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第二章 事件当日

第2話

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【午後七時〇分】
馬場は、十一階の自席で、午後七時の放送を聞くと、前の席の尾藤淳に向かって、
「ちょっと下に行ってくる。すぐに戻るから」 と、伝えて立ち上がった。

馬場はエレベーターホールへ急ぎ足で向かった。フロアの自動扉を開けてエレベーターホールに出たところで、ちょうど上から降りてきた7号機のエレベーターのドアが開いた。
中から三人の男性が降りてくる。その内の一人に、十五階から降りてきた三木塚がいた。
三木塚の脇を小走りに、馬場は閉まり掛けている7号機のエレベーターへ滑り込んだ。エレベーターには、他に誰も居なかった。
 
高層階用エレベーターの6号機~10号機は、十一階を過ぎると一階へ(十階から二階までは止まらない)直通である。
三木塚と一緒に降りた二人は、各階止まりの低層階エレベーターに乗り換えるために、反対側の1号機から5号機の低層階用エレベーターの前で下ボタンを押した。


外の中華店で夜食のラーメンを食べて、小太りで髪の毛の薄い天宮稔と、眼鏡を掛けて赤ら顔の石川安男が戻ってきた。  
二人とも三十五歳の同期で、十四階へ戻るために一階で高層階用エレベーターを待っていた。
さっき上ボタンを押すと、8号機の上行きの△ランプが点灯した。
呼び出しボタンが押された階へ、一番早く到着する事が想定されるエレベーターが自動的に選択されて、そのエレベーターの上にあるランプが点く仕組みになっている。


午後七時に流れる館内放送が終わった。  
「遅いなぁ……」
天宮は、エレベーターの丸ボタンがある壁をコツコツと叩きながら言った。
横で石川が、爪楊枝で歯の隙間に詰まったものをほじくりながらニヤニヤしている。

<人配置図>


少ししてチャイムが鳴り、8号機のエレベーターの上にある△ランプが点滅しだした。
一呼吸置いて8号機のドアが開き、中から本郷が降りてきた。他に人は乗っていない。
天宮と石川は、本郷の左右から、そのエレベーターへ乗り込んで、十四階のボタンを押した。

本郷が警備員の前に来た所で、外からパンの袋を持った志季が、入館証を警備員に見せながら、中へ入ってくる所であった。本郷が無表情で横を通り過ぎる。

「お疲れさまです」  
警備員が、外に出ていく本郷の背中に向かって頭を下げた。  

志季は、高層階用エレベーターの前に来ると、上ボタンを押した。
7号機の△ランプが点灯した。そして間もなくしてチャイムが鳴り、点滅に変わった。

「きゃあー!」  
突然の、女性の悲鳴がエレベーターホールに響いた。
一階の出入り口で警備をしていた二人の警備員は一瞬顔を見合わると、悲鳴の聞こえたエレベーターホールへ駆け込んだ。  
開いているエレベーターの前で、女性が腰を抜かして、口をパクパクさせていた。側に紙袋が破れて、菓子パンが五つ転がっている。

尋常ではない事を察した警備員は、女性の前で閉まり掛けているドアに右肩をこじ入れると、エレベーターの中を覗き込んだ。

「うっ……」と、警備員は手で口をおおった。  
その七号機のエレベーターの中で、胸から血を流し、後ろの壁に背中をつけて腰を降ろした格好で、男が一人死んでいた。頭が落ちていて顔は見えない。エレベーター内の空気が、なま暖かいような感じがした。少しして一階のホール全体が、血の生臭い臭いで充満した。

大量の出血で、エレベーター内の床には血の海ができており、その中に男が一人座っていた。胸から腹に掛けて真っ赤な血で染まったシャツが、肌に張り付いている。  
鮮血がまだドクドクと身体を伝ってエレベーターの床に流れ続けていた。誰の目にも、たった今死んだ事は明らかであった。
 
警備員は、直ちに一一〇番通報をした。  
誰も外に出さないようにと警察から指示されて、警備員は出入口のシャッターを下ろして封鎖した。地下の駐車場の出入口も同様であった。  

馬場雷太、三十〇歳は、七号機の高層階用エレベーターの中で、細くて鋭い刃物のようなもので、心臓を一突きされて死んでいた。  

一時間後、動員された三〇名ほどの捜査員たちが到着し、ロープが張られたエレベーターの中や管内の全フロアの捜索を始めた。二匹の警察犬の臭覚しゅうかく能力も借りた。しかし、館内から、凶器は発見されなかった。
封鎖された館内で残ってもらっている全員の持ち物を調べた。机やロッカーは勿論、トイレや下水にいたるまで捜索をした。
地下駐車場に停めてある車の車内やトランクの中も探した。
窓から投げ捨てた事も考えて、ビル周辺の植え込みなども徹底的に調べた。
しかし凶器になるようなものは、一切発見ができなかった。
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