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雨色の惑い(青春)
2夜―2
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通学路に人はなく、空もどんよりとしている。美雨は地面に目を落とし、一人きりで下校していた。杉林家に行った日から数日経つ。あの日以来、日常に大きな変化はない。明るく騒がしい家族とのひと時が、随分昔のように感じる。
母の提案にも、まだ返答はしていなかった。思い詰めても答えなど出ない。考えようとしても、何を考えていいのかすら分からなかった。
「雨?」
その時、地面に大きな雨粒が一つ。顔を上げると黒い雲の塊が見え、すぐに雨が降り出した。
シャッターが閉じられた民家の軒先に逃げこみ、鞄の中を探る。あの日以来、美雨は折り畳み傘を持ち歩いていた。傘を広げながら、空を見上げる。いつの間にか本降りとなり、小さな折り畳み傘では心もとない状態である。
「……柿崎?」
聞き覚えのある声に、美雨は我に返る。目の前に、あの黒い傘を差した麻矢がいたのだ。
「こないだは悪かったな。妹も母さんもあんな感じだから、迷惑だっただろ?」
「い、いえ。私一人っ子なので、仲良くしてもらってすごく、嬉しかったです」
慌てて弁解すると、麻矢は左手で照れ臭そうに頭を掻いた。
彼は傘を閉じて隣に並ぶ。雨の音だけがうるさく響き、何故か緊張感が漂う。美雨は勇気を出して質問することにした。
「麻矢さんは、これからバイトですか?」
彼の服装は、初めて会った日とほぼ同じだった。白いワイシャツにくたびれたジーンズ、肩にかけた巨大なボストンバッグ。予想通り、麻矢は頷いた。きっと彼は高校で着替え、そのまま出勤しているのだろう。
「お前も島ダスに行くのか?」
「あ、今日はこのまま帰るつもりでした」
「そっか」
『島ダス』とは、ショッピングモールの愛称である。午後忙しい母の代わりに買い物に行くことが多いが、今日は生憎、出かける予定はない。麻矢は恥ずかしげに口を尖らせると、ぽつりと呟いた。
「元気なさそうに見えるけど、なんかあったのか?」
美雨は驚いて彼の顔を見た。一瞬目が合い、すぐにそらされる。彼は照れ隠しに、大声でつけ加えた。
「つ、辛いことがあるなら、吐き出した方がいいぞ。俺も、バイトまでまだ時間あるし」
ぶっきらぼうだが、優しい言動。それは、傘を渡された時と全く同じだった。
美雨は抱えていた悩みを打ち明ける。夢がないこと、志望校が決まらないこと、そして将来への不安。麻矢は黙って最後まで聞き、しばらく考えた後に口を開いた。
「無理して夢を探す必要は、ないんじゃないか?」
真面目な顔が向けられる。彼は言葉を探しながら、ゆっくりと答え始めた。
「うちは貧乏でさ、近いところしか選べなかったから参考にはならねぇけど……俺だってまだ夢はない。でも、周りを見たら案外、そんな奴ばっかだよ」
美雨はその言葉に驚愕する。『面接試験では、自分の夢に関連させて話しましょう』というアドバイスを聞いたばかりだったからだ。麻矢は一呼吸置き、言葉を続ける。
「それに、勉強も中学校の時より難しくなるんだ。範囲だって広がる。その中で自分の好きなことは何なのか考えていけば、たぶん、大丈夫だろ」
「自分の好きなこと、ですか……」
思わず復唱する。『自分の好きなこと』に目を向けるとは、思いもしなかった。遥か先の方角に目を凝らしすぎて、手元が全く見えていなかったのだ。
「そうだ、志望校が決まらないんだったらとりあえず、うちの高校にしとけよ。ここからは近いし、進学も就職もこの辺じゃ有利らしいからな」
麻矢はにやりと笑う。数日前の麻緒の説明を思い返しながら、聞き返した。
「えっと……麻矢さんの高校って確か、西島棚高校でしたよね?」
「あぁ。なんなら、俺ん家で勉強見てやってもいいぞ」
美雨は「え」と面食らう。彼は顔を赤らめ、流し目をこちらに向けた。
「麻緒もうちの高校を受けるんだが、ほら、塾に行ける余裕なんてねぇから……俺の時もこの時期から、コツコツ勉強してたんだよ。あいつ成績は微妙だからさ、お前みたいなまともな人がいれば、ちょっとはマシになるかと思って……」
麻穂の宿題を手伝った時も、遠回しに褒められたことを思い出す。語尾が小さくなる麻矢を見て、美雨は笑いがこみ上げてきた。彼の家族がこの会話を知ったら、再び囃し立てるに違いない。
「ありがとうございます、麻矢さん」
麻矢は自分から目をそらし、黙って頷いた。いつの間にか雨は止み、僅かに青空が見えている。
「じゃあ、これからよろしくな」
「はい。バイト、頑張ってください」
傘の水滴を払い、彼は屋根の外に出た。声をかけると、自然な笑顔が返される。麻矢は片手を上げ、道路を歩き始めた。
美雨も折り畳み傘を鞄にしまい、一歩踏み出す。心の中に降り続いていた雨も消えている。水溜まりに映る青空は、心なしか、いつもより綺麗だった。
――
麻矢と約束した翌日から、彼のアルバイトが休みの日限定で、自宅勉強会が始まった。
母には既に説明済みである。本当は塾に行ってほしかったようだが、美雨の熱意が伝わったのか、笑顔で了承してくれた。
放課後は麻緒と共に杉林家に向かい、たまに麻穂の宿題も見ながら、元受験生による指導を受ける。次第に家族ぐるみの付き合いになり、母親同士も仲良くなったようだ。
しばしば起こる兄妹喧嘩に翻弄されつつ勉強に励む。美雨はこの充実した毎日が好きだった。それでも時間は止まることなく、季節はあっという間に過ぎてゆく。
そして季節は春。試験日も無事に終わり、遂に合格発表の日を迎えた。
「えーっと、うわ文字細かっ」
貼り出された合格者番号に目を凝らし、麻緒は文句を口にする。既に多くの受験生とその親が看板の前に陣取っており、この距離では数字の三と八の見分けがつかない。
同行していた麻子は美雨と麻緒、更に晴の腕を掴み、人混みの中に飛び出した。ようやく看板の前に辿り着き、改めて番号を確認する。最初に声を上げたのは麻子だった。
「あった! 二人共合格だよ!」
「ほんとだ! 美雨、やったよぉ!」
麻緒に抱きつかれ、美雨も自分の番号を見つける。自然と涙が溢れ、今まで味わったことのない達成感に襲われた。
興奮した母親達に背中を叩かれ、二人は笑い合う。合格の立役者である麻矢がいないのは残念だったが、四人はこの一年間の努力を称え合い、喜びを噛みしめるのだった。
――
時折降っていた小雨は、しとしとと降り続く雨に変わっていた。
四人は傘を差し、余韻に浸りながら帰り道を行く。杉林家のアパートの前に辿り着くと、その軒先で麻矢が待っていた。
「麻矢! どっちも受かったよ!」
「聞く前から答えるなよ!」
開口一番結果を言う妹にツッコミを入れながらも、彼はとても嬉しそうだ。
「麻矢さん、ご指導ありがとうございました!」
頭を下げて礼を言うと、麻矢は美雨の腕を掴んで軒先の端に移動する。途端に母と妹が騒ぎ立てるが、彼はその二人を無視するように咳払いした。
「合格おめでとう。面接、緊張しなかったか?」
「少し怖かったですけど、ちゃんと伝えられました。あっ、それと……この一年で自分の夢、なんとなく分かった気がします」
美雨は面接でも語った内容を、彼に伝えた。
「私、昔から読書が好きで、今までは月一で新しい本を買いに行ってたんですけど、将来は本屋さんとか図書館とか、本に関係のある仕事がしたいって思いました」
「なるほど、それでか……」
意味深な言葉に疑問を浮かべていると、麻矢は恥ずかしげに白状した。
「実はな、俺……お前に傘を貸す前から、バイト帰りに何度か見かけてるんだよ。制服姿の子が一人で何やってんだろうって、気になってたんだ」
美雨は言葉を失う。つまり彼は、あの日よりも前に自分を認識していたのだ。黒い傘の柄をぎゅっと握り、麻矢は初めて、真っ直ぐに美雨を見た。
「だから、お前の力になれて嬉しかった。これからもよろしくな……美雨」
名前を呼ばれ、心の中に温かいものが広がる。美雨は涙混じりの笑顔で、差し出された手を握り返した。
雨は嫌いだ。でも、少しだけ好きになれそうな気がする。
美雨はしみじみと思う。雨と共に現れ、背中を押してくれた麻矢。彼との出会いは、きっと天からの贈り物だったのだ。
母の提案にも、まだ返答はしていなかった。思い詰めても答えなど出ない。考えようとしても、何を考えていいのかすら分からなかった。
「雨?」
その時、地面に大きな雨粒が一つ。顔を上げると黒い雲の塊が見え、すぐに雨が降り出した。
シャッターが閉じられた民家の軒先に逃げこみ、鞄の中を探る。あの日以来、美雨は折り畳み傘を持ち歩いていた。傘を広げながら、空を見上げる。いつの間にか本降りとなり、小さな折り畳み傘では心もとない状態である。
「……柿崎?」
聞き覚えのある声に、美雨は我に返る。目の前に、あの黒い傘を差した麻矢がいたのだ。
「こないだは悪かったな。妹も母さんもあんな感じだから、迷惑だっただろ?」
「い、いえ。私一人っ子なので、仲良くしてもらってすごく、嬉しかったです」
慌てて弁解すると、麻矢は左手で照れ臭そうに頭を掻いた。
彼は傘を閉じて隣に並ぶ。雨の音だけがうるさく響き、何故か緊張感が漂う。美雨は勇気を出して質問することにした。
「麻矢さんは、これからバイトですか?」
彼の服装は、初めて会った日とほぼ同じだった。白いワイシャツにくたびれたジーンズ、肩にかけた巨大なボストンバッグ。予想通り、麻矢は頷いた。きっと彼は高校で着替え、そのまま出勤しているのだろう。
「お前も島ダスに行くのか?」
「あ、今日はこのまま帰るつもりでした」
「そっか」
『島ダス』とは、ショッピングモールの愛称である。午後忙しい母の代わりに買い物に行くことが多いが、今日は生憎、出かける予定はない。麻矢は恥ずかしげに口を尖らせると、ぽつりと呟いた。
「元気なさそうに見えるけど、なんかあったのか?」
美雨は驚いて彼の顔を見た。一瞬目が合い、すぐにそらされる。彼は照れ隠しに、大声でつけ加えた。
「つ、辛いことがあるなら、吐き出した方がいいぞ。俺も、バイトまでまだ時間あるし」
ぶっきらぼうだが、優しい言動。それは、傘を渡された時と全く同じだった。
美雨は抱えていた悩みを打ち明ける。夢がないこと、志望校が決まらないこと、そして将来への不安。麻矢は黙って最後まで聞き、しばらく考えた後に口を開いた。
「無理して夢を探す必要は、ないんじゃないか?」
真面目な顔が向けられる。彼は言葉を探しながら、ゆっくりと答え始めた。
「うちは貧乏でさ、近いところしか選べなかったから参考にはならねぇけど……俺だってまだ夢はない。でも、周りを見たら案外、そんな奴ばっかだよ」
美雨はその言葉に驚愕する。『面接試験では、自分の夢に関連させて話しましょう』というアドバイスを聞いたばかりだったからだ。麻矢は一呼吸置き、言葉を続ける。
「それに、勉強も中学校の時より難しくなるんだ。範囲だって広がる。その中で自分の好きなことは何なのか考えていけば、たぶん、大丈夫だろ」
「自分の好きなこと、ですか……」
思わず復唱する。『自分の好きなこと』に目を向けるとは、思いもしなかった。遥か先の方角に目を凝らしすぎて、手元が全く見えていなかったのだ。
「そうだ、志望校が決まらないんだったらとりあえず、うちの高校にしとけよ。ここからは近いし、進学も就職もこの辺じゃ有利らしいからな」
麻矢はにやりと笑う。数日前の麻緒の説明を思い返しながら、聞き返した。
「えっと……麻矢さんの高校って確か、西島棚高校でしたよね?」
「あぁ。なんなら、俺ん家で勉強見てやってもいいぞ」
美雨は「え」と面食らう。彼は顔を赤らめ、流し目をこちらに向けた。
「麻緒もうちの高校を受けるんだが、ほら、塾に行ける余裕なんてねぇから……俺の時もこの時期から、コツコツ勉強してたんだよ。あいつ成績は微妙だからさ、お前みたいなまともな人がいれば、ちょっとはマシになるかと思って……」
麻穂の宿題を手伝った時も、遠回しに褒められたことを思い出す。語尾が小さくなる麻矢を見て、美雨は笑いがこみ上げてきた。彼の家族がこの会話を知ったら、再び囃し立てるに違いない。
「ありがとうございます、麻矢さん」
麻矢は自分から目をそらし、黙って頷いた。いつの間にか雨は止み、僅かに青空が見えている。
「じゃあ、これからよろしくな」
「はい。バイト、頑張ってください」
傘の水滴を払い、彼は屋根の外に出た。声をかけると、自然な笑顔が返される。麻矢は片手を上げ、道路を歩き始めた。
美雨も折り畳み傘を鞄にしまい、一歩踏み出す。心の中に降り続いていた雨も消えている。水溜まりに映る青空は、心なしか、いつもより綺麗だった。
――
麻矢と約束した翌日から、彼のアルバイトが休みの日限定で、自宅勉強会が始まった。
母には既に説明済みである。本当は塾に行ってほしかったようだが、美雨の熱意が伝わったのか、笑顔で了承してくれた。
放課後は麻緒と共に杉林家に向かい、たまに麻穂の宿題も見ながら、元受験生による指導を受ける。次第に家族ぐるみの付き合いになり、母親同士も仲良くなったようだ。
しばしば起こる兄妹喧嘩に翻弄されつつ勉強に励む。美雨はこの充実した毎日が好きだった。それでも時間は止まることなく、季節はあっという間に過ぎてゆく。
そして季節は春。試験日も無事に終わり、遂に合格発表の日を迎えた。
「えーっと、うわ文字細かっ」
貼り出された合格者番号に目を凝らし、麻緒は文句を口にする。既に多くの受験生とその親が看板の前に陣取っており、この距離では数字の三と八の見分けがつかない。
同行していた麻子は美雨と麻緒、更に晴の腕を掴み、人混みの中に飛び出した。ようやく看板の前に辿り着き、改めて番号を確認する。最初に声を上げたのは麻子だった。
「あった! 二人共合格だよ!」
「ほんとだ! 美雨、やったよぉ!」
麻緒に抱きつかれ、美雨も自分の番号を見つける。自然と涙が溢れ、今まで味わったことのない達成感に襲われた。
興奮した母親達に背中を叩かれ、二人は笑い合う。合格の立役者である麻矢がいないのは残念だったが、四人はこの一年間の努力を称え合い、喜びを噛みしめるのだった。
――
時折降っていた小雨は、しとしとと降り続く雨に変わっていた。
四人は傘を差し、余韻に浸りながら帰り道を行く。杉林家のアパートの前に辿り着くと、その軒先で麻矢が待っていた。
「麻矢! どっちも受かったよ!」
「聞く前から答えるなよ!」
開口一番結果を言う妹にツッコミを入れながらも、彼はとても嬉しそうだ。
「麻矢さん、ご指導ありがとうございました!」
頭を下げて礼を言うと、麻矢は美雨の腕を掴んで軒先の端に移動する。途端に母と妹が騒ぎ立てるが、彼はその二人を無視するように咳払いした。
「合格おめでとう。面接、緊張しなかったか?」
「少し怖かったですけど、ちゃんと伝えられました。あっ、それと……この一年で自分の夢、なんとなく分かった気がします」
美雨は面接でも語った内容を、彼に伝えた。
「私、昔から読書が好きで、今までは月一で新しい本を買いに行ってたんですけど、将来は本屋さんとか図書館とか、本に関係のある仕事がしたいって思いました」
「なるほど、それでか……」
意味深な言葉に疑問を浮かべていると、麻矢は恥ずかしげに白状した。
「実はな、俺……お前に傘を貸す前から、バイト帰りに何度か見かけてるんだよ。制服姿の子が一人で何やってんだろうって、気になってたんだ」
美雨は言葉を失う。つまり彼は、あの日よりも前に自分を認識していたのだ。黒い傘の柄をぎゅっと握り、麻矢は初めて、真っ直ぐに美雨を見た。
「だから、お前の力になれて嬉しかった。これからもよろしくな……美雨」
名前を呼ばれ、心の中に温かいものが広がる。美雨は涙混じりの笑顔で、差し出された手を握り返した。
雨は嫌いだ。でも、少しだけ好きになれそうな気がする。
美雨はしみじみと思う。雨と共に現れ、背中を押してくれた麻矢。彼との出会いは、きっと天からの贈り物だったのだ。
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