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第3話
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ヤマハシカメコ。
マサは口の中でつぶやいた。もちろんカメコの本名ではなかった。
「わたし、カメコっていうあだ名なんだ」
高校の頃のカメコの声がよみがえってくる。愛想の良い声色だ。そして、何かに媚びるような声色だ。
自分のことをカメコって言うなよ。
「うん、人よりのろまだから。だけど、カメって可愛いよね。わたしカメが大好きなんだ」
カメのことなんか好きでもないのに、そんなこと言うなよとマサは思った。
ずっと、カメコに対して腹を立てていた。
マサは東京で両親と、父の母親であるマサの祖母、そして3歳下の弟との5人で暮らしていた。
気がついたときには、祖母と母親の関係は最悪に近いものだったと思う。大袈裟な言い方ではなく2人が会話しているところを見たことがなかった。
母は決して祖母に話しかけることはなかった。
祖母は母に話しかけることはあった。だが祖母が何か言っても、母はコンクリートのような無表情さで何も答えなかった。
ついでに言うと、母はマサが何を言っても無視はしなかったがきちんと答えることもしなかった。
遠足の話をしても「ふうん」だったし、隣のクラスの男子に殴られた話をしても「ふうん」だった。この人コンクリートというか、こんにゃくでもあるのではないだろうかとマサは思っていた。人間であるはずはない。
母親は、一日中自分の部屋にこもりきりで、ご飯を食べるときも外に出てこなかった。食事は祖母が作り、母親の部屋の前に置いておくと、いつの間にか空になっていた。
母はたまに気まぐれでリビングのソファに座っていることがあった。そこでもヘッドフォンで音楽を聴き、周りから遮断されたがっているように感じた。マサは最初は話しかけた。小学生のマサは、彼女のヘッドフォンまでとって話しかけた。母はそんなマサに対して「ふうん」と言った。賞味期限切れの食品を見るような目をした。悪い匂いはしないが、まあ、万が一の安全のために捨てておきましょう。という感じだ。そしてヘッドフォンを取り返すと、何もなかったかのようにもう一度音楽の世界に戻っていった。
マサは、そのうち遠足の話も、自分を殴った隣のクラスの男子の話も、祖母にするようになった。祖母は本気でマサを心配してくれた。一度、乱暴な男子のことで校長先生に会いに行ってくれたこともある。
祖母はマサが小学生の頃はとても元気で家事すべてを引き受けていた。彼女は庭の手入れが大好きで、マサの家の庭は、一年中色々な花が咲いていた。その花たちの名前を、祖母は嬉しそうにマサに教えてくれた。
マサは1日に何度も母親の顔を忘れた。
マサの母親の状態について、祖母も父もなにも説明しようとはしなかった。ただ、「母さんは具合が悪い」だけだった。
弟は「母ちゃんは、父さんと仲良くしたかったんだよ。でもばあちゃんが邪魔をした。まあ、父さんとばあちゃんが悪いんだよ」とよく言っていた。
弟だけは、母の部屋に入ることが許されていた。弟はあまり外では遊ばない人間で、学校から家に戻ると、母親の部屋に入り浸っていた。
本当にそうかなとマサはずっと思っていた。
父さんとばあちゃんはそんな悪い人間なんだろうか。
マサには、あの二人が完全な悪人には思えなかったのだ。
父親は仕事であまり家にはいなかった。「それは仕方ないことだからね」とマサの祖母はよく言った。「あんたたちのために、お父さんはたくさん働いているんだ」
マサは別にそれは苦ではなかった。たまに会う父はとても優しかったし、欲しいものはたいてい買ってくれた。
祖母はマサのためにおやつを作ってくれたり、散歩に一緒に行ったり、自転車の練習も一緒にしてくれた。
授業参観も祖母が来てくれた。
「なあ、マサくん、あんた今日は何が食べたい」
祖母はそう言って顔をくしゃっとして笑った。祖母はいつもマサの食べたいものを作ってくれた。
弟になんて聞きもしないところがマサは優越感を感じていた。自分は誰よりも愛されているんだとそれはマサにとっては嬉しいことだった。
何故なら、母親は弟のことだけは可愛がっていたように思えたからだった。
だが、マサにとって青天の霹靂は中学校2年の時にやってきた。
「精神的な疲れ」を癒すために、母親は一度実家に帰ることになったのだ。
それがX市だった。
「一人で戻すのはすごく辛いと思う。母さんは自分がこの家に必要ないと思われるのではないかと心配しているんだ」と父さんは言った。
すごく言いにくそうに。いや、この家に必要ないなんて当然じゃないかとマサは思った。
「俺なのか?ついていくの」
弟ではなく、自分だったのは意外だった。
「母さんが邪魔というわけではないんだ。なんとかしたいんだよ。だから、いったん離れるんだ。その証として、おまえについて行ってほしいんだ」
お願いのような台詞だったが、もう決まったことだという「おもり」がそこには結びついていた。
「あたしは反対だったよ。あの人はひとりで行くべきだと言った。でもあんたの父さんはそれを聞かなかった。仕方ない」
祖母は結局のところ、俺のことよりも父のことなんだなとマサは思った。
それに、母が自分の視界から消えることが何よりも優先されるのではないかと思った。
マサの心には、深い場所で沼があると感じた。毒の泡がずっと噴き出ている沼だ。
母方の祖父母は優しかった。でもそれまで何度も会ったわけではないし、家族という気持ちにはなれなかった。「親戚」だった。
X市で通うことになった中学校で、カメコと出会った。
カメコはその頃から大きな丸メガネをしていて、長い髪を後ろで一つに縛っていた。
カメコは運動神経があまり良くなくて、足が遅かった。そのことで、クラスの女子のリーダー格の生徒にいつもからかわれていた。「あんたなんか、カメコという名がふさわしいんだよ」
「ごめんなさい」とカメコはよく謝っていた。
一度、「よくもそんな酷いことが言えたもんだな。頭が相当悪いんだな」とリーダー格の女子に言った。その結果、教師に叱られたのはマサだった。
マサは友達がいなかった。カメコもいなかった。マサは無表情でいたが、カメコはいつも薄ら笑いを浮かべて媚びるような眼差しだった。
何やってるんだろうといつもマサは腹を立てていた。
マサは友達と呼べる人間はいなかった。それはまあ、キツイよなと思っていた。
学校から母の家に帰ると、母親はやはり自分の部屋にこもりきりだった。母親の両親、つまりマサの祖父母が家事をしていた。
祖父はマサを釣りに連れて行ってくれたりもした。他人だけど、なんとか仲良くなろうとしているのだなとマサは感じた。
「母親のことは、申し訳なく思ってる」と防波堤のそばに座り、釣りをしながら祖父はぼそっと言った。「あの子が、あの家の人たちからうけた仕打ちにいまでも苦しんでいるのもわかる。だが、おまえにそれを押し付けるのは間違っている。だが」と祖父はそこで言葉を止めた。
まあそんなこと母さんには言えないよな、とマサは祖父の言葉の続きを考えていた。が、途中でその考えをとめた。そして折りたたみ椅子から立ち上がり、弁当用のボックスを開いた。「大丈夫だよ。俺はとくに気にしてない。ねえ、おばあちゃんのおにぎり食べようよ」
おにぎりのほかにも、祖母は卵焼きも焼いてくれていた。マサは甘い卵焼きが好きだった。卵焼きに関しては、父方の祖母より母方の祖母の作ったほうが好きだった。酒の分量が自分にあっていたのかな、とマサは思った。
マサもカメコも、ふたりとも成績はわりとよかった。だから、同じ進学校に行くことになった。
ここで低レベルのいじめなどありえないとマサは思った。
案の定、カメコにも仲良しグループができた。
でも、マサは知っていた。彼女以外の人間が「カメコって、やっぱちょっとやばいよね。とろいし、ものごとを順序立ててしゃべるのが苦手だし」と陰口を言っていたことを。
「ま、だれもそばにいなかったら、先生になんか言われるし、グループに入れてあげるのは仕方ないよね」
高校2年の秋、東京の祖母が亡くなった。
マサは予感はしていた。なぜなら、正月に家に帰った際に、祖母はすっかり弱々しくなっていたからだった。
家の中を歩くことはできた。だがそれだけだった。言葉を発することも少なく、ただソファでぼんやりと庭を見ていることが多かった。
家にはお手伝いさんが来ていて、家事全般と祖母の普段の生活の手助けはやってくれていた。だが、庭のことは誰も何もしないようだ、とマサは思った。
もう、手入れをしていない雑草と土と折れ曲がった枝だらけの庭を、祖母はどんな思いで見ていたのだろうか。
自分の庭だということも、ちゃんと覚えていたのだろうか。
祖母はかなり記憶が怪しくなっていて、マサのことも認識できないようだった。
家に入って、遠慮がちな笑みを浮かべた祖母から、マサはすぐに目を逸らしてしまった。
しばらくあとに、自分を知らない祖母は、マサから見てとても美しい人に見えたのだと思った。
祖母が死んで、母親は、すぐに家に戻ることになった。
戻る直前に、珍しく自分の部屋を出て、マサの目を真正面からしっかり見て彼女は言った。
「わたし、彼に会いたいわ」と弟の名前を言ったのだった。
マサは「なあ」と母に話しかけていた。マサは、自分が母に話しかけるのは、五百年ぶりぐらいだなと感じた。
「なんで、俺が嫌いなんだ?顔がばあちゃんに似てるからか?父さんに似ているからか?」
母は、マサの目をまっすぐに見つめていた。でも、マサの苦しみには興味がないような眼差しだった。
そして彼女は微笑んだ。マサではなく、マサと同じ場所にいる違う誰かに微笑みかけているように、彼には思えた。
母の反応はそれだけだった。
彼女は、何も言わないまま自分の部屋に戻った。
母の笑みはまるで勝利の笑みのようで、しかも彼女は、マサという存在を認識していないように感じて、マサは胃がねじれる感覚になった。
祖母の死後、母は東京に戻った。だがマサは、受験のためには残ったほうが良いだろうと判断し、卒業までX市に残った。
カメコは地元の国立大学、マサは東京の大学に進むことにした。
「おまえはどうやってカメコと知り合ったんだ?」と、マサはリクに聞いた。
「カメコがここに来たんだよ。ふらっと」
とリクは答えた。
「まあ、彼女もいろいろあってさ。悩んでいてここに来たの。そんで僕と知り合ったってわけ」
「悩んでるとここに来るのか?」とマサは言った。こんな不気味なビルにか?考えごとでもしたかったのか?
メッセージアプリの通知の音がした。まるで空っぽの空間に空き缶を転がした音のようだとマサは思った。
ゆっくりと、スマートフォンの画面を覗いた。
「いまから、そこに行くから待っていてほしい。リクにもそう伝えてほしい」
カメコのメッセージだった。
マサは口の中でつぶやいた。もちろんカメコの本名ではなかった。
「わたし、カメコっていうあだ名なんだ」
高校の頃のカメコの声がよみがえってくる。愛想の良い声色だ。そして、何かに媚びるような声色だ。
自分のことをカメコって言うなよ。
「うん、人よりのろまだから。だけど、カメって可愛いよね。わたしカメが大好きなんだ」
カメのことなんか好きでもないのに、そんなこと言うなよとマサは思った。
ずっと、カメコに対して腹を立てていた。
マサは東京で両親と、父の母親であるマサの祖母、そして3歳下の弟との5人で暮らしていた。
気がついたときには、祖母と母親の関係は最悪に近いものだったと思う。大袈裟な言い方ではなく2人が会話しているところを見たことがなかった。
母は決して祖母に話しかけることはなかった。
祖母は母に話しかけることはあった。だが祖母が何か言っても、母はコンクリートのような無表情さで何も答えなかった。
ついでに言うと、母はマサが何を言っても無視はしなかったがきちんと答えることもしなかった。
遠足の話をしても「ふうん」だったし、隣のクラスの男子に殴られた話をしても「ふうん」だった。この人コンクリートというか、こんにゃくでもあるのではないだろうかとマサは思っていた。人間であるはずはない。
母親は、一日中自分の部屋にこもりきりで、ご飯を食べるときも外に出てこなかった。食事は祖母が作り、母親の部屋の前に置いておくと、いつの間にか空になっていた。
母はたまに気まぐれでリビングのソファに座っていることがあった。そこでもヘッドフォンで音楽を聴き、周りから遮断されたがっているように感じた。マサは最初は話しかけた。小学生のマサは、彼女のヘッドフォンまでとって話しかけた。母はそんなマサに対して「ふうん」と言った。賞味期限切れの食品を見るような目をした。悪い匂いはしないが、まあ、万が一の安全のために捨てておきましょう。という感じだ。そしてヘッドフォンを取り返すと、何もなかったかのようにもう一度音楽の世界に戻っていった。
マサは、そのうち遠足の話も、自分を殴った隣のクラスの男子の話も、祖母にするようになった。祖母は本気でマサを心配してくれた。一度、乱暴な男子のことで校長先生に会いに行ってくれたこともある。
祖母はマサが小学生の頃はとても元気で家事すべてを引き受けていた。彼女は庭の手入れが大好きで、マサの家の庭は、一年中色々な花が咲いていた。その花たちの名前を、祖母は嬉しそうにマサに教えてくれた。
マサは1日に何度も母親の顔を忘れた。
マサの母親の状態について、祖母も父もなにも説明しようとはしなかった。ただ、「母さんは具合が悪い」だけだった。
弟は「母ちゃんは、父さんと仲良くしたかったんだよ。でもばあちゃんが邪魔をした。まあ、父さんとばあちゃんが悪いんだよ」とよく言っていた。
弟だけは、母の部屋に入ることが許されていた。弟はあまり外では遊ばない人間で、学校から家に戻ると、母親の部屋に入り浸っていた。
本当にそうかなとマサはずっと思っていた。
父さんとばあちゃんはそんな悪い人間なんだろうか。
マサには、あの二人が完全な悪人には思えなかったのだ。
父親は仕事であまり家にはいなかった。「それは仕方ないことだからね」とマサの祖母はよく言った。「あんたたちのために、お父さんはたくさん働いているんだ」
マサは別にそれは苦ではなかった。たまに会う父はとても優しかったし、欲しいものはたいてい買ってくれた。
祖母はマサのためにおやつを作ってくれたり、散歩に一緒に行ったり、自転車の練習も一緒にしてくれた。
授業参観も祖母が来てくれた。
「なあ、マサくん、あんた今日は何が食べたい」
祖母はそう言って顔をくしゃっとして笑った。祖母はいつもマサの食べたいものを作ってくれた。
弟になんて聞きもしないところがマサは優越感を感じていた。自分は誰よりも愛されているんだとそれはマサにとっては嬉しいことだった。
何故なら、母親は弟のことだけは可愛がっていたように思えたからだった。
だが、マサにとって青天の霹靂は中学校2年の時にやってきた。
「精神的な疲れ」を癒すために、母親は一度実家に帰ることになったのだ。
それがX市だった。
「一人で戻すのはすごく辛いと思う。母さんは自分がこの家に必要ないと思われるのではないかと心配しているんだ」と父さんは言った。
すごく言いにくそうに。いや、この家に必要ないなんて当然じゃないかとマサは思った。
「俺なのか?ついていくの」
弟ではなく、自分だったのは意外だった。
「母さんが邪魔というわけではないんだ。なんとかしたいんだよ。だから、いったん離れるんだ。その証として、おまえについて行ってほしいんだ」
お願いのような台詞だったが、もう決まったことだという「おもり」がそこには結びついていた。
「あたしは反対だったよ。あの人はひとりで行くべきだと言った。でもあんたの父さんはそれを聞かなかった。仕方ない」
祖母は結局のところ、俺のことよりも父のことなんだなとマサは思った。
それに、母が自分の視界から消えることが何よりも優先されるのではないかと思った。
マサの心には、深い場所で沼があると感じた。毒の泡がずっと噴き出ている沼だ。
母方の祖父母は優しかった。でもそれまで何度も会ったわけではないし、家族という気持ちにはなれなかった。「親戚」だった。
X市で通うことになった中学校で、カメコと出会った。
カメコはその頃から大きな丸メガネをしていて、長い髪を後ろで一つに縛っていた。
カメコは運動神経があまり良くなくて、足が遅かった。そのことで、クラスの女子のリーダー格の生徒にいつもからかわれていた。「あんたなんか、カメコという名がふさわしいんだよ」
「ごめんなさい」とカメコはよく謝っていた。
一度、「よくもそんな酷いことが言えたもんだな。頭が相当悪いんだな」とリーダー格の女子に言った。その結果、教師に叱られたのはマサだった。
マサは友達がいなかった。カメコもいなかった。マサは無表情でいたが、カメコはいつも薄ら笑いを浮かべて媚びるような眼差しだった。
何やってるんだろうといつもマサは腹を立てていた。
マサは友達と呼べる人間はいなかった。それはまあ、キツイよなと思っていた。
学校から母の家に帰ると、母親はやはり自分の部屋にこもりきりだった。母親の両親、つまりマサの祖父母が家事をしていた。
祖父はマサを釣りに連れて行ってくれたりもした。他人だけど、なんとか仲良くなろうとしているのだなとマサは感じた。
「母親のことは、申し訳なく思ってる」と防波堤のそばに座り、釣りをしながら祖父はぼそっと言った。「あの子が、あの家の人たちからうけた仕打ちにいまでも苦しんでいるのもわかる。だが、おまえにそれを押し付けるのは間違っている。だが」と祖父はそこで言葉を止めた。
まあそんなこと母さんには言えないよな、とマサは祖父の言葉の続きを考えていた。が、途中でその考えをとめた。そして折りたたみ椅子から立ち上がり、弁当用のボックスを開いた。「大丈夫だよ。俺はとくに気にしてない。ねえ、おばあちゃんのおにぎり食べようよ」
おにぎりのほかにも、祖母は卵焼きも焼いてくれていた。マサは甘い卵焼きが好きだった。卵焼きに関しては、父方の祖母より母方の祖母の作ったほうが好きだった。酒の分量が自分にあっていたのかな、とマサは思った。
マサもカメコも、ふたりとも成績はわりとよかった。だから、同じ進学校に行くことになった。
ここで低レベルのいじめなどありえないとマサは思った。
案の定、カメコにも仲良しグループができた。
でも、マサは知っていた。彼女以外の人間が「カメコって、やっぱちょっとやばいよね。とろいし、ものごとを順序立ててしゃべるのが苦手だし」と陰口を言っていたことを。
「ま、だれもそばにいなかったら、先生になんか言われるし、グループに入れてあげるのは仕方ないよね」
高校2年の秋、東京の祖母が亡くなった。
マサは予感はしていた。なぜなら、正月に家に帰った際に、祖母はすっかり弱々しくなっていたからだった。
家の中を歩くことはできた。だがそれだけだった。言葉を発することも少なく、ただソファでぼんやりと庭を見ていることが多かった。
家にはお手伝いさんが来ていて、家事全般と祖母の普段の生活の手助けはやってくれていた。だが、庭のことは誰も何もしないようだ、とマサは思った。
もう、手入れをしていない雑草と土と折れ曲がった枝だらけの庭を、祖母はどんな思いで見ていたのだろうか。
自分の庭だということも、ちゃんと覚えていたのだろうか。
祖母はかなり記憶が怪しくなっていて、マサのことも認識できないようだった。
家に入って、遠慮がちな笑みを浮かべた祖母から、マサはすぐに目を逸らしてしまった。
しばらくあとに、自分を知らない祖母は、マサから見てとても美しい人に見えたのだと思った。
祖母が死んで、母親は、すぐに家に戻ることになった。
戻る直前に、珍しく自分の部屋を出て、マサの目を真正面からしっかり見て彼女は言った。
「わたし、彼に会いたいわ」と弟の名前を言ったのだった。
マサは「なあ」と母に話しかけていた。マサは、自分が母に話しかけるのは、五百年ぶりぐらいだなと感じた。
「なんで、俺が嫌いなんだ?顔がばあちゃんに似てるからか?父さんに似ているからか?」
母は、マサの目をまっすぐに見つめていた。でも、マサの苦しみには興味がないような眼差しだった。
そして彼女は微笑んだ。マサではなく、マサと同じ場所にいる違う誰かに微笑みかけているように、彼には思えた。
母の反応はそれだけだった。
彼女は、何も言わないまま自分の部屋に戻った。
母の笑みはまるで勝利の笑みのようで、しかも彼女は、マサという存在を認識していないように感じて、マサは胃がねじれる感覚になった。
祖母の死後、母は東京に戻った。だがマサは、受験のためには残ったほうが良いだろうと判断し、卒業までX市に残った。
カメコは地元の国立大学、マサは東京の大学に進むことにした。
「おまえはどうやってカメコと知り合ったんだ?」と、マサはリクに聞いた。
「カメコがここに来たんだよ。ふらっと」
とリクは答えた。
「まあ、彼女もいろいろあってさ。悩んでいてここに来たの。そんで僕と知り合ったってわけ」
「悩んでるとここに来るのか?」とマサは言った。こんな不気味なビルにか?考えごとでもしたかったのか?
メッセージアプリの通知の音がした。まるで空っぽの空間に空き缶を転がした音のようだとマサは思った。
ゆっくりと、スマートフォンの画面を覗いた。
「いまから、そこに行くから待っていてほしい。リクにもそう伝えてほしい」
カメコのメッセージだった。
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