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第四章 幻魔の少女

⑦水浴

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 昨夜はいつぶりか分からないほど、よく眠れた。
 洞穴の中、剥き出しの地面の上でマントにくるまって寝るのは、野宿とさほど変わりない。
 ブルガオル平原の廃屋に隠れ住んでいたときのほうが、住環境はいくらかマシだったはずだが、昨夜の俺は、日が昇るまでのあいだ、深い眠りについていた。

「……お二人ともほんとにすぐ寝入ってしまうなんて。つまらないです」

 などと、シャンナはぶつぶつ言っていたが……。
 よく眠れたのはきっと、イブナとシャンナと食事を共にし、夜も近くにいて、彼女たちの寝息が聞こえてきたお陰だ。
 そばに誰かがいるというだけで、こんなにも違うのか、と実感する思いだった。
 それがたとえ違う種族であったとしても……。

 木々の密集する森の中でも、朝の訪れは感じられる。
 昨夜と同じように、洞穴の外で食事にした。
 まだイブナが持ち帰った食料には余裕があった。
 それになんと言っても、シャンナの作った香料だ。

「どうですか? ヒトの作る料理とは味が異なると思いますが……」
「旨い。……確かに昨日のものと味わいが違うな」
「そうですか。それは良かったです」

 味音痴の俺にはそれ以上どう評していいか分からなかったが、昨夜食べたものより複雑な奥ゆきのある味だった。
 調理器具など存在しないこの場所で、大したものだ。

 しかし、人間こうなるとかえって欲が出るのか、酒とパンが恋しくなってくる。
 束の間、妄想が湧く。

 人類のお尋ね者となったとはいえ、辺境の国の人々すべてにまで、俺の人相書きを周知するのは不可能なはずだ。
 どこか戦線とはかけ離れた地方の郊外に、ひっそりと住むことは不可能ではないだろう。

 そこで、小さな畑でも耕し、三人で暮らす。
 時おり、町に採れた野菜を売りにいくくらいなら、危険も少ない。
 野良着姿の俺を、かつての勇者だとは誰も思わないだろう。

 きっとシャンナの味付けした保存食にでもすれば、野菜も売れる。
 パンや身の回りのものと交換するのでもいい。

 闘争も殺し合いもない、ただゆるやかに時が流れる日々……。
 それは、どんな王侯貴族の暮らしよりも贅沢なものかもしれない。

「どうかしたのか、マハト?」
「いや、つまらない空想をしてただけだ」

 イブナに問われ、俺は想像を打ち消した。
 シャンナが「どんなですか?」と重ねて聞いてきたが、答える気にはならず、苦笑だけを返す。

 しょせん、願ったところで叶わない空想だ。
 このまま争いが続けば、ヒトか魔族、いずれかが滅び去る以外に未来はない。
 そもそも、魔核なしにはイブナもシャンナもこの地で長くは生きられない。

 三人とも、多くの同胞やかつての敵対者たちの死をその背に負っているのは、昨日シャンナと語り合ったとおりだ。
 戦いを止める、という選択肢は俺たちにはない。
 今、こうして三人で食事をしている時間だけでも、贅沢過ぎるほどだ。

「よし、そろそろ向かうか」

 食事を終えたイブナが立ち上がる。
 俺もうなずきを返し、彼女に続いた。

 ***

 イブナに案内された泉は、想像していたよりもずっと大きく、水は澄んでいた。
 向こう岸がかすんで見えるほどで、小さな湖と呼んでも間違いないほどだ。

 鬱蒼うっそうと木々が生い茂る森の中にあって、そこだけが開けて見える。
 朝の陽光が柔らかく降り注ぐのを、全身に感じた。
 日の光を心地良いものと感じられるのも、いつぶりか分からなかった。

「時間が惜しい。マハト、おまえは少し離れたところで水浴しろ」
「えっ、ちょっと姉様!? きゃあああ」

 イブナは言いながら、あろうことかシャンナの上衣をぎ取っていた。

「おいおい……」

 俺は慌てて目を逸らす。

「来い、シャンナ。おまえの水嫌いを克服させてやる」
「姉様!? まだマハトさんがそこにいらっしゃいます! わたしのことはいいから、ご自分の――」

 俺はそっとため息をつき、言われたとおり向こう岸のほうへと歩いていった。
 シャンナといるときのイブナは、出会った頃とは別人のようだった。
 無防備に感情をあらわにする彼女の姿は、きっと魔王軍でともに戦っていた魔族たちも見たことがないものだろう。
 あれが家族というものだ、と思うとほんの少し胸がうずいた。

 彼女たちの姿が遠い風景のように見えるあたりまで移動し、俺もさっさと服を脱ぎ、泉につかる。
 勇者隊は男女混成の部隊だった。
 作戦行動中、いちいち性差を気にしてはいられない。
 イブナのほうも似たようなものだっただろう。

「姉様。わたしまだ病み上がりですよ!? なんて乱暴な……」
「わたしも似たようなものだ。観念しろ」

 この距離でも、二人のきゃっきゃと上げる声が風に乗って聞こえてくる。
 そんなバタバタとした一幕はあったが――。

 泉の水は冷たく、清らかだった。
 あかとともに、心のよどみも洗い流されるようだ。
 澄みきった水の中から空を見上げると、心身が研ぎ澄まされる心地がした。
 グリフォンから受けた傷はまだ水にしみるが、集中をさまたげるほどではない。
 心身が充足しているのを感じる。

 イブナとの立ち合いは実践と同じ覚悟で挑むと、心に決めていた。
 浮ついた気持ちはもうない。
 きっと、この立ち合いの先に見える景色がある。
 そんな予感があった。

 ***

 水浴を終えた俺たちは、再び泉のほとりで向き合う。
 イブナは、ほとんど肌着のみの格好だった。
 付け根まで見える緑の手足が、目にまぶしい。
 水に濡れた濃紫の髪も、つややかに輝いて見えた。

 けれど、その顔は獰猛な獣のようにぎらついている。
 色香に惑い不用意に近づく男がいれば、喉笛を嚙み切られそうだ。

 俺の格好も似たようなものだが、魔族の彼女と違い、傷跡が無数に残っている。
 水浴ついでに上衣は水に洗い、干していた。

「お二人とも、準備はよろしいですか?」

 シャンナが着ていた服もイブナが脱がせていたが、彼女だけはマントで全身をくるんでいる。
 顔だけがひょこっと出ているその姿は、よけいに幼く見えた。
 俺とイブナのかもす闘気を察してか、彼女も今は余計なことは言わなかった。

「わたしはいつでもかまわない」
「俺もだ」

 立ち合いは、素手での組打ちと決めていた。
 魔術の使用は禁止とした。
 俺たちの得物である剣は鋭すぎるし、無論、調練用の武具なんてものも持ち合わせてはいない。
 さすがに木の枝では、俺たちの立ち合いには迫力が欠ける。

 素手での格闘なら、一見、体格的に俺の方が有利なようだが、魔族の身体能力は生まれつき人間よりも高い。
 何気なく立っているようだが、すでに臨戦態勢となっている彼女には、隙が見出せなかった。
 対峙するだけでも、およその力量は伝わってくる。
 猛虎とでも向き合っているような心地だった。

「期待しているぞ、マハト。おまえが甘いだけの男ではないということをな」
「ああ。お互い、手加減は無用だ」

 二人、視線を絡ませながら、シャンナの合図を待ちかまえる。
 シャンナには、ただ一語、宣言してもらうよう頼んでいた。

「始め!」

 彼女にしては鋭い声が上がる。
 合図の声が響いても、すぐには俺もイブナも動かなかった。
 だが、シャンナの声と同時、イブナの姿が何倍にも大きくなったように感じた。
 もともと立ちのぼらせていた闘気が、爆発的に膨らむ。

「ぐっ……」

 気を呑まれては、組みつく前から敗北が確定する。
 負けじと気を押し返し、ぶつけ合った。

 互いに動かないまま、ときが過ぎる。
 それは、静かにして激しい戦いだった。
 地に足を付けて対峙するだけで、とてつもない威圧感が全身にのしかかる。
 水浴をしたばかりだというのに、額に汗がにじんだ。

「姉様……」

 緊迫感に耐えきれなくなってか、シャンナが祈るようにつぶやいた。
 その声が均衡を破った。

 イブナが地を蹴り、一息に距離を詰めてきた。
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