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1.その生徒
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楽な仕事だよね、と言われることがある。
保健室に座って怪我の手当てしてればいいんでしょ、漫画読んでてもお菓子食べててもばれないじゃん、俺もなりたい。なんてことを面と向かって言われたこともある。
そんなときは、ふざけんなこのくそガキと思う。
なれるもんならなってみろよ。世間にはどんだけ保健の先生になりたい人間がいて、どんだけ倍率高いと思ってんだよ。
短大出てもちょうどよく求人なんて出てなくて、バイトしながら何年も待って、ようやくツテを辿って無理やり捩じ込んでもらったんだからな。努力も才能も関係なくて、本当に運に頼るしかないからな。
……もちろんそんなことはまだ世間というものを知らない高校生には言わないでおいてやるけど。
にっこり微笑み、結構これでも大変なんだけどなあ、というに留めている。それでもやっぱり切ないものは切ない。
でも「先生ありがとう」の言葉ですべてのもやもやは吹っ飛ぶ。
やはり俺にとって、養護教諭というのは天職に違いないのだ。ちなみに天職は英語でコーリングと言うらしい。神様から呼ばれるってやつだ。俺もそうに違いないと思う。
だって呼ばれる。
ものすごく呼ばれる。
朝早くから一日中、ひっきりなしに呼ばれる。
「鶴見先生、お腹痛い。お薬ちょうだい」
「千草ちゃーん! 絆創膏張って! 見てよこれ、転んじゃった~」
ちょっと校内を歩けばこのありさまだ。まさしく四六時中暇なしの独楽鼠。
昼休みに入ったばかりで騒がしい校舎を早足で歩きながら、俺は道々かかる声に叫び返す。
「保健室で待ってて! すぐ戻るから!」
職員玄関で靴に履き替えて外に出ると、梅雨特有のむせかえるような植物の匂いが全身に張り付く。
片田舎のしかも田んぼに囲まれるようにして立つこの公立高校は、とにかく広い。敷地の端から端まで歩けば十分はかかる。そんなクソでかい高校のこれまたドでかいグラウンドの端っこをなぜひた走っているかというと、俺には大事な目的があるからだ。
体育館の脇をすり抜け、学校の敷地のほぼ隅っこまでやってきた俺は、額に滲んだ汗をぬぐう。
「あ~、よかった……。売り切れてない」
目の前の自動販売機に張り付いてほっと息を吐いた。尻ポケットから財布を出し、小銭を取り出す。
『あったか~いコーンポタージュ 百円』
うきうきとそのボタンを押した。しばらくするとガコンっと音がして、自販機のポケットに缶が落ちてくる。
この自販機は知る人ぞ知る貴重な激安自販機なのだ。
学園の敷地の端っこに設置されているからか、木の陰になって見えにくいからか、この自販機は生徒にはあまり知られていない。教員のほとんどは知っているが、こんな敷地の端っこまでくるモノ好きはいない。要するに俺の独占状態。
今日も無事にゲットしたコーンポタージュを取り出そうと身をかがめると、小脇に挟んでいた財布が滑り落ちた。
「うわっ」
十年愛用しているナイロン製の財布からは硬貨が飛び出し、ころころと転がっていく。俺はばらまいてしまった硬貨を慌てて拾い始めた。
ふいに手元の地面に影が差したのはそのときだった。「ん?」と顔を上げると、目の前には背の高い男子生徒が立っていた。
真っ黒な髪の毛に意志の強そうな切れ長の目。シャツの上からも筋肉が見て取れるようながっちりとした体格は、端正な顔と相まって、古代ギリシャかどこかの彫刻のようだった。
おわ~、タイプ……。
心の声が飛び出そうになって慌てて自分の口を押えた。何を隠そう、俺は生まれたときから二十三年間、正真正銘の生粋のゲイだったのだ。
しかし目の前の彼は、制服に身を包んでいる生徒。ダメだダメ、と心の中で首を振ったとき、彼が口を開いた。
「これ」
差し出された大きな手のひらの上には五円玉がある。
「あっ、拾ってくれたの? ありがとう!」
慌てて受け取ると、その生徒は小さく頷いた。そのまましゃがみこみ残りの硬貨を拾い始める。どうやら手伝ってくれるつもりらしい。
ありがたく好意に甘えることにして、二人で無言で小銭を拾い集める。しかし。
「……あれ? 足りない」
拾い集め終わった小銭を手に、俺は首を傾げた。
財布の小銭入れの中には、七百五十一円あったはずなのだ。コーンポタージュを買うのに百円を使ったから、残りは六百五十一円。
でも今俺の手のひらの中にあるのは六百四十一円だ。いくら数えてみても十円足りない。
「足りないんですか?」
「ああ、うん、十円ね。今朝家出る前に数えたから確かだと思う」
一日二回、毎朝自宅を出る前と夜寝る前に財布の中の金を数えるのは、俺の長年の習慣だった。手帳にもそのたびに金額を書き込んでいる。だから勘違いではないと思うのだが。
「あれ~、どこ行っちゃったのかなあ……」
すべて拾ったと思ったが、遠くまで転がって行ってしまったのだろうか。地面に這いつくばってきょろきょろと探していると、頭上から呆れたような声が聞こえた。
「服、汚れますよ。たった十円だけでしょう? もういいじゃないですか」
「え?」
淡々とした言葉に顔を上げると、彼は涼しい顔で俺を見下ろしていた。
その醒めた表情を見た瞬間、むかっといら立ちがこみ上げた。これだからお金に困ったことのない学生は……!
俺は必死にいら立ちを抑え、にっこりと微笑んだ。
「一円を笑うものは一円に泣くって言うでしょ。お金は大事にしないと罰が当たるんだよ」
彼は俺の言葉に不思議そうにしばらく首を傾けていたが、やがて納得したのか小さく頷いた。
「そうですか、まあ人それぞれですしね。それじゃ俺はここで」
その男子生徒はそう言うと、踵を返してさっさと校舎のほうへ歩いて行ってしまった。俺はしばらくぽかんとしたあと、ようやく心の中で叫ぶ。
――なんて奴だ!
保健室に座って怪我の手当てしてればいいんでしょ、漫画読んでてもお菓子食べててもばれないじゃん、俺もなりたい。なんてことを面と向かって言われたこともある。
そんなときは、ふざけんなこのくそガキと思う。
なれるもんならなってみろよ。世間にはどんだけ保健の先生になりたい人間がいて、どんだけ倍率高いと思ってんだよ。
短大出てもちょうどよく求人なんて出てなくて、バイトしながら何年も待って、ようやくツテを辿って無理やり捩じ込んでもらったんだからな。努力も才能も関係なくて、本当に運に頼るしかないからな。
……もちろんそんなことはまだ世間というものを知らない高校生には言わないでおいてやるけど。
にっこり微笑み、結構これでも大変なんだけどなあ、というに留めている。それでもやっぱり切ないものは切ない。
でも「先生ありがとう」の言葉ですべてのもやもやは吹っ飛ぶ。
やはり俺にとって、養護教諭というのは天職に違いないのだ。ちなみに天職は英語でコーリングと言うらしい。神様から呼ばれるってやつだ。俺もそうに違いないと思う。
だって呼ばれる。
ものすごく呼ばれる。
朝早くから一日中、ひっきりなしに呼ばれる。
「鶴見先生、お腹痛い。お薬ちょうだい」
「千草ちゃーん! 絆創膏張って! 見てよこれ、転んじゃった~」
ちょっと校内を歩けばこのありさまだ。まさしく四六時中暇なしの独楽鼠。
昼休みに入ったばかりで騒がしい校舎を早足で歩きながら、俺は道々かかる声に叫び返す。
「保健室で待ってて! すぐ戻るから!」
職員玄関で靴に履き替えて外に出ると、梅雨特有のむせかえるような植物の匂いが全身に張り付く。
片田舎のしかも田んぼに囲まれるようにして立つこの公立高校は、とにかく広い。敷地の端から端まで歩けば十分はかかる。そんなクソでかい高校のこれまたドでかいグラウンドの端っこをなぜひた走っているかというと、俺には大事な目的があるからだ。
体育館の脇をすり抜け、学校の敷地のほぼ隅っこまでやってきた俺は、額に滲んだ汗をぬぐう。
「あ~、よかった……。売り切れてない」
目の前の自動販売機に張り付いてほっと息を吐いた。尻ポケットから財布を出し、小銭を取り出す。
『あったか~いコーンポタージュ 百円』
うきうきとそのボタンを押した。しばらくするとガコンっと音がして、自販機のポケットに缶が落ちてくる。
この自販機は知る人ぞ知る貴重な激安自販機なのだ。
学園の敷地の端っこに設置されているからか、木の陰になって見えにくいからか、この自販機は生徒にはあまり知られていない。教員のほとんどは知っているが、こんな敷地の端っこまでくるモノ好きはいない。要するに俺の独占状態。
今日も無事にゲットしたコーンポタージュを取り出そうと身をかがめると、小脇に挟んでいた財布が滑り落ちた。
「うわっ」
十年愛用しているナイロン製の財布からは硬貨が飛び出し、ころころと転がっていく。俺はばらまいてしまった硬貨を慌てて拾い始めた。
ふいに手元の地面に影が差したのはそのときだった。「ん?」と顔を上げると、目の前には背の高い男子生徒が立っていた。
真っ黒な髪の毛に意志の強そうな切れ長の目。シャツの上からも筋肉が見て取れるようながっちりとした体格は、端正な顔と相まって、古代ギリシャかどこかの彫刻のようだった。
おわ~、タイプ……。
心の声が飛び出そうになって慌てて自分の口を押えた。何を隠そう、俺は生まれたときから二十三年間、正真正銘の生粋のゲイだったのだ。
しかし目の前の彼は、制服に身を包んでいる生徒。ダメだダメ、と心の中で首を振ったとき、彼が口を開いた。
「これ」
差し出された大きな手のひらの上には五円玉がある。
「あっ、拾ってくれたの? ありがとう!」
慌てて受け取ると、その生徒は小さく頷いた。そのまましゃがみこみ残りの硬貨を拾い始める。どうやら手伝ってくれるつもりらしい。
ありがたく好意に甘えることにして、二人で無言で小銭を拾い集める。しかし。
「……あれ? 足りない」
拾い集め終わった小銭を手に、俺は首を傾げた。
財布の小銭入れの中には、七百五十一円あったはずなのだ。コーンポタージュを買うのに百円を使ったから、残りは六百五十一円。
でも今俺の手のひらの中にあるのは六百四十一円だ。いくら数えてみても十円足りない。
「足りないんですか?」
「ああ、うん、十円ね。今朝家出る前に数えたから確かだと思う」
一日二回、毎朝自宅を出る前と夜寝る前に財布の中の金を数えるのは、俺の長年の習慣だった。手帳にもそのたびに金額を書き込んでいる。だから勘違いではないと思うのだが。
「あれ~、どこ行っちゃったのかなあ……」
すべて拾ったと思ったが、遠くまで転がって行ってしまったのだろうか。地面に這いつくばってきょろきょろと探していると、頭上から呆れたような声が聞こえた。
「服、汚れますよ。たった十円だけでしょう? もういいじゃないですか」
「え?」
淡々とした言葉に顔を上げると、彼は涼しい顔で俺を見下ろしていた。
その醒めた表情を見た瞬間、むかっといら立ちがこみ上げた。これだからお金に困ったことのない学生は……!
俺は必死にいら立ちを抑え、にっこりと微笑んだ。
「一円を笑うものは一円に泣くって言うでしょ。お金は大事にしないと罰が当たるんだよ」
彼は俺の言葉に不思議そうにしばらく首を傾けていたが、やがて納得したのか小さく頷いた。
「そうですか、まあ人それぞれですしね。それじゃ俺はここで」
その男子生徒はそう言うと、踵を返してさっさと校舎のほうへ歩いて行ってしまった。俺はしばらくぽかんとしたあと、ようやく心の中で叫ぶ。
――なんて奴だ!
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