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投獄編
第1話 霧流し
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罪も涙も叫びも霧が遮る海。
使い古された小艇が漕ぎ手無く潮流に身を任せ、流されるままに元いた土地を遠ざかる。
船主は永遠に失われた全てを過去を想い項垂れる。
嵐の様な胸中にあっても波は静かに船を運び、一人乗りの小艇は流されるまま行き着くまま、暗い夜の海さえ越えて霧の中を進んでゆく。
朝が来てもまだ霧は深いが、海が目覚めたように波音を奏でる。
古い船は揺り籠の様な波に揺れ、次第に霧が晴れてゆく。
霧を抜ける頃には荒ぶる波の気配が近づき、これまで穏やかな海に抱かれていた小艇は、ギシギシと悲痛な悲鳴を上げて破片を荒波に剥ぎ取られてゆく。
「…」
船の主はただただ下を向いていた。
この船が木片に成り果てようとも、命ある肉体が海に投げ出されようとも、心にかかることはない、というように。そんな主でも年季の入った小艇は、岸に運びきることは出来ずとも、岸に届ける潮流に主を乗せることが出来た。
役目を全うした船は海底に沈み、船主は身体を強制的に運ばれる。
同じ状態の誰かにとっては幸運だった事だろう。
「…」
だが船主の瞳に希望は宿らない。
波に押されて海岸に流れ着くと、砂地に赤い海水がパタパタと落ちる。海水で口紅が溶けていた。
船主はそれを見下ろし過去を思い出した後、砂浜に倒れ込む。意識を失った訳ではなく、行き先も帰り先ももうどこにもないからだ。
砂に倒れた横顔に波が寄せて帰る。
唇より溶け出し、海面に揺蕩う赤い口紅は血の様にも見えた。船主はこのまま波に浚われてしまえばいいと目を閉じた。何日も眠っていなかった。異国も故郷も波の音は変わらない、それに戻らない嘗ての日々を想い出し波に意識を抱かれた。
国の端、海岸に面したこの町は漁業が盛んで、新鮮な海産物を目当てに多くの観光客が訪れる。
朝の市場には数時間前に水揚げされた品々が並び、近隣にある農場で採れた作物も人気の商品だ。
しかしこの街に訪れる人々の目当ての一番はそれらではない。
露店が並ぶ通りから一本外れた通りのアパートに、最近引っ越してきた親子が花壇に水やりをしている。娘はカバンから手帳を取り出すと、水をかけている父親に向かって見せる。
「ねえパパ、海岸で宿題をしてくるわ。いいでしょ?」
「おお~……気を付けてなぁ~」
娘は父親の許可を得ると、手帳をカバンに仕舞いなおして海岸に向かう。趣ある小路を抜け、町を囲う外壁伝いに海へと続く通路を通り階段を使って砂浜に下りる。娘は波打ち際辺りまで歩みを進めると、早速手帳を出して砂浜を歩き回る。
「海岸に打ち上げられている物を調べてみましょう……生き物が居たら町の図書館で調べて名前を記入…」
砂浜に落ちている貝やクラゲ、流れ着いた流木、砂浜で跳ねる謎の虫、娘は調べることは沢山ありそうだと、カバンを背負い直し気合を入れた。
「…丸くなったガラスに、網…またヒトデ…カニ…ヤドカリ…」
ザクザクと砂を踏みしめて端から端まで歩みを進めていく。
「誰かのボード……木の板……赤昆布…」
既に手帳の半分以上がイラストで埋まっている。もう少し詰めて書いた方がいいかと娘が思案していると、砂浜に打ち上げられている新たな何かを見つけた。
「これ赤昆布じゃない………人?」
娘は砂浜にしゃがみこむと、近くの棒切れで突っ突こうとして止めた。顔には赤みが差し、身体は上下し呼吸をしていた。生きている、そう判断した娘は立ち上がった。
「パパを呼んでこないと」
娘は小さな体で一生懸命に倒れている人物を引っ張り、波の当たらない場所に避難させると、一目散に家に向かって走って行った。その姿を見たとある人影はどうしたことかと思ったが、気にせず砂浜に下りてゆく。
船主が目を覚ましたのは娘が町中に入った後、何か身体が揺すられる感覚で目を覚ました。
懐を直接探られている。
薄く目を開けると、誰かの手とその掌に包まれている紅の入った貝殻が見えた。
「ちっ、これしかねえか…しけた死体だな」
若い男の声だった。
「装飾がしてあるからただの紛れ込んだ貝殻じゃあねえよな。中は……化粧用の口紅か?」
船主は頭を動かして男を見上げる。サンダルにシャツという軽装の年若い少年だ。少年は貝をポケットに入れると、その場を立ち去ろうとする。船主は紅が盗まれようとしていることに、慌てて意識を呼び戻す。それはただの口紅ではない。
「待っ……て」
「ん?」
微かに聞こえた船主の声に立ち止まる。少年は辺りを見て後ろを振り返ると、死体だと思っていた人間が目を開きこちらを見ている。オカルトの類を信じない少年は単純に生きていることに驚いたが、すぐにその瞳が貝殻の入っているポケットを見ていることに気づいた。まずい、そう思ったのが表情に現れると、すぐさま町に向かって走り出した。
「だめ……っ」
船主は疲れた身体をやっとのことで起こし、砂浜に膝をつく。砂だらけの白いワンピースは海水を存分に吸い込んで重くなっている。追いかける。
「……」
船主は立ち上がると少年が走って行った壁の方へ歩き出す。次第に聞こえてくる市井の賑わいに、後ろめたさを突かれながら浜から上がる階段を昇った。その足取りは重いが、一刻も早くあの紅を取り戻さなければならないと、船主は町へ足を踏み入れた。
町にある地元民が利用する喫茶店の一つ、「喫茶うみかぜ」は黒いサングラスをかけた強面の店主と、アルバイトの少女が切り盛りしている。現在客は1人。喫茶店向かいの、宝飾店の装飾技師の男が朝食に訪れていた。開け放たれた扉から心地よい海風が通り抜ける静かな店で、店主特製の海鮮料理とアルバイトの少女の料理練習に作った生魚の乗ったパンを食べる。男は視線を感じ二人のいるカウンターを見ると、店主は腕を組んで男を睨みつけ、少女は期待の眼差しで男を見ている。店主は暗に気を遣えと、少女は美味しいという言葉を待っている。
「……これは、なんていうか、わかる人にしかわからない味…だな」
「ええっ」
「…店で出すにはもっと万人向けの味じゃねえとな」
店主が上手く濁した客にコーヒーを一杯サービスする。アルバイト少女は、万人向けと言う言葉にまた新たなレシピを思いつき、礼を言って早々に厨房に戻っていった。残された店主と男は目を見合わせると、男が黙って差し出した皿から店主が一切れのパンを口に運ぶ。それは美味だと言われる基本的な味付けはされているが、今回は生臭さが勝った。
「コーヒーもいいが何かすっきりする飲み物くれるか」
「あいよ。なら最近開発したソルティー系の…」
店主が手早くドリンクを作り、その新商品を紹介しようとした時、コンコンと扉を叩く音がした。二人は出入り口の方を見ると、そこに居たのは町でも有名な悪ガキのユウトだった。ユウトは愛嬌のある笑みを二人に向けこんにちはと挨拶をする。店主は嫌そうな顔をして、男はようと言って手を上げる。
「ね、今日チャムは?」
「厨房で研究中だ。どうしたよ小僧」
「チャムにプレゼントがあってさぁ~、これ簡単な装飾だけど可愛いでしょ?」
ユウトはポケットから貝殻を取り出して見せる。
「へえ…ここら辺では見たことねえ柄の装飾だな」
「技師の兄さんもそう思う?偶然手に入れたんだけどさぁよく見たら可愛いかなって。それに中に紅が入ってて、チャムに似合いそうな色だから渡したくて」
ユウトから貝を受け取った技師の男は施された飾りを見る。ユウトの言うとおり表面を光沢が出るようコーティングし、貝とは異なる素材で上品な柄をあしらった逸品。中を開けると、貝のあわせの部分には上手く噛み合うように柔らかく軽度の吸着性のある素材で保護され、開こうとしない限り閉じたままになるように細工されている。
「丁寧な仕事だな。丈夫だし長持ちしそうだ」
「いい品ってこと?」
「ああ。いい趣味してるなユウト」
「へへ…その言葉、チャムの前でも言ってよ?ギャリアー宝飾店の店長さん」
ユウトは思いもよらぬ掘り出し物に内心ほくそ笑んだ。この貝殻を渡し、さらに町でも人気の装飾技師のギャリアーのお墨付きも貰えたのならばチャムも別れ話を撤回してくれるだろうと希望を抱く。チャムが出てくるのが待ちきれないユウトは店主のいるカウンターまで身を乗り出して、チャムを呼ぶ。それに対し迷惑そうにカウンターの隅に寄った店主は、ユウトにも一応コーヒーを出した。
「おっ、ありがとう!チャムのおじさん」
「…おいチャム、早く来てくれ!カウンターで叫ばれたらお客が帰っちまうよ!」
店主が厨房に向かって声をかける。しかし厨房からは包丁が規則的に振り下ろされる音しか聞こえない。一際大きな声で名を呼ぶと、チャムと呼ばれるアルバイトの少女が不機嫌そうに出てきた。手には包丁を持っている。
「何の用よ、ユウト」
「チャムに機嫌治してほしくてさ、会いに来たの」
「今仕事中だから来ないで。あたし前も言ったよね?」
「ごめんごめん。でもお客さんっていうより仲のいいご近所さんだけしかいないようだから、いいかなって」
「おい!」
「まぁ…落ち着けよウォーリー」
店主ウォーリーは痛い所を突かれて、苦し紛れで怒りをぶつける。この状況では言い返せる材料もなく、ただ常連客と言う名の近所の友人がその心中を察して諌めるばかり。この店は町の端の方にあり、観光客や地元住民が買い物で訪れるエリアと離れており、人目に付きにくいことがいまいち客足が伸びない理由である。ただ、店主の料理の腕と可愛らしい看板娘のおかげで、一度来た客はリピーターになることも多い。チャムが叔父であるウォーリーの店でバイトをしたいと思ったのも、叔父の料理の味に惚れ込んだという理由だ。
「飯はこの町でも一番美味いと思うぞ、俺は」
「ほら!町の外の都会から来たギャリアーさんだってこう言うんだから、きっかけさえあればこのお店も大盛況になるわよ!帰りなさい!今レシピの開発中なの」
チャムが手に持った包丁をチラつかせる。3人は包丁の表面に映る自分たちの姿に青ざめた。ユウトに帰った方がいいと2人が視線を送るが、若い恋を燃え上がらせた少年は包丁を横に押しのけながら、持ってきた装飾貝を差し出す。
「ま、まって!長居はしないからさ、これ受け取ってよ」
「……なに」
「可愛いでしょ?中にチャムに似合いそうな口紅が入ってるんだ。ね、つけて見せて」
チャムはユウトが持つ貝を少し眺めた後、包丁をカウンターに置いた。そしてユウトから貝を貰って開けると、綺麗な艶のある赤色紅が表面を整えて盛り付けられている。チャムの好みをよく知っているユウトの見立てに間違いはなかった。チャムは紅を指先で掬うと、包丁の表面に自分の姿を映して唇に塗る。再び包丁を手にしたチャムに緊張が走ったが、唇を見せようと包丁を下ろしたチャムの顔に、先ほどのような怒りはなかった。
「似合うよ、チャム」
「おう、別嬪さんだな」
「フン…当たり前だ。俺の姪だからな」
褒められてチャムも満更ではない様子で、それを見たユウトがチャムの腰に手を回す。二人は見詰め合い、店内の一角に甘い雰囲気が漂い始める。
「…別れるなんて言わないでよ、ね?」
「…保留」
「手厳しいなぁ」
2人の距離が近づく。これから姪とその元恋人とのいちゃいちゃが始まることを苦々しく思いながら店主は煙草に火をつける。ギャリ―は気を使って店を出ようと机にお代を置いて立ち上がる。
「チャム…」
「ユウト…」
別れた元恋人同士の唇が触れあう間際、店のドアを叩くような音がした。4人は入り口を見ると、そこには砂だらけの白いワンピースを着た、赤い長髪の女が立っていた。一歩店内に足を踏み出すと、ワンピースに染みた海水が床に水滴を垂らす。一歩、また一歩踏み出すごとに。その異様な姿に店内の3人は息をのんだ。特にギャリアーとウォーリーの驚きは別物だった。近くで見た女の目は暗く沈み、その顔は砂で汚れ青白くとも、唇だけは深い赤。不気味な佇まいだった。
「亡者だっ……!」
言葉を発したことで、一番目を惹いた店主の顔をじっと見る女。目が合ったウォーリーは、瞼を最大限開いて驚愕し、カウンターの椅子から転げ落ちた。ユウトはチャムを抱きしめ女に背を向ける。恋人を庇うようなその行動にチャムは胸をときめかせ、ユウトの背中をしっかりと抱きしめた。
「おい、大丈夫かウォーリー!」
「名前を呼ばねえでくれ!覚えられちまう!ああ…ゆ、幽霊だ…っ、俺の店に、幽霊……あああ…」
彼は厳つい見た目に反して怖がりだった。
「おっ、おお…おれ、おれをみた…!ねらいはおれなんだ……」
「……あんた、この人に何かしたのか?」
「知らねえよぉ…」
「はは…そんなに怖がらなくてもただの不審者でしょ。おじさんの代わりに警備隊に連絡してよ店長さん」
「まあ、こんな昼間に全員にはっきり見えてるしな」
ギャリ―が店の電話で連絡を取っていると、チャムが若干引き攣った顔で女に話しかけた。
「こ、この世に何か未練があるのですか…?」
「チャムっ話すな、奥に行ってよう」
ユウトがチャムと一緒にカウンター奥の居住スペースに隠れようと移動を促す。警備隊に連絡を終えたギャリア―は、チャム達と女の間に立ち警戒する。女はギャリア―の顔を見て、チャムの顔を見て口を開いた。
「未練…もう無いようなものだけれど、探し物があるの…」
女はチャムの唇を見る。
「その口紅…綺麗な発色の。それが中に入った貝殻を探しているの…」
ユウトの肩が跳ねる。ギャリアーはその瞬間の様子を見ていた。
「……失くしたのか?」
「盗まれてしまった……背を向けているその少年くらいの子に」
「っユウト!あんた…!?」
チャムはユウトから身体を離そうとする。しかしユウトは暴れるチャムを抱きしめたまま離さない。
「何言ってるの?チャムにプレゼントしたのは市場に居た観光客から貰ったものだよ。とてもいい人で、これを付けてキスしたら永遠に結ばれるなんて話が」
調子良く回る舌は、女に嫌な記憶を思い出させる。一刻も早く貝殻を回収してこの地を離れたい。
「返しなさい」
一際強い声で迫られてもユウトは動じない。それどころかチャムに顔を近づけて先ほどの続きをしようとしている。貝殻から紅を薄く掬ってチャムの唇に付け直す。そして口付けをかわそうと頬を包む。
「ダメッ…!」
女は2人に近づこうとするが、ギャリアーが女を後ろから捕まえた。
「これは…」
女の背面を見たギャリアーは驚いた。女の腕は後ろ手に縄で縛られていた。ユウトに疑念を抱いていたチャムも、縛られた女の姿にどちらが正しいことを言っているのかわからなくなる。カウンターの陰から女を伺っていたウォーリーの思考は飛躍する。
「罪人だ…!処刑された罪人の霊だ…!」
「ウォーリー…霊ってのはこんな易々捕まるもんなのか…?」
「離してっ…」
「ユウト……」
「騙されないで、こっちを見て…チャム」
ギャリアーから逃れられないと悟った女は、最悪の事態だけは避けようと、口紅の秘密を話す。
「その紅は、毒!体内に入ると死んでしまう!」
「毒……?」
「ハッ…苦し紛れだな。この通りチャムは元気いっぱいだよ」
「……」
いくらなんでも突飛な話で、ギャリアーは女の言うことを信じることはできなかった。かと言ってユウトも信じ切れない。ギャリアーは女の耳元でコソコソと話をする。
「……大人しく警備隊が来るのを待ってな。その紅の入った貝があんたのもんなのか、ユウトの言ってたことが本当なのかちゃんと調べて貰え。あの生真面目な隊長さんなら、公平に見てくれるだろう」
「……なら、あの2人に離れているように言って。私からじゃだめみたいだから…」
「……本当なのか、あの紅の毒って」
「本当…。あの女の子が無事なのは、その毒が女には効きにくいだけで、危ないのはむしろあの泥棒の少年…」
「……おい、チャムにユウト。イチャつくのは警備隊が真偽をはっきりさせた後にしろ。チャムはウォーリーを起こしてやって」
ギャリアーの言葉はユウトを焦らせる。真実がこの女に証明できる筈がないとたかを括ってはいたものの、あの警備隊長ならば女の話も聞き、証明の為現在町にいる観光客全員に聞き込みをしたとて不思議ではない。
「チャム、僕のこと好きだよね、ね?」
「……う、うん、そりゃあ…好き、だけど…」
「諦めてないわよ、あの子…」
「チャムの方も混乱してるな……、何か証明する手段はないのか?金属で色が変わるとか…」
「…」
女はギャリアーを見る。方法はある、簡単なものが。
「…あの子から紅を取り戻せる?」
「無理だろうな…お前を捕まえてなきゃいけないし、ユウトはすばしっこい。ウォーリーはビビって腰が抜けてる」
「なら、もう一つしかないわね……」
女はギャリアーの腕の中で身を翻す。
「…大分薄まっているから、すぐに処置すれば助かる。ここは海が近いから…」
「…どうするつもりだ」
「そこのあなた…」
「ひぃぃぃっ!」
罪人の霊だと思っている女の視線を受けたウォーリーは床を這って厨房に逃げようとする。
「…この人が倒れたら、すぐ塩水を飲ませてあげて」
「し、塩水…?」
ユウトは愛嬌のある笑みを向けてチャムの警戒心を解く。暴れていたチャムは大人しくなり、額に口付けを受けている。
「…泥棒の少年!」
女が声を張り上げる。その声は通りまで聞こえており、店の近くまで来ていた警備隊は中で何かが起こっていると判断し、急いで店に向かう。
「…なに?」
「毒の証明をするわ……」
「どうやって?僕たちのキス?」
「…それじゃああなたが死んでしまう」
「真っ赤な嘘!なら僕自ら証明してやるよ」
ユウトは唇を近づける。
「この紅の名前は、" 毒蛇の口付け"……死に至る蛇毒」
女はギャリアーに小さな声で謝ると、唇を軽く舌でなぞり、踵を少し上げて顔を傾ける。それと同時に警備隊が店のドアの前に辿り着いた。
「んっ……!?」
ギャリアーの唇には女の唇が触れている。呆気に取られるギャリアーと、店内の3人、そして警備隊の男。冷たい舌の感触を僅かに感じて、ギャリアーは目を見開く。女は目を瞑るでもなく、ギャリアーの驚きが感じ取れる瞳を真っ直ぐに見据えていた。女がギャリアーの瞳を覗くように、ギャリアーも女の瞳を覗き込む。女は目を細め眉間に力が入っており、少しだけ苦しそうな気がした。その光景が意識を失う前の最後に見た景色である。急に力が抜けたようにギャリアーが女の身体にもたれ掛かり床に滑り落ちる。
「きゃあっ!!」
「……っひ」
悲鳴を上げるチャムと、突き飛ばすかのようにチャムから離れるユウト。毒の存在が真実と知り一気に青ざめる。女は店内の3人に向かって命令する。
「急いで塩水を飲ませてっ…!そうすれば間に合う、目を覚ます…っ」
「あ、ああ!…だ、たてないっ…」
「塩塩塩、さっき全部使っちゃったよっ…!」
腰を抜かしてるウォーリーを飛び越えてチャムが厨房に走る。調味料の保管されている棚を片っ端から開くが、塩は見つからない。
「おじさんっ!塩ないよぉ!」
「じゃ、じゃあ海だ!海に投げ込んで…!」
「私が投げ込んでくる…!この縄を外して…!」
「ばっ、できるか!その格好生き死には置いといて、どう見ても罪人だろ!?何するかわかったもんじゃねえ!」
「で、でもギャリアーが!」
混乱に陥る店内。ユウトは巻き込まれるのはごめんだと、警備隊の横をすり抜けて町の人混みに紛れる。
「そ、そうだ!その、カウンターに置いてある飲み物!それも塩使ってんだ!塩!」
「お姉さん!これでもいいっ!?」
「いいっ…!!」
チャムは並々と注がれたドリンクをギャリアーの口に流し込んでゆく。
「気管に詰まらせると悪いから、少しずつだぞ!」
「う、うん…!」
「…」
女は動かなくなったギャリアーを心配そうに見下ろす。店主ウォーリーは、近くにあった短いマドラーを隠し持ち、女の様子をずっと窺っていた。腰が抜けて立てない状況でも、可愛い姪と友人を守らなければならない。しかしそれは杞憂かもしれないと、女のこれまでの行動を見て思った。
「う……」
「ギャリアー!」
「……大丈夫?」
「…おかげさまで」
ギャリアーが身体を起こすと、床に尻を付けて移動するウォーリーが近づいてくる。ウォーリーは、ギャリアーの無事を確認すると、涙ぐむチャムの肩を抱いて落ち着くよう声をかける。ギャリアーはチャムの手から貝殻を受け取ると、女に差し出した。
「疑って悪かった。これ本当にあんたのものだったんだな、返すよ」
「……ええ。こちらもあなたに毒を…」
女は仕方なしにとはいえ、口紅の毒を含ませてしまったことを謝ろうとした。店内には緊迫した空気から一変して、一件落着とばかりに空気が和もうとしていた。
「自供したな。貴様を殺人未遂の罪で逮捕する」
水を差したのは店の外で事の成り行きを見ていた警備隊の男。制帽を目深にかぶり、垣間見える鋭く吊り上った目が威圧感を感じさせる警備隊長が女を拘束した。
「……」
女は無抵抗で貝殻を見ている。これが犯人の持ち物であるとして警備隊長はギャリアーの手から貝殻を回収すると、懐に仕舞った。
「詳しい話は警備隊詰所で聞こう。後程ここへ聞き取りの警備隊ランかユンをやる。本日の聴取が終わるまで全員この店を出ぬように!」
警備隊長は女を連れ立って店を出ようとする。
「待ってくれ、俺は大丈夫だ。その人も別に俺を殺す気はない…!離してやってくれ」
「そう…!そもそもユウトが、そのお姉さんのものを取ったの…!」
ギャリアーとチャムの懇願を聞き、足を止め振り返る。しかし警備隊長はその目で女がギャリア―に唇を付け、その後すぐにギャリア―が倒れるのを見ている。
「…罪は罪。だが被害者の意向として、覚えておこう」
警備隊長は女を連れて行ってしまった。
残された3人はこれからどうなるのかと顔を見合わせた。
町の人々は警備隊長が女を連行している姿を見て何事かと遠巻きに眺める。その中には海岸で女を見つけた少女とその父親も居た。
「パパ、あの人…!生きてる!」
「ほっ……良かったなぁ~…」
「でも警備隊長のグンカさんに捕まってる…悪い人だったの?」
「デートだったりするのかなあ」
「相手を縛りつけて町中を歩かせるのをデートと呼ぶ人がどこにいるのよ」
「う~ん…でもママが生きてた頃は、パパがあまりにも迷子になるものだから…デートで人混みに行くときは紐をつけてたよ~」
「パパ…こんな平和な港町でも…パパはあたしが守らないと…」
決意を新たにする娘と呑気な父親の横を通り過ぎて、二人は町の出入り口近くの詰所に向かう。聴取を速やかに進めるため、道中で必要な情報を聞き出すことにした。
「貴様、名は?」
「……ニス」
警備隊長のグンカは、一度名前を繰り返して呼んでみる。それからどこから来たのか尋ねた。その質問には海の向こうだとか霧の先だと答え、グンカを苛立たせる。
町に流れ着いた船主ニスは、その日のうちに冷たい牢に投獄された。
使い古された小艇が漕ぎ手無く潮流に身を任せ、流されるままに元いた土地を遠ざかる。
船主は永遠に失われた全てを過去を想い項垂れる。
嵐の様な胸中にあっても波は静かに船を運び、一人乗りの小艇は流されるまま行き着くまま、暗い夜の海さえ越えて霧の中を進んでゆく。
朝が来てもまだ霧は深いが、海が目覚めたように波音を奏でる。
古い船は揺り籠の様な波に揺れ、次第に霧が晴れてゆく。
霧を抜ける頃には荒ぶる波の気配が近づき、これまで穏やかな海に抱かれていた小艇は、ギシギシと悲痛な悲鳴を上げて破片を荒波に剥ぎ取られてゆく。
「…」
船の主はただただ下を向いていた。
この船が木片に成り果てようとも、命ある肉体が海に投げ出されようとも、心にかかることはない、というように。そんな主でも年季の入った小艇は、岸に運びきることは出来ずとも、岸に届ける潮流に主を乗せることが出来た。
役目を全うした船は海底に沈み、船主は身体を強制的に運ばれる。
同じ状態の誰かにとっては幸運だった事だろう。
「…」
だが船主の瞳に希望は宿らない。
波に押されて海岸に流れ着くと、砂地に赤い海水がパタパタと落ちる。海水で口紅が溶けていた。
船主はそれを見下ろし過去を思い出した後、砂浜に倒れ込む。意識を失った訳ではなく、行き先も帰り先ももうどこにもないからだ。
砂に倒れた横顔に波が寄せて帰る。
唇より溶け出し、海面に揺蕩う赤い口紅は血の様にも見えた。船主はこのまま波に浚われてしまえばいいと目を閉じた。何日も眠っていなかった。異国も故郷も波の音は変わらない、それに戻らない嘗ての日々を想い出し波に意識を抱かれた。
国の端、海岸に面したこの町は漁業が盛んで、新鮮な海産物を目当てに多くの観光客が訪れる。
朝の市場には数時間前に水揚げされた品々が並び、近隣にある農場で採れた作物も人気の商品だ。
しかしこの街に訪れる人々の目当ての一番はそれらではない。
露店が並ぶ通りから一本外れた通りのアパートに、最近引っ越してきた親子が花壇に水やりをしている。娘はカバンから手帳を取り出すと、水をかけている父親に向かって見せる。
「ねえパパ、海岸で宿題をしてくるわ。いいでしょ?」
「おお~……気を付けてなぁ~」
娘は父親の許可を得ると、手帳をカバンに仕舞いなおして海岸に向かう。趣ある小路を抜け、町を囲う外壁伝いに海へと続く通路を通り階段を使って砂浜に下りる。娘は波打ち際辺りまで歩みを進めると、早速手帳を出して砂浜を歩き回る。
「海岸に打ち上げられている物を調べてみましょう……生き物が居たら町の図書館で調べて名前を記入…」
砂浜に落ちている貝やクラゲ、流れ着いた流木、砂浜で跳ねる謎の虫、娘は調べることは沢山ありそうだと、カバンを背負い直し気合を入れた。
「…丸くなったガラスに、網…またヒトデ…カニ…ヤドカリ…」
ザクザクと砂を踏みしめて端から端まで歩みを進めていく。
「誰かのボード……木の板……赤昆布…」
既に手帳の半分以上がイラストで埋まっている。もう少し詰めて書いた方がいいかと娘が思案していると、砂浜に打ち上げられている新たな何かを見つけた。
「これ赤昆布じゃない………人?」
娘は砂浜にしゃがみこむと、近くの棒切れで突っ突こうとして止めた。顔には赤みが差し、身体は上下し呼吸をしていた。生きている、そう判断した娘は立ち上がった。
「パパを呼んでこないと」
娘は小さな体で一生懸命に倒れている人物を引っ張り、波の当たらない場所に避難させると、一目散に家に向かって走って行った。その姿を見たとある人影はどうしたことかと思ったが、気にせず砂浜に下りてゆく。
船主が目を覚ましたのは娘が町中に入った後、何か身体が揺すられる感覚で目を覚ました。
懐を直接探られている。
薄く目を開けると、誰かの手とその掌に包まれている紅の入った貝殻が見えた。
「ちっ、これしかねえか…しけた死体だな」
若い男の声だった。
「装飾がしてあるからただの紛れ込んだ貝殻じゃあねえよな。中は……化粧用の口紅か?」
船主は頭を動かして男を見上げる。サンダルにシャツという軽装の年若い少年だ。少年は貝をポケットに入れると、その場を立ち去ろうとする。船主は紅が盗まれようとしていることに、慌てて意識を呼び戻す。それはただの口紅ではない。
「待っ……て」
「ん?」
微かに聞こえた船主の声に立ち止まる。少年は辺りを見て後ろを振り返ると、死体だと思っていた人間が目を開きこちらを見ている。オカルトの類を信じない少年は単純に生きていることに驚いたが、すぐにその瞳が貝殻の入っているポケットを見ていることに気づいた。まずい、そう思ったのが表情に現れると、すぐさま町に向かって走り出した。
「だめ……っ」
船主は疲れた身体をやっとのことで起こし、砂浜に膝をつく。砂だらけの白いワンピースは海水を存分に吸い込んで重くなっている。追いかける。
「……」
船主は立ち上がると少年が走って行った壁の方へ歩き出す。次第に聞こえてくる市井の賑わいに、後ろめたさを突かれながら浜から上がる階段を昇った。その足取りは重いが、一刻も早くあの紅を取り戻さなければならないと、船主は町へ足を踏み入れた。
町にある地元民が利用する喫茶店の一つ、「喫茶うみかぜ」は黒いサングラスをかけた強面の店主と、アルバイトの少女が切り盛りしている。現在客は1人。喫茶店向かいの、宝飾店の装飾技師の男が朝食に訪れていた。開け放たれた扉から心地よい海風が通り抜ける静かな店で、店主特製の海鮮料理とアルバイトの少女の料理練習に作った生魚の乗ったパンを食べる。男は視線を感じ二人のいるカウンターを見ると、店主は腕を組んで男を睨みつけ、少女は期待の眼差しで男を見ている。店主は暗に気を遣えと、少女は美味しいという言葉を待っている。
「……これは、なんていうか、わかる人にしかわからない味…だな」
「ええっ」
「…店で出すにはもっと万人向けの味じゃねえとな」
店主が上手く濁した客にコーヒーを一杯サービスする。アルバイト少女は、万人向けと言う言葉にまた新たなレシピを思いつき、礼を言って早々に厨房に戻っていった。残された店主と男は目を見合わせると、男が黙って差し出した皿から店主が一切れのパンを口に運ぶ。それは美味だと言われる基本的な味付けはされているが、今回は生臭さが勝った。
「コーヒーもいいが何かすっきりする飲み物くれるか」
「あいよ。なら最近開発したソルティー系の…」
店主が手早くドリンクを作り、その新商品を紹介しようとした時、コンコンと扉を叩く音がした。二人は出入り口の方を見ると、そこに居たのは町でも有名な悪ガキのユウトだった。ユウトは愛嬌のある笑みを二人に向けこんにちはと挨拶をする。店主は嫌そうな顔をして、男はようと言って手を上げる。
「ね、今日チャムは?」
「厨房で研究中だ。どうしたよ小僧」
「チャムにプレゼントがあってさぁ~、これ簡単な装飾だけど可愛いでしょ?」
ユウトはポケットから貝殻を取り出して見せる。
「へえ…ここら辺では見たことねえ柄の装飾だな」
「技師の兄さんもそう思う?偶然手に入れたんだけどさぁよく見たら可愛いかなって。それに中に紅が入ってて、チャムに似合いそうな色だから渡したくて」
ユウトから貝を受け取った技師の男は施された飾りを見る。ユウトの言うとおり表面を光沢が出るようコーティングし、貝とは異なる素材で上品な柄をあしらった逸品。中を開けると、貝のあわせの部分には上手く噛み合うように柔らかく軽度の吸着性のある素材で保護され、開こうとしない限り閉じたままになるように細工されている。
「丁寧な仕事だな。丈夫だし長持ちしそうだ」
「いい品ってこと?」
「ああ。いい趣味してるなユウト」
「へへ…その言葉、チャムの前でも言ってよ?ギャリアー宝飾店の店長さん」
ユウトは思いもよらぬ掘り出し物に内心ほくそ笑んだ。この貝殻を渡し、さらに町でも人気の装飾技師のギャリアーのお墨付きも貰えたのならばチャムも別れ話を撤回してくれるだろうと希望を抱く。チャムが出てくるのが待ちきれないユウトは店主のいるカウンターまで身を乗り出して、チャムを呼ぶ。それに対し迷惑そうにカウンターの隅に寄った店主は、ユウトにも一応コーヒーを出した。
「おっ、ありがとう!チャムのおじさん」
「…おいチャム、早く来てくれ!カウンターで叫ばれたらお客が帰っちまうよ!」
店主が厨房に向かって声をかける。しかし厨房からは包丁が規則的に振り下ろされる音しか聞こえない。一際大きな声で名を呼ぶと、チャムと呼ばれるアルバイトの少女が不機嫌そうに出てきた。手には包丁を持っている。
「何の用よ、ユウト」
「チャムに機嫌治してほしくてさ、会いに来たの」
「今仕事中だから来ないで。あたし前も言ったよね?」
「ごめんごめん。でもお客さんっていうより仲のいいご近所さんだけしかいないようだから、いいかなって」
「おい!」
「まぁ…落ち着けよウォーリー」
店主ウォーリーは痛い所を突かれて、苦し紛れで怒りをぶつける。この状況では言い返せる材料もなく、ただ常連客と言う名の近所の友人がその心中を察して諌めるばかり。この店は町の端の方にあり、観光客や地元住民が買い物で訪れるエリアと離れており、人目に付きにくいことがいまいち客足が伸びない理由である。ただ、店主の料理の腕と可愛らしい看板娘のおかげで、一度来た客はリピーターになることも多い。チャムが叔父であるウォーリーの店でバイトをしたいと思ったのも、叔父の料理の味に惚れ込んだという理由だ。
「飯はこの町でも一番美味いと思うぞ、俺は」
「ほら!町の外の都会から来たギャリアーさんだってこう言うんだから、きっかけさえあればこのお店も大盛況になるわよ!帰りなさい!今レシピの開発中なの」
チャムが手に持った包丁をチラつかせる。3人は包丁の表面に映る自分たちの姿に青ざめた。ユウトに帰った方がいいと2人が視線を送るが、若い恋を燃え上がらせた少年は包丁を横に押しのけながら、持ってきた装飾貝を差し出す。
「ま、まって!長居はしないからさ、これ受け取ってよ」
「……なに」
「可愛いでしょ?中にチャムに似合いそうな口紅が入ってるんだ。ね、つけて見せて」
チャムはユウトが持つ貝を少し眺めた後、包丁をカウンターに置いた。そしてユウトから貝を貰って開けると、綺麗な艶のある赤色紅が表面を整えて盛り付けられている。チャムの好みをよく知っているユウトの見立てに間違いはなかった。チャムは紅を指先で掬うと、包丁の表面に自分の姿を映して唇に塗る。再び包丁を手にしたチャムに緊張が走ったが、唇を見せようと包丁を下ろしたチャムの顔に、先ほどのような怒りはなかった。
「似合うよ、チャム」
「おう、別嬪さんだな」
「フン…当たり前だ。俺の姪だからな」
褒められてチャムも満更ではない様子で、それを見たユウトがチャムの腰に手を回す。二人は見詰め合い、店内の一角に甘い雰囲気が漂い始める。
「…別れるなんて言わないでよ、ね?」
「…保留」
「手厳しいなぁ」
2人の距離が近づく。これから姪とその元恋人とのいちゃいちゃが始まることを苦々しく思いながら店主は煙草に火をつける。ギャリ―は気を使って店を出ようと机にお代を置いて立ち上がる。
「チャム…」
「ユウト…」
別れた元恋人同士の唇が触れあう間際、店のドアを叩くような音がした。4人は入り口を見ると、そこには砂だらけの白いワンピースを着た、赤い長髪の女が立っていた。一歩店内に足を踏み出すと、ワンピースに染みた海水が床に水滴を垂らす。一歩、また一歩踏み出すごとに。その異様な姿に店内の3人は息をのんだ。特にギャリアーとウォーリーの驚きは別物だった。近くで見た女の目は暗く沈み、その顔は砂で汚れ青白くとも、唇だけは深い赤。不気味な佇まいだった。
「亡者だっ……!」
言葉を発したことで、一番目を惹いた店主の顔をじっと見る女。目が合ったウォーリーは、瞼を最大限開いて驚愕し、カウンターの椅子から転げ落ちた。ユウトはチャムを抱きしめ女に背を向ける。恋人を庇うようなその行動にチャムは胸をときめかせ、ユウトの背中をしっかりと抱きしめた。
「おい、大丈夫かウォーリー!」
「名前を呼ばねえでくれ!覚えられちまう!ああ…ゆ、幽霊だ…っ、俺の店に、幽霊……あああ…」
彼は厳つい見た目に反して怖がりだった。
「おっ、おお…おれ、おれをみた…!ねらいはおれなんだ……」
「……あんた、この人に何かしたのか?」
「知らねえよぉ…」
「はは…そんなに怖がらなくてもただの不審者でしょ。おじさんの代わりに警備隊に連絡してよ店長さん」
「まあ、こんな昼間に全員にはっきり見えてるしな」
ギャリ―が店の電話で連絡を取っていると、チャムが若干引き攣った顔で女に話しかけた。
「こ、この世に何か未練があるのですか…?」
「チャムっ話すな、奥に行ってよう」
ユウトがチャムと一緒にカウンター奥の居住スペースに隠れようと移動を促す。警備隊に連絡を終えたギャリア―は、チャム達と女の間に立ち警戒する。女はギャリア―の顔を見て、チャムの顔を見て口を開いた。
「未練…もう無いようなものだけれど、探し物があるの…」
女はチャムの唇を見る。
「その口紅…綺麗な発色の。それが中に入った貝殻を探しているの…」
ユウトの肩が跳ねる。ギャリアーはその瞬間の様子を見ていた。
「……失くしたのか?」
「盗まれてしまった……背を向けているその少年くらいの子に」
「っユウト!あんた…!?」
チャムはユウトから身体を離そうとする。しかしユウトは暴れるチャムを抱きしめたまま離さない。
「何言ってるの?チャムにプレゼントしたのは市場に居た観光客から貰ったものだよ。とてもいい人で、これを付けてキスしたら永遠に結ばれるなんて話が」
調子良く回る舌は、女に嫌な記憶を思い出させる。一刻も早く貝殻を回収してこの地を離れたい。
「返しなさい」
一際強い声で迫られてもユウトは動じない。それどころかチャムに顔を近づけて先ほどの続きをしようとしている。貝殻から紅を薄く掬ってチャムの唇に付け直す。そして口付けをかわそうと頬を包む。
「ダメッ…!」
女は2人に近づこうとするが、ギャリアーが女を後ろから捕まえた。
「これは…」
女の背面を見たギャリアーは驚いた。女の腕は後ろ手に縄で縛られていた。ユウトに疑念を抱いていたチャムも、縛られた女の姿にどちらが正しいことを言っているのかわからなくなる。カウンターの陰から女を伺っていたウォーリーの思考は飛躍する。
「罪人だ…!処刑された罪人の霊だ…!」
「ウォーリー…霊ってのはこんな易々捕まるもんなのか…?」
「離してっ…」
「ユウト……」
「騙されないで、こっちを見て…チャム」
ギャリアーから逃れられないと悟った女は、最悪の事態だけは避けようと、口紅の秘密を話す。
「その紅は、毒!体内に入ると死んでしまう!」
「毒……?」
「ハッ…苦し紛れだな。この通りチャムは元気いっぱいだよ」
「……」
いくらなんでも突飛な話で、ギャリアーは女の言うことを信じることはできなかった。かと言ってユウトも信じ切れない。ギャリアーは女の耳元でコソコソと話をする。
「……大人しく警備隊が来るのを待ってな。その紅の入った貝があんたのもんなのか、ユウトの言ってたことが本当なのかちゃんと調べて貰え。あの生真面目な隊長さんなら、公平に見てくれるだろう」
「……なら、あの2人に離れているように言って。私からじゃだめみたいだから…」
「……本当なのか、あの紅の毒って」
「本当…。あの女の子が無事なのは、その毒が女には効きにくいだけで、危ないのはむしろあの泥棒の少年…」
「……おい、チャムにユウト。イチャつくのは警備隊が真偽をはっきりさせた後にしろ。チャムはウォーリーを起こしてやって」
ギャリアーの言葉はユウトを焦らせる。真実がこの女に証明できる筈がないとたかを括ってはいたものの、あの警備隊長ならば女の話も聞き、証明の為現在町にいる観光客全員に聞き込みをしたとて不思議ではない。
「チャム、僕のこと好きだよね、ね?」
「……う、うん、そりゃあ…好き、だけど…」
「諦めてないわよ、あの子…」
「チャムの方も混乱してるな……、何か証明する手段はないのか?金属で色が変わるとか…」
「…」
女はギャリアーを見る。方法はある、簡単なものが。
「…あの子から紅を取り戻せる?」
「無理だろうな…お前を捕まえてなきゃいけないし、ユウトはすばしっこい。ウォーリーはビビって腰が抜けてる」
「なら、もう一つしかないわね……」
女はギャリアーの腕の中で身を翻す。
「…大分薄まっているから、すぐに処置すれば助かる。ここは海が近いから…」
「…どうするつもりだ」
「そこのあなた…」
「ひぃぃぃっ!」
罪人の霊だと思っている女の視線を受けたウォーリーは床を這って厨房に逃げようとする。
「…この人が倒れたら、すぐ塩水を飲ませてあげて」
「し、塩水…?」
ユウトは愛嬌のある笑みを向けてチャムの警戒心を解く。暴れていたチャムは大人しくなり、額に口付けを受けている。
「…泥棒の少年!」
女が声を張り上げる。その声は通りまで聞こえており、店の近くまで来ていた警備隊は中で何かが起こっていると判断し、急いで店に向かう。
「…なに?」
「毒の証明をするわ……」
「どうやって?僕たちのキス?」
「…それじゃああなたが死んでしまう」
「真っ赤な嘘!なら僕自ら証明してやるよ」
ユウトは唇を近づける。
「この紅の名前は、" 毒蛇の口付け"……死に至る蛇毒」
女はギャリアーに小さな声で謝ると、唇を軽く舌でなぞり、踵を少し上げて顔を傾ける。それと同時に警備隊が店のドアの前に辿り着いた。
「んっ……!?」
ギャリアーの唇には女の唇が触れている。呆気に取られるギャリアーと、店内の3人、そして警備隊の男。冷たい舌の感触を僅かに感じて、ギャリアーは目を見開く。女は目を瞑るでもなく、ギャリアーの驚きが感じ取れる瞳を真っ直ぐに見据えていた。女がギャリアーの瞳を覗くように、ギャリアーも女の瞳を覗き込む。女は目を細め眉間に力が入っており、少しだけ苦しそうな気がした。その光景が意識を失う前の最後に見た景色である。急に力が抜けたようにギャリアーが女の身体にもたれ掛かり床に滑り落ちる。
「きゃあっ!!」
「……っひ」
悲鳴を上げるチャムと、突き飛ばすかのようにチャムから離れるユウト。毒の存在が真実と知り一気に青ざめる。女は店内の3人に向かって命令する。
「急いで塩水を飲ませてっ…!そうすれば間に合う、目を覚ます…っ」
「あ、ああ!…だ、たてないっ…」
「塩塩塩、さっき全部使っちゃったよっ…!」
腰を抜かしてるウォーリーを飛び越えてチャムが厨房に走る。調味料の保管されている棚を片っ端から開くが、塩は見つからない。
「おじさんっ!塩ないよぉ!」
「じゃ、じゃあ海だ!海に投げ込んで…!」
「私が投げ込んでくる…!この縄を外して…!」
「ばっ、できるか!その格好生き死には置いといて、どう見ても罪人だろ!?何するかわかったもんじゃねえ!」
「で、でもギャリアーが!」
混乱に陥る店内。ユウトは巻き込まれるのはごめんだと、警備隊の横をすり抜けて町の人混みに紛れる。
「そ、そうだ!その、カウンターに置いてある飲み物!それも塩使ってんだ!塩!」
「お姉さん!これでもいいっ!?」
「いいっ…!!」
チャムは並々と注がれたドリンクをギャリアーの口に流し込んでゆく。
「気管に詰まらせると悪いから、少しずつだぞ!」
「う、うん…!」
「…」
女は動かなくなったギャリアーを心配そうに見下ろす。店主ウォーリーは、近くにあった短いマドラーを隠し持ち、女の様子をずっと窺っていた。腰が抜けて立てない状況でも、可愛い姪と友人を守らなければならない。しかしそれは杞憂かもしれないと、女のこれまでの行動を見て思った。
「う……」
「ギャリアー!」
「……大丈夫?」
「…おかげさまで」
ギャリアーが身体を起こすと、床に尻を付けて移動するウォーリーが近づいてくる。ウォーリーは、ギャリアーの無事を確認すると、涙ぐむチャムの肩を抱いて落ち着くよう声をかける。ギャリアーはチャムの手から貝殻を受け取ると、女に差し出した。
「疑って悪かった。これ本当にあんたのものだったんだな、返すよ」
「……ええ。こちらもあなたに毒を…」
女は仕方なしにとはいえ、口紅の毒を含ませてしまったことを謝ろうとした。店内には緊迫した空気から一変して、一件落着とばかりに空気が和もうとしていた。
「自供したな。貴様を殺人未遂の罪で逮捕する」
水を差したのは店の外で事の成り行きを見ていた警備隊の男。制帽を目深にかぶり、垣間見える鋭く吊り上った目が威圧感を感じさせる警備隊長が女を拘束した。
「……」
女は無抵抗で貝殻を見ている。これが犯人の持ち物であるとして警備隊長はギャリアーの手から貝殻を回収すると、懐に仕舞った。
「詳しい話は警備隊詰所で聞こう。後程ここへ聞き取りの警備隊ランかユンをやる。本日の聴取が終わるまで全員この店を出ぬように!」
警備隊長は女を連れ立って店を出ようとする。
「待ってくれ、俺は大丈夫だ。その人も別に俺を殺す気はない…!離してやってくれ」
「そう…!そもそもユウトが、そのお姉さんのものを取ったの…!」
ギャリアーとチャムの懇願を聞き、足を止め振り返る。しかし警備隊長はその目で女がギャリア―に唇を付け、その後すぐにギャリア―が倒れるのを見ている。
「…罪は罪。だが被害者の意向として、覚えておこう」
警備隊長は女を連れて行ってしまった。
残された3人はこれからどうなるのかと顔を見合わせた。
町の人々は警備隊長が女を連行している姿を見て何事かと遠巻きに眺める。その中には海岸で女を見つけた少女とその父親も居た。
「パパ、あの人…!生きてる!」
「ほっ……良かったなぁ~…」
「でも警備隊長のグンカさんに捕まってる…悪い人だったの?」
「デートだったりするのかなあ」
「相手を縛りつけて町中を歩かせるのをデートと呼ぶ人がどこにいるのよ」
「う~ん…でもママが生きてた頃は、パパがあまりにも迷子になるものだから…デートで人混みに行くときは紐をつけてたよ~」
「パパ…こんな平和な港町でも…パパはあたしが守らないと…」
決意を新たにする娘と呑気な父親の横を通り過ぎて、二人は町の出入り口近くの詰所に向かう。聴取を速やかに進めるため、道中で必要な情報を聞き出すことにした。
「貴様、名は?」
「……ニス」
警備隊長のグンカは、一度名前を繰り返して呼んでみる。それからどこから来たのか尋ねた。その質問には海の向こうだとか霧の先だと答え、グンカを苛立たせる。
町に流れ着いた船主ニスは、その日のうちに冷たい牢に投獄された。
応援ありがとうございます!
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