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神は山から降りてきた

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「あの男……ベルゼルと言いましたな。見た目はさる事ながら中々に勇敢な奴でした」

フロレスは剣を腰に下げる準備を行いながら言った。

「敵を褒めておる場合ではないぞ……すぐにでもここを脱出せねばすぐにでも次の追手が来るであろうに」

そう言ったマルスは既にフロレスが用意した山番の男の格好に着替え終えていた。これで出る事は可能である。

「……追手と申しますがそれを交わす術はマルス様はご存知なのですか?」

フロレスは地面の上に伏せて倒れている怪物を一瞥した後に尋ねる。

「……オレにはわからぬ。だが、この戦いが無限に続くというのであるのならばおれは地の果てにでも逃げてやろう。みすみす兄上に殺される筋合いなどないからな」

マルスはそういうと山小屋の中を見渡し、自身の元の服とフロレスの鎧と鎖帷子とを手に取り、それをシンプルな旅の道具入れに詰め込み山の下を目指して降りていく。
降りる途中で考えていたのは先程の自分の強さについてである。
自分はもとより剣術で鍛えていたつもりであったがあそこまでの強さを発揮するとは予想外であった。
あの剣を握った瞬間に自分が何者かに動かされているかの様に体が動いたのだ。
そこからは自身の独壇場であったといってもいい。

だが、そうなった理由がわからない。マルスが頭を悩ませていた時だ。
不意に自身の頭の中で見知らぬ記憶が動き始めていく。
同時にマルスの頭がズキズキと痛み始めていく。途方もない痛みがマルスを襲う。
悲鳴を上げるマルスの元にフロレスが駆け寄るものの、痛みのために錯乱状態となってしまったマルスはそんなフロレスさえも跳ね除けてしまう。
あまりの頭痛とそれからおぞましい光景に彼は吐き気さえ催した。
そればかりではない。強烈な胸の痛みが襲ってきたのだ。針で刺されたかの様な痛みに耐え切れずに悲鳴を上げようとしたのだが、構う事なく恐ろしい記憶はマルスを襲い続けていく。

「ま、マルス様!お気を確かに!」

フロレスは確かにマルスを励まそうとしたものの、マルスはそんなフロレスを睨み付けた。それから海の底に沈んだ氷を思わせる様な低い声で一言だけ告げた。

「オレに触るな」

有無を言わさぬ態度にフロレスは引き下がるを得なかった。
マルスは苦しそうに胸をかきむしったかと思うと整っていた筈の髪を無茶苦茶にしていく。あまりにも痛ましい光景にフロレスは思わず目を背けてしまう。
無論、彼女が目を逸らそうが逸らさまいがマルスは相変わらず悍ましい記憶に襲われ続けていた。
マルスは自身を襲う存在しない筈の記憶を憎悪していた。この記憶のために自分は兄に殺される事になり、父から命を狙われているのだ。
全てはあのたった一本の剣に触ってしまったために。

「クソ、クソ……」

彼は王子らしかねぬ下品な言葉で毒付いたが、否が応でも記憶は襲い続けた。
その記憶が消えてなくなるまでは彼は必死に戦い続けていた。
やがて全ての記憶が頭の中に流れ込むのと同時に彼はようやく確信を得た。

「……間違いない。この記憶は魔王のものだ。世界を滅ぼすと言われる災厄の使いのものだ」

「マルス様?」

「そこに映る光景は滅びの光景だ。そこにはオレと兄さんが立っていて……最後の決戦に臨んでるんだ……信じられるか?そこにいるのはオレと兄さんだけ……邪魔をする人は誰もいない。オレと兄さんだけの世界……ハッハッハ、わかるかい?フロレス?二人だけの誰も邪魔をされない世界でオレと兄さんは戦ってるんだ」

「マルス様が見られた記憶というのは古の世に葬り去られたという世界滅亡の神話の最終章を飾る救世主と魔王との対決を描いた場面の事でしょうか?」

「……恐らくな。認めたくはないがやはりあの剣は正しかったんだ!あの剣はこれから起こるであろう大惨劇をオレに見せたのさ!」

「ですが、それが記憶というのならば先に滅びの神話の最終章が起きていなければおかしいです。我々は生きております!これについてはどう説明なされるおつもりです!?」

「……繰り返しているとしたら?」

その言葉を聞いてフロレスの体が固まった。マルスの言っている事が本当であるとすれば自分たち人間は何度も何度も世界の滅亡を繰り返しながらその歴史を紡いでいるという事になるからだ。
フロレスはその仮定に立ってかつての神話の事を思い返す。
フロレスたちが子供の頃に習う神話は全て二人の男女から始まる。
始まりの男女ともされる二人は神の国より派遣されし人類の祖たる存在であり、なんらかの原因によって荒廃しきった世界を立て直すために遣わされたのだという。後の話は各国で異なるがこの世界の始まりだけはどこの国でも統一しているという事をフロレスは知っていた。
もし、その世界の始まりの前にあった出来事というのが救世主と魔王との戦いであったとすれば始まりの男女はその戦いを生き延びたかつての人類ではないだろうか。そう考えれば辻褄が合う様な気がしてきた。

人類の間では歴史を紡いでいくうちに定期的に魔王と救世主が現れて、その戦いを繰り返してきたとすれば計算は合う。
マルスの『繰り返していたとすれば?』という問い掛けにも納得ができた。
だとすればマルスは人類を滅ぼさんとする悪しき存在であり、他の人が言う様に倒すのが吉であるかもしれない。
だが、自分にはできない。例えマルスが魔王であったとしても自身が仕え、忠誠を尽くすと決めた君主には相違ないからだ。
フロレスは手を置いて視線を地面の下へと向けているマルスを引き離し、山を下ろさせようとした時だ。

「お前たちだな?世界を滅ぼさんとする魔王の一党というのは?」

声は上空から聞こえた。慌てて真上を見上げるとそこには悪魔の様な漆黒の翼を生やし、魔物の様な尖った犬歯を生やした怪物が舞っていたではないか。
これまでの怪物同様に人間と同じ様な体格ではあるが、二人とは異なりこの怪物は手や足に鋭い剣の様な鉤爪を生やしている他に、全身を獣の様な体毛に覆っており、人間としての一面よりも怪物としての一面が強調されているのが大きいだろう。
そればかりではない。一番の相違点は武器を持っていない事だろう。
それまでの二人は武器を持ってマルスの抹殺を狙っていたが、今回の敵は違う。人の手によって作られた武器ではなく、自分自身の体の一部として備わっているものでマルスを殺そうと試みているのだ。その点もこれまでの敵とは違っている。フロレスが腰に下げていた剣を抜いて対峙しようとした時だ。
マルスがフロレスよりも先に剣を抜いて怪物と向き合っていく。
先に襲い掛かったのはマルスの方である。彼は助走をつけて飛び上がるのと同時に怪物の翼に向かって斬り掛かっていく。ただ惜しむべきはその飛距離だろうか。地上からは大きく距離が離れていたために翼に少しばかりの傷をつけるだけで済んでしまったのだ。

翼に傷を付けられた怪物は明らかに舌を打ち、地面の上へと落ちていくマルスに向かって体当たりを喰らわせていく。
頭突きが直撃したマルスは悲鳴を上げるものの怪物は容赦しない。もう一度頭突きを喰らわせようと試みていた。そこに逆転の機会が生じた。
マルスは怪物が頭突きを喰らわせるのと同じタイミングで持っていた剣を逆手に握り締め、そのまま怪物の背中に向かって剣を突き刺していく。
最初の一撃が直撃するのと同時にそのまま刃は深く深く突き刺さっていき、怪物は言葉にもならない悲鳴を上げていく。
マルスは深く突き刺さった剣をなんとか引っこ抜こうとしたのだが、怪物はそれを許さない。息を切らし、虚な目をしながらも執念だけでマルスへと食らい付いていた。懸命に首を動かしその首根っこにその刃を突き立てようと試みていた。

マルスは怪物の腹を執拗に蹴り付け、なんとか引き離そうと試みていたが、怪物はピクリと付いて離れない。
怪物の執念の重さを知りマルスは冷や汗を垂らす。同時に怪物は翼を動かすのをやめ、今度は地面の下へと真っ逆さまに降りていく。勝てないと知ってマルスを勢いをつけて地面にぶつける事で自分ごと殺そうと試みたのだろう。
冗談ではない。このままみすみす殺さる事などあってはならない。そう考えたマルスは足と手を動かすのをやめた代わりにこちらから逆に怪物の首に噛み付いてやったのだ。
人間の歯であったても痛みは感じるらしい。怪物が小さな悲鳴を上げた。それを絶好の機会と捉えたマルスは突き刺さっていた剣を引き抜いていく。

すると怪物の背中から赤い液体が噴出していくではないか。その勢いはかつて湯が地下に埋まっているとされている場所に行き、その湯の発掘具合を見た事があったが、あの時に噴き出した湯を彷彿とさせる程であった。
地上のあちこちに飛び散り、木や地面の上に赤い斑点を付けるばかりか、こちらにまでそれが飛んでくる。不愉快な赤い液体が顔一杯にかかった際にはマルスは思わず舌を打った程である。
彼は目の周りを拭うとそのまま怪物から離れて地面の上に向かって飛ぶ。
地面にぶつかる瞬間に彼は丸くなりそのまま地面の上を転がる事で大事には至らなかった。

「マルス様!お怪我はありませんか!?」

背後から血相を変えたフロレスが現れた。

「いや、大丈夫だ。それよりも早くどこか遠い場所に向かおうではないか」

「ハッ!」

フロレスは臣下として頭を下げた。マルスは彼女の頭が上がるのを待つと荷物の中からかつての自身の服を取り出し、山の麓を目指して降りていく。

「しかし悪い事をしたな。フロレス」

「とおっしゃいますと?」

「折角お主に買ってもらった服を不意にしてしまった。あのクソッタレの怪物のせいだ」

「何を仰られます!あの様なものはまた鹿の肉を売った金で手に入れられまする!今はマルス様の御身が無事である事だけがなによりでございます!」

「……そうか。ならばよい」

マルスの口調こそ素っ気ないものであったが、マルス自身は騎士に感謝の念を寄せていた。
この自身にどこまでも忠誠を誓う騎士がいなければ自分はもっと不便な生活を強いられていたに違いないからだ。
恐らくこれからも追われ続ける限りは彼女の世話になり続けるだろう。今のところは服も食事も全て彼女の面倒になっている。自分が何もしていない事は彼の中で罪悪となりつつあった。
というのも、今のままでは主人と臣下という関係ではありつつも、悪質な働かない亭主の様にしか思えないからだ。
マルスは自身の隣で歩く臣下に気付かれない様に一人苦笑した。
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