〇〇〇・庵原の純愛

梅雨之草

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〇〇〇・庵原の純愛

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 誰かが言っていた。人の脳は宇宙に似ていると。

 ニューロンのつながりはさながら銀河同士繋ぐ構造のようであり、その間を埋める脳細胞や水分は、暗黒物質のように今なお全貌が見えない。

 そして何よりも──宇宙はその内側から外側を観測できない。脳は外側から『こうしない』と内側を、それでも限られた範囲しか観測できない。

「大脳に損傷や出血痕なし」

 生理食塩水で綺麗に血を洗いながらされ、その細胞の色を顕にした脳を持ち上げ観察しながら、淡々と横に立つ解剖助手に伝える。

 かつて多くの人は、3キロ圏内でその生涯を終えていたのだという。

 その限られた範囲のなかで星々を見上げ宇宙という新たな概念と世界を見た人々と同じように、僕は、人の脳に、人の裡《うち》に宇宙を見た。

 人体とは未だもってしても全てを解明しきれない、一番身近なブラックボックスだ。こうして、法医学者として社会の倫理規範に則りその裡を詳らかにしている身ではあるが、分からないことは多い。

 今暴いている亡骸は、路上で泥酔の果てに凍死したと思われていた死体である。だが人間関係に後ろ暗いところがあったため、検死に回されてきたのである。
 外傷なし。内臓損傷なし。そして、血中アルコール濃度、特に異常なし。

 であるならば、何故路上で死亡するに至ったのか。

 心臓も先ほど取り出して確認したが、その色は壊死もなく綺麗なもので、心筋梗塞を筆頭にした突発的な心臓病でもない。では脳出血かと思い今確認したのだが、その様子もない。

 器に脳を下ろそうとしたところで、どろりと、手袋に何かが付着した。血でも脳漿《のうしょう》でもない

 ハッとして、脳を裏から覗き込む。その光景に、目を瞠る。

 人体は最も身近なブラックボックスであり、見果てぬ宇宙だ。こんなことも起こりうるのかと、胸がときめく。

「……原因が、分かりました」

 僕はその興奮を押し殺しながら、努めて平坦な声で手に入れた答えを告げた。

*****

「犬星《いぬぼし》さん、お疲れ様です」
「庵原《いはら》先生、いつもありがとうございます」

 洗浄を終え廊下にでると、まるで跳ねるような機敏な動きで、スーツの男がベンチから立ち上がった。

 黒い髪はしっかりと整髪料で整えられつつ、ほんの少し遊びを入れて軽く柔らかな仕上がりになっている。スーツは採寸が行き届いたオーダーメイドなのだろう。一切のきつさもくたびれた印象も感じさせない。

 パッと見ではしゃんと一本筋の通った涼やかな男に見える。だが、実際はしっかりとした筋肉のついた肉体であることが、分厚い胸周りと首の太さから伺える。

 彼は犬星謙介《いぬぼしけんすけ》。警視庁捜査一課の刑事であり、今日の依頼主だ。

 いや、今日に限らない。彼は普通ならば事故や病、衰弱で片付けられるような「綺麗な不審死」を見逃さない、刑事として優れた嗅覚と、現場の刑事でありながらきっちり上司や場合によっては裁判所から解剖許可をもぎ取ってくる交渉力を持った男だ。
 そして、自分は日本国内でも数少ない法医学者である。自然と顔を合わせる機会は多くなる。

 互いに頭を下げたあと、単刀直入に結果を伝える。

「今回のご遺体ですが、脳幹の一部が溶けてました。というよりは、現在進行系で溶けています。死因はここでしょうね」
「腐敗ではなく?」
「はい、溶けているんです」

 僕の伝えた不可解極まりない結果に、犬星が顎に手をあて考え込む。

 僕は、そのまま彼から紡がれるであろう推測を待ちわびる。

 彼は優秀な刑事だ。体格に恵まれ嗅覚に優れ、交渉に長けてと、およそ刑事に必要な素養すべてに恵まれている。
 なにより彼の思考は柔軟で、それでいて理路整然としている。大学の教壇に立つ人間に匹敵すると、僕は常々思っている。

 果たして、その思考を支える脳はいかなる姿をしているのだろうか。

「……先生。これ、マジックマッシュルームとかの脳に作用するタイプのキノコ毒の可能性ってないですかね?」

 犬星の脳を手に取りつぶさに観察する空想に耽溺していた意識を、犬星の声が引き戻した。

 その声が紡いだ推理は、もったいないと離れた空想を名残惜しむ気持ちを上回る興奮をもたらす。

 薬物までなら普通の刑事や医師でも行き当たりそうなものだが、なるほどきのこと来たか。これだから、彼はたまらない。

「犬星さん、いい着眼点です」

 弾む気持ちが声に表れぬように気をつけながら、その推理を元にこちらもカードを広げていく。

「そもそも自然毒は未だに未解明な部分が多いんです。同じだと思っていたら全く別の物同士だったり、ある日未知の物質に行き交うこともある。有名な植物だったとしても本当に同じかの同定だって難しい」
「そういや、◯◯◯大学のあの植物も最終結論は出せてないんでしたね。同定の為の標本がないとかで」
「そうです。その中でもキノコはとびっきりのブラックボックスです。ニセクロハツは筋肉を溶かし、ドクツルタケは内臓細胞を壊す。他の自然毒に比べてキノコの毒は迂遠に生き物を殺す類が多い」
「国内かつ同定しているキノコでそれなら国外、特にまだ研究が進んでいない地域なら脳みそを溶かす未発見のキノコぐらいあってもおかしくなさそうだな……」

 ついつい興奮して早口になるが、犬星はいとも容易くこちらについてきて相槌を打ってくれる。
 それが嬉しくて仕方がなくて、さらなる興奮を呼び起こす。これだから、彼との仕事は辞められない。

「ちなみに、キノコの毒の潜伏期間は?」
「だいたいは消化され吸収される数時間後だけど、長いものだと7日かけて細胞破壊するものもあるよ」
「最初ラリって症状が収まって、実のところその後もじわじわ脳みそやられるって可能性は?」
「あくまで私見ではあるけれど、ありうると思うよ」

 興奮に、声が上擦りかける。もし本当にきのこが原因だとしたら、是非臨床像のデータが欲しい。
 
「……確か、被害者は二日前にアングラなバーに出入りしていたはず……見えてきたな」

 こちらの興奮を知ってか知らずか、犬星は数拍の間をおいてから刑事の顔をして面を上げた。

「庵原先生、ありがとうな!行くぞ鍋島」
「はい先輩!」

 完全に空気に徹していた組んでいる刑事を引き連れて、犬星は足早に次の目的地に向かい始める。

 僕はその背を名残惜しく見送ったあと、解剖結果を書面にまとめるべく医局に戻った。


*****


 もうまもなく、日付が変わろうとしている。

 点数計算、医局内のパワーバランス、あとスーパーの卵の値上がり。

 思考を煩わせる大きなものから小さなものまで、すべて投げ出して自慰にふける。

 僕は、人の脳に、人の裡《うち》に宇宙を見た。その近く遠い宇宙に、恋焦がれている。お金にならず、理解も薄く、敬意や感謝は遠い法医学者として社会を構成する一員となっているのも、その恋心故である。

 法倫理を重んじ、医学知識を常に更新し続け、──なにより、自分の本懐を決して悟らせない。そうすれば、この恋は常に成就し続ける。咎められることも、罰せられることもなく、人の中身をつぶさに観察できる。

 だが、こういうときに想像するのは、犬星刑事ただ一人だ。

 中身に用があるが故に外見に興味はあまりない僕であるが、犬星刑事に関してはその全てを、性愛込みで愛している。恋焦がれている。

 彼の形の良い頭蓋の内に詰まった脳は、果たしてどんな色をしているのだろうか。

 彼の引き締まった身体の内に詰まった内臓は、どんな艶をしているのだろうか。

 決して他者に悟らせてはならない僕の本懐を彼が知ったら、どんな反応をするのだろうか。

 背徳感は甘い興奮にすり替わり、犬星刑事に会うまで久しく感じできなかった性的欲求を呼び起こす。

 欲求に急かされるままに、熱のわだかまる肉茎を擦り上げる。

 僕にとって、知的好奇と性的欲求は隣り合わせだ。だからこそ、彼を知りたい。犬星謙介という男性の内部構造を、思考を、感情を、知りたい。この目でつぶさに観察し、この手で直に感じ取りたい。

 そして叶うならば、彼に対して自己をさらけ出したい。知らしめたいとすら思うのだ。

 どんな形であれ『僕』の本質を知ったとき、その時彼は、果たして──

「……っ!」

 興奮が頂点に達し、手のひらの中に欲が吐き出される。

 その感触に、急速に興奮が引いていく。

 医者としての倫理、司法に携わるものとしての倫理、その両方が僕の本性を押し留める。社会の一員として生きていくには、このような嗜好を悟らせてはいけないのだと。

 だが恋心というものはままならないもので、夢見ずにはいられないのだ。

「いつか、犬星さんのナカを見てみたいなぁ……」

 ──だからこそ、やらなければいけないことがある。

*****

 草木も眠る丑三つ時。それをさらに過ぎた午前四時。
 この時間が、一番静かで昏い《くらい》と個人的に思っている

 風営法上の規定時間はとうに過ぎ、そこで働く人間や帰り損ねた人間を受け入れていたバーも店を閉じる時間。

 かといって、朝から働く人間にしても、中央卸売市場があくまではまだ時間がある。

 朝の人間も夜の人間も静まる時間。

 だからこそ、掃除を行うには最適なのだ。

「……僕、思うんだけどね、法の規則の下にないなら、それは同時に法の守護の下にもないということなんじゃないかな」

 声を封じられたまま、『人間』から『ただの肉塊』にかわりつつあるそれを見下ろしながら、静かに語りかける。

 ありとあらゆる人間が、人間が作り上げる街が眠りにつく、昏い時間。その中でも一際光届かぬ雑居ビルに僕はいた。

 床に転がるのは、干からびた植物片の入った袋と、人であったもの。

「そして君たちは自らの意思で法の外に出たんだ。当然、こういう結末も覚悟の上だよね?」

 静かに、静かに、自ら枠から出て、枠のうちにある者を脅かす肉に語りかける。

 司法の守りのうちにない彼らは、時に内部でも食い荒らし合う。だからこそ、こうして僕が掃除したところで、外で起きたことと流されたり、そもそも光に当たることなく闇に沈んでいく。

 彼らのような暴力団や反社会的勢力という形の外部秩序にすら属していない半端ものならなおさらだ。

 掃除を終えるべく、腰を上げる。

「ゴメンね? 君たちみたいなのがいると、僕の宝物はきっと歪んでしまうから。今のうちに片付けさせて貰う、ね!」

 力を入れて、手にしたシャベルを振り下ろす。

 肉を裂く鈍い音と、粘度を帯びた水が散らばる音が、鼓膜を揺さぶった。

*****

 先日俺が拾い上げた小さな違和感は思いの外大きな事件に繋がっていたらしく、暴力団対策課と薬物銃器対策課に引き継がれた。

 それもあって、今俺の手元は宙ぶらりんとなり、上司から有り余っていた有給を消化せよと休暇を押し付けられた。

「いやー、すみませんねぇ庵原さん。焼肉は流石に一人じゃ食べにくくて」
「構いませんよ。僕も非番ですので」
「あ、よければ敬語なしでいきません?たまに口調崩れるけど、あっちが素でしょ庵原先生」
「あ、バレました?」

 じゅうじゅうと脂を滴らせる肉の向こう側で男──庵原が柔らかく微笑む。

 大きめのタレ目と言い泣きぼくろと言い、人の警戒心を遠のけさせる、あけすけに言ってしまえば女受けしそうな美人である。

 だが、職業は法学にも医学にも精通した法医学者──司法解剖医である。

 お互いの職業上どうしてもあまり綺麗とは言えない被害者の遺体を預けることが多々あるのだが、こうして街中で声をかけたらあっさり焼肉に来てついてきて、ホルモンもじゃんじゃん焼いているあたり、きっちり切り分けができるタイプであるのだろう。

「患者さん相手ならともかく警察や検察に対してはどうしても威厳が足りないことがあって、あっちの口調にしてるんだよね」

 庵原はそう言いながら、火が通りくるんと丸まったシマチョウを、タレではなく並々と小鉢に注がれたポン酢に潜らせる。脂はさっぱりと洗い流され、プルプルとしたその質感をあらわにさせた。

 いかにもコラーゲンに満ちたそれと、つややかな庵原の肌を交互に見る。日焼けと乾燥を繰り返した自分の肌とは雲泥の差だ。

「そりゃあ庵原先生、見た目から若さ溢れてますもん。あ、褒めてますよ?」
「はは、ありがとう。実のところ三十路過ぎてアラフォーに入りかけだったりして」

 飲みかけたレモンサワーが気道に入りかけて咽る。芸能人の如くアンチエイジングに励んでいるのだろうか。

「若く、見えます、ね?」
「童顔で威厳がないだけだよ」
「いやいや、なんか努力の結果じゃないですか? ぷら、ぷらせんなんとかとか!」
「プラセンタですねプラセンタ。美容医療は……10年近くかけて育てた医者を刈り取っていく魔界なんで、僕はあまり……」
「あ、地雷踏みましたね俺!?先生、ビール飲みましょうビール!ホルモンならサワーもいいですし!ね!?」
「冗談ですよ。あ、僕が口調崩したんですからそっちも先生呼びなしにしましょ?」

 タッチパネルでサワーを頼みながら、庵原がニマリと笑う。

「じゃ、庵原さんで。こっちもオフのときは刑事呼びなしとかできます?」
「もちろん。じゃ、改めて。よろしく犬星さん」
「よろしく、庵原さん」

 小さい店舗かつ平日ということもあり、すぐに出てきたサワーのジョッキを重ねる。

 お互い殺伐とした、日常から弾き出された『事件』という非日常を介して知り合った仲だが、存外に楽しい友人となれそうだ。


*****


『速報です。本日未明、品川区〇〇にて複数名の男性と思われる、身元不明の遺体が発見されました。遺体は損傷が激しく死後時間が経っており、現場に持ち物もないことから特定は難航しています。品川区警察署は何らかの事件に巻き込まれたとみて捜査を進めています。
 次のニュースです。シーシャバーで利用客には知らせずに違法薬物を混入していた事件で、警視庁豊島警察署と関東信越厚生局麻薬取締部は、営利目的で麻薬原料植物を密輸した疑いで池袋にある取引先事務所の家宅捜索を始めました。この事件ではシーシャバーにも薬物混入は伝えられておらず、また原料も不明な点が多いことから事件は難航しています。続きまして明日の天気です──』





解剖医・庵原の純愛/殺人鬼・庵原の純愛 了


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