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10.夜のブランコと涙
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『ずっと君のことが忘れられなかった』
耳の奥に残ったその言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
はあ、とため息をついた俺はのろのろと公園の中を横切り、ブランコに腰かけた。
ブランコと滑り台、砂場とベンチしかない小さな児童公園である。夜の十時も過ぎれば、さすがに公園の中に人影はない。
ブランコの背後には生け垣があり、そのまた後ろには俺が住むボロアパートが若干斜めになって立っている。俺が自分の住まいをここに決めたのは、家賃の安さと目の前の公園にブランコがあったからだ。
俺は昔からブランコが大好きだった。ずっと一人で遊んでいても不自然じゃないという後ろ向きの理由からだけど。
つま先で地面を蹴って、ブランコの揺れに身を任せる。しんと静まり返った公園の中に、ぎいぎいと金属の鎖が軋む音だけが響いた。
目を閉じると、不思議な浮遊感に体が包まれる。ブランコにしばらく乗っていると不思議に心が静まるのだが、今日ばかりは無理だった。散り散りになった気持ちは収まりそうもない。
高校卒業後、児童養護施設を出て一人暮らしを始めたのはいいが、そのころの俺はバイトと学業にすべてのエネルギーを使わざるを得ない状況だった。上限で奨学金を借りても、真夜中までバイトをしても、生活費も学費もぎりぎりだった。肉体的にも精神的にも限界だった。
そんな状況でまともな恋愛をすることなどできず、人恋しいときはゲイバーに行ってあと腐れのないような男を選んで軽い付き合いをしていた。しかしどれだけ温もりに包まれても、心が休まることはなかった。
そんなときに京介さんから交際を申し込まれた。
京介さんは精神的にも金銭的にも、ぎりぎりの生活をしていた俺を救ってくれた。直接金を渡してくることはなかったが、食事の会計はいつも京介さん持ちだったし、日ごろ必要なものを差し入れてくれたり、さりげなく俺の部屋に置いて行ってくれたりする。学費の援助も受けたこともあった。京介さんと付き合い始めてから、それまで金銭的にぎりぎりだった生活が、一気に楽になった。
だけど穏やかになった生活の一方で、ずっと胸のなかにわだかまっている思いがあった。
俺は、本当に京介さんを好きなのだろうか、ということだ。
京介さんは魅力的な人だと思う。いっしょにいると楽しい。安心する。でもそれって、本当に恋愛として好きという感情なのか?
そしてある日ふと疑問がわいてきた。もし京介さんが金を全然持っていない男だったらどうだろう。俺はそれでも付き合っただろうか?
答えはノーだった。俺は金を持っている京介さんだから付き合っているのだ。
『愛しているよ』
京介さんがそう囁くたび、俺の胸は重くなっていく。京介さんが大事にしてくれればしてくれるほど、愛してもらえばもらうほど、その重みは増していった。罪悪感という名の重みだ。結局それに耐え切れず、短大卒業を期に別れを切り出した。
京介さんは静かにそうか、と言っただけだった。一抹の寂しさはあったが、ほっと安心したのは事実だ。俺たちの関係は期間限定だと、京介さん自身も考えていたのだろうと思っていた。そこまでの関係ではないと。
でもそうじゃなかった。京介さんは三年も経って会いに来てくれた。俺との将来も望んでくれていると言う。一体どうしたらいいのだろう。
はぁとため息をついて目を閉じていると、微かに人の声が聞こえた。
「先生?」
その言葉に顔を上げると、いつのまにか前方に人が立っていた。
「うわっ」
驚きのあまりブランコからずり落ちそうになった。そこに立っていたのは一之宮だったのだ。
彼はTシャツにハーフパンツというラフな格好で、驚愕の表情でこちらを見ている。
俺は胸に手を当てて呼吸と心臓を落ち着けると、大きく息を吐いてから一之宮に話しかけた。
「びっくりしたなぁ。どうしてこんなところにいるんだよ」
足でブランコを止めながら、一之宮を見やる。
「それはこっちのセリフですよ。なんでここにいるんですか」
「え? 俺のアパート、ここだけど」
背後の倒れそうなアパートを指さすと、一之宮は大きく目を見開いた。
「マジすか……。俺んちすぐ近くです」
「知ってるよ」
この前家庭訪問したじゃん、と言い添えると一之宮は「そうですね」と真顔で頷いた。そんな彼に思わず笑いが落ちる。
一之宮はまだ驚きから覚めないようで、ふわふわとして足取りでこちらまで歩いてくると、俺の隣のブランコに腰を下ろした。
「バイトの帰り?」
「いえ、コンビニに行ってきたところです」
一之宮はそう言いながら右手で持ったビニール袋を掲げた。袋からは牛乳の紙パックがはみ出している。子供のようでなんとなく微笑ましくなったが、一之宮は難しい顔で押し黙っている。何かを考え込んでいるような顔つきだ。どうしたのだろうかとしばらく横顔を伺っていると、彼は迷いながらも口を開いた。
「……今日保健室に来たあの人って」
「あの人?」
俺は首を傾けた。誰のことを言っているのだろうと考えて、ようやく思い至った。
「もしかして、今日保健室であった堂島さんのこと?」
一之宮は「はい」と小さく頷く。
「ああ、あの人は俺が短大に通っていた時、非常勤の講師として授業しに来てたんだよ。俺はいろいろ教えてもらった」
「いろいろって、どんなことですか」
「え?」
妙な言い回しに驚いて顔を上げると、一之宮がまっすぐに俺の方を見ていた。街灯の光が反射した彼の瞳が鋭く光る。
「付き合ってたんですか、あの人と」
一之宮の言葉に、自分の身体が動揺で強張るのがわかった。
「えっ、なんで」
「すみません、二人で話しているところ聞いちゃいました」
「……ああ、そっか」
帰るふりをして俺たちの後を付いてきたのだろう。誰もいないと思っていたが、まさか一之宮に話を聞かれていたとは。立ち聞きされていたことに驚きはしたが、怒りは湧いてこなかった。俺がゲイであることはすでに彼に知られている。
「昔のことだよ。何年も前のことだ」
「先生はそう思ってても、あってはそうじゃない。口説かれてた」
「……うん」
俺は黙って空を見上げた。
月がない夜空は、一つ一つの星がくっきりと瞬いている。見ているとふっと夜空に引き寄せられたような感覚になった。心地よい浮遊感に、気持ちが緩んだのかもしれない。気が付いたら俺はぽつりぽつりと言葉を漏らしていた。
「俺が初めてちゃんと付き合ったのがあの人だったんだよ」
「初めて、ですか?」
「そう。あ、その前に何人かままごとで付き合った人はいたけどさ。俺、ずっと恋愛なんてする余裕なんてなかったから、誰かと付き合うってことがわかんなかったんだ。だから京介さんが最初。いや違うか。京介さんとも二年付き合ったけど、結局よくわからなかったからな」
自分でも何を言っているのかわからなかった。それなのに一之宮は、息をころすようにして聞いてくれている。
「俺、きっとどこか変なんだと思う。人を好きになるとか人を愛するって、よくわかんないんだよ。嫌いじゃないってのはわかる。なんとなく好きかもっては思う。でも一生懸命大事にされても、どっか遠いところから自分のことを見てるような気がするんだよな。本当にこの人は俺なんかのことを好きなんだろうかって信じられないんだよ。そんなことばかり考えてるから、相手のことも本当の意味で好きになれないし、心を開けない」
別れを告げたときの京介さんの顔が脳裏に浮かぶ。
寂しそうで、ほっとしたような顔だった。心を開けない俺に、きっと京介さんは内心疲れていたのだろう。だから終わりを迎えてほっとしている、そんな顔に見えた。
「どうして好きじゃないとだめなんですか?」
一之宮はしばらくの間黙り込んでいたが、静かに口を開いた。思いもよらない言葉に「え」と驚いて一之宮の顔を見る。
「どうしてきちんと愛さなくちゃいけないんでしょう。相手に対する尊敬とか、感謝とか、そういうので繋がる関係じゃ駄目なんですか?」
「だ、だめだろ。相手は自分のことを好きだって言ってんだぞ?」
「そうでしょうか。世の中のカップルとか夫婦の半分以上は、惰性とか計算とか利益で関係を続けてるんだと思いますけど」
「……本当に一之宮って高校生?」
これくらいの年の頃って、もっと恋とか愛とかに夢見るものではないだろうか?
俺はけっこう驚いたのだけど、一之宮は変わったことを言っている自覚はないのだろう。顔をあげて不思議そうにこちらを見ただけだった。
「確かにそういう関係もあるだろうけど、本気で思ってくれる人に対してはだめだよ。俺、あのひとに大事にしてもらった。金銭的にも助けてもらってた。相手が本気ならなおさら酷いよ。ほんと最低だったと思う。生徒には『よく生きる』なんてこと言って、自分は昔そんなことやってたんだよ」
俺は「ははは」と笑ったが、一之宮は笑ってはくれなかった。ただ痛ましそうに俺のことを見ている。なんだか一気にむなしくなった。悲しくもなった。そうしたら言い訳が口を突いて出た。
「俺だって本当は、そんな中途半端な気持ちで付き合うべきじゃないってわかってたよ。でもそのときは『いいじゃん』って思っちゃったんだ。多く持ってる人から、少しくらい貰ったっていいじゃんって」
たくさんのお金を持っている人から施しを受けても、たくさんの愛を持っている人から少しくらい愛をもらったとしても、何が悪いというのだ?
だって俺には何もなかった。みんなが普通に持っているものがいくつも欠けていた。自分というもの以外に確かな存在はなく、それが心細くて不安で寂しくて、貰ったもので自分の穴を埋めなくちゃいけない気がしていた。埋めさえすれば、真っ当な人間になれると思い込んでいたのだ。
でも貰っても貰っても満足できなかった。今ならわかるような気がする。俺が本当に望んでいたのは、そんなものじゃなくて――。
「先生はあの人を好きになりたかったんですよね?」
今まさに考えていたことを言葉にされ、一瞬息が止まった。
「一生懸命愛そうとしたんでしょう? でも出来なかった。違いますか?」
「お、俺は……」
そうだ。その通りだ。
俺はあのとき、京介さんを愛したかった。京介さんから貰うものを、同じように返したかった。でも出来なかった。俺が人を愛するということを知らないから。
「あなたのせいじゃないです。そういうことが分からないのも、うまく出来ないものも、あなたのせいじゃないと俺は思う。それに、きっと先生の努力も気持ちもあの人に伝わってましたよ。だからまた会いに来てくれたんじゃないですか?」
これ以上ないくらいに優しい声音で一之宮が言う。
急に目頭が熱くなって、涙がぽとりと落ちてきた。慌てて目を擦っていると、一之宮がブランコから立ち上がった。俺の目の前まで来ると、ぎこちない動作で俺の頭を抱えこむ。
「俺なんかじゃ頼りにはならないと思うけど、今だけのつっかえ棒ぐらいにはなりますよ。少しは力抜いたらどうですか。一人で抱え込んじゃだめだって、先生がこの前言ってましたよ」
「い、ちのみや」
「もう何も言わなくてもいいですから」
ふわりと大きな手のひらが頭のてっぺんに乗った。その温かさを感じてしまったらもう駄目だった。止めようと思っても涙は後から後から湧き出てくる。同時に長い間胸に詰まったわだかまりが、ほどけていく。
自分の生まれや環境に対する恨みを拭うことが出来なかった。本当に心から求めたのは母親で、でも母親に愛された記憶も実感もなく、どうやって人を大事にして愛すればいいのかわからなかった。
だけど少し成長すれば、自分と同じような育ちの人間などたくさんいることを知った。だからこそ負けたくなかった。きちんとした心を持った、真っ当な人になりたかった。
そう願っていても、所詮は真似事しか出来なかった。大事にするべき人を大事に出来ず、そんな自分は大きなものが欠けた人間で、おかしくて、歪んでいると思って生きていた。
でも一之宮に『あなたのせいじゃない』と言われた瞬間、暗いところで立ち竦んで怯えている小さなころの自分を見たような気がした。
――辛かったな。寂しかったよな。
どこからかそんな声が聞こえた。
――もう大丈夫だよ。
幼い自分に、差し伸べられる大きな手のひらが見えた。
俺は一之宮の腰に腕を回してしがみついた。一之宮はぐらりと体勢を崩し、腰だけを突き出したような不安定な格好で踏みとどまっている。俺はその身体を力いっぱい抱きしめた。
一之宮のTシャツの腹のあたりには、俺の涙も鼻水もついているだろう。悪いなぁと思いながらも、しがみつくのを辞められない。ついでに涙も止まらなかった。
一之宮の大きな手のひらはしばらく宙をさ迷った後、最後には俺の頭のてっぺんに、そろそろと戻って来た。
耳の奥に残ったその言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
はあ、とため息をついた俺はのろのろと公園の中を横切り、ブランコに腰かけた。
ブランコと滑り台、砂場とベンチしかない小さな児童公園である。夜の十時も過ぎれば、さすがに公園の中に人影はない。
ブランコの背後には生け垣があり、そのまた後ろには俺が住むボロアパートが若干斜めになって立っている。俺が自分の住まいをここに決めたのは、家賃の安さと目の前の公園にブランコがあったからだ。
俺は昔からブランコが大好きだった。ずっと一人で遊んでいても不自然じゃないという後ろ向きの理由からだけど。
つま先で地面を蹴って、ブランコの揺れに身を任せる。しんと静まり返った公園の中に、ぎいぎいと金属の鎖が軋む音だけが響いた。
目を閉じると、不思議な浮遊感に体が包まれる。ブランコにしばらく乗っていると不思議に心が静まるのだが、今日ばかりは無理だった。散り散りになった気持ちは収まりそうもない。
高校卒業後、児童養護施設を出て一人暮らしを始めたのはいいが、そのころの俺はバイトと学業にすべてのエネルギーを使わざるを得ない状況だった。上限で奨学金を借りても、真夜中までバイトをしても、生活費も学費もぎりぎりだった。肉体的にも精神的にも限界だった。
そんな状況でまともな恋愛をすることなどできず、人恋しいときはゲイバーに行ってあと腐れのないような男を選んで軽い付き合いをしていた。しかしどれだけ温もりに包まれても、心が休まることはなかった。
そんなときに京介さんから交際を申し込まれた。
京介さんは精神的にも金銭的にも、ぎりぎりの生活をしていた俺を救ってくれた。直接金を渡してくることはなかったが、食事の会計はいつも京介さん持ちだったし、日ごろ必要なものを差し入れてくれたり、さりげなく俺の部屋に置いて行ってくれたりする。学費の援助も受けたこともあった。京介さんと付き合い始めてから、それまで金銭的にぎりぎりだった生活が、一気に楽になった。
だけど穏やかになった生活の一方で、ずっと胸のなかにわだかまっている思いがあった。
俺は、本当に京介さんを好きなのだろうか、ということだ。
京介さんは魅力的な人だと思う。いっしょにいると楽しい。安心する。でもそれって、本当に恋愛として好きという感情なのか?
そしてある日ふと疑問がわいてきた。もし京介さんが金を全然持っていない男だったらどうだろう。俺はそれでも付き合っただろうか?
答えはノーだった。俺は金を持っている京介さんだから付き合っているのだ。
『愛しているよ』
京介さんがそう囁くたび、俺の胸は重くなっていく。京介さんが大事にしてくれればしてくれるほど、愛してもらえばもらうほど、その重みは増していった。罪悪感という名の重みだ。結局それに耐え切れず、短大卒業を期に別れを切り出した。
京介さんは静かにそうか、と言っただけだった。一抹の寂しさはあったが、ほっと安心したのは事実だ。俺たちの関係は期間限定だと、京介さん自身も考えていたのだろうと思っていた。そこまでの関係ではないと。
でもそうじゃなかった。京介さんは三年も経って会いに来てくれた。俺との将来も望んでくれていると言う。一体どうしたらいいのだろう。
はぁとため息をついて目を閉じていると、微かに人の声が聞こえた。
「先生?」
その言葉に顔を上げると、いつのまにか前方に人が立っていた。
「うわっ」
驚きのあまりブランコからずり落ちそうになった。そこに立っていたのは一之宮だったのだ。
彼はTシャツにハーフパンツというラフな格好で、驚愕の表情でこちらを見ている。
俺は胸に手を当てて呼吸と心臓を落ち着けると、大きく息を吐いてから一之宮に話しかけた。
「びっくりしたなぁ。どうしてこんなところにいるんだよ」
足でブランコを止めながら、一之宮を見やる。
「それはこっちのセリフですよ。なんでここにいるんですか」
「え? 俺のアパート、ここだけど」
背後の倒れそうなアパートを指さすと、一之宮は大きく目を見開いた。
「マジすか……。俺んちすぐ近くです」
「知ってるよ」
この前家庭訪問したじゃん、と言い添えると一之宮は「そうですね」と真顔で頷いた。そんな彼に思わず笑いが落ちる。
一之宮はまだ驚きから覚めないようで、ふわふわとして足取りでこちらまで歩いてくると、俺の隣のブランコに腰を下ろした。
「バイトの帰り?」
「いえ、コンビニに行ってきたところです」
一之宮はそう言いながら右手で持ったビニール袋を掲げた。袋からは牛乳の紙パックがはみ出している。子供のようでなんとなく微笑ましくなったが、一之宮は難しい顔で押し黙っている。何かを考え込んでいるような顔つきだ。どうしたのだろうかとしばらく横顔を伺っていると、彼は迷いながらも口を開いた。
「……今日保健室に来たあの人って」
「あの人?」
俺は首を傾けた。誰のことを言っているのだろうと考えて、ようやく思い至った。
「もしかして、今日保健室であった堂島さんのこと?」
一之宮は「はい」と小さく頷く。
「ああ、あの人は俺が短大に通っていた時、非常勤の講師として授業しに来てたんだよ。俺はいろいろ教えてもらった」
「いろいろって、どんなことですか」
「え?」
妙な言い回しに驚いて顔を上げると、一之宮がまっすぐに俺の方を見ていた。街灯の光が反射した彼の瞳が鋭く光る。
「付き合ってたんですか、あの人と」
一之宮の言葉に、自分の身体が動揺で強張るのがわかった。
「えっ、なんで」
「すみません、二人で話しているところ聞いちゃいました」
「……ああ、そっか」
帰るふりをして俺たちの後を付いてきたのだろう。誰もいないと思っていたが、まさか一之宮に話を聞かれていたとは。立ち聞きされていたことに驚きはしたが、怒りは湧いてこなかった。俺がゲイであることはすでに彼に知られている。
「昔のことだよ。何年も前のことだ」
「先生はそう思ってても、あってはそうじゃない。口説かれてた」
「……うん」
俺は黙って空を見上げた。
月がない夜空は、一つ一つの星がくっきりと瞬いている。見ているとふっと夜空に引き寄せられたような感覚になった。心地よい浮遊感に、気持ちが緩んだのかもしれない。気が付いたら俺はぽつりぽつりと言葉を漏らしていた。
「俺が初めてちゃんと付き合ったのがあの人だったんだよ」
「初めて、ですか?」
「そう。あ、その前に何人かままごとで付き合った人はいたけどさ。俺、ずっと恋愛なんてする余裕なんてなかったから、誰かと付き合うってことがわかんなかったんだ。だから京介さんが最初。いや違うか。京介さんとも二年付き合ったけど、結局よくわからなかったからな」
自分でも何を言っているのかわからなかった。それなのに一之宮は、息をころすようにして聞いてくれている。
「俺、きっとどこか変なんだと思う。人を好きになるとか人を愛するって、よくわかんないんだよ。嫌いじゃないってのはわかる。なんとなく好きかもっては思う。でも一生懸命大事にされても、どっか遠いところから自分のことを見てるような気がするんだよな。本当にこの人は俺なんかのことを好きなんだろうかって信じられないんだよ。そんなことばかり考えてるから、相手のことも本当の意味で好きになれないし、心を開けない」
別れを告げたときの京介さんの顔が脳裏に浮かぶ。
寂しそうで、ほっとしたような顔だった。心を開けない俺に、きっと京介さんは内心疲れていたのだろう。だから終わりを迎えてほっとしている、そんな顔に見えた。
「どうして好きじゃないとだめなんですか?」
一之宮はしばらくの間黙り込んでいたが、静かに口を開いた。思いもよらない言葉に「え」と驚いて一之宮の顔を見る。
「どうしてきちんと愛さなくちゃいけないんでしょう。相手に対する尊敬とか、感謝とか、そういうので繋がる関係じゃ駄目なんですか?」
「だ、だめだろ。相手は自分のことを好きだって言ってんだぞ?」
「そうでしょうか。世の中のカップルとか夫婦の半分以上は、惰性とか計算とか利益で関係を続けてるんだと思いますけど」
「……本当に一之宮って高校生?」
これくらいの年の頃って、もっと恋とか愛とかに夢見るものではないだろうか?
俺はけっこう驚いたのだけど、一之宮は変わったことを言っている自覚はないのだろう。顔をあげて不思議そうにこちらを見ただけだった。
「確かにそういう関係もあるだろうけど、本気で思ってくれる人に対してはだめだよ。俺、あのひとに大事にしてもらった。金銭的にも助けてもらってた。相手が本気ならなおさら酷いよ。ほんと最低だったと思う。生徒には『よく生きる』なんてこと言って、自分は昔そんなことやってたんだよ」
俺は「ははは」と笑ったが、一之宮は笑ってはくれなかった。ただ痛ましそうに俺のことを見ている。なんだか一気にむなしくなった。悲しくもなった。そうしたら言い訳が口を突いて出た。
「俺だって本当は、そんな中途半端な気持ちで付き合うべきじゃないってわかってたよ。でもそのときは『いいじゃん』って思っちゃったんだ。多く持ってる人から、少しくらい貰ったっていいじゃんって」
たくさんのお金を持っている人から施しを受けても、たくさんの愛を持っている人から少しくらい愛をもらったとしても、何が悪いというのだ?
だって俺には何もなかった。みんなが普通に持っているものがいくつも欠けていた。自分というもの以外に確かな存在はなく、それが心細くて不安で寂しくて、貰ったもので自分の穴を埋めなくちゃいけない気がしていた。埋めさえすれば、真っ当な人間になれると思い込んでいたのだ。
でも貰っても貰っても満足できなかった。今ならわかるような気がする。俺が本当に望んでいたのは、そんなものじゃなくて――。
「先生はあの人を好きになりたかったんですよね?」
今まさに考えていたことを言葉にされ、一瞬息が止まった。
「一生懸命愛そうとしたんでしょう? でも出来なかった。違いますか?」
「お、俺は……」
そうだ。その通りだ。
俺はあのとき、京介さんを愛したかった。京介さんから貰うものを、同じように返したかった。でも出来なかった。俺が人を愛するということを知らないから。
「あなたのせいじゃないです。そういうことが分からないのも、うまく出来ないものも、あなたのせいじゃないと俺は思う。それに、きっと先生の努力も気持ちもあの人に伝わってましたよ。だからまた会いに来てくれたんじゃないですか?」
これ以上ないくらいに優しい声音で一之宮が言う。
急に目頭が熱くなって、涙がぽとりと落ちてきた。慌てて目を擦っていると、一之宮がブランコから立ち上がった。俺の目の前まで来ると、ぎこちない動作で俺の頭を抱えこむ。
「俺なんかじゃ頼りにはならないと思うけど、今だけのつっかえ棒ぐらいにはなりますよ。少しは力抜いたらどうですか。一人で抱え込んじゃだめだって、先生がこの前言ってましたよ」
「い、ちのみや」
「もう何も言わなくてもいいですから」
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自分の生まれや環境に対する恨みを拭うことが出来なかった。本当に心から求めたのは母親で、でも母親に愛された記憶も実感もなく、どうやって人を大事にして愛すればいいのかわからなかった。
だけど少し成長すれば、自分と同じような育ちの人間などたくさんいることを知った。だからこそ負けたくなかった。きちんとした心を持った、真っ当な人になりたかった。
そう願っていても、所詮は真似事しか出来なかった。大事にするべき人を大事に出来ず、そんな自分は大きなものが欠けた人間で、おかしくて、歪んでいると思って生きていた。
でも一之宮に『あなたのせいじゃない』と言われた瞬間、暗いところで立ち竦んで怯えている小さなころの自分を見たような気がした。
――辛かったな。寂しかったよな。
どこからかそんな声が聞こえた。
――もう大丈夫だよ。
幼い自分に、差し伸べられる大きな手のひらが見えた。
俺は一之宮の腰に腕を回してしがみついた。一之宮はぐらりと体勢を崩し、腰だけを突き出したような不安定な格好で踏みとどまっている。俺はその身体を力いっぱい抱きしめた。
一之宮のTシャツの腹のあたりには、俺の涙も鼻水もついているだろう。悪いなぁと思いながらも、しがみつくのを辞められない。ついでに涙も止まらなかった。
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命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。
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料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。
遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。
涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。
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