トーシ

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トーシ

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「ですから、トーシのお話なんです」
相手の男は繰り返した。
会社から貸与されている携帯電話に見知らぬ番号からかかってきたので、出たらいきなり
「トーシのことをお話します」
と言われたのだ。

ああ、投資か。
そういう商売の電話ね…と僕は胃の中で舌打ちした。
胃の中にも、ちゃんと舌はある。

不動産なんていらないよ、こっちはこれから堅実に金を貯めなくちゃいけないんだから。

「すみません。業務中なので切らせていただき」
「あなたいま、〇〇町を歩いてるでしょう?」
「え?」
僕は思わず聞き返した。
沈黙。
まるで相手が、電話の前から体を消したみたいな沈黙。

僕はまわりをぐるっと見回す。
見える範囲でふたりほど携帯電話を使っている人間はいたが、声までは聞こえない。ひとりは女性で、ひとりは男性だが、その男性はこちらの相手が黙っている間も笑って話してるので、おそらく違う。
「どういうことです?」
切れた糸をゆっくりと繋いで、相手の男の声が復活した。
「だから、僕はトーシできるんです。透視能力があるんですよ。あなたいま、遅めのお昼の帰りに、会社に戻るところでしょう?」
その通りだった。
天気は良く、風もなく、お腹もふくれて体もあたたかく、僕はのんびりとひとり歩いていたのだ。

透視能力だって?

「もうひとつ、僕の能力をお見せしますよ」
「いったい何を言ってるんだ?」
「足を止めてください。ちょっと危ないですから」
「は?」
無意識に相手の男の言うことを聞いてしまったのか、僕は素直に足を止めてしまった。
また相手が沈黙した。

チリチリチリチリチリチリチリチリリリリリリリ。

耳を突き破るような甲高い音が左から聞こえて、横断歩道をわたってきた自転車が猛スピードで目の前を通過した。
そしてすぐにぐるんと、僕のこれから進もうとしている向きに変え、呆然としている僕の視線の先、どんどん姿が小さくなっていった。
眼鏡、オレンジのニットの帽子、グレープフルーツの香り。チリチリチリチリリリリリ。
音と勢いに驚いて、自転車のほうを見ている人もいたが、自転車はうまいこと障害物をすり抜けていった。

「ね、危なかったでしょう。あのまま歩いていたら、自転車とぶつかったかもしれない」
相手の声がまた聞こえた。闇の中で、スイッチを入れたり切ったりしているようだ。
「君はなんなんだ?」
「透視能力があるんです。僕の能力買いませんか?ここから先は有料です」
そうか、そういう商売か。

透視能力?そんな能力あるわけないだろう。
さきほど舌打ちした胃の中の舌が、僕の胃の中から急速にからだを登ってきている。
あるわけない、と叫んでいる。
たぶん、あいつらは複数犯で、自転車の人間が電話の男の共犯者だ。
ひとりはビルの2階かどこかにある喫茶店の窓際から僕を見て電話し、タイミングをはかって僕の足を止める。そして共犯者が自転車に乗ってやってくる。
そのけたたましさと勢いで、パニックになった僕はいかがわしい「透視能力」に引っかかる。
といった感じのシナリオなのだろう。

「切ります。業務以外のお話はお断りしま」
「彼女と別れたほうがいいです」
相手の男は早口に言ったので、何を言ったのか理解するのに時間がかかった。
彼女だって?
男は僕の戸惑いを無視して続けた。
「交渉決裂なのはわかりました。もう切ります。しかし最後に無料透視のサービスです。これで終わり。良いですか?あなたは彼女とは幸せになんてなりません。さっさと別れた方が良いです。ソファを買った時に、あなたは気付くべきでした」
「おいちょっと」
どん、と目の前に壁が降ってきた。そう錯覚するくらい唐突に電話は切れた。

突っ立ったままでいると、後ろから、コートを着た男がぶつかってきた。タバコ臭い男だ。
相手は「失礼」と言うとさっさと歩いていった。
僕は歩道の端っこに避けることにした。
がさっという音がして、足元を見たら、いつのまにか自分が枯れ葉の群れの上に立っていることに気づいた。
靴の上にまで一枚乗っていた。
僕はそれを手ではらう。

彼女と?
別れた方が良い?
ソファ?

太陽の光が、さきほどまでより弱くなった気がした。寒いわけではない。寒さなど感じない。
でも、太陽は僕のほうを見ていないというか、別の場所に向かって語りかけている気がするのだ。
なあ、僕の胃の中の舌。
さっきは喉元まで来ていただろう。
いま、おまえはどこにいるんだ。

僕には同棲をしている恋人がいる。
何年もつきあっていて、そして最近一緒に暮らし始めたのだ。
たぶん、この先結婚するだろう。
でも、わざわざプロポーズしたいわけではない。そういうことは別にしなくて良いと思っている。
いまさら、特別に笑顔を見せてどうするんだ?彼女にいつもと違う顔を見せてかしこまって「結婚しよう」なんて、とても疲れる行為だ。
そんなことをするくらいなら、ひとりでゲームをしたりネットで海外バラエティを見たほうが楽しい。

僕にとって、彼女はそういう存在だ。

ソファ?
そうだ。
僕は思い出す。
家のソファが汚れてカバーに穴も空いて、先週彼女と買いに行ったのだ。僕がひとりで住んでいたときから使っていたソファなので古いことは古いものだった。
新しいものは、彼女の好きにすれば良いと思った。
もちろん僕だって好みはある。だけど僕が「これが良い」と主張しても、きっと彼女は「ええ?これよりあっちが良いよ」と口をとがらせて言うに決まっているから、好きにしてもらえばよい。 
彼女がソファを自分で選び、それで気持ちが少しでも幸せに近くなり、僕に不貞腐れたようなことを言わなければそれで良いではないかと僕は思ったのだ。

そのとき、彼女は僕に微笑んだ。
「ありがとう、わたしに選ばせてくれて」
その笑顔は、いまの太陽の光みたいだった。
決して寒くはない。
でも、彼女はそのあたたかさを、僕と壁一枚隔てた世界へと乱暴に投げているみたいだった。

僕は僕の階段を登っているが、彼女は同じ階段の反対側を登り、僕は僕の部屋にたどりつき、彼女はその反対側の部屋にたどりつく。

あの自転車の主が、彼女だったらどうする?

そんな思いつきが、いきなり頭に浮かんだ。
グレープフルーツの香り。
同じ香りの香水を、彼女は持っていたような気がする。
遠い昔に、身に付けていたような気がする。

もしかして、あの携帯電話の男は彼女の新しい恋人かもしれない。
この作戦は、新しい恋人たちが行ったのかもしれない。
もちろん恋人などではなく、彼女が金を払って雇った男の可能性もある。
さらに彼女とは何も関係なく、ただの詐欺二人組か、もしくは本当に透視能力を持った透視能力セールス男の可能性だってまだ残っている。

いずれにせよ電話は切られ、自転車は僕にぶつかることなく向こうへ行ってしまった。

僕には彼女も男も、何の姿も見えない。

正直言うと、僕はいまこの時点でも、彼女の投げ捨てたものを拾って包んでやる気持ちにはなれなかった。
僕はどうしてこうなのだろう。
でも、仕方がない。
それが僕のいまの気持ちだ。

彼女は僕の気持ちを見ているのだろうか。僕の体もうわべの言葉も突き通して、見ているのだろうか。

家に戻ったら、彼女と話をするべきなのだ。
もしもまだ、彼女がソファに座っているのなら。

枯れ葉の音が、薄く、耳の隙間を通っていった。
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