慰めの山宿

ど三一

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 熊にとって、男として生まれたならば、誇り高き種族として生きるならば、他者との争いに勝利し何かを得る事こそが、命の価値の証明であった。その考えは単純明快で猪突猛進、壁にぶつかる迄、其処に自身が通る奥行きは無いと気付けない。気付かぬならば、虚しく壁を引っ掻き執着に支配されて死を待つのみ。勝利への妄執によって自身を苦しめる時が来るなど思いもしないのである。
 若い時節は、年老いて力無く、食にありつけない同族のものを情けなく見ていた。それはいつであったか見かけた、父の後ろ姿でさえ。幼い時分に妻子と別れ1匹で生き抜く強き父。匂いしか覚えはないが、確かに幼い熊は父を誇りに思っていた。幼い熊は成長し、母とも別れ獲物を求めて他の地に旅立ち、先に居着いていた同族を打ち払い、その場所を我が領土と言わんばかりに隆盛を誇った。いくつもの死闘に競り勝ち、血の滴る獲物を手中に収め、猛々しく咆哮した。我が山、我が世と、威勢のいい若者であった。熊の生涯において生の絶頂期であった、父の後ろ姿を見たのは。
 熊の領土に入った懐かしい匂いを追うと、実の成る木々に鼻先を突っ込み、きのみを探している父がいた。熊は再会の喜びを覚えたが、同時に迷いも生まれた。別れたのは幼い頃。それから成長した熊は匂いも変わり別のものと言っても過言ではない。自分を覚えているだろうか、もしかしたら自身の子と知らず、襲ってくるやもしれない、と考えた熊は静かに父の背中に近づいていった。自らと同じ黒色の毛皮。乱れてはいるが同じ色だ。誇り高き色だ。母より聞かされた父は勇猛果敢で、濡れたような漆黒の黒毛皮が美しい丈夫。幼き憧れは偉大な姿を夢見て、強く在ろうと目指し熊は大人になった。熊は父の後ろで声を掛けた。父の反応は早かった。背後の熊に対して正対し、距離をとって後ずさった。父よ、と口を開こうとして見たのは、肉が落ち肋骨の浮き出るこけた姿。美しい黒毛皮は、ごわごわとして艶なく、禿げている所も見えた。しかし、それらよりも熊の理想を打ち砕いたのは、誇り高い父の、怯えた姿だった。父は低く唸り声を上げるが、風音にも負けそうな弱々しいものだ。熊は混乱する。黒毛皮の誇り高い熊の父。変わらぬ理想の姿が剥がれ落ちて行く。
 父は熊に攻撃の意思はないと判断したのか、警戒しつつきのみを探す。その場所は既に熊や他の若い者が取り尽くした木であり、残っているのは旨みがない外れの実くらいだ。よく見るとぽつりぽつりと幾分小さい赤い身が残っている。父はそれを摘んで取って行く。近場の獣や鳥ですら要らぬというその実を。熊は咆哮した。山全体に響き渡るような叫びだった。父はきのみを落として逃げて行く。足は早くなく、斜面の落ち葉に足を取られ転がりながらも、この場から何とかして逃げようと足掻く。爪と牙は既にお飾りとなり、闘う意志も逃げずに戦ったという誇りもない。老いても醜く生に執着するみっともない姿だと失望した熊は、目を逸らして父から背を向けた。そして怒りとも悲しみともいえる苦痛が宿る咆哮を上げながら寝ぐらに帰っていった。
 一つ向こうの山の斜面で、最後に縋るように後ろを振り返る。先程親子が邂逅したその場には父が戻っていた。地面に散らばる赤い実をせっせと拾い集めていた。熊は幼い憧れの終焉を知った。熊の咆哮はその山の主人に違いなく、その山には他の山から来る血の滾る若者は暫く訪れなかったそうだ。
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