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第一部『悪魔と人』

最上真紀子の場合ーその③

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裏社会というのはすごい。金というものを払えばなんでも手に入れられたりするのだから。
そこに入っていた真紀子は思わず感心させられた。
少年院での激しい運動を終えた後に私はレストランを襲って肉を食い、服屋を襲って一流の品を整えて、外へと出た彼女が第一に行ったのは『最上真紀子』という名前を棄てる事にあった。
今ではマスメディアの方に名前さえ公布されていないものの、いずれにしろ、このインターネットが発達したご時世ならば、その名前が特定されるのも時間の問題だろう。

敢えて、『最上真紀子』の名前を使い続けたり、こだわり続ける事もあるまい。
だが、整形で別人の顔を奪い取るのも真っ平御免であった。
彼女からすればこの美しい顔を傷付けるなんて、想像するだけで体が震えてしまうのだ、
そこで、彼女はもう一つの手段として戸籍を買う事にした。歓楽街の端で、不要になった戸籍を売っている人間はいた。

天涯孤独で、それでいて写真の映っていない人間の戸籍は高く売れるらしく、購入の際に逃亡資金の大半は戸籍の購入に消えてしまった。
ベリアルの力で作り上げ、調合した麻薬を売り捌いて、当面の糊口は凌げたものの、これから先はどうしたものだろうか。
真紀子が安ホテルの寝台の上で額の上に右腕を乗せながら、思案していると、頭の中に素晴らしい構想が浮かび上がっていく。
早速彼女はその事を体の中に住うベリアルに向かって提案した。

(面白い提案だな。まさか、麻薬と酒と乱交とを結び付けるとは)

「あぁ、どれもあんたらの敵が禁止しているビジネスだろ?だが、誰だって好きなものだ?そいつは教会のお堅い奴らだろうが、政府のお偉いさんだろうが、心の底じゃあ欲しがってるもんなんだよ」

真紀子の計画としてはまずはコツコツと麻薬そのもので資金を稼ぎ、次にその麻薬で他の女たちを落とし、手駒にする。
次にその女たちを使って、各業界の偉い人たちを招く。
やがてその人たちをも、パーティーの件や麻薬の件で脅迫して自身の意のままに操る。要するに便利な後ろ盾として利用するのである。
いずれは更に大きなコネクションと結び付きを得て、『日本』という国そのものを支配するのも悪くはないかもしれない。

(中々に壮大で、それでいて面白い)

ベリアルの感想は至極単純なものである。だが、その感想は真紀子の気分をよくさせた。

「だろ?イライラはテメェらの主催するゲームで発散できるし、ムラムラすりゃあ、パーティーに混じって、お偉いさんに媚でも売りながら、あたしが神から与えられたこれを使って、発散すればいいんだ」

真紀子はベッドから上半身を起こし、堂々と胸を張る。今度は腰を掛ける体勢になると、機嫌の良い声でベリアルに答えた。

(だが、問題はある。お前のその粗暴な口調だ。年寄りというのは粗暴な若い女性というのは反感を買う。反面、順序でお淑やかな女性は受け入れやすい)

『あたしに口調を改めろと?んな事は百も承知だぜ。改めるよ。ただし『最上真紀子』の時はこの口調を改めねぇ』

『というと?』

「改めんのは新しく使う『菊岡秀子きくおかしゅうこ』の時だ。お淑やかな男ウケのいい美人で、それでいて、女言葉や敬語を使って相手に優しく微笑みかける妖艶な美女……それが新しいあたしだよ。お淑やかで淑女って言葉を地でいく美女『菊岡秀子』は下品で前科持ちの『最上真紀子』とは違ってチンピラみてーな乱暴な言葉は使ったりはしねぇのさ」

一人称も菊岡秀子の時は『あたし』から『私』に変えた方がいいだろう。
そんな事を考えていると、真紀子と一体化しているベリアルが拍手を送る音が聞こえた。

(素晴らしい。実に素晴らしい。用意に多少は時間が掛かるだろうが、キミの好きなようにしたまえ)

真紀子は返答をする代わりに口元に得意げな笑みを浮かべてみせた。
それからの物事は炎が枯葉を焼くかのように円滑に進む。
最初の一週間で歓楽街の何人かは私の麻薬の味に夢中になり、そこから何人もの暴力団関係者も麻薬で虜にし、その関係者の伝手を得て、各組の組長をも虜にしてしまったのだ。

赤色のスーツの下に白色のインナーキャミソールに短いタイトスカートという格好はの本能を刺激する。
街を歩くたびにすれ違う男の人たちがタイトスカートで強調された臀部や脚に視線がいくのが何よりの証拠である。
この格好を見せるか、胸元から溢れんばかりの乳房を押し付ければ、この街の組長など全て私の手駒にできるに違いない。

麻薬にしろ自身の体にしろどちらか一方にでも手を出せばその男は最上真紀子の元から離れられなくなってしまう。
一生を私の駒として過ごす事になるのだ。
なので脱獄より二週間の後には歓楽街の端の大きなマンションの一室を購入していた。

三つの部屋にダイニングルームとキッチンの付いた豪華な部屋は自宅兼事務所として使わせてもらおうではないか。
真紀子は儲けた金で購入した座り心地の良い長椅子の上で、麻薬の代金や間抜けな男たちから貢いでもらった金を数えていると、再び腹の底からベリアルの声が聞こえてきた。

(順調の様だな?)

「笑いが止まらねぇよ。少し前には少年院にぶち込まれてた哀れな女と同一人物の境遇とは思えんね!ここまでは順調だ。いよいよ、あたしの計画は第二段階に移るッ!」

(第二段階というと?)

「そうだぜ、今のこの金さえもあたしにとっては次の計画に向けての資金に過ぎねぇ。もう一週間待ってみな。来週の今頃には有力な政治家に料亭か、摩天楼の上のレストランみてーな一般人じゃあ到底行けないような豪華な場所で飯食ってるぜ」

そして、来週には真紀子のその言葉は現実となった。顧客から紹介された女を薬漬けにし、手駒にし、組長の伝手を使って、有力者を呼び寄せるのはベリアルに宣言したあの日から三日で済んだ。
男はスーツかタキシード。女性はドレスという格好だけを見ればお上品な社交界の集まりだが、マンションの一室で行われている事は紳士や淑女の会合とは程遠い。
お互いが乱れ合い、野獣の様に堕落したパーティーを楽しむ。

一週間に一回と決まったこの集まりには実に多くの人が参加していた。
二週間前には少年院に凶悪犯として収監されていた女がこんな事企画して実行しているのだ。
政財界の有力者たちもさぞ驚くに違いない。中には脱会したいと言う者もいるだろう。

だが、パーティーの様子はバッチリと小型カメラに収められている。
逃げようとすれば、麻薬や自分のあられもない姿を公表される事になるだろう。

「いやですわ。今更抜けるおつもりだなんて、こんな事が知られれば、先生はどうなるでしょう?困りますよね?私としても困ります。先生だって、楽しい思い出にしておきたいでしょう?」

真紀子が妖艶な笑みを浮かべながら、そう差し迫れば、誰も彼も首を縦に動かさざるを得ないに違いない。
普段は麻薬売りや勧誘でも金を得られるのだから、金はドンドン入ってくるという始末だ。
大抵は貯蓄に回されるが、一部は隙間時間の暇潰しのための書籍や自身をより美しく磨き上げるための服飾品や化粧代などに回される。

真紀子はパーティーで知り合った有力政治家との会食から帰り、自宅の化粧台の上でいかにも貴重な瓶に包まれた化粧水を見ながら、私と弟のかつての養母の姿を思い浮かべていく。
ヒステリックな養母が自身が今所有する豪華な化粧水の事を知ればどんな顔をするだろうか。
真紀子はは部屋の中で一人笑う。まごう事のない勝利の雄叫びである。

弟がよく見るような特撮テレビ番組に登場する悪役のような醜悪な笑み。
だが、それでいい。テレビ番組の悪役。
結構な事ではないか。どうせ人は死ねば地獄へと堕ちるのだ。ならば死ぬ前に少しだけでも良い思いをしていた方がいいではないか。

その資金がたまたま世間一般や宗教の世界では後ろ指を指されるというものに過ぎない。
真紀子は勝ち組なのだ。負け犬どもには言わせておきたいだけ言わせておけばいい。
真紀子が高い瓶に入った化粧水を眺めながら、一人で微笑みを浮かべていると、耳の中に金属と金属とがぶつかり合う音が聞こえる。

慌てて部屋を飛び出し、少年院でイライラを発散した時と同じ格好になるのと同時に、私は音の鳴る方向へと向かっていく。
部屋を、それからマンションを出て、音の鳴る方向へと走る過程でベリアルは私に向かって教えた。

『これは、サタンの息子を収集する音ぞ』

『サタンの息子を?』

『あぁ、一度、“サタンの息子”となったからには願いの三割の代わりに、同じサタンの息子と戦わねばならん。それが、参加者に課せられた義務よ』

真紀子は走りながら、なるほどねぇと一人で呟いていく。
普段履いているヒールやパンプスの類とは異なり、ブーツは走っても転ぶ心配がないから私も安心して走る事ができる。
真紀子が現在住んでいるのは大阪の一等地とされる場所である。

当然交通のアクセスも良いので、繁華街も駅までの道を歩く人を呼び止めるかのように存在している。
だが、打って変わり、深夜の時間は静かな筈ではある。
人も居ない場所は絶好の戦闘スポットであるに違いない。

真紀子の予想通り、深夜の繁華街の屋根の上で、二人のサタンの息子が戦っていた。
片方はレイピアを持った蛇のような形の兜の下は真紀子と似たような軍服を着ており、もう片方は立派な二本の角に能面を思わせる女性の顔を模した兜を被り、その下には胸部と膝と肘という最大限の所を覆った鎧の下に黒のミニスカートを履き、その上で黒のタイツを覆っている。
真紀子は物陰に隠れながら、自身の第二の武器である丸い弾倉の付いた旧式の自動機関銃を構えながら、様子を伺う。

屋根の上で二人は激しい接戦を繰り広げていたのだが、とうとうレイピアを持った方が弾かれてしまい、地面の上へと叩き落とされていく。
メイスを構えた方は改めてそれを構え直すと、得意そうに言った。

「これで勝負あったね?大体子供のくせに大人に逆らうのが悪いのさ。あたしだって殺しなんてやりたくはないけどさ、あれを知られたからにはあんたを生かしてはおけないんだよね。売春婦のお嬢ちゃん」

「……売春婦はどっちだ。このアバズレ女め、普通不倫がバレたからって、相手の奥さんを殺そうとするか?そんな短絡的な頭だから、短絡的な手段でしか出席できなかったんだろうが」

「お前、あたしの記憶を……?」

能面の女性の兜を被った方が激しく動揺する。

「貴様の腕を触った時に、ヒュドラの力を使って読み取らせてもらったよ」

それが気に障ったのか、メイスを持った方はそのまま横になったヒュドラの契約者に向かってメイスを振り上げていく。
それが気に入らなかった。直後真紀子の指は引き金を引いていた。
無数の弾丸がメイスを持った悪魔を襲った。
メイスを持った方は悲鳴を上げて、地面の上をのたうち回っていく。

「い、痛い!痛い!」

その隙を逃す事なく、ヒュドラと呼ばれる悪魔の契約者は脱出し、メイスを持った女に更なる一撃を加えていく。
ヒュドラのレイピアはメイスを持った女の胸部の装甲を攻撃し、火花を散らしていく。
それに伴う打撃を受けたのか、先程とは反対に女の方が地面の上へと倒れていく。

「く、クソ!覚えてなさいよ!」

典型的な捨て台詞を吐くと、彼女はそのまま背を向けて逃亡していく。
悪魔の力を使ったのか、彼女は姿を消してしまう。
これでは追撃を当てようもないだろう。
私は舌を打つと、そのまま自動拳銃を下げる。
同時に、それまでは同じ方向を向いていたヒュドラの契約者もこちらを振り向く。
それから黙ってレイピアの剣先を向ける。

「あんたは誰だ?どうして、あたしを助けた?」

「別に……イライラしていたところに戦いがあったもんだからなぁ、ちょいとばかし、途中から参戦してやったってもんよ」

「あんたの契約した悪魔は?」

「ハッ、バカか?いうわけねーだろ」

真紀子は彼女を小馬鹿にするのと同時にもう一度、自動拳銃を構える。
出っ張った黒色の筒が冷たく光り、彼女の剣先が光るのと同時に真紀子とヒュドラの契約者との目線が合わさり、火花が散っていくのだった。
しばらくの間は無言の戦いが続いたが、この戦いは私が睨んでいたヒュドラの契約者が姿を消す事で、収まったのである。

真紀子は元の姿へ戻ると、ベリアルに愚痴を吐き、ヒュドラの契約者と同じ方法で部屋へと戻してもらった。
化粧をする気にもなれないので、落とすのと疲れを癒すという二つの目的のためにバスルームへと向かう過程で、ベリアルに尋ねた。

「おい、どうして、最初にあたしを走らせた?」

(なぁに、我はこの方法に昔から弱くてな。上手く使えるかどうか不安だったので割合させてもらった。場所も近くだったしな)

「けっ、クソッタレが。結局はてめーのためかよ」

真紀子が忌々しげに吐き捨てると、ベリアルも流石に罪悪感というものを感じたのか何も言わずに真紀子の体を元の姿へと戻し、またしても真紀子の心の奥底へと戻っていく。
引き金を引いた時にはあれ程までに心の内に溜まっていた鬱蒼とした感情が吹き飛んだ感触がしたのだが、終われば、色々と消化不良の事が続くので、返って、苛立ちが溜まってしまう。

「あの、ノータリンの大馬鹿蛇女め」

真紀子はヒュドラの契約者に向かって愚痴を吐きながらシャワーを浴びるのであった。
湯加減もよく勢いもそのままのシャワーは一時的とはいえ真紀子の苛立ちを解消し、その後の真紀子の安らかな眠りを手助けする事になったのである。
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