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26_愛玩動物
しおりを挟む太平洋に浮かぶ小さな三日月型の無人島が、地図上から意図的に削除されてから五年の月日が経った。
永世中立国として、どの星のどんな偉人であっても足を踏み入れることを認めない小島には、ピークが過ぎたとはいえ、今でも定期的に宇宙船が来ては地球人を下ろしていく。
ムームはその地球人を中型クルーザーに乗せて、沖へと出る。指定された場所に地球人を下ろすと、帰るときは山ほどの食材や土産を乗せて帰ってくるのだ。
ときにはどこで拾ったのか、弱った子犬を乗せて。
ムームは、自分がいない夜はこいつに守ってもらえと、さもティフォを守るために拾ったかのように振る舞った。いくらひ弱なティフォでも、油断さえしなければ大抵の地球人よりは強いのに。
しかし、いつ帰ってくるか分からないムームを待ちわびるだけの寂しい時間を、犬はたしかに癒やしてくれた。ふかふかの毛並みを撫で、ムームの帰宅をただじっと待つ。
こうして小島には、いつしか犬が増えていった。
この小島はムームの強い要望で、ケプラー惑星群の技術を駆使したハイテク小島にこっそりと改装されている。
島をドーム状に取り囲む壁面は、ケプラー惑星群で広く使用されている窓の材質だ。今は透過設定をしてあるため、壁面は見えない。外から見れば、ただの無人島だ。何よりもティフォを含む生き物の姿が、外からは見えないようになっている。
また、紫外線や進入許可のない生き物を遮断する効果を付加してあった。これでティフォは太陽の日差しに怯えることなく、島を安全に散策できるようになった。
もちろん窓に映る外の風景を自由に変更することも可能だ。ただ、あまり変更することはない。
ティフォは海の景色が好きだった。ムームが仕事でそばにいない間は、飽きることなく海を眺めて過ごした。
仕事で使用していた携帯用ホログラムを切り、ティフォは日が沈む海を見つめる。足下にはムームに似た黒い毛並みの犬が寝そべっている。
ムームとのコミュニケーションで培った多岐にわたる翻訳と、ケプラー惑星群の技師の努力によって、先日ついに口語の同時翻訳が可能になったのだ。しかし惑星協定宇宙法で使われるような特殊な言葉は、一つ一つ確認をしていく必要がある。
ティフォは地味な作業が得意だ。こうして空いた時間でコツコツと翻訳を進めているのだが、法律や公約は日々変化をしていく。終わりにない仕事に腐ることなく翻訳を精査していくティフォの仕事ぶりは、地球でもおおむね好意を持って受け入れられた。
それでもティフォは、この小島から出ることはない。
ケプラー惑星群の触手生命体が、たいていの地球人を怯えさせる外見なのだと理解したからだ。外出先でうっかり地球人に遭遇してしまえば、必要のない恐怖心を植え付けることになってしまうだろう。
なのにムームは、かわいいティフォが攫われたら大変だと、過保護にティフォを閉じ込める。
ムームの理由はまったく理解不能だが、もともと研究室に泊まり込んでろくに外出もしなかったティフォにとって、島だけで完結する生活に大きな苦痛は感じなかった。
ただ時折3Dホログラムで会話するカヤに、監禁だのなんだの騒がれるのにはほとほと困っている。ムームが望むなら、鎖付きで閉じ込められたってティフォは幸せなのだ。
そういうティフォの気持ちがようやく伝わったのか、最近になってカヤの態度が軟化し始めている。嬉しい変化だった。
エリクレアス施設長は、あれからティフォとムームをさらに美談に仕立て上げ、世論を追い風に惑星政府の要職に就くまで出世を果たした。もう施設長ではなく、エリクレアス行政長官だ。きっとまだ上を狙っているに違いない。
惑星協定宇宙法による地球の国家認証にも、友好星として好意的に働きかけてくれているらしい。
いつもエリクレアス行政長官は、はやく名実ともに夫婦として認められるといいですねと、時候の挨拶のように挟んでくるのだった。
驚いたことにエリクレアス行政長官自身が大恋愛のすえの異種族婚だったらしく、先輩としていつでも相談に乗りますと親切極まりないが、用心してかからないと次はどんな仕事を押しつけられるか分かったものじゃない。
この五年でティフォが嫌というほど学習したことだった。
人工的な光のないこの島から見渡す日没後の海は、宇宙に似ている。深く暗く、それでいて目に見えない命の瞬きが常にざわめいているのだ。
ティフォの好きな月が、今夜は雲に隠れてしまった。星も見えない。
キュンキュンと鼻を鳴らす犬に急かされるように、蛍くらいのささやかな光で足下を照らしながら、ティフォは洞窟の家に帰った。洞窟といっても、ケプラー惑星群の最新設備で整えられたハイテクハウスだ。
犬たちは一足先にAIに餌をもらっている。ティフォに付き合ってくれていた黒犬も、慌てたように餌に突進していった。
食欲はないが、食事を取ったかどうかを自動記録されているティフォは、仕方なくケプラー惑星群の主食である木の実を口に放り込む。ガリゴリバリボリと咀嚼しながら、初めて食事を共にしたときのムームの驚いた表情を思い出す。知らなかったとはいえ、あのときは驚かせて悪かったなと小さく笑った。
どれだけ時間が経っても、あらゆるムームのすみずみまで記憶している。いつか本当にムームが居なくなったとき、この幸せな時間を思い返すだけで、どこまで生きていけるだろうか。
縁起でもないことを考えたと頭を振って、ティフォは早々に食事を終えた。
こういう夜は、ムームの居ない世界を想像してしまう。考えないようにするほどに想像に囚われて、無性に怖くなるのだ。
ティフォは黒い犬をベッドに招き入れ、抱きしめながら眠った。ムームの髪の毛の手触りにはほど遠い。それでも寂しさを誤魔化すように、犬の毛並みに顔を埋めて眠った。
朝日が顔を照らす。地球の光は強く眩しい。ティフォは目を瞬いた。
ベッドに腰掛けて覗き込んでいるのはムームだ。ティフォは確かめるように、触手をムームの腕に絡める。ムームだ。夢じゃない。
「おかえりなさい」
『ああ、ただいま』
「早かったね」
『昨日の夜、あんまり食べなかっただろう。心配で、少し急いで帰った。さっき到着したところだ』
「ごめんなさい」
『それは浮気についての謝罪か?』
ムームは笑いながら、ベッドで眠る黒い犬を指さす。
『あんまり犬ばかり構うなよ。お前の飼い主は俺だからな?』
悪い顔で笑うムームに、ティフォはさざ波のような音で楽しそうに笑った。
「私の愛しのご主人様。お帰りなさい」
雲の晴れた明るい日差しの下、昨夜の寂しさは溶けてなくなって、絡み合うムームとティフォは笑いながらたわいもない話を続ける。
「今回のお土産は?」
『ああ、今回はお前が食べたがっていた日本の栗を買ってきた』
「イガイガの?」
『栗のイガはお前の柔な触手を傷付ける。危ないからな。中身の実だけだ』
「ムームは過保護が過ぎる」
『いいんだよ。お人好しで善良でかわいいお前が悪い。心配もするさ。どうだ、朝食は食べられそうか』
「うん。お腹すいた」
『ならいい。すぐ朝食にするか? それとも、このまま俺を食べるか?』
「私の口は地球人にとって恐怖の対象かもしれませんが、別にムームのことを食べたりしません。かじったら、せっかくのムームが減るでしょう?」
『性的にって意味だよ。言わせんな』
「ほうほう。それは新しい。初めて聞く表現だ」
ティフォがいそいそとホログラムを起動し、記録しようとしているのを見て、ムームはムッとした。ティフォの触手の邪魔をしながら、重ねて尋ねる。ベッドで寝ていた犬は、朝ご飯を食べにいってしまった。あの犬はとても賢いから、空気を読んで退散していったのかもしれない。
『仕事はあとだ。で? 俺はいるのか、いらないのか』
「もちろん、美味しくいただきます。おかわりはありますか」
『もう新しい表現を使いこなしてやがる。まったく。俺のかわいい化け物め』
「ふふふ。ではさっそく、いただきます?」
二人の会話は、皮膚の下に埋め込んだ一㎜にもみたない集積回路によって、同時翻訳をされていく。かつてかみ合わなかった二人の会話は、今はどこにもない。そこにある愛の大きさだけが変わらず、空気を甘く染めている。
かわいいムームをベッドに引きずり込み服を脱がせながら、ティフォは幸せを噛みしめた。
(いつかここに、卵を産んだら怒るかなぁ)
ティフォは熱いムームの中を自由に動き回りながら、夢を見る。二人のかわいい子供の夢だ。
もしかしたら二人が三人になって、四人、五人になるかもしれない、未来を夢見て。
こうして愛玩動物は、末永く幸せに暮らしましたとさ。
(本編 おしまい)
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