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本編

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「ミケラルド殿下! いまここであなたとの婚約を破棄させていただきます!」

 唖然と声も出ない王子に叫ぶ。

 歴史古き白銀王朝の、その名も麗しき銀耀宮ぎんようきゅう。わたしと王子の周囲を、数百名にもなろうかという王侯貴族が取り囲んでいる。彼らもまた、呆然とわたしを凝視していた。

 それはそうだろう。一国の王子が、婚約者から一方的に三下り半を突きつけられるところなど、そうそう見られるものではない。逆ならまだしも。

 婚約者の没義道もぎどうな悪辣行為に立腹した王子が、婚約破棄を叩きつける。そのような物語は無数にある。

 しかし、悪役令嬢のほうから婚約破棄を申し出るパターンは少々めずらしい。

 わたしも好んでこのような珍奇な行動に出たわけではない。可能であれば、王子からの破棄を待ちたかった。

 しかし、この王子、わたしの推しのミケラルド殿下は、どういうわけか、いつまで経っても破棄を申し出て来ないのだ。

 すでにその心はべつの少女に傾いていることはあきらかにもかかわらず、彼は、わたしに遠慮しているのかどうか、婚約を継続し、このままだと結婚まで行ってしまいそうな雰囲気なのである。

 あるいは、わたしがつい大きな悪行を躊躇したことが影響しているのかもしれないが、真実はわからない。

 このままでは問題がある。もし王子がわたしと結ばれたなら、必然的に彼はわたしのもうひとりの推しであるアンジェラと結ばれることなく終わってしまう。

 そうなったら、わたしは推しカプの間に挟まって邪魔してはならないという、乙女オタク最大の禁忌を犯す羽目になる。

 それだけは避けなければならない。多大な犠牲を支払うとしても。

「ダリア嬢、どういうことかな?」

 ミケラルドは、しばらく沈黙したあと、ようやく重々しく口を開いた。世にも端麗な美貌が、めずらしく悔しそうに歪んでいる。

 当然と云えば当然である。王朝において国王その人に次ぐ地位にある彼が、こともあろうに婚約者本人から、しかも衆人環視のまえで、婚約破棄を宣言されるなど、さぞ屈辱に違いない。

 生まれつき仁慈に富む彼とはいえ、そうそう許せないはずだ。

 その胸中を思うと心が痛い。しかし、それでも、この台詞は吐き出さなければならなかった。

 彼を本来のルートに立ち返らせ、物語の主人公メインヒロインアンジェラと結びつけるために。

 そう、この世界はある物語に対応している。より正確には、この世界が『ANGEL HUG』という有名な乙女ゲームに酷似していることを、わたしひとりが知っている。

 なぜなら、わたしは『ANGEL HUG』が製作された世界からの転生者だから。

 しかも、わたしはその『ANGEL HUG』を何周にもわたってやり込んだ歴戦の兵ディープオタクであり、この世界を知り尽くしているのだ。

 じっさい、わたしほど『ANGEL HUG』を愛し、知悉している人間は、全知全能の造物主クリエイターを除いてはいないだろう。盲愛である。

 なぜ、そのわたしが物語の悪役令嬢ダリアに転生することになったのかはわからない。

 おそらく、あまりに『ANGEL HUG』を深く愛してやまないわたしの心を、神さまが哀れんだか、あるいは面白がったか、そのいずれかではないか。

 どちらにしても、大変ありがたいことだった。何しろ、わたしの人生最高の推しカプであるミケラルドとアンジェラが恋に落ちる様子をじっくり眺めることができるのだから。

 そのはずだったのだ。ところが、ミケラルドとの婚約破棄の時は全然やって来ない。

 わたしはたまに些細な悪行を働いたりしながら、彼らが結ばれ、婚約破棄を伝えて来ることを待った。待った。待ちつづけた。それはそれは楽しみに。

 悪役令嬢は数いるにしても、わたしくらいその瞬間を強く待ち望んだ者はいないと断言できる。ところが、やはり一向に彼は申し出て来ないのだった。

 ミケラルドがアンジェラと恋に落ちていることは間違いない。わたしは彼らの恋の模様を至近距離で眺めるべく、アンジェラに対しても親しく振る舞い、友人になった。

 その最も近しく親しい人間の目から見て、彼らはすでにらぶらぶなのだ。じっさい、いままで『ANGEL HUG』の重要な恋愛イベントをいくつも経過しているのである。

 また、ミケラルドがアンジェラといるときの顔を見れば、彼女を愛しんでいることは明白だ。

 沼に胸まで嵌まった乙女ゲーマニアの名にかけて、絶対にミケラルドはアンジェラを愛しているし、アンジェラはミケラルドに惹かれている。一目瞭然である。

 本来なら、もうキスのひとつくらいしていなければおかしいはずなのだ。

 わたしはその光景をこの目で見たい。たとえ己が断罪され、破滅するとしても。どんと来い、破滅イベント!

 だが、ああ、それなのに、なぜかいくら待ってもそのときは訪れないのだった。いったいどういうこと?

 だから!

 強硬手段に出た。もう待てない。ミケラルドとアンジェラがあまあまいちゃいちゃらぶらぶしているところを見るためには、禁断の方法に手を染めるより他ないのだ。

 わたし自身が率先して物語の進行に関与するという、最後の手段に。それくらい、わたしは追い詰められていた。

 何しろ、ミケラルドとアンジェラが互いを見つめる視線は、それはもう甘い恋の光線に充ちているのに、ふたりはなぜか、その先に進もうとはしないのである。

 これはあかん。

 じれったすぎる。

 なぜ、この人たちは『ANGEL HUG』本編のようにいちゃいちゃしようとしないのか!

 このままでは何のためこの世界へ来たのかわかったものではない。

 いや、そのじれったさもまた尊いのだけれど、もう何か月もこの状態が続いている。わたしのほうが耐えられない。

 わたし、ちょっとやらしい雰囲気にしてくる!

「どういうことですって?」

 いかにも悪役令嬢らしく顔を半分、扇で隠し、王子に応じる。

「簡単な話ですわ。わたしは、浮気男と結婚するつもりはないというだけですの」

「浮気? 何のことだ? わたしはあなた以外の女性と不埒な真似をしたことはない」

「ふん」

 鼻で笑う。なるべく邪悪に見えていれば良いけれど。

「とぼけるのもいいかげんにしてもほしいものですわ。知っているのですよ。あなたが、我が友人、アンジェラに想いを奉げていることを」

「それは」

 王子の顔が曇る。絶世の美男子だけに、そういう表情もよく似合う。萌え。

「たしかに事実だ。わたしは、アンジェラを愛おしく思っている。しかし、云わせてくれ。わたしは――」

「御託はけっこうです!」

 わたしは扇を王子に突きつけた。許されざる無礼。しかし、破滅するつもりで振る舞っているいまのわたしに怖れるものはない。

 王子は、沈痛そうにうな垂れた。

 おそらく、彼はあまりに優しすぎ、悪役令嬢でしかない婚約者も切り捨てられなかったのだろう。それで、このような結末になってしまった。

 可哀想ではある。が、わたしの目的のためにはしかたないし、彼自身にとってもこのほうが良いのだ。

 わたしって、ほんと、推しのことを思うオタクのかがみね。うっとりしちゃう。

「わかった」

 王子は、ついにうなずいた。

「あなたの云う通りだ。わたしは、あなたただひとりを愛するという誓いを破った。それを裏切りとそしられるなら、言葉もない。だが、ここですぐに婚約を破棄することはできない。あとで、わたしの部屋に来てくれ。そこで、もう一度話し合おう」

 わたしは微笑した。作戦は成功。ようやく、物語はメインルートのハッピーエンドへ向け進み始めることだろう。

 ミケラルドとアンジェラは身も心も結ばれ、それはもう初々しくもべたべたらぶらぶの恋人同士になる。わたしの望みが叶うのだ。良かった良かった。

 しばらくして、貴族諸侯の好奇の視線を無視しつつ、ひとり、王子の部屋へ出向いた。

 さすが荘重なその一室に、王子は、何とアンジェラとともに佇んでいた。

 計算の範疇だ。王子は恋人の目前で非礼なわたしを弾劾し、彼女に愛を誓うつもりなのだろう。わかってるわかってる。一向にかまわない。どんどんやってください。

「あらあら」

 わざとらしく悪女ムーブを続ける。

「やっぱりそういうことですね。よくも不埒な真似をしたことはないなんて云えたもの。たとえ躰は重ねていなくても、心は重なりあっているじゃありませんか!」

 くうっ、決まった! これぞ悪女! 悪役令嬢! やったね。

「ダリア……」

 王子はいよいよ苦悩する様子で言葉を絞り出した。

「あなたの云う通りだ。わたしはアンジェラを愛している。彼女はこの世の何より貴い」

「あら、そうですの? だったら、いますぐわたしと別れて、彼女との純情を貫くんですね。だれにとってもそれがいちばん良いことですわ」

「でも、ダリアさま」

 アンジェラ、天使の名前をもつ少女がここで口を挟んで来た。

「わたしたち、あなたさまのことも愛しているんです。ダリアさまはいつもわたしたちのことを最優先してくださる。だれよりも素直に愛情を示してくださる。そんなあなたさまのことが、わたしたち、大好きでたまらないんです」

「あら、そう」

 やだ、これは照れるな。ふたりがこんなにわたしを思ってくれていたとは。

 たしかに、ふたりの間を取り持つため色々と試行錯誤したけれど、その結果、ここまでわたしの好感度が上がっていたとは思わなかった。

 推しに好かれる。オタク最高の歓び。

「でも、このままでは、ダリアさまは破滅です。そう、自ら撤回でもなさらない限り」

「そうね。でも、撤回するつもりはないわ」

 当然だ。何のためにこんな真似をしたと思うの? すべてはあなたたちを結びつけるためなのよ。

「ねえ、ダリアさま」

 アンジェラは綺麗な金髪を揺らしながら吐息した。

「いったいどうすれば良いのでしょう。わたしたちが結ばれれば、ダリアさまは破滅する。ダリアさまたちが結婚すれば、わたしはひとりぼっち。三人が三人とも幸せになる方法はないみたい。それで良いんでしょうか」

 ああ、もう、そんなこと考えなくて良いんだってば。わたしは公爵令嬢を廃嫡されてもひとりで同人誌でも作って生きていくから。心配しないで。もう、アンジェラってば、ほんとにいい子すぎて、尊いんだから。

 ところが。

 わたしの余裕もここまでだった。アンジェラは陶然と夢みるような青いで、思わぬことを云いだしたのである。

「だから、わたしたち、考えたんです。三人が三人とも幸せになれるたったひとつの方法を。これは、ミスカルドさまと話しあって決めたことです。ミスカルドさま、ダリアさま、わたしたち、愛し合いましょう――そう、三人で、ね」

「は?」

 わたしは凍りついた。何を云われたのか、まったくわからない。完璧な作戦は一瞬で破綻したのである。

 刹那、王子がわたしのくちびるを奪っていた。あきらかに甘く、深い愛情が籠もった、それはくちづけだった。

 アンジェラがその様子を笑顔で眺めながら、覆いかぶさって来る。その、ピアニストさながら繊細な指先が、巧みな仕草でわたしの肢体の稜線をなぞった。

「ちょ、ちょっと! あなたたち!」

 アンジェラはぬれたひとみで見つめてきた。

「これがいちばん良い解決です。ダリアさまもわたしたちも幸せになれる。ね、いつまでも三人でいっしょに暮らしましょう。ダリアさまも、わたしたちのこと、好きですよね?」

「愛しているよ、ダリア。アンジェラと同じほどに。たっぷり、可愛がってあげよう」

 だっ、だめ! 推しの間に挟まることは、オタクにとって重罪なんだってば。

 しかし、18禁乙女ゲームの主役と攻略対象の圧倒的な攻撃力をまえに、わたしの抵抗はまるで無力だった。

 ふたたび、くちびるをふさがれる。それがミケラルドとアンジェラ、いずれのくちづけなのかすら、もう、わたしにはわからない。

 あまりにも重い罪と、目くるめく官能のあいだに板挟みになりながら、わたしはどこまでも堕ちてゆく。

 HAPPY END?
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