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第六部『鬼麿神聖剣』

「恋」は実らずとも

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出雲五葉がこの夢を見たのは偶然では無いだろう。だが、彼女はあの世へと旅立つ直前に、これまでの人生が頭の中に一気に流れ込み、それから抜けていくのを確かに感じたのだった。
俗にいう『走馬灯』というものだろうか。
彼女は口から一筋の赤い蛇を思わせるような血を垂らしながら、目を細めていく。
出雲五葉は大きな大樹の木の下に建っている小さなお寺を運営していた両親の元に生まれた。
両親は共に仏門に仕える身でありながら、熱心な尊王派、攘夷派としても知られ、幕府を打倒する事とこの神州日本から異国人を追い出す事こそが両親の最大の目標であったと言えただろう。
そして、彼はとうとう僧でいることに耐えられなくなったのだろう。
彼は仏門を捨て、神官の道へと進み、尊攘派の浪士たちを集め、教えを説いていく。
その教えが羽倉教と言えただろう。羽倉教は同時期に成立された他の神道系の新興宗教団体と異なる点はと言えば、その規模があまりにも小さすぎたと言うべき事だろうか。
微生物のように小さな神道系の新興宗教団体の将来などは継ぎたくはない。
五葉は幼い頃から、熱心に天照大神に両手と両足を折って伊勢神宮へと祈祷を捧げる両親の姿を見て、彼女は両親を愛し、尊敬しつつも、その部分には心底から嫌気が差していたのを感じていた。
そんなある日の事であった。彼女が麓の町に買い出しに出掛けていると、一人の美しい人間と出会う。
長崎の調度品を思わせるような美しくて長い金髪の髪や彼女が普段目にする人間の二倍以上はあると思われる背格好。
そして、何より彼女の周りには居ないような卵を逆さにした形の顔。
どうやら、その人は旅の途中にこの町に宿を取りに来たらしい。隣には青色のブロックコートにフレンチシャツに緑色のハプタイを巻いた通訳と思われる若い青年の姿が見えた。
思えば、その日に買い物に出掛けた事や20という歳になるまで人を好きになる事が無かったのは神がこの日のために定めた運命だったのかもしれない。
五葉は麓の町で出会った人を見て、大陸の伝承として語られる天啓の存在を本気で信じたに違いない。
彼女は本気でその人を好きになってしまっていた。
彼女は買い物を終わらせ、夜になり、両親や信者達が寝静まるのを確認すると、お忍びで、麓の町へと出掛けていく。
そこで、彼女は通訳の男性を通し、自分の思いを伝えた。
通訳の男性もその外国人も困惑していたらしいが、五葉の熱心な告白が功を奏したのか、五葉は付き合う事と旅について来る事が許可された。
出雲五葉にとってこの外国人との旅、そして禁断となる恋は開けてはならない蔵を開けたような感覚に近い。
旅の途中に、五葉は自身の恋をした人の名前を聞く。
彼女の名前はマーガレット・スミスというらしい。
五葉がマーガレットの名前の由来を聞くと、彼女は和かに笑いながら、通訳の男性にその意味を伝えるに指示を出す。
通訳の若い男性も彼女の指示を聞いて、和かに笑いながら、彼女の隣を歩く五葉に伝えた。
「マーガレットの名前の由来は花の名前からなんです。西洋にしか生えない珍しい花なんですよ。ちなみに、その花の花言葉は真実の恋というらしいです」
五葉は通訳の青年の言葉を頬を火照らせながら聞いていた。
マーガレットは恐らく、自分より何歳も年上だろう。下手をすれば、祖国に旦那様を待っているかもしれない。
恐らく、自分はこの旅に同行し、彼女への煮えきれない思いを抱えたまま一人で生きていくのかもしれない。
だが、彼女に後悔の念は無かった。自身の思いを伝えられ、旅に同行できたのだ。そして、旅の合間に日記を書きながら、笑顔を綻ばせる彼女の姿は本当に花の妖精のように綺麗だった。
五葉はマーガレットの顔を見る、この点だけで充分であった。
だが、悲劇というのは必ずと言って良い程起こるものらしい。
五葉と通訳の青年とマーガレットの旅が伊賀に差し掛かった時だ。
突如、三人を残酷なものが襲った。伊勢神宮を観光に訪れた後に、たまたま天照大神へ攘夷と討幕の祈願をしに訪れた水戸藩の脱藩浪士、五名と鉢合わせしたのであった。狂犬のように凶悪な浪士達だ、彼らが現れるなり、人々は姿を散らしていく。助けを期待するのは皆無だろう。そう判断したのか、通訳の青年は懐のピストルへと手を伸ばそうとしたが、それ見た水戸藩の脱藩浪士達は目を血走らせながら、鞘から刀を抜き取り、懐からピストルを取り出そうとした青年の右腕を斬り落とし、そのままの勢いで青年を斬り殺す。
次に五人の尋常ではない目が狙いを定めたのは五葉であった。
異国人の女性と腕を組んで恋人のように歩いていた事が彼らの勘に触ったのだろう。
五葉の小さな体に狙いを定め、一斉に刀を突き刺していく。
五葉は覚悟を決め、目を瞑った。だが、いつまで経っても、刀は彼女の元には届かない。
彼女が恐る恐る目を開くと、自身の体を庇うように抱擁しているマーガレットの姿が見えた。
彼女の着ていた純白のドレスが赤く染まっていく光景を彼女は生涯忘れられないだろう。
五葉は両目から涙を流しながら、マーガレットに向かって問い掛ける。
「どうして、あなたはあたしを助けてくれたの?単なる旅の同行人の筈よね?どうして?」
その言葉を聞いて、彼女は僅かな唇が塗られた小さな唇を開いて答えた。
「i love you」と。
彼女はその言葉の意味を知っていた。それはあなたを愛しているという意味。
決して、彼女への想いは自身の一人だけの想いでは無かったらしい。
五葉はマーガレットの最後の告白を聞くなり、全身を震わせて、怒りを水戸藩の浪士達に向けていく。
気が付くと、彼女の周りは血だらけになっていた。
彼女が呆然とした様子で、それを眺めていると、突如、物陰から一人の男が現れ、両手を叩く。
「へぇ、まさか、妖魔術を使える人を目撃できるなんて、運が良いやぁ~」
感心したように顎を頷かせる男に向かって彼女は両目を尖らせながら問い掛ける。
彼は頭を掻きながら、
「いやぁ、これは失敬、失敬、オレの名前は降魔霊蔵……伊勢同心の次期頭領となる男……そう言った方が良いかな?」
霊蔵の言葉に対し、五葉は返答に窮したが、彼はそんな事は構いもせずに、彼女に向かって手を伸ばし、
「さぁ、おいでよ。キミならば少し修行を積むだけで、どの忍びよりも強くなれそうだ」
霊蔵の指示に従い、彼女は伊勢同心の里へと連れて行かれる。
彼女はそこで一年の修行を積み、満を侍して信州の自身の家へと戻った。
実家では外国人の女性と付き合った事に対し、父が腹を切った事、母がそのために体調を崩し亡くなった事を聞かされた。
彼女はそれを聞くなり、信者達に自分が教団を継ぐ事を宣言した。
信者達は反対したが、彼女の妖魔術と彼女の忍びとしての特製で彼らを黙らせた日の事が五葉は昨日ように思えた。
五葉はそれからゆっくり両目の目蓋を閉ざす。
不思議な事に死の恐怖は一切感じなかった。彼女が眠るようにあの世へと旅立ち、あの世へと向かう中で、彼女の目の前に白いドレスを着た美しい女性が現れた。
その姿を見るなり、五葉は我を忘れて叫ぶ。
「マーガレット!会いたかったわ!あたし、ずっと……ずっと……あなたの事を思っていて……」
柔和な笑顔を浮かべる白いドレスの優しい風貌の女性は赤子のように泣きじゃくる五葉の頭を優しく撫でていく。
五葉は何とも言えない温かさを感じていた。そして、優しく抱擁する彼女に抱擁を返し、
「マーガレット、愛してるわ」
五葉はマーガレットの唇に自身の唇を重ねた。
マーガレットは拒絶する事なく、彼女の口吸いを受け取り、彼女の耳元で囁いた。「i love you」と。
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