慰めの山宿

ど三一

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 雪が静かに降り続く険しい山中、白の絶景に異彩が2匹。まっさらな雪上を躍動するしなやかな筋肉が駆け抜ける度に飛沫のように宙に舞う白雪。視界は良くはない。ただでさえ薄い色をした毛がだんだんと景色と境がなくなって、少し強い風でも吹けば吹雪に混じってあっという間に姿を見失うだろう。自ら雪を身に擦り込み、白化粧した木々の間に潜んで、ただただじっと待つ。年々威勢がなくなってゆく身体は、狩りの仕方を変えた。全身の筋肉を、体力を惜しみなく使えた頃は過ぎ、今は頭を使わねば獲物を狩れない。近くに住む若い者たちは既に各々の寝ぐらで眠りについているだろう。獲物の極端に少なくなる寒季に入ったこの深山で肉を得られる機会はそうはない。小鳥は雪に紛れ、白兎は足跡を残し姿を現さない。若い者たちはせっせと実りを溜め込み、難なくこの冬を越えていく。寒季の厳しさが身に染みるのは衰えが始まった頃である。誇り高き黒い毛皮を白く染めた熊は、隙を狙い、研いだ斧を獲物に向かって投げ、前足を切り落とした。鮮血がたらたらと雪を赤黒く染める。ひょこひょこと歩き悲鳴を上げる獲物は、熊と同じく若くないだれた体をしていた。熊は獲物の息の根を止めると、獲物の角を掴んで雪の上を引いて行く。

「…今年は、これが最後の狩りだな」

 もう1匹、2匹捕まえられていたら安心して冬を越せるところだったが、周辺の獲物は秋に満足に得られなかった。逃げられたり、若い者に先を越されたりした。きのみを求めて何個か山も超えた。それでも足りず冬が来て、イタズラに体力を消耗するだけだとしても毎日狩りに出た。遂には自慢の黒毛皮も白に染め、武器に頼った。ようやく獲物を得た熊は深雪を太い足で踏み締めて、ぎゅうぎゅうと音を鳴らしながら、背中を丸めて寝床に帰る。寒さではない髄に染み入るものに気が付かないように、帽子を目深に被った。

 寝ぐらは山の斜面にいつしかできていた浅い洞窟の壁にあった亀裂を、さらに掘り進み見つけたひらけた空洞だ。洞窟への出入り口には上部の木の板で作った一つ目の扉があり、さらに奥に二つ目の扉がある。そこを開けると、正面奥には幾重にも重ねた獲物の毛皮で作った寝床に、右には壁に打ちつけた杭にかかる袋や籠、武器。その下に木の板に薪。左は獲物の角や爪、皮、原木、石などの素材がなんとなくの纏まりで置かれている。熊は外套を杭に引っ掛けると、部屋の中央にある灰が残る焚き火跡に薪をくべ、火打石で火をつけた。寒いわけではないが、これからの作業に灯りは必要だ。
 入り口に置いた獲物を担いで奥にある布で隠された部屋に向かう。そこは小さな処理場と食料の保管庫となっている。籠にはきのみや果実、山菜などが入り、紐で縛った干した肉や枝に何匹も細い魚を刺したものが、上から下げられている。熊は壁側にある机を保管庫の中央に置き、背中に背負う斧を壁にたてかける。そして作業用具が入った籠から切れ味の良い刃物を一本選び出して獲物の解体を始める。
 先ずは獲物の身体に浅く切れ目を入れ皮を剥ぐ。余計な肉を皮に残さぬよう肉と皮の境界を見極めて丁寧に剥ぎ、毛皮は火のある部屋に干して乾燥させる必要がある。肉が残っていると、そこが腐り悪臭を放つ。何回か前の冬は腐臭と共に過ごす羽目になった。
 熊は綺麗に剥いだ毛皮を床に落とすと、机の上にある剥き出しの肉を見てごくり、と喉を鳴らす。本能が腹を満たしたいと叫んでいる。なにせ熊はこのところ新鮮な肉にありつけていない。食料を切らしたら悪いと、少量のきのみとだいぶ前に干した肉を大事に齧って空腹を紛らわせていた。獲物がたくさん取れた頃はここよりもっと広い貯蔵庫にいくつもの肉が吊るされ、山盛りの山の恵みがあり、まさに宝庫であったと熊は思う。しかしこの小さな貯蔵庫にはそのような壮観な光景は似合わない。数匹の肉塊が下がっているだけ。熊は手を止めていた。昔の自分が今の自分を嘲笑っている気がした。
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