枕元に備忘録を

桧山トキ

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それはきっと、悪い夢(ヒューマンドラマ×ホラー)

3夜

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3夜 それはきっと、悪い夢



「桜も、もう終わり頃だな」

 どこか遠くから、兄の声が聞こえる。めぐみは応えようとするが、体は動かず、瞼も開けられない。
 兄はこちらの返答を待つことなく、独り言のように会話を続けている。昨日の晩飯が美味かった、あそこに有名チェーン店が出店した、といった他愛のない雑談ばかり。しかし兄は急に押し黙り、弱々しく呟いた。

「……あの事故がなければ、一緒に行けたのにな」

 その一言で、ぼんやりと思い出した。「桜を見に行こう」と兄に誘われ、駅前の交差点で待ち合わせしていたはずだったのだ。
 携帯電話の画面を見ていたのは何となく覚えているが、悲鳴と衝突音が聞こえたところで記憶が途切れている。兄の言う通り不慮の事故に遭い、今まで意識不明だったのだろうか。

 兄さん、私は起きてるよ。
 愛は必死に伝えようとするものの、口に力が入らず、声に出すことはできない。そうするうちに、意識は次第にまどろみ出す。くぐもってゆく兄の声を聞きながら、愛は再び眠りに落ちた。


――
 その日を境に、愛の意識は浮き沈みを繰り返した。
 疲れ切った両親の声、悔しさを滲ませる職場の上司の声、「どうしてこんな体に……!」と泣き喚く友人の声。実に様々な人の声を耳にしたが、兄の声は、いつも傍にいた。

 自分が置かれた状況についても、推察ではあるが少しずつ分かってきた。しかし、聞こえるばかりで体は一切動かせない。訪問者の会話に加わることもできず、視界は真っ暗なまま。
 意識はこんなにもはっきりしているのに。痛みなんか全然感じないのに。愛は数々の文句を抱きつつも声に耳を傾け、いつの間にかまどろんでいたのだった。

 愛は意識を覚ます度に何度目か、と数えていたが、十回を超えたところで記憶が曖昧になり諦めている。意識を保っていられる時間も徐々に短くなった。聞こえてくる人の声もだんだんと減り、今ではもう兄だけだ。
 いつか目が覚めるだろう、という期待はとうに捨てている。私のことはもういいよ、と兄に伝えたかった。だが兄は至って普段通りの様子で、返答のない会話を続けていた。

友紀とものり、いい加減にしろよ!」

 突然の怒号に、あやふやだった意識は引き戻される。聞き覚えのない声だが、兄の友人のものに良く似ていた。くたびれたように溜息を吐き、兄は訪問者を宥めた。

「そんな大声出すんじゃない。愛が驚くだろ」
「驚くも何も……あの日から何年経ったと思ってる? お前の妹さんはもう……」
「それ以上は言うな!」

 がたっ、と椅子が倒れる音が響き、兄はしわがれた声で怒鳴り返した。その後も言い争う声が続いたが、ドアが乱暴に閉まると共に、辺りは静かになる。兄は再度深く溜息をつき、覚束ない足音で近寄ってきた。

「大丈夫だ、お前はもうすぐ目を覚ます。俺もすぐに行くから……その時は、今度こそ桜を見に行こう」

 そう言い終わらないうちに、兄の声はぼやけてゆく。「じゃあな」という呟きが届く前に、愛の意識は沈んでしまった。


――――
 暗闇に光が差し、意識が浮かび上がる。
 愛は瞼を震わせ、恐る恐る目を開けた。真っ先に飛びこんできたのは春の色。満開の桜並木が、どこまでも続いていた。

「うそ……私、目が覚めたの……?」

 青空に映える桜色を見上げながら、愛は一歩ずつ近寄る。幹に触れる直前、背後から呼びかけられた。振り返ると、兄が満面の笑みでこちらに駆け寄ってきていた。

「愛、遅くなってごめんな」
「兄さん! ほ、本当に……会えるなんて!」

 兄は「そんな大げさな」と笑い飛ばし、愛の額を軽く小突いた。

「ほんのちょっとの間トイレに行っただけだろ? まぁ混んでたから何分か待ったけどさ」
「えっ」

 噛み合わない会話に、頭の中が一瞬揺らぐ。兄は愛の腕を取り、強引に連れ出した。

「ほら、映える写真撮りまくりたいって言ってたのはどこのどいつだっけ? さっさと撮らねぇと、日が暮れちまうぞ」

 茶化したように笑う兄は、姿も声も、記憶の中の兄そのもの。自分もまた、事故に遭った日と全く同じ服装だった。

 あぁ、あれは全部夢だったんだ。
 交差点で起きた暴走事故に巻きこまれたことも、片腕と両足を失ったことも、事故から五十年もの間意識不明だったことも。

 全てが悪い夢だったと悟り、愛は兄と笑い合う。兄の手の感触、そして辺りに漂う桜の香りを全く感じないのは不可解だったが、待ち焦がれた春の景色の前では、どうでもいいことに思えた。


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