慰めの山宿

ど三一

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 熊は薪が弾ける音にはっとした。誰かが足元の枝でも踏みつけた音のように錯覚した。熊は斧を手に寝床のある部屋を覗く。何もいない、いるはずがない。寝ぐらの外は実り許さぬ冬なのだから。熊はまた作業に取り掛かる。内臓を取り機の器に分ける。過程で流れる血はまた別の木の大皿に流しなるべく無駄ないように。肉と内臓を持って寝床の部屋に戻ると、綺麗に開いた肉を天井に吊るし、内蔵も柔らかいものは枝に刺して干し、硬いものはぶつ切りにして干す。熊は作業を終えると貯蔵庫に置いてきた獲物の血が入った大皿を持ってきて、竹の水筒に注いだ。それに蓋をしてきのみや果実を潰して細かく砕いたものをいつもよりほんの少し多めに入れ火にかける。残った血は竹の水筒に入れて封をした後、貯蔵庫の一番涼しい場所に雪と共に保管する。竹筒がぶくぶくとしてきたら、火から降ろし、適当な器に血を注ぐ。湯気立つ獲物の血が喉を通ると、熱が道となって胃に落ちる。久しぶりの鮮血に喉を鳴らして狂った様に呑む。器が空きそうになったら空の器に血を注ぎ、それも残り僅かとなると竹筒に口を付けて濃厚な生命の濃縮を味わった。若い頃では考えられなかった事だった。血は肉と共に味わうものであり、それ単体で価値あるものではなかった。しかし肉に飢えた身体には血でさえ貴重な食料である。熊は血で腹を満たした。血は唯一保存に向いていない。固まって変色し味も落ちて飲めたものではなくなってしまう。従って熊にとって獲物の血は唯一有るだけを欲望のまま飲み尽くしても良い贅沢であった。さらに残った血までなめとると、汚れた皿を外の雪で擦って綺麗にし、赤く染まった口元も雪に顔をつけてブルブルと顔を左右に振り元の黒に戻した。木皿を片付けると、焚き火に新しい薪を数本焚べ、毛皮の寝床に背を預けた。薄ぼんやりと照らされる無骨な天井を見て、何をするでもなくじっとする。焚き火の弾ける音が絶えぬ間に眠りにつけるだろう。いつの間にか眠りに落ちる。今夜は獲物を得てしっかりと眠れそうだと目を閉じる。外は吹雪、冬は長い。

 熊が眠りから覚めると、のっそりと体を起こし外の音に耳を澄ませる。昨夜は吹雪だった。それが朝まで続いたならば、まだいい。問題なのは風がほとんどない大雪。獲物の取れる2日前の朝は、扉の上部まで積もった雪が重く、扉を開けるのにだいぶ苦労させられた。熊は耳を澄ませて音を拾う。吹雪ではなくしんとしている。しかし、微かにだが雪が沈む音がする。熊は警戒して、壁に掛けてある斧を手に取った。足音は近くからではない。ここに来るまで時間はある。熊は急いで貯蔵庫の食料に毛皮をかけた。そして余っている板等で貯蔵庫の出入り口を塞いだ。食料は死守しなければならないからだ。頭を守る被り物をして、扉を押して開くか試す。ぎぎと雪を押し出して扉はわずかに開いた。昨夜の積雪はそれほどでもなかったようだ。熊は斧に手を置きながら扉の隙間より辺りを伺う。朝日に照らされて真っ白な雪原に異質なものを探す。獲物であったら幸い、同族であったならこの時期に外を彷徨く理由はただ一つ。獲物を探している者だ。そうなれば匂いをたどり昨夜血を洗った雪の付近、扉まで近づいてくるかもしれない。熊は扉の下と積もる雪の高さを見比べて未然に皺を寄せる。新雪は浅い。血の匂いに気づいてしまう。熊は扉に張り付いて辺りを警戒する。
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