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26.決意
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早朝の校舎はしんと静まり返っている。
保健室の鍵を開け、扉を引く。いつも通りコートを脱いでフックに掛け、鞄を机の横に置く。椅子に腰を下ろし仰け反って背もたれに背中を預けると、俺は部屋の中を見回した。
初めてこの部屋で生徒の怪我の手当てをしたことを思い出す。
あの時は緊張したな。でも魔の健康診断の時期がやってきて、すぐにそれどころじゃなくなったっけ。それが落ち着いたころに一之宮に出会って……。
一気にいろんな思いが噴き出してきて、俺は目を瞑った。
あの夜以来一之宮には会っていない。連絡も取っていない。学校で遠目に見るくらいだが、視線さえ混じることはなかった。
あれだけ徹底的に傷つけてしまったのだから当然だろう。あの夜一之宮は『先生のそばにいる資格がない』と言っていたが、それはそっくりそのまま俺の方だ。
はあ、と何度も空気を吸っては吐く。相変わらず一之宮のことを考えると呼吸さえままならなくなってしまう。だけど傷つけた側の俺が、自己憐憫に浸るわけにはいかない。
「――っよし!」
俺は気合いを入れ椅子から立ち上がった。
スーツの上着を羽織り、洗面台の鏡の前で髪型を確認する。
いつもは雑に一つ結びをしていた長い髪はもうない。二年ぶりに入った床屋で、ばっさりと切り落としたのだ。
短髪をワックスで後ろに撫でつけた自分の姿は何度見ても見慣れなくて笑ってしまいそうになるが、今日はそれなりに決まっていると思う。スマホの電源を落とし、鞄に突っ込むと俺は保健室を出た。
キュッキュッという足音が静かな廊下に響く。
「よう」
小さな声に顔を上げると、廊下の壁にもたれて土屋が立っていた。
「土屋? なんでここに? 今日は出勤日じゃないだろ?」
「そりゃあお前の最後の晴れ舞台を見に来てやったんじゃねえか」
「ええ? 晴れ舞台?」
そんな大層なものじゃない。すでに退職願は校長に受理されているし、これから全校集会で生徒の前で別れの挨拶をするだけだというのに。それでも土屋の心遣いはありがたかった。
「切ったんだな、髪」
土屋は俺の顔を見て、人差し指でちょんちょんと自分の頭を指さした。
「似合ってんだろ?」
「ああ、似合ってる」
てっきり『七五三かよ』だなんて茶化されると思っていたので、俺は拍子抜けしてしまった。
土屋はまるで眩しいものを見ているかのように目を細めて俺のことを見ている。
「ほんとに辞めちまうとはな」
この学校に就職の口があることを教えてくれたのは土屋だった。おそらく校長にも根回しをしてくれていたのだと思う。それなのに、結局迷惑も心配もかけてしまった。
「世話になったのに悪かったな」
「そのことはいいんだけどよ。本当にいいのか。一之宮とこのままで」
「……ん」
それは散々考えたことだった。考えて、考えて、考えて、でも俺にはこれ以上一之宮のために出来ることはないと思った。
「この選択が一番だ」
一之宮にこれ以上関わるのは酷だろう。それに彼自身が望んでいない。連絡もなく避けられているというのはそういうことだ。
「……そうだな」
俺の返答を聞いた土屋は、おおきく息を吐いた。それがなんだか俺よりも落ち込んでいるように見えて、思わず笑ってしまう。
土屋がふと目を上げ、俺をまっすぐに見てきた。
「――なあ、俺のとこに来るか?」
「え?」
突然の言葉に俺はまじまじと土屋の顔を見た。いつもの笑顔を浮かべている土屋の頬は、すこし強張っているように見える。
「ほら、なんだ、お前無職になっちまうだろ。一人くらいヒモ養うくらいの甲斐性はあるぜ?」
言葉の軽薄さとは裏腹に、土屋の眼差しはいたわりと熱がこもったものだった。
言葉が出なかった。この視線が何を示すのか、わからないほど恋愛経験が少ないわけではない。
十年もそばにいたというのに、今土屋から漏れてきた感情は初めて見るものだった。ちっとも彼の気持ちに気が付かなかった自分に愕然としたが、それだけ土屋が隠すことを徹底していたということだ。
今はなにかのはずみで出てしまっているが、ストレートに聞けばきっと彼は否定するだろう。そのくらいのことは予想できるほどに、俺は土屋のそばにいた。
「行かねーよ」
俺は笑い飛した。すぐにいつもの笑顔を戻った土屋が、ふんと笑う。
「相変わらず可愛くねえなあ」
「俺が可愛かったことなんて今まで一回でもあったか?」
「う~ん、ないねえ。確かにお前は昔からそういう奴だ」
土屋のおおきな手のひらが伸びてきて、俺の頭を掻きまわした。
「せっかくセットしたのに!」
非難を声を上げた俺を土屋は笑う。ざまあみろ、と嘯いて去っていく背中は大きい。
土屋の存在がなかったら、学校を去るという選択は出来なかっただろう。きっと土屋が一之宮の力になってくれるだろうと思うからこそ、後をまかせて一之宮から離れることができた。
ごめんな、土屋。心配してくれてありがとう。本当にごめん。
心の中で呟きながら、その背中を見送った。
思えば出会った頃から、彼はいつもそばにいて励ましてくれた。道を示してくれたのはいつも彼だったように思う。
いろんな思いが混じり、少しだけ涙が滲んだ。それを乱暴に拭って俺は歩き出す。
後ろを向くわけにはいかない。すべてを終わらせることだけしか出来ないとしても。
保健室の鍵を開け、扉を引く。いつも通りコートを脱いでフックに掛け、鞄を机の横に置く。椅子に腰を下ろし仰け反って背もたれに背中を預けると、俺は部屋の中を見回した。
初めてこの部屋で生徒の怪我の手当てをしたことを思い出す。
あの時は緊張したな。でも魔の健康診断の時期がやってきて、すぐにそれどころじゃなくなったっけ。それが落ち着いたころに一之宮に出会って……。
一気にいろんな思いが噴き出してきて、俺は目を瞑った。
あの夜以来一之宮には会っていない。連絡も取っていない。学校で遠目に見るくらいだが、視線さえ混じることはなかった。
あれだけ徹底的に傷つけてしまったのだから当然だろう。あの夜一之宮は『先生のそばにいる資格がない』と言っていたが、それはそっくりそのまま俺の方だ。
はあ、と何度も空気を吸っては吐く。相変わらず一之宮のことを考えると呼吸さえままならなくなってしまう。だけど傷つけた側の俺が、自己憐憫に浸るわけにはいかない。
「――っよし!」
俺は気合いを入れ椅子から立ち上がった。
スーツの上着を羽織り、洗面台の鏡の前で髪型を確認する。
いつもは雑に一つ結びをしていた長い髪はもうない。二年ぶりに入った床屋で、ばっさりと切り落としたのだ。
短髪をワックスで後ろに撫でつけた自分の姿は何度見ても見慣れなくて笑ってしまいそうになるが、今日はそれなりに決まっていると思う。スマホの電源を落とし、鞄に突っ込むと俺は保健室を出た。
キュッキュッという足音が静かな廊下に響く。
「よう」
小さな声に顔を上げると、廊下の壁にもたれて土屋が立っていた。
「土屋? なんでここに? 今日は出勤日じゃないだろ?」
「そりゃあお前の最後の晴れ舞台を見に来てやったんじゃねえか」
「ええ? 晴れ舞台?」
そんな大層なものじゃない。すでに退職願は校長に受理されているし、これから全校集会で生徒の前で別れの挨拶をするだけだというのに。それでも土屋の心遣いはありがたかった。
「切ったんだな、髪」
土屋は俺の顔を見て、人差し指でちょんちょんと自分の頭を指さした。
「似合ってんだろ?」
「ああ、似合ってる」
てっきり『七五三かよ』だなんて茶化されると思っていたので、俺は拍子抜けしてしまった。
土屋はまるで眩しいものを見ているかのように目を細めて俺のことを見ている。
「ほんとに辞めちまうとはな」
この学校に就職の口があることを教えてくれたのは土屋だった。おそらく校長にも根回しをしてくれていたのだと思う。それなのに、結局迷惑も心配もかけてしまった。
「世話になったのに悪かったな」
「そのことはいいんだけどよ。本当にいいのか。一之宮とこのままで」
「……ん」
それは散々考えたことだった。考えて、考えて、考えて、でも俺にはこれ以上一之宮のために出来ることはないと思った。
「この選択が一番だ」
一之宮にこれ以上関わるのは酷だろう。それに彼自身が望んでいない。連絡もなく避けられているというのはそういうことだ。
「……そうだな」
俺の返答を聞いた土屋は、おおきく息を吐いた。それがなんだか俺よりも落ち込んでいるように見えて、思わず笑ってしまう。
土屋がふと目を上げ、俺をまっすぐに見てきた。
「――なあ、俺のとこに来るか?」
「え?」
突然の言葉に俺はまじまじと土屋の顔を見た。いつもの笑顔を浮かべている土屋の頬は、すこし強張っているように見える。
「ほら、なんだ、お前無職になっちまうだろ。一人くらいヒモ養うくらいの甲斐性はあるぜ?」
言葉の軽薄さとは裏腹に、土屋の眼差しはいたわりと熱がこもったものだった。
言葉が出なかった。この視線が何を示すのか、わからないほど恋愛経験が少ないわけではない。
十年もそばにいたというのに、今土屋から漏れてきた感情は初めて見るものだった。ちっとも彼の気持ちに気が付かなかった自分に愕然としたが、それだけ土屋が隠すことを徹底していたということだ。
今はなにかのはずみで出てしまっているが、ストレートに聞けばきっと彼は否定するだろう。そのくらいのことは予想できるほどに、俺は土屋のそばにいた。
「行かねーよ」
俺は笑い飛した。すぐにいつもの笑顔を戻った土屋が、ふんと笑う。
「相変わらず可愛くねえなあ」
「俺が可愛かったことなんて今まで一回でもあったか?」
「う~ん、ないねえ。確かにお前は昔からそういう奴だ」
土屋のおおきな手のひらが伸びてきて、俺の頭を掻きまわした。
「せっかくセットしたのに!」
非難を声を上げた俺を土屋は笑う。ざまあみろ、と嘯いて去っていく背中は大きい。
土屋の存在がなかったら、学校を去るという選択は出来なかっただろう。きっと土屋が一之宮の力になってくれるだろうと思うからこそ、後をまかせて一之宮から離れることができた。
ごめんな、土屋。心配してくれてありがとう。本当にごめん。
心の中で呟きながら、その背中を見送った。
思えば出会った頃から、彼はいつもそばにいて励ましてくれた。道を示してくれたのはいつも彼だったように思う。
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