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閑話 キミのために
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これは夢だろうか?
遠く、遠く、うすらぼんやりとした視界の中。二人の男女が幸せそうに笑い合っていた。
顔はよく分からない。
それでも、二人が心の底からの笑顔を浮かべていることは分かった。
女性のお腹はとても大きく膨らんでおり。
もうすぐ赤んぼうが生まれるのだと、誰に説明されるでもなく理解することができた。
あれは、
あの女性は、もしかして――
◇
――激痛で目を覚ました。
まず認識したのは右手の痛み。そして息苦しさ。辺りは暗く視界はほとんどない。
(……落ち着いて。まずは現状確認)
鉱山で働くにあたって、まず教えられたのは落盤事故の際の対応。私は今までの言動が信じられぬほど冷静に“生き残るため”にできることをやり始めた。
(私の名前はナユハ・デーリン。罪人の娘で、今はレナード領の鉱山で働いている。そして先ほど、作業中の洞窟でおそらくは落盤事故が起こった)
記憶に障害は無し。ただ、右手の痛みのせいであまり深い思考はできそうにない。
「――灯火」
私に炎系魔法の適正はないが、それでも初級くらいなら使うことができる。
わずかな明かりは、落ちてきた岩で押しつぶされた私の右腕を克明に映し出してくれた。
右手はもうダメだろう。
私は瞬時に諦めた。
回復魔法は理屈で考えれば患部の時間を巻き戻すというもの。切断されたくらいなら切り口の時間を巻き戻すだけでいいのだが、このように押しつぶされてしまってはもう無理だ。
骨、筋肉、神経、血管、皮など。腕一本分をすべて“回復”させようとしたら、たとえリリア様でも魔力が足りないだろう。
そして、リリア様に無理ならきっとこの世界の誰にも不可能だ。彼女にはそれだけの保有魔力があるのだから。
右手はダメだが、それでも生きるためには止血はしなければならない。私は着ていたシャツを切り裂いて即席の包帯を作り、右手の止血を行った。
幸か不幸か、押しつぶされた右腕はうまいこと切断されたようで、私は問題なく立ち上がることができた。これで岩に潰された腕が繋がったままだと起き上がることすらできなかっただろう。
右手は二の腕の半ばほどからなくなっていた。
気絶していたときに血を失いすぎたのか、あるいは酸素が少ないのか頭痛がする。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け)
自分に言い聞かせながら灯火で辺りを照らし出す。
正面に見えたのは岩の壁。天上の高さは私がギリギリ立ち上がれる程度しかなく、明らかに落盤によって空間が狭められていた。押しつぶされなかったのは幸運だ。
しかし、空気の残量は残り少ないだろう。そう考えると岩に押しつぶされていた方が苦しまずに済んだかもしれない。
でも私は生きている。
生きているなら、何とかしなければ。
私は焦る心を必死に押さえつけながら後ろを振り返り――
「――――っ」
悲鳴を上げなかった自分を褒め称えたい。
後ろにいたのは首のない男性。苦悶の声すら漏らすことなく、自分の身長の二倍はあろうかという巨岩を支えている。もしも彼がいなかったら、私はあの岩に押しつぶされていたはずだ。
首のない男性。ゴーストかファントムかは分からないけれど十中八九幽霊だろう。私に幽霊の知り合いは愛理様しかいない。いない、はずだけれども……。
「……おとう、さま?」
なぜかそうつぶやいていた。
後ろ姿で、首がないというのに。それでも私は、彼のことがお父様であると理解してしまったのだ。
首のない男性から返事はなかった。当然だ。口もないのだから声を発せられるわけがない。
それでも私は彼がお父様であると確信して言葉を紡ぐ。
「お父様、いいんです。止めてください。私は、罰を受けなきゃいけないんです」
お父様は動かない。振り返るそぶりすら見せず岩を支え続けている。
幽霊だからといって痛みがなくなるわけではない。無限に力が湧いてくるわけでもない。むしろ生き物としての体力がない幽霊は精神力や自らの魂そのものを『力』に変えるしかない。
魂。
この世界の基本は輪廻転生。良き行いをしたものは次回の出生が恵まれるし、悪い行いを繰り返せばそれ相応になると信じられている。
そして、妖精様に喰われるような悪人や、魂が破損した者は転生することもなく消え去ると言われている。
今、お父様は自分の魂を力に変えているのではないか? そんなことをしていては、魂が破損してしまうのではないか?
「……お父様、もう止めてください。私はいいんです。こうなることは分かっていました。自分で自分が許せないんです。なのに自ら命を絶つ勇気すらなくて……。こうして、事故による死を期待していたんです」
お父様は振り返らない。
ただ、私の頭の中に、とてもとても懐かしい『声』が響いてきた。
――生きて欲しい。
――生きて、幸せになって欲しい。
――私も、ミスティも、それだけを望んでいた。
――私は、間違えてしまったが。
ミスティとは、私のお母様の名前だ。
お母様は自分の治癒よりも私の蘇生を優先してくださったという。
私が黒髪であると、分かっていたはずなのに……。
「あ、ぁ……」
生きて欲しいと望まれていた。
どうして忘れていたのだろう?
どうして勘違いしていたのだろう?
私のせいでお母様が死んだのではなく、
お母様は、命がけで私を生かそうとしてくれたのだ。
私はお母様から愛されていた。
この命は、お母様が救ってくださった命なのに。
簡単に捨てていいものではなかったのに……。
……あたまがいたい。
止血した傷口から、血がしたたり落ちている感覚がある。
息苦しさは先ほどよりも増している気がする。
お父様が力尽きて岩の下敷きになるか。失血が原因で意識を失うか。あるいは、空気がなくなってしまうか。いずれかは分からないけれど、たぶんそう遠くないうちに私は死んでしまうだろう。
――死。
むしろ望んでいたはずなのに。死による贖罪を願っていたはずなのに。目の前に死が迫っていると理解した途端に私の背中には怖気が走り、歯からカチカチと音が鳴り始めた。
覚悟はしていた。
覚悟はしていたのに、今の私は死を恐れていた。
あぁ、
私はなんて愚かだったのだろう。
なんて頑固で頑迷だったのだろう。
お母様は命をかけて私を救ってくださった。
お父様は、処刑された今も私を助けようとしてくれている。
その事実だけで十分だ。
二人のためにも、私は生きなきゃならなかったのに……。
――命を粗末にしてごめんなさい。
とっくの昔に気づいていたんです。被害に遭われた方々すら許してくださっているのに、それでも私が贖罪にこだわっているのは“逃げ”でしかないと。
恐かっただけなんです。
デーリン家の娘として、罪人の娘として、人の間(あいま)を生きていく勇気がなかっただけなんです。批判に立ち向かうことすらできない臆病さを、贖罪という綺麗事で飾り立てただけなんです。
ごめんなさい。
ワガママを言ってごめんなさい。
優しい心遣いを踏みにじってごめんなさい。
私は謝らないといけない。
お母様に。
お父様に。
ガルド様に。
リース様に。
私を心配してくださった皆様に。
そして何より。
こんな私の友達になってくださった――リリア様に。
不意に鼓動が乱れた。
今までにない恐怖が襲ってきた。
リリア様の笑顔を思い出した途端。私は涙を止めることができなくなってしまった。
あたまがいたい。
みぎてがいたい。
いきがくるしい。
状況は最悪。
お父様もずっと岩を支え続けることはできないだろう。
ガラリ、と。音を立てて岩壁の一部が崩れ落ちた。
いつ、この空間が押しつぶされても不思議ではない。
助けが来るのはいつだろう?
普通の人間では私がどこに埋まっているかすら分からないし、たとえ鑑定眼持ちが私の場所を見つけても、この空間が崩れないように岩を掘り返すのは不可能に近い。
いや、たとえ全力で掘り返したとしても、きっと私が失血死するか窒息死する方が早い。
もうすぐ私は死ぬだろう。
死んでしまったら、もう、謝れない。
会うこともできない。
お喋りすることも。
一緒に笑いあうことも。
もう、二度とできないのだ。
「――死にたくない」
私は立ち上がった。
「生きたい」
お父様の横に立ち、岩を支える手助けをする。
「もう一度、あなたと」
稟質魔法。
――無窮の腕。
「遊んだり、失敗したり、笑いあったりしたい」
地面から生えた無数の腕が巨石を支える。生きるために。もう一度、あの人に会うために。
「泣いてもいい。苦しんでもいい。悲しい目に遭ってもいい」
あなたと一緒なら。
私は、きっと大丈夫。
だから。
もう一度。
いいや、何度でも。
私は、あなたに会いたいんだ。
「リリア」
はじめて、敬称を付けずに名前を呼んだ。
友達だから。
名前を呼んだ。
そして、それと同時に――
「――貪り喰らうもの」
待ち望んでいた声を、聞いたような気がした。
遠く、遠く、うすらぼんやりとした視界の中。二人の男女が幸せそうに笑い合っていた。
顔はよく分からない。
それでも、二人が心の底からの笑顔を浮かべていることは分かった。
女性のお腹はとても大きく膨らんでおり。
もうすぐ赤んぼうが生まれるのだと、誰に説明されるでもなく理解することができた。
あれは、
あの女性は、もしかして――
◇
――激痛で目を覚ました。
まず認識したのは右手の痛み。そして息苦しさ。辺りは暗く視界はほとんどない。
(……落ち着いて。まずは現状確認)
鉱山で働くにあたって、まず教えられたのは落盤事故の際の対応。私は今までの言動が信じられぬほど冷静に“生き残るため”にできることをやり始めた。
(私の名前はナユハ・デーリン。罪人の娘で、今はレナード領の鉱山で働いている。そして先ほど、作業中の洞窟でおそらくは落盤事故が起こった)
記憶に障害は無し。ただ、右手の痛みのせいであまり深い思考はできそうにない。
「――灯火」
私に炎系魔法の適正はないが、それでも初級くらいなら使うことができる。
わずかな明かりは、落ちてきた岩で押しつぶされた私の右腕を克明に映し出してくれた。
右手はもうダメだろう。
私は瞬時に諦めた。
回復魔法は理屈で考えれば患部の時間を巻き戻すというもの。切断されたくらいなら切り口の時間を巻き戻すだけでいいのだが、このように押しつぶされてしまってはもう無理だ。
骨、筋肉、神経、血管、皮など。腕一本分をすべて“回復”させようとしたら、たとえリリア様でも魔力が足りないだろう。
そして、リリア様に無理ならきっとこの世界の誰にも不可能だ。彼女にはそれだけの保有魔力があるのだから。
右手はダメだが、それでも生きるためには止血はしなければならない。私は着ていたシャツを切り裂いて即席の包帯を作り、右手の止血を行った。
幸か不幸か、押しつぶされた右腕はうまいこと切断されたようで、私は問題なく立ち上がることができた。これで岩に潰された腕が繋がったままだと起き上がることすらできなかっただろう。
右手は二の腕の半ばほどからなくなっていた。
気絶していたときに血を失いすぎたのか、あるいは酸素が少ないのか頭痛がする。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け)
自分に言い聞かせながら灯火で辺りを照らし出す。
正面に見えたのは岩の壁。天上の高さは私がギリギリ立ち上がれる程度しかなく、明らかに落盤によって空間が狭められていた。押しつぶされなかったのは幸運だ。
しかし、空気の残量は残り少ないだろう。そう考えると岩に押しつぶされていた方が苦しまずに済んだかもしれない。
でも私は生きている。
生きているなら、何とかしなければ。
私は焦る心を必死に押さえつけながら後ろを振り返り――
「――――っ」
悲鳴を上げなかった自分を褒め称えたい。
後ろにいたのは首のない男性。苦悶の声すら漏らすことなく、自分の身長の二倍はあろうかという巨岩を支えている。もしも彼がいなかったら、私はあの岩に押しつぶされていたはずだ。
首のない男性。ゴーストかファントムかは分からないけれど十中八九幽霊だろう。私に幽霊の知り合いは愛理様しかいない。いない、はずだけれども……。
「……おとう、さま?」
なぜかそうつぶやいていた。
後ろ姿で、首がないというのに。それでも私は、彼のことがお父様であると理解してしまったのだ。
首のない男性から返事はなかった。当然だ。口もないのだから声を発せられるわけがない。
それでも私は彼がお父様であると確信して言葉を紡ぐ。
「お父様、いいんです。止めてください。私は、罰を受けなきゃいけないんです」
お父様は動かない。振り返るそぶりすら見せず岩を支え続けている。
幽霊だからといって痛みがなくなるわけではない。無限に力が湧いてくるわけでもない。むしろ生き物としての体力がない幽霊は精神力や自らの魂そのものを『力』に変えるしかない。
魂。
この世界の基本は輪廻転生。良き行いをしたものは次回の出生が恵まれるし、悪い行いを繰り返せばそれ相応になると信じられている。
そして、妖精様に喰われるような悪人や、魂が破損した者は転生することもなく消え去ると言われている。
今、お父様は自分の魂を力に変えているのではないか? そんなことをしていては、魂が破損してしまうのではないか?
「……お父様、もう止めてください。私はいいんです。こうなることは分かっていました。自分で自分が許せないんです。なのに自ら命を絶つ勇気すらなくて……。こうして、事故による死を期待していたんです」
お父様は振り返らない。
ただ、私の頭の中に、とてもとても懐かしい『声』が響いてきた。
――生きて欲しい。
――生きて、幸せになって欲しい。
――私も、ミスティも、それだけを望んでいた。
――私は、間違えてしまったが。
ミスティとは、私のお母様の名前だ。
お母様は自分の治癒よりも私の蘇生を優先してくださったという。
私が黒髪であると、分かっていたはずなのに……。
「あ、ぁ……」
生きて欲しいと望まれていた。
どうして忘れていたのだろう?
どうして勘違いしていたのだろう?
私のせいでお母様が死んだのではなく、
お母様は、命がけで私を生かそうとしてくれたのだ。
私はお母様から愛されていた。
この命は、お母様が救ってくださった命なのに。
簡単に捨てていいものではなかったのに……。
……あたまがいたい。
止血した傷口から、血がしたたり落ちている感覚がある。
息苦しさは先ほどよりも増している気がする。
お父様が力尽きて岩の下敷きになるか。失血が原因で意識を失うか。あるいは、空気がなくなってしまうか。いずれかは分からないけれど、たぶんそう遠くないうちに私は死んでしまうだろう。
――死。
むしろ望んでいたはずなのに。死による贖罪を願っていたはずなのに。目の前に死が迫っていると理解した途端に私の背中には怖気が走り、歯からカチカチと音が鳴り始めた。
覚悟はしていた。
覚悟はしていたのに、今の私は死を恐れていた。
あぁ、
私はなんて愚かだったのだろう。
なんて頑固で頑迷だったのだろう。
お母様は命をかけて私を救ってくださった。
お父様は、処刑された今も私を助けようとしてくれている。
その事実だけで十分だ。
二人のためにも、私は生きなきゃならなかったのに……。
――命を粗末にしてごめんなさい。
とっくの昔に気づいていたんです。被害に遭われた方々すら許してくださっているのに、それでも私が贖罪にこだわっているのは“逃げ”でしかないと。
恐かっただけなんです。
デーリン家の娘として、罪人の娘として、人の間(あいま)を生きていく勇気がなかっただけなんです。批判に立ち向かうことすらできない臆病さを、贖罪という綺麗事で飾り立てただけなんです。
ごめんなさい。
ワガママを言ってごめんなさい。
優しい心遣いを踏みにじってごめんなさい。
私は謝らないといけない。
お母様に。
お父様に。
ガルド様に。
リース様に。
私を心配してくださった皆様に。
そして何より。
こんな私の友達になってくださった――リリア様に。
不意に鼓動が乱れた。
今までにない恐怖が襲ってきた。
リリア様の笑顔を思い出した途端。私は涙を止めることができなくなってしまった。
あたまがいたい。
みぎてがいたい。
いきがくるしい。
状況は最悪。
お父様もずっと岩を支え続けることはできないだろう。
ガラリ、と。音を立てて岩壁の一部が崩れ落ちた。
いつ、この空間が押しつぶされても不思議ではない。
助けが来るのはいつだろう?
普通の人間では私がどこに埋まっているかすら分からないし、たとえ鑑定眼持ちが私の場所を見つけても、この空間が崩れないように岩を掘り返すのは不可能に近い。
いや、たとえ全力で掘り返したとしても、きっと私が失血死するか窒息死する方が早い。
もうすぐ私は死ぬだろう。
死んでしまったら、もう、謝れない。
会うこともできない。
お喋りすることも。
一緒に笑いあうことも。
もう、二度とできないのだ。
「――死にたくない」
私は立ち上がった。
「生きたい」
お父様の横に立ち、岩を支える手助けをする。
「もう一度、あなたと」
稟質魔法。
――無窮の腕。
「遊んだり、失敗したり、笑いあったりしたい」
地面から生えた無数の腕が巨石を支える。生きるために。もう一度、あの人に会うために。
「泣いてもいい。苦しんでもいい。悲しい目に遭ってもいい」
あなたと一緒なら。
私は、きっと大丈夫。
だから。
もう一度。
いいや、何度でも。
私は、あなたに会いたいんだ。
「リリア」
はじめて、敬称を付けずに名前を呼んだ。
友達だから。
名前を呼んだ。
そして、それと同時に――
「――貪り喰らうもの」
待ち望んでいた声を、聞いたような気がした。
応援ありがとうございます!
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