、そしてふたりで別の場所に行った。
残ったわたしに、誰も話しかけてこなかった。あなた邪魔、という雰囲気が上流からうねるように流れてきた。
わたしは息が苦しくなったので、お茶を買うフリをして手提げかばんに財布とスマートフォンだけ入れて、外に出た。
外に出てすぐ雨は降りはじめ、ああ傘を忘れたな、と、横断歩道を渡って会社に帰りますかというところで体がかたまった。
そしていま、隣にいるくまりんが言った。「わたしの目は、わたし自身が毎日ひきちぎっている。なぜなら、わたしの目はわたしの裏切り者だからだ。だから許せないんだ」
「それ本気で言ってる?」とわたしは思わず聞いた。くまりんはその問いに答えず、面白いことを言いはじめた。
「ひきちぎったその目をわたしが捨てている。そして捨てた目を、毎日エハナさんが拾っているんだ」
わたしはしばらく考えてから言った。
「エハナさんはその目をどうしてるの?」
「エハナさんは、その目を毎日わたしに縫いつけている。でも右目はわたしにとってずっと昔から裏切り者なんだ。だからひきちぎるしかないんだ。エハナさんは、わたしの目が、わたしの裏切り者だとよく知っている。わたしの苦しみをエハナさんは知っているんだ」
「エハナさんをあなたから遠ざけなくては」と、わたしは言った。
「あなたには無理」とくまりんは言った。
「だいたいあなたのことは最初から信用してない。エハナさんに土下座することもできない。ただ逃げるだけ」
そして、くまりんはわたしのほうを向いた。
右目がない。ただ、黒い糸が、弱々しくあちこちにのたうっている。死にかけた蛇の集団みたいだ。
くまりんは、わたしを見て言った。
「あなたのことを信用しない」
そして、ちぎられた右目の跡へ吸い込まれるようにして、くまりんは消えた。
くまりん時間は終わりを告げた。
気がつくと、雨はいつのまにかやんでいた。
体はすべて動くようになっている。
わたしは手提げ袋を持ち上げた。財布とスマートフォン。中身は変わっていない。袋が少し湿っていたので心配だったが、ファスナーを閉めていたこともあるのか、財布にもスマートフォンにも水はついていなかった。
髪とブラウスは水を吸っていたが、まあ、もう仕方ない。乾くのを待つだけだ。
腕時計を確認すると、会社を出てから1時間と少しだけ経っていた。戻ったら叱られるだろうか。誰も気づかないかな。誰も気づかないふりをするかな。
くまりんは、幼いわたしのことをずっと上から見下ろしていた。ちっとも優しいぬいぐるみではなかった。ただ、わたしを冷めた目で見ている同居人だった。
この人、なんでおままごとなんてしてるの?ただのごっこ遊びじゃない。早く大人になりなさいよ、そんなおままごとが通用する世界じゃないの。
くまりんは幼いわたしに、そんなことを言っていた。
「わたしの目は裏切り者だ」
くまりんは、自分のことを怯えた目で見るわたしを嫌っていたのだろう。見たくなかったのだろう。わたしを見たくなかったのだろう。なのに、右目はわたしを映してしまうのだ。そんなことは許せないのだ。だから自分で自分の目をひきちぎった、の、かもしれない。
まあ、可能性だね。
「あなたがわたしを受け入れてくれたら、わたしだってあなたを受け入れたのに」
くまりんは、なんでそんなに思いつめていたんだろうね。
「あなたを好きになれなくて申し訳なかった」
わたしはくまりんにつぶやいた。
あなたの痛みと恐怖を可哀想に思う。でも、あなたの痛みと恐怖を、わたしは見たいとは思わない。右目のないあなたを、わたしは見ることが嫌なのだ。
ごめんね。
会社に戻ろう。
長い時間いなかったことについては、申し訳ない、と謝ろう。理由はまあ、ちょっと気分が悪くなって休んでいたとか、いろいろ言える。確かに気分は悪くなってたし、確かに休んでいたのだ、大きな意味においては。
ただ、コーヒーカップのことは絶対に謝らない。馬鹿馬鹿しいことは、馬鹿馬鹿しいとちゃんと思っていよう。
くまりん。
くまりんの目。
くまりん。
横断歩道の信号が、青になった。
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