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第四章 幻魔の少女

⑨新たな戦い

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「そろそろ起きたらどうだ?」

 顔にびしゃりと水をかけられた。

「けふっ」

 鼻に水が入りそうになり、顔をしかめながら俺は目を開いた。
 目を向けると、イブナがすぐ横で俺の顔を覗きこんでいた。
 少し離れたところにシャンナもいる。
 日の光はまだ、眩しい。どうやら気を失っていたのは、わずかのあいだのようだ。

 立ち合いの記憶がよみがえる。
 俺の脚を踏み台にしての、膝蹴り。
 あれが俺にとって、とどめの一撃となったようだ。

「……完敗だな」

 俺が笑いかけると、イブナも目を細めた。

「いや、紙一重の差だった」
「そうですよ。姉様もあのあとしばらく動けなかったんですから。ほとんど引き分けのようなものです」
「ばか、バラすやつがあるか!」
「ちょっと、姉様、ストップ。本気で怖いですから!」

 イブナはシャンナを羽交はがめにするように両手を上げてにじり寄ったが、数歩も行かないうちに顔をしかめて、ぎくりと立ち止まった。
 背中か腰か、どこか痛んだような様子だった。

「くっ……」
「ほら、姉様もぼろぼろなんですから。おとなしくしていてください」
「ちっ」

 イブナは肩をすくめ、舌打ちとともに、もう一度俺に向き直る。

「首をめられたときは、さすがに負けたと思った」
「ああ」
「意識が遠のきかけたとき、シャンナの声援が聞こえた。気づくと、身体が勝手に動いていた」
「……やっぱり守るものがあるやつは強いな。戦場ではそれが生死を分けたりする」
「かもしれないが、やはりおまえも強かったぞ、マハト。ヒト族の英雄と呼ばれていただけのことはある」
「その言葉、そっくり返す。イブナがこれから共に戦う仲間だと思うと心強いな」

 笑って差し出すイブナの手を取り、俺は起き上がった。
 彼女と向き合い、笑みをかわす。

 今回は魔術も武器も禁止した。
 総合的に見て、俺にだいぶ有利な条件の立ち合いだった。
 それでも負けた。
 やはりイブナは強い、と改めて思わされた。

 そして、立ち合いを通じて、言葉を交わすよりも深く彼女と通じ合えたという気がする。
 肌を重ねることで分かることもある。
 シャンナの言うことも、一理あった。

 魔族の騎士、紫苑のジュエドと一騎打ちで戦ったときのことを、ふと思い出した。
 あの男の実力も、俺よりも数段上だった。
 それでも俺が生き残れたのは、人類のため、ハディードの街の人々と勇者隊のみなを守るという使命感ゆえだろう。
 あのときは、それが正しい道だと信じて疑っていなかった。

 だが、守るべきものなら今もある。
 イブナとシャンナの顔を見やる。
 この魔族の姉妹とともに新しい未来を創るため、俺はまだまだ生き延びなければならない。

 起き上がってみると、体中がズキズキと痛んだ。
 だが、頭は冴えていた。
 爽快とも思えるほどだ。
 吹っ切れた、という気がする。

「決めたぞ、イブナ」
「何をだ?」
「魔核を手に入れよう」

 冴え渡った頭に、天啓のように取るべき道が見えた。
 いや、最初から答えは俺の中にあったはずだ。
 ただ、直視できていなかっただけだ。

「いったいどこでですか、マハトさん?」

 シャンナも不思議そうな顔で、こちらに近づいてきた。

「魔王軍から魔核を奪うのは容易なことではない。それに言っただろう、たとえ魔核を奪っても遠隔操作で破壊されては意味がない」

 訝しげに眉をひそめるイブナに、俺は首を横に振った。

「いや、人間たちの軍からだ。ごく一部の者にしか知られていないが、魔族から奪った魔核を保管している場所がある」
「ヒトが魔核を保管してなんになる?」
「研究のためだ。魔族の弱点を見つけようとしてな」

 俺はイブナの目を見据えて、続けた。

「魔導研究所。エバンヘリオ公国の人里離れた地で、魔導士たちが秘密裡に魔族の研究をしている。魔核もそこにある」
「魔導……研究所」
「なるほど……。マハトさんが追われているのは、そうした軍の極秘情報を知っているからでもあるんですね」

 軍師の顔つきになって、シャンナはつぶやく。
 俺の短い言葉からだけでも情報を理解し、頭の中で整理しようとしているのが表情から読み取れた。

「けど、それではマハトさんが……」
「ああ。本格的にヒトの軍と敵対することになるだろうな。それでいい」

 ハディードの街では、自分から敵対したつもりはなかった。
 心のどこかでは、自分の取った道の正しさを信じていて、勇者隊のみなもいつかそれに気づくのではないかという、淡い期待を抱いてもいた。
 人類から追放された今も、勇者の地位への未練が微かに残っていた気がする。

 魔導研究所を襲撃すれば、ヒトの軍に戻る道は完全に断たれる。
 むしろ、そうなったほうが覚悟も決まる。

「魔核を手に入れるためだけじゃない。魔導研究所は叩き潰す」
「……その必要があるのか?」
「ああ。魔導研究所所長を名乗っている魔導士ハイカル。――ヒトと魔族の未来のために、あの男は生かしておくべきじゃない」

 俺の声音に含まれた怒りの色を感じ、イブナは口をつぐんだ。
 代わりに、シャンナが冷静な声で聞く。

「どんな男なのですか?」
「魔族の生態研究のためなら、なんでもする。そういうヤツだ」

 それだけ告げれば、聡明なシャンナなら魔導研究所の実態を想像できるはずだ。
 もちろん、魔導研究所の存在意義は、魔王軍との戦いを有利にするための研究だ。
 だが、ハイカルという男は戦のために魔族を研究するのではなく、自らの研究熱のために戦を利用しているような人間だった。

 内心では、この戦争が一日でも長く続き、実験体となる魔族が届けられ続けるのを望んでいるだろう。
 ハディードの街の虐殺を指揮したマルキーズにも、彼なりの正義と責任感があったのは理解できる。
 彼の作戦に従ったヴェルクたちの憎悪もよく分かる。
 だが、魔導士ハイカルには、一切の正義を感じなかった。

 あの施設では、捕えた魔族に対し、ハディードの街の虐殺が生やさしく思えるほどの非道な実験が行われてきた。
 口に出すのもはばかるような人体実験の数々……。
 今もそれは続いているはずだ。

 俺もそれを知りながら、人類のためだと目をつむってきた。
 俺の怒りは、非道な行いを知りながら、相手が魔族であるのを理由に見て見ぬフリをしてきた、自分自身に対するものだった。

「戦であれば、命を落とす覚悟はある。ましてや我らは侵略者の側だ。だが、それ以上の非道が同族たちに対し行われているというのであれば、見過ごすわけにはいかないな」

 イブナも、短い言葉から俺の真意を察したようだった。
 彼女の声音にもまた、静かな怒りが込められていた。

「ああ。俺とイブナの二人ならやれるはずだ」
「……三人でお願いします」
「シャンナ!?」

 小さく頭を下げるシャンナに対し、俺とイブナの驚きの声が重なった。

「身体は大丈夫なのか?」
「大丈夫なわけあるか。おまえはおとなしく待っていろ」

 シャンナは微笑みながらも、首を振る。

「今はとても調子がいいんです。この大陸の気候がわたしには合っているのかもしれません。わたしたちのために魔核を手に入れようとしてくださっているのに、のんびり寝ているわけにはいきません」

 そういう律儀なところは姉そっくりだった。
 シャンナは微笑にいたずらめいた色を深めて、さらに続けた。

「それに、わたしが一緒にいればこんな作戦を取ることも可能です」

 そう前置きして、シャンナが告げた内容に、再度、俺とイブナの驚きの声が重なった。

「そんなことがほんとに可能なのか!?」
「はい、おまかせください」

 俺はイブナと顔を見合わせた。

「シャンナのことはイブナが決めてくれ」

 俺の言葉にうなずき、イブナは束の間目を閉じて黙考した。

「何があっても、わたしから離れないと約束できるか?」
「姉様……。はい、もちろんです!」

 ぱっと笑顔を見せてうなずくシャンナに、イブナもうなずきかえした。

「決まりだな。三人で魔導研究所を襲撃し、魔核を奪う」

 そして、可能なかぎり施設を破壊し、ハイカルの首を討つ。
 たとえそのすべてに成功したとしても、俺が魔族と手を組み反旗を翻したことが明確になる。
 俺への追跡は、以前までと比べてもはるかに厳しいものとなるだろう。

 世界を相手取っての戦いは、きっとそこから始まる。
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