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2章 無垢な黒
移動は誰と【ジブ】
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「俺たち新兵は歩いて行こうぜ。御者台や騎馬なんて新兵には贅沢だろ」
ジブは荷物を担いで、歩兵の立ち位置に向かう。それに反応するようにトニーはジブの背中を追った。
それを機に、ガヨは御者台に登り、カタファは荷台に引っ込んだ。エイラスも先頭の騎馬隊に向かう。それから間もなくガヨの指笛で一行は出発することになった。
エイラスら先行部隊が先導、後に幌馬車、続いて歩兵部、最後にしんがりの騎馬隊。
騎士団員が騎士団の敷地から防護壁を横切ったところで、簡易的な防具を身に着けて剣を携えた者や、弓を背に携えた者、ローブを着た魔法職者など武装した集団の間を割って隊列が進んでいく。
彼らは入団試験を控えた傭兵たちだ。
地位と高い給金を獲得する大チャンスではあるので、彼らの目はギラついているーー自分も数ヶ月前前はそうだったかなとジブはある種の感慨を覚えていた。
今の騎士団には剣や槍使いが多い。兵の割合を考えると当たり前のことだが弓や鞭などの中距離武器を使う者が多くなればありがたいなと、失礼にならない程度に隊列の後ろをついてきている傭兵たちを見回す。きょろきょろと動いていたジブの薄桃色の瞳は、ある一人を捉えたときに止まった。
「なぁ。あれ」
隣にいるトニーの背中を小さく叩く。顔を上げたトニーに目配せをして、その人物を確認させた。
ジブが目配せした先には、頭一つ抜き出た黒髪の大男がふらふらと歩いている。
粗末で所々破れた服を身に纏った男は、遠目でもわかる発達した筋肉と長い手足を持ち、長い黒髪からは目に巻かれた包帯を覗かせている。
「あいつ……」
トニーの小さな声は雑踏に消えていった。
トニーやジブは幌馬車の直後にいるため、大男は二人よりもかなり後方を歩いてることになる。それでも黒髪の大男に気付けたのは、彼が抜きん出て背が高く集団から頭ひとつ抜けているからだ。
ーーここまで遠いなら大丈夫だよな?
ジブは改めてトニーに話しかけた。
「黒髪の……あいつコーソム修道院に来た奴だよな。なんでまた目が……」
トニーの神秘の力が目覚めたきっかけ。
それは目の溶けた大男に触れた瞬間だった。あの時、確かに大男の目は治り、その金色の瞳が煌めくのをジブは見た。
その時の大男がーーまた潰れた目で現れた。
見間違うはずはない。あれほどの恵まれた体躯はなかなかいないだろうし、焼けた肌や黒々と艷やかな髪はヒューラ人には珍しいーー恐らく異国の者だ。何人といるはずがない。
トニーが目を治癒してから九ヶ月が経っているので、不幸にもまたもや光を失うような怪我を負ったと考えるのが一番自然だったが、そんなことがあるのだろうかと思ってしまうのも仕方のない事だった。
ジブは横目でトニーを見た。口角をわずかに下げ、黙り込んでいる。それはトニーが思考を巡らせている時の癖で、ジブはその表情を幼い頃から何回も見てきた。
今話しかけても、ろくに返事もしないだろう。
ジブは口を閉ざして一回り小さな”兄”が考えをまとめるのを待つことにした。
目的地のセレンの湖までは歩き続ければ二日で着く距離だった。途中、大きな川の流れるほとりで馬に休ませるとガヨが言い、騎士団と傭兵はそれぞれに休憩を取っていた。
ジブは配水をしている団員にカップを二つ差し出した。彼は素直に水を注ぎながらも首を傾げて尋ねた。
「何で二つ?」
「トニーと俺の分。だから二つ」
二つ目のカップが水に満たされると、団員は白い歯を見せて笑い出した。
「お前ら本当に仲がいいな。前世は夫婦かなんか?」
「あはは。そうかもな。俺の奥さん取るんじゃねぇぞ~」
笑い飛ばして答えると、団員はジブが冗談に乗ったと更に笑った。
入団して三ヶ月。この頃には多くの団員にジブとトニーが同じ修道院出身であることが知れ渡っていた。トニーが人と積極的に交流しないことも相まって二人の間に割って入ってくるような存在はいない。
ーー前世なんて関係ない。今生で一緒に居ないと意味がない。
団員に完全に背を向けたジブは浮かべていた笑みを消し、木陰で休んでいるトニーの元に歩みだした。
目当ての彼は集団から少し離れた木の根元に足を投げ出して座っていた。慣れてきたとはいえ、肉体訓練の少ない魔法職のトニーにとって行軍は中々に辛いようだ。ハイネックの襟を伸ばしてパタパタと仰いでいる。
「トニー、水。飲んで」
ジブがカップを渡すとトニーは一気に水を飲んだ。上を向いた時に細い喉仏がちらりと見えて、ジブは思わずそれを目で追ってしまう。
「水、飲まないのか」
「え? あぁ……飲むよ。そりゃ」
飲み終えたトニーに尋ねられ、ジブも照れ隠しでカップを勢いよく傾けた。冷たい水が喉を通って渇きを癒していく。のぼせ上がった頭も少しはクリアになったような気がした。
一呼吸置き、ジブは手を差し出す。
「カップ。戻してくるから」
それでもジブの手に帰ってきたのは青々とした新緑の葉を撫でた風だけだった。森林の中の小川。開けているその箇所では心地よい風がそよいで、伸ばしたままのジブの手のひらを煽る。
ーーおもしろくねぇな……。
トニーの思考の中には、あの大男が間違いなくいる。それがおもしろくない。
ジブはトニーの顔の前で手のひらを上下させて彼の考えを遮った。思考の糸を切ったからか、トニーがぱっと顔を上げる。
「気になるのはわかるけど、あいつのこれまでを妄想しても意味がないだろ? それよりも……今度も治そうなんて考えるなよ」
ジブの脳裏に浮ぶのは、神秘の力を使ったトニーの姿だった。倒れ込み、呼びかけても開かない目蓋に、青白い顔と震える唇。死んでしまうのではないかと強烈な恐怖感を覚えたことは言うまでもない。その時ーー倒れたトニーの瞳がゆっくりと開いたとき、もう神秘を使わせないと心に誓ったのだった。
トニーがゆっくりと瞬きをした。開いた瞳は冷たく光っている。
「力をどう使うか決めるのは俺だ。お前じゃない」
抑揚のないトニーの声はジブに明確な拒否を示す。
ーーまずった。
冷たい目線を避けるようにして、ジブは土で汚れた自身の靴先を見た。
思考に干渉されるのが好きな人間はいない。トニーは特にそうだ。ましてや強大な力である神秘ーーその使い方を他人に制限されては自己決定権を奪われることになる。たとえそれが憐憫や心配の気持ちだとしても、強力な力だからこそ他人に委ねてはいけないと本人は思っているだろう。
ジブは目蓋を閉じる。あの日。トニーが倒れた時のことを思い出し、胸を恐怖感で満たす。みるみるうちに言い表せない不安が湧いてきて心臓を冷やしていく。過去の反芻でも、人の体は簡単にその怖れを表すことができることを、ジブは知っている。
「俺は。……俺は、トニーが傷つくのを見たくないだけだよ」
弱弱しい声が風に乗ってトニーの耳に届く。
大きな肩が震えている。燃えるような赤髪がなびくと、涙をいっぱいにためた薄桃色の瞳が見えた。今度はトニーの息が詰まった。
「……すまない、ジブ。言い方がキツかったな」
トニーはくしゃくしゃとジブの頭を撫でる。その声はひたすらに優しい。その手は子供をあやす親のように柔らかい。
ふいに大きな体が動いてトニーに抱きついた。突然抱きすくめられたトニーの体は一瞬硬直したが、おもむろに肩にもたれかかる。そして腕を伸ばし、ジブの大きな背中をぽんぽんと叩いた。
ーー心配性で甘えたがりなのは、今も変わらないな。
トニーは大きな”弟”が甘えてくることを少し困りつつも、仕方ないなと心の中で微笑ましく思っている。
その反対側で、涙の引いたジブが冷静な顔をしていることを知らずに。
幼い頃から癒しの力を使っているからか、トニーは弱った人間を見捨てることができない。それを一番近くで見ていたのはジブは、表面的にでも悲しそうな顔をしたり、無理して見せたりすればトニーが自分の感情を度返ししてフォローに回ってくれることを知っていた。
「トニー。俺、変に感傷的になってたかも。……ごめん」
名残惜しいがジブは腕の中の温度を手放した。功を奏して、向き合ったトニーは安堵した様子で微笑んでいて、またジブの髪をゆるゆる撫でる。
「いいや。俺も必要以上に冷たく突き放した言い方をしてた。まずは心配してくれたことに感謝するべきだった」
少し下がった眉とわずかに上がった口角。はにかんだその表情は、修道院で見てきた優しい”兄”としての顔が滲んでいる。
「そうだぞ。俺がトニーを害するわけないだろー!」
ジブは、にかっと歯を見せてから改めてトニーを抱き寄せた。トニーは当たり前のように自らより大きい背中を叩いて、彼の機嫌が良くなったことに安堵した。
トニーの首筋に顔をうずめるジブの顔は恍惚そのものだ。
ーートニーの中でジブはまだ、可愛い”弟”だ。その立場を大いに上手く使うことに抵抗はなかった。
ジブは荷物を担いで、歩兵の立ち位置に向かう。それに反応するようにトニーはジブの背中を追った。
それを機に、ガヨは御者台に登り、カタファは荷台に引っ込んだ。エイラスも先頭の騎馬隊に向かう。それから間もなくガヨの指笛で一行は出発することになった。
エイラスら先行部隊が先導、後に幌馬車、続いて歩兵部、最後にしんがりの騎馬隊。
騎士団員が騎士団の敷地から防護壁を横切ったところで、簡易的な防具を身に着けて剣を携えた者や、弓を背に携えた者、ローブを着た魔法職者など武装した集団の間を割って隊列が進んでいく。
彼らは入団試験を控えた傭兵たちだ。
地位と高い給金を獲得する大チャンスではあるので、彼らの目はギラついているーー自分も数ヶ月前前はそうだったかなとジブはある種の感慨を覚えていた。
今の騎士団には剣や槍使いが多い。兵の割合を考えると当たり前のことだが弓や鞭などの中距離武器を使う者が多くなればありがたいなと、失礼にならない程度に隊列の後ろをついてきている傭兵たちを見回す。きょろきょろと動いていたジブの薄桃色の瞳は、ある一人を捉えたときに止まった。
「なぁ。あれ」
隣にいるトニーの背中を小さく叩く。顔を上げたトニーに目配せをして、その人物を確認させた。
ジブが目配せした先には、頭一つ抜き出た黒髪の大男がふらふらと歩いている。
粗末で所々破れた服を身に纏った男は、遠目でもわかる発達した筋肉と長い手足を持ち、長い黒髪からは目に巻かれた包帯を覗かせている。
「あいつ……」
トニーの小さな声は雑踏に消えていった。
トニーやジブは幌馬車の直後にいるため、大男は二人よりもかなり後方を歩いてることになる。それでも黒髪の大男に気付けたのは、彼が抜きん出て背が高く集団から頭ひとつ抜けているからだ。
ーーここまで遠いなら大丈夫だよな?
ジブは改めてトニーに話しかけた。
「黒髪の……あいつコーソム修道院に来た奴だよな。なんでまた目が……」
トニーの神秘の力が目覚めたきっかけ。
それは目の溶けた大男に触れた瞬間だった。あの時、確かに大男の目は治り、その金色の瞳が煌めくのをジブは見た。
その時の大男がーーまた潰れた目で現れた。
見間違うはずはない。あれほどの恵まれた体躯はなかなかいないだろうし、焼けた肌や黒々と艷やかな髪はヒューラ人には珍しいーー恐らく異国の者だ。何人といるはずがない。
トニーが目を治癒してから九ヶ月が経っているので、不幸にもまたもや光を失うような怪我を負ったと考えるのが一番自然だったが、そんなことがあるのだろうかと思ってしまうのも仕方のない事だった。
ジブは横目でトニーを見た。口角をわずかに下げ、黙り込んでいる。それはトニーが思考を巡らせている時の癖で、ジブはその表情を幼い頃から何回も見てきた。
今話しかけても、ろくに返事もしないだろう。
ジブは口を閉ざして一回り小さな”兄”が考えをまとめるのを待つことにした。
目的地のセレンの湖までは歩き続ければ二日で着く距離だった。途中、大きな川の流れるほとりで馬に休ませるとガヨが言い、騎士団と傭兵はそれぞれに休憩を取っていた。
ジブは配水をしている団員にカップを二つ差し出した。彼は素直に水を注ぎながらも首を傾げて尋ねた。
「何で二つ?」
「トニーと俺の分。だから二つ」
二つ目のカップが水に満たされると、団員は白い歯を見せて笑い出した。
「お前ら本当に仲がいいな。前世は夫婦かなんか?」
「あはは。そうかもな。俺の奥さん取るんじゃねぇぞ~」
笑い飛ばして答えると、団員はジブが冗談に乗ったと更に笑った。
入団して三ヶ月。この頃には多くの団員にジブとトニーが同じ修道院出身であることが知れ渡っていた。トニーが人と積極的に交流しないことも相まって二人の間に割って入ってくるような存在はいない。
ーー前世なんて関係ない。今生で一緒に居ないと意味がない。
団員に完全に背を向けたジブは浮かべていた笑みを消し、木陰で休んでいるトニーの元に歩みだした。
目当ての彼は集団から少し離れた木の根元に足を投げ出して座っていた。慣れてきたとはいえ、肉体訓練の少ない魔法職のトニーにとって行軍は中々に辛いようだ。ハイネックの襟を伸ばしてパタパタと仰いでいる。
「トニー、水。飲んで」
ジブがカップを渡すとトニーは一気に水を飲んだ。上を向いた時に細い喉仏がちらりと見えて、ジブは思わずそれを目で追ってしまう。
「水、飲まないのか」
「え? あぁ……飲むよ。そりゃ」
飲み終えたトニーに尋ねられ、ジブも照れ隠しでカップを勢いよく傾けた。冷たい水が喉を通って渇きを癒していく。のぼせ上がった頭も少しはクリアになったような気がした。
一呼吸置き、ジブは手を差し出す。
「カップ。戻してくるから」
それでもジブの手に帰ってきたのは青々とした新緑の葉を撫でた風だけだった。森林の中の小川。開けているその箇所では心地よい風がそよいで、伸ばしたままのジブの手のひらを煽る。
ーーおもしろくねぇな……。
トニーの思考の中には、あの大男が間違いなくいる。それがおもしろくない。
ジブはトニーの顔の前で手のひらを上下させて彼の考えを遮った。思考の糸を切ったからか、トニーがぱっと顔を上げる。
「気になるのはわかるけど、あいつのこれまでを妄想しても意味がないだろ? それよりも……今度も治そうなんて考えるなよ」
ジブの脳裏に浮ぶのは、神秘の力を使ったトニーの姿だった。倒れ込み、呼びかけても開かない目蓋に、青白い顔と震える唇。死んでしまうのではないかと強烈な恐怖感を覚えたことは言うまでもない。その時ーー倒れたトニーの瞳がゆっくりと開いたとき、もう神秘を使わせないと心に誓ったのだった。
トニーがゆっくりと瞬きをした。開いた瞳は冷たく光っている。
「力をどう使うか決めるのは俺だ。お前じゃない」
抑揚のないトニーの声はジブに明確な拒否を示す。
ーーまずった。
冷たい目線を避けるようにして、ジブは土で汚れた自身の靴先を見た。
思考に干渉されるのが好きな人間はいない。トニーは特にそうだ。ましてや強大な力である神秘ーーその使い方を他人に制限されては自己決定権を奪われることになる。たとえそれが憐憫や心配の気持ちだとしても、強力な力だからこそ他人に委ねてはいけないと本人は思っているだろう。
ジブは目蓋を閉じる。あの日。トニーが倒れた時のことを思い出し、胸を恐怖感で満たす。みるみるうちに言い表せない不安が湧いてきて心臓を冷やしていく。過去の反芻でも、人の体は簡単にその怖れを表すことができることを、ジブは知っている。
「俺は。……俺は、トニーが傷つくのを見たくないだけだよ」
弱弱しい声が風に乗ってトニーの耳に届く。
大きな肩が震えている。燃えるような赤髪がなびくと、涙をいっぱいにためた薄桃色の瞳が見えた。今度はトニーの息が詰まった。
「……すまない、ジブ。言い方がキツかったな」
トニーはくしゃくしゃとジブの頭を撫でる。その声はひたすらに優しい。その手は子供をあやす親のように柔らかい。
ふいに大きな体が動いてトニーに抱きついた。突然抱きすくめられたトニーの体は一瞬硬直したが、おもむろに肩にもたれかかる。そして腕を伸ばし、ジブの大きな背中をぽんぽんと叩いた。
ーー心配性で甘えたがりなのは、今も変わらないな。
トニーは大きな”弟”が甘えてくることを少し困りつつも、仕方ないなと心の中で微笑ましく思っている。
その反対側で、涙の引いたジブが冷静な顔をしていることを知らずに。
幼い頃から癒しの力を使っているからか、トニーは弱った人間を見捨てることができない。それを一番近くで見ていたのはジブは、表面的にでも悲しそうな顔をしたり、無理して見せたりすればトニーが自分の感情を度返ししてフォローに回ってくれることを知っていた。
「トニー。俺、変に感傷的になってたかも。……ごめん」
名残惜しいがジブは腕の中の温度を手放した。功を奏して、向き合ったトニーは安堵した様子で微笑んでいて、またジブの髪をゆるゆる撫でる。
「いいや。俺も必要以上に冷たく突き放した言い方をしてた。まずは心配してくれたことに感謝するべきだった」
少し下がった眉とわずかに上がった口角。はにかんだその表情は、修道院で見てきた優しい”兄”としての顔が滲んでいる。
「そうだぞ。俺がトニーを害するわけないだろー!」
ジブは、にかっと歯を見せてから改めてトニーを抱き寄せた。トニーは当たり前のように自らより大きい背中を叩いて、彼の機嫌が良くなったことに安堵した。
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