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20.よすが
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「風呂、ありがとうございました」
小さな声に顔を上げると、部屋の入口に一之宮が立っていた。
俺の着古したスウェットとルームパンツ姿で頭からバスタオルを被っている。
やっぱりつんつるてんだったかと俺は微笑み、入っておいでと手招きをした。しかし躊躇するように一之宮は動かない。焦れた俺は一之宮の腕を引っ張り、部屋の真ん中に置いたローテーブルの前に座らせた。
見た目のぼろさそのままに、俺の住むこのアパートは古くて狭い。間取りなんて六畳一間のワンルームだし、バストイレも同室。キッチンなんて玄関のそばに一口コンロと洗面器くらいの流しが付いているだけ。
家具もシングルのパイプベッドと折り畳みの小さなテーブル、三段段ボックスが二つだけだ。
そんな貧相な部屋の中でも、遠慮をしたように一之宮はベッドの下に縮こまっている。俺は彼の背中を跨ぐようにベッドに腰かけた。
「ちゃんと温まったか?」
「……はい」
「それならよし」
話しながらベッドの上に準備しておいたドライヤーを手に取る。そのまま一之宮の濡れた髪を乾かし始めると、彼は居心地悪そうに振り返った。
「自分で出来ます。それより先生も風呂に……」
「いいから座ってろ」
有無を言わさずに俺は一之宮の髪を乾かし続ける。
一之宮を自分のアパートに連れて帰ってまず最初にしたことといえば、狭いユニットバスの中に彼を押し込んだことで、俺自身は濡れた服を着替えただけの状態だ。確かに身体は冷え切ったままだったが、自分のことはどうでもよかった。それよりも一之宮の身体を一刻も早く温めてやりたい。
初めて触れる一之宮の水に濡れた黒髪は、見た目よりもしっとりと柔らかかった。膝がしらが大きな背中に触れると、冷え切っていた身体にじんじんと温かさが染みてくる。
「でかいなあ」
背中の広さも肩の厚みも、膝の上に乗せられた握り拳も、俺とはひとまわり以上も違う。
俺がしみじみと感じていると、一之宮が何か言った。俺はドライヤーを切って「ん? 何?」と問い返す。
「俺、身体でかくなるの早かったんですよ。同級生の中でも一番大きかった。小六んときに親父の身長抜いて、それからは自然と殴ったり蹴ったりはされなくなりました。身体頑丈だったんですよ。残った傷だって、背中のやつくらいで」
はっとして斜め上から一之宮の顔を覗き込んだ。
乾きかけの乱れた前髪の下で、伏せた瞼とそこから伸びるまつげが小さく震えている。
「先生も見たでしょう、背中のやけどのきず。あれは昔親父にたばこ押し付けられたんです。でもきっと親父は覚えてない。そうとう酒に酔ってたから」
その言葉に俺は思い出す。初めて保健室に一之宮が来たときに見た、背中に残る小さなやけどの痕。同時に、幼い子供にたばこの火を押し付ける酔っぱらった男の姿が目に浮かんだ。
憎しみと哀しみと絶望がこみ上げた。ぐっと喉が詰まり、その音に一之宮が顔を上げて俺を見た。そして目だけでちょっと笑う。(あなたが傷つかなくても大丈夫ですよ)と安心させるように。
俺もなんとか唇の端を引き上げて頷いた。再び前を向いた一之宮が口を開く。
「本当にしょうがない親父でしたよ。酒もパチンコも辞められなくて、仕事みつけてもすぐに辞めてきて。なにか気に食わないことがあると、物とか人に当たらないと済まない人だった。母親はいつもそんな親父にだまって従うだけで」
「……お母さん?」
「はい。母親は、親父の前ではいつも怯えていました。びくびくしていつも俯いていて、親父もそんな母親にどんどん逆上していって……。でも俺には優しい母親だった。早く大きくなって、親父から母親を守ってやりたいって思ってました。でも、母親は俺が九歳の時に出て行っちゃって。――そういえば、あのときもこんな雨の日だったな」
どこか遠いところを見ているような眼差しだった。
「『買い物に行ってくるね』って言って、母親は出て行ったきり。いくら待ってみても帰ってこないんです。不安になって探しに行こうと思ってドアを開けたら雨が降ってました。そういえば傘持って行かなかったなって思い出して。もしかしたら雨が降ってるから帰ってこれないのかと思いました。だから俺、早く雨が止めばいいのにって」
部屋の中でじっと膝を抱えながら、幼い一之宮は何を思って母親を待ち続けたのだろうか。俺も同じだった。同じように膝を抱えて雨が上がるのを待っていたことがあった。
「……でも待っても待っても母親は帰ってこなかった。父親はどうしてアイツはいないんだってひと暴れして、俺はその日、初めて父親に殴られた」
二人きりになった家庭の中で、きっと一之宮は、母親がいた場所にそっくりそのまま据えられたのだろう。
理不尽という言葉の意味をまだ知らない幼い子供は、過酷な現実でもそのまま受け入れることしかできない。誰からの慈悲も与えられないまま、家庭という地獄のなかでゆっくりゆっくりと押しつぶされていく。
子どもは、ただ生きるためだけに、自分の中から不要なものを手放していくしかない。希望や夢やそういう柔らかいものを身体の外に追い出して、そうして固い固い石みたいな心になる。道端に転がる石っころの出来上がりだ。
通りを行き交う人々は誰も目に止めない。邪魔そうに避けていく。あるいは気まぐれに蹴り飛ばす。そうしてころころと転がっていって、最後に残っていたわずかな感情を失うのだ。
でも一之宮は失わなかった。
どんな偶然が重なり、どんなものが彼を支えたのだろう。
今まで一之宮を守ってくれていたすべてのものに、俺は地べたにひれ伏して感謝したかった。こんなにまっすぐの眼差しを、優しい心を、温かな身体を残してくれた。
そっと一之宮の肩に手を置いた。びくん、と身体が跳ね、ゆっくりと一之宮が後ろを振り返る。
「寂しいよ」
俺の言葉に、一之宮は目を瞠った。ゆっくりと瞬きする漆黒の目が大きく揺れ、その瞳の表面にさっと漣が立つ。
「俺、死にそうなほど辛い」
だって一之宮は俺自身だ。一之宮の孤独や喪失感はすでに自分のものだった。心が冷えて凍えて仕方がない。
俺はベッドから滑るように床に降り、大きな背中に後ろから抱き着いた。一之宮の腹に両腕を回し、張り出した肩甲骨と肩甲骨の間に自分の額を埋める。目を閉じると、どくどくと一之宮の身体に血がめぐっていく音が額に響いた。
「先生」
一之宮が呟き、身体を反転させた。強い力で脇の下を抱え上げられ、俺は一之宮ともども背後のベッドに倒れ込んだ。一之宮が身体を起こし、俺の腰の上で膝立ちになる。
押し倒されて一瞬焦ったが、一之宮の顔を見てはっとした。
仰ぎ見た一之宮は、泣くのを堪える幼い子供そのものだった。絶対泣くまいと口をぐっと噤んで、それでも嗚咽を耐えられなくて突き出た顎が震えている。眉が情けなく垂れ下がり、その下の目が歪んでぼたぼたと涙が落ちてきた。イケメンだいなしだ。だけど俺にとってはこれ以上ない愛しい顔だ。
「おいで、一之宮」
俺が両腕を広げると、一之宮はゆっくりと俺に覆いかぶさった。嗚咽を上げて震えながら、俺だけがよすがとばかりに抱きしめる。俺は彼の背中を抱きしめ返した。
窓の外ではぽつぽつと雨が降り続けていた。地面や木の葉、ブランコや滑り台がきっと冷たい雨を受けているのだろう。でもここだけは二人の安全な場所だった。ただ静かに雨はドーム型のカーテンになって、俺たちに打ち付けるすべての辛いものから守ってくれている。
どれだけ時間が経ったのだろう。
気が付くと一之宮の嗚咽は静かな息遣いに変わっていた。すぐに胸のあたりからはすうすうと穏やかな寝息が聞こえはじめる。
大きな身体に伸し掛かられている両足や腰のあたりが重さで痺れていたが、動くと一之宮を起こしてしまいそうだ。俺はしばらくの間自分と一之宮が下敷きにしてしまっている掛布団を引っ張り出そうとしたが、やがて諦めて布団の両端を一之宮の身体に巻き付けた。とりあえずはこれで俺も一之宮も風邪は引かないだろう。
ふうと小さく息をついて枕もとの部屋の明かりのスイッチに手を伸ばした。電気を消すと、暗闇が目の前に迫って来る。でも眠気はやって来なかった。
じっと目を凝らすと、闇に慣れた視界にいろんなものが浮かび上がってくる。
一之宮の泣き顔、荒れはてた彼の部屋、酒に酔った俺の母親の顔、公園のブランコ、学校、土屋の心配そうな顔。
心の中で清と濁が渦を巻く。苦しい。呑み込まれそうだ。だけど溺れているわけにはいかない。
――考えろ。考えるんだ。一之宮のために、出来ることを。
小さな声に顔を上げると、部屋の入口に一之宮が立っていた。
俺の着古したスウェットとルームパンツ姿で頭からバスタオルを被っている。
やっぱりつんつるてんだったかと俺は微笑み、入っておいでと手招きをした。しかし躊躇するように一之宮は動かない。焦れた俺は一之宮の腕を引っ張り、部屋の真ん中に置いたローテーブルの前に座らせた。
見た目のぼろさそのままに、俺の住むこのアパートは古くて狭い。間取りなんて六畳一間のワンルームだし、バストイレも同室。キッチンなんて玄関のそばに一口コンロと洗面器くらいの流しが付いているだけ。
家具もシングルのパイプベッドと折り畳みの小さなテーブル、三段段ボックスが二つだけだ。
そんな貧相な部屋の中でも、遠慮をしたように一之宮はベッドの下に縮こまっている。俺は彼の背中を跨ぐようにベッドに腰かけた。
「ちゃんと温まったか?」
「……はい」
「それならよし」
話しながらベッドの上に準備しておいたドライヤーを手に取る。そのまま一之宮の濡れた髪を乾かし始めると、彼は居心地悪そうに振り返った。
「自分で出来ます。それより先生も風呂に……」
「いいから座ってろ」
有無を言わさずに俺は一之宮の髪を乾かし続ける。
一之宮を自分のアパートに連れて帰ってまず最初にしたことといえば、狭いユニットバスの中に彼を押し込んだことで、俺自身は濡れた服を着替えただけの状態だ。確かに身体は冷え切ったままだったが、自分のことはどうでもよかった。それよりも一之宮の身体を一刻も早く温めてやりたい。
初めて触れる一之宮の水に濡れた黒髪は、見た目よりもしっとりと柔らかかった。膝がしらが大きな背中に触れると、冷え切っていた身体にじんじんと温かさが染みてくる。
「でかいなあ」
背中の広さも肩の厚みも、膝の上に乗せられた握り拳も、俺とはひとまわり以上も違う。
俺がしみじみと感じていると、一之宮が何か言った。俺はドライヤーを切って「ん? 何?」と問い返す。
「俺、身体でかくなるの早かったんですよ。同級生の中でも一番大きかった。小六んときに親父の身長抜いて、それからは自然と殴ったり蹴ったりはされなくなりました。身体頑丈だったんですよ。残った傷だって、背中のやつくらいで」
はっとして斜め上から一之宮の顔を覗き込んだ。
乾きかけの乱れた前髪の下で、伏せた瞼とそこから伸びるまつげが小さく震えている。
「先生も見たでしょう、背中のやけどのきず。あれは昔親父にたばこ押し付けられたんです。でもきっと親父は覚えてない。そうとう酒に酔ってたから」
その言葉に俺は思い出す。初めて保健室に一之宮が来たときに見た、背中に残る小さなやけどの痕。同時に、幼い子供にたばこの火を押し付ける酔っぱらった男の姿が目に浮かんだ。
憎しみと哀しみと絶望がこみ上げた。ぐっと喉が詰まり、その音に一之宮が顔を上げて俺を見た。そして目だけでちょっと笑う。(あなたが傷つかなくても大丈夫ですよ)と安心させるように。
俺もなんとか唇の端を引き上げて頷いた。再び前を向いた一之宮が口を開く。
「本当にしょうがない親父でしたよ。酒もパチンコも辞められなくて、仕事みつけてもすぐに辞めてきて。なにか気に食わないことがあると、物とか人に当たらないと済まない人だった。母親はいつもそんな親父にだまって従うだけで」
「……お母さん?」
「はい。母親は、親父の前ではいつも怯えていました。びくびくしていつも俯いていて、親父もそんな母親にどんどん逆上していって……。でも俺には優しい母親だった。早く大きくなって、親父から母親を守ってやりたいって思ってました。でも、母親は俺が九歳の時に出て行っちゃって。――そういえば、あのときもこんな雨の日だったな」
どこか遠いところを見ているような眼差しだった。
「『買い物に行ってくるね』って言って、母親は出て行ったきり。いくら待ってみても帰ってこないんです。不安になって探しに行こうと思ってドアを開けたら雨が降ってました。そういえば傘持って行かなかったなって思い出して。もしかしたら雨が降ってるから帰ってこれないのかと思いました。だから俺、早く雨が止めばいいのにって」
部屋の中でじっと膝を抱えながら、幼い一之宮は何を思って母親を待ち続けたのだろうか。俺も同じだった。同じように膝を抱えて雨が上がるのを待っていたことがあった。
「……でも待っても待っても母親は帰ってこなかった。父親はどうしてアイツはいないんだってひと暴れして、俺はその日、初めて父親に殴られた」
二人きりになった家庭の中で、きっと一之宮は、母親がいた場所にそっくりそのまま据えられたのだろう。
理不尽という言葉の意味をまだ知らない幼い子供は、過酷な現実でもそのまま受け入れることしかできない。誰からの慈悲も与えられないまま、家庭という地獄のなかでゆっくりゆっくりと押しつぶされていく。
子どもは、ただ生きるためだけに、自分の中から不要なものを手放していくしかない。希望や夢やそういう柔らかいものを身体の外に追い出して、そうして固い固い石みたいな心になる。道端に転がる石っころの出来上がりだ。
通りを行き交う人々は誰も目に止めない。邪魔そうに避けていく。あるいは気まぐれに蹴り飛ばす。そうしてころころと転がっていって、最後に残っていたわずかな感情を失うのだ。
でも一之宮は失わなかった。
どんな偶然が重なり、どんなものが彼を支えたのだろう。
今まで一之宮を守ってくれていたすべてのものに、俺は地べたにひれ伏して感謝したかった。こんなにまっすぐの眼差しを、優しい心を、温かな身体を残してくれた。
そっと一之宮の肩に手を置いた。びくん、と身体が跳ね、ゆっくりと一之宮が後ろを振り返る。
「寂しいよ」
俺の言葉に、一之宮は目を瞠った。ゆっくりと瞬きする漆黒の目が大きく揺れ、その瞳の表面にさっと漣が立つ。
「俺、死にそうなほど辛い」
だって一之宮は俺自身だ。一之宮の孤独や喪失感はすでに自分のものだった。心が冷えて凍えて仕方がない。
俺はベッドから滑るように床に降り、大きな背中に後ろから抱き着いた。一之宮の腹に両腕を回し、張り出した肩甲骨と肩甲骨の間に自分の額を埋める。目を閉じると、どくどくと一之宮の身体に血がめぐっていく音が額に響いた。
「先生」
一之宮が呟き、身体を反転させた。強い力で脇の下を抱え上げられ、俺は一之宮ともども背後のベッドに倒れ込んだ。一之宮が身体を起こし、俺の腰の上で膝立ちになる。
押し倒されて一瞬焦ったが、一之宮の顔を見てはっとした。
仰ぎ見た一之宮は、泣くのを堪える幼い子供そのものだった。絶対泣くまいと口をぐっと噤んで、それでも嗚咽を耐えられなくて突き出た顎が震えている。眉が情けなく垂れ下がり、その下の目が歪んでぼたぼたと涙が落ちてきた。イケメンだいなしだ。だけど俺にとってはこれ以上ない愛しい顔だ。
「おいで、一之宮」
俺が両腕を広げると、一之宮はゆっくりと俺に覆いかぶさった。嗚咽を上げて震えながら、俺だけがよすがとばかりに抱きしめる。俺は彼の背中を抱きしめ返した。
窓の外ではぽつぽつと雨が降り続けていた。地面や木の葉、ブランコや滑り台がきっと冷たい雨を受けているのだろう。でもここだけは二人の安全な場所だった。ただ静かに雨はドーム型のカーテンになって、俺たちに打ち付けるすべての辛いものから守ってくれている。
どれだけ時間が経ったのだろう。
気が付くと一之宮の嗚咽は静かな息遣いに変わっていた。すぐに胸のあたりからはすうすうと穏やかな寝息が聞こえはじめる。
大きな身体に伸し掛かられている両足や腰のあたりが重さで痺れていたが、動くと一之宮を起こしてしまいそうだ。俺はしばらくの間自分と一之宮が下敷きにしてしまっている掛布団を引っ張り出そうとしたが、やがて諦めて布団の両端を一之宮の身体に巻き付けた。とりあえずはこれで俺も一之宮も風邪は引かないだろう。
ふうと小さく息をついて枕もとの部屋の明かりのスイッチに手を伸ばした。電気を消すと、暗闇が目の前に迫って来る。でも眠気はやって来なかった。
じっと目を凝らすと、闇に慣れた視界にいろんなものが浮かび上がってくる。
一之宮の泣き顔、荒れはてた彼の部屋、酒に酔った俺の母親の顔、公園のブランコ、学校、土屋の心配そうな顔。
心の中で清と濁が渦を巻く。苦しい。呑み込まれそうだ。だけど溺れているわけにはいかない。
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