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雨色の惑い(青春)
2夜―1
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2夜 雨色の惑い
地面を打ちつける大雨。エントランスから出る人は傘を差し、新たに入る人は傘を閉じて水を払う。
カラフルな傘が絶えず行き交う中、制服姿の少女が一人、立ち尽くしていた。
「天気予報、当たっちゃった……」
今日の夕方頃、ところにより雨が降るでしょう。朝のニュース番組で見た天気予報は正しかったのだ。
こんなことになるなら、傘を持ってくればよかった。少女、柿崎美雨は心の中でそう呟き、うなだれた。
ここはショッピングモール。住宅街のすぐ側に立地しており、美雨の家からも近い。普段の彼女なら駆け足で帰るのだろうが、今日は雨に濡れる訳にはいかない。手持ちの鞄には、書店で購入した本が入っているのだ。
同じように傘を忘れたのか、男子学生の集団が鞄を頭に乗せ、一斉に走り出す姿も見える。しかしさすがに、彼らの真似をする気にはなれなかった。
「はぁ……ビニール傘、買うしかないかな」
美雨は大きな溜息をつき、店内に戻ろうと振り返る。すると、背後にいた少年と目が合った。白いワイシャツ一枚に、ジーンズ姿。背は美雨より十センチ以上高く、とても痩せている。その割に大きなボストンバッグを肩からかけており、咄嗟に「今にも折れそう」と思ってしまった。
少年は無愛想な表情のまま一歩近寄り、黒い傘を差し出した。柄の部分には黄色いテープが巻かれており、よく目立つ黒字で『盗るなよ!』と書かれている。
「傘ないんだろ? 持ってけよ」
「えっ、で、でも……」
「いいから」
受け取るのをためらっていると、少年は美雨の手に傘を押しつけた。そのまま逃げるように横をすり抜け、雨の中へ消えてゆく。
一向に止む気配のない、激しい雨。美雨は何も言い出せないまま、少年の後ろ姿をいつまでも見つめていた。
――
翌日、激しかった雨はすっかり止み、嘘のような晴れ間が広がっていた。
道路にはまだ、大きな水溜まりが点々と残っている。美雨は目線を下に向けつつ、慎重に登校していた。
やっぱり、雨は嫌いだ。体は濡れるし、気圧が下がって調子も悪くなる。止んだ後でも水溜まりがあれば、うっかり踏んで靴の中がずぶ濡れになるかもしれない。
水面に映る顔がしかめっ面であることに気づき、慌てて思考を追い出そうとする。名前にも入っている『雨』のことを、美雨はどうしても好きになれなかった。
「おっはよー!」
突然肩を叩かれ、後ろを振り向く。同級生の杉林麻緒だ。彼女とは小学生の頃からの付き合いだった。特別仲が良い訳ではないが、家が近所であり、通学路で出くわすことが多い。
「おはよう。昨日の雨、すごかったね」
「ねー! あたし傘忘れちゃってさ、めっちゃ濡れた!」
麻緒はひとしきり笑っていたが、美雨の手元を見て「あれ?」と首を傾げた。
「美雨、その傘……」
天気予報に依ると、今日は一日中晴れである。だが、美雨は黒い傘を持ち歩いていた。
「昨日、同い年くらいの男の子が貸してくれたんだけど……もし他のクラスの子だったら返せるかな、って」
あの時はお礼を言うどころか名前も聞けなかった。返したい気持ちはあるが、彼が同学年なのか、そもそも同じ学校なのかも分からない。しかし、麻緒は傘の柄を見るなり「あー!」と叫んだ。
「ちょっと待って、それ、兄貴の傘なんだけど!」
突然の告白に驚愕し、美雨は水溜まりに片足を突っこんでしまった。
「えっ、兄貴って……麻緒、お兄さんいたの?」
「まーね。うちらの一個上で高一だよ。こんなケチくさいことするのは兄貴しかいないって!」
麻緒は黄色いテープに書かれた『盗るなよ!』という主張を指差し、笑い転げる。思い返してみると、彼女と昨日会った少年は似ているような気がした。
「そだ! ねぇ美雨、放課後うちに来ない? 今日高校休みだから、兄貴もいるし!」
少年の無愛想な表情を思い出し、一瞬ためらう。しかし、傘を貸してくれたお礼は直接言いたい。
美雨は勇気を出して、頷いた。
――
その日の放課後。美雨は麻緒に連れられ、通学路を引き返していた。
道路の水溜まりはすっかり乾き切り、穏やかな日差しが降り注ぐ。同じように下校する生徒は皆、傘など持っていない。真っ黒な傘を持つ自分が浮いているような気がして、少しだけ恥ずかしかった。
家に向かう途中、麻緒は『兄貴』について詳しく説明してくれた。
近所の高校に通っていること。部活動はしていないこと。ショッピングモールの飲食店でアルバイトをしていること。口うるさいだのケチくさいだの、笑いながら文句を言う麻緒は、その人物を『マヤ』と呼んでいた。
二人は二階建てアパートの階段を上り、三軒先の玄関で止まる。ここが麻緒の家のようだ。
「ただいまー」
麻緒はドアを開け、美雨を手招きする。室内に入ると、小学校低学年ほどの少女が駆け寄ってきた。
「ねーちゃん、お帰りー! その人はお友達?」
「うん。あっ、妹の麻穂だよ。ちっちゃいけど小四なんだ」
よく似た姉に頭を撫で回され、麻穂は「ちっちゃいって言うなー!」と反抗する。美雨は彼女の目線までしゃがみ、自己紹介した。
「おっ。あんたが友達を連れてくるなんて、珍しいね」
突如聞こえたハスキーボイスに、麻緒は「げっ」と声を上げる。現れたのは、髪を無造作に纏め上げた背の高い女性だ。
「母さん、いたの?」
「今日も夜勤だって言ったじゃん。……いらっしゃい、美雨ちゃん。ゆっくりしてってね」
麻緒の母親は制服についたネームプレートを見て、表情を和らげる。美雨が丁寧にお辞儀すると、彼女はいきなり笑い出した。
「そんなかしこまらなくていいから! 私のことは『麻子さん』って呼んでもいいんだよ?」
杉林家は、母親と三兄妹の四人家族である。麻穂が生まれて間もなく両親が離婚し、看護師の母親が一人で幼い子供達を育て上げたそうだ。『うちの母さん激しいからなぁ』という麻緒の言葉通り、彼女は豪快な性格のようだ。
すると、麻子は美雨の手元の黒い傘に目を留めた。
「あれっ、この傘って……」
「当たりー! 昨日貰ったんだって!」
「へぇー、あいつ『誰かに持ってかれた』って言ってたくせに、なるほどねぇー」
答える間もなく麻緒に暴露され、麻子はにやにやと笑みを零す。親子の会話について行けずに困っていると、麻子は美雨をリビングに押し出した。
「あいつなら部屋にいるから、直接渡しなよ!」
大きなダイニングテーブルの上には、サイズもデザインも異なるコップやら計算ドリルやらが広がっている。生活感のあるリビングに入るや否や、麻子は声を張り上げた。
「まぁーやぁー! あんたにお客さんが来てるよー!」
呼びかけから二秒後、部屋の奥にあるドアが開く。黒いTシャツを着たあの少年がだるそうに現れ、美雨を見た途端大きく目を見開いた。
母親と二人の妹は同時に吹き出し、テーブルを叩いて大笑いする。少年は赤面しながら、声を絞り出した。
「な、なっ、なんでこいつが……」
「あたしと同じクラスの子なんだよねー。美しい雨って書いて、美雨っていうんだよ」
麻緒は美雨の肩に手を乗せ、勝手に紹介する。挙動不審な様子の彼を前に、美雨は何故か緊張した。
「そんで、これが兄貴の麻矢。麻薬の麻に、弓矢の矢」
「麻薬言うな」
妹の紹介にツッコミを入れる、よく似た兄。美雨は一歩前に出て、黒い傘を差し出した。
「き、昨日は傘を貸してくれて、ありがとうございました」
相変わらず真っ赤な顔のまま、麻矢は傘を受け取った。外野の三人は笑いを堪えきれず、再度吹き出す。
「昨日ずぶ濡れで帰ってきてカッコわるって思ったけど、こーんなイケメンぶったことしてたなんて思わなかったよ、『お兄ちゃん』?」
麻緒がわざと煽ると、麻矢は「うるせー!」と逆上する。取っ組み合う兄妹に呆然としていると、麻子に肩を叩かれた。
「いつものことだから気にしないで。せっかくだからおやつでも食べてってよ!」
「あー! だったら美雨、麻穂の宿題手伝って! あたしより頭いいし、すぐ終わるって!」
「おい麻緒、逃げんなよ!」
喧嘩の途中ですり抜けた妹の背後で、兄が呆れている。母は冷蔵庫を物色し始め、末の妹がその背に飛びつく。
笑いと怒号が飛び交う非常に騒がしい光景だが、美雨はこの家族の関係を羨ましく思い、自然と笑顔になった。
――
杉林家から帰る頃には、空は眩い夕焼け色に染まっていた。
帰宅すると既に母親がキッチンに立っており、美雨は急いで駆け寄る。母は夕方までのパート勤務であり、普段なら美雨より帰宅が遅いはずなのだ。
「おかえり。遅かったけど何かあった?」
彼女の母、晴は食材を切る手を止め、美雨の顔を伺う。数時間前の喧騒が頭に浮かび、思い出し笑いをしてしまった。
「友達に誘われて、家に遊びに行ってたの」
「あら、珍しいじゃない。その様子だと楽しかったようね」
自分の楽しげな顔を見て、微笑みが返される。すると晴は何かを思い出したのか、顔色を変えた。
「そういえば、今日職場の人に塾をおすすめされたんだけど……美雨も受験生になるんだし、行ってみる気はない?」
美雨は言葉を詰まらせる。晴れ渡った心の中に、雨粒が落ちた気がした。
「……ごめん、ちょっと、考えさせて」
母に背を向け、キッチンを出る。そのまま急いで階段を駆け上がり、自室に入ってドアを閉めた。
部屋は真っ暗。外はまだ夕日が差しているはずだが、カーテンは閉めきられている。
美雨は一人っ子である。両親と三人暮らしだったが、父親は昨年から単身赴任で家を空けている。それでも特別仲が悪い訳ではなく、ごく普通の家庭環境だったように思う。
二ヶ月ほど前に中学三年生になり、『受験』という言葉が出始めるようになった。そろそろ志望校を決める時期に入っているが、美雨は志望校はおろか、将来の夢すら持っていなかった。
周りの子と同じように進学し、夢に向かって勉学に励む。両親も自分の将来を、そう思い描いているに違いない。部活動に入っていたら、その道の強豪校に進むのだろう。しかし、美雨は帰宅部であり、習い事も特にしていない。
そんな自分が、なんとなく進学しても許されるのか。
心の中の雨は次第に強まり、止みそうにない。美雨は先の見えない進路を想い、暗い部屋の中で立ち尽くすのだった。
地面を打ちつける大雨。エントランスから出る人は傘を差し、新たに入る人は傘を閉じて水を払う。
カラフルな傘が絶えず行き交う中、制服姿の少女が一人、立ち尽くしていた。
「天気予報、当たっちゃった……」
今日の夕方頃、ところにより雨が降るでしょう。朝のニュース番組で見た天気予報は正しかったのだ。
こんなことになるなら、傘を持ってくればよかった。少女、柿崎美雨は心の中でそう呟き、うなだれた。
ここはショッピングモール。住宅街のすぐ側に立地しており、美雨の家からも近い。普段の彼女なら駆け足で帰るのだろうが、今日は雨に濡れる訳にはいかない。手持ちの鞄には、書店で購入した本が入っているのだ。
同じように傘を忘れたのか、男子学生の集団が鞄を頭に乗せ、一斉に走り出す姿も見える。しかしさすがに、彼らの真似をする気にはなれなかった。
「はぁ……ビニール傘、買うしかないかな」
美雨は大きな溜息をつき、店内に戻ろうと振り返る。すると、背後にいた少年と目が合った。白いワイシャツ一枚に、ジーンズ姿。背は美雨より十センチ以上高く、とても痩せている。その割に大きなボストンバッグを肩からかけており、咄嗟に「今にも折れそう」と思ってしまった。
少年は無愛想な表情のまま一歩近寄り、黒い傘を差し出した。柄の部分には黄色いテープが巻かれており、よく目立つ黒字で『盗るなよ!』と書かれている。
「傘ないんだろ? 持ってけよ」
「えっ、で、でも……」
「いいから」
受け取るのをためらっていると、少年は美雨の手に傘を押しつけた。そのまま逃げるように横をすり抜け、雨の中へ消えてゆく。
一向に止む気配のない、激しい雨。美雨は何も言い出せないまま、少年の後ろ姿をいつまでも見つめていた。
――
翌日、激しかった雨はすっかり止み、嘘のような晴れ間が広がっていた。
道路にはまだ、大きな水溜まりが点々と残っている。美雨は目線を下に向けつつ、慎重に登校していた。
やっぱり、雨は嫌いだ。体は濡れるし、気圧が下がって調子も悪くなる。止んだ後でも水溜まりがあれば、うっかり踏んで靴の中がずぶ濡れになるかもしれない。
水面に映る顔がしかめっ面であることに気づき、慌てて思考を追い出そうとする。名前にも入っている『雨』のことを、美雨はどうしても好きになれなかった。
「おっはよー!」
突然肩を叩かれ、後ろを振り向く。同級生の杉林麻緒だ。彼女とは小学生の頃からの付き合いだった。特別仲が良い訳ではないが、家が近所であり、通学路で出くわすことが多い。
「おはよう。昨日の雨、すごかったね」
「ねー! あたし傘忘れちゃってさ、めっちゃ濡れた!」
麻緒はひとしきり笑っていたが、美雨の手元を見て「あれ?」と首を傾げた。
「美雨、その傘……」
天気予報に依ると、今日は一日中晴れである。だが、美雨は黒い傘を持ち歩いていた。
「昨日、同い年くらいの男の子が貸してくれたんだけど……もし他のクラスの子だったら返せるかな、って」
あの時はお礼を言うどころか名前も聞けなかった。返したい気持ちはあるが、彼が同学年なのか、そもそも同じ学校なのかも分からない。しかし、麻緒は傘の柄を見るなり「あー!」と叫んだ。
「ちょっと待って、それ、兄貴の傘なんだけど!」
突然の告白に驚愕し、美雨は水溜まりに片足を突っこんでしまった。
「えっ、兄貴って……麻緒、お兄さんいたの?」
「まーね。うちらの一個上で高一だよ。こんなケチくさいことするのは兄貴しかいないって!」
麻緒は黄色いテープに書かれた『盗るなよ!』という主張を指差し、笑い転げる。思い返してみると、彼女と昨日会った少年は似ているような気がした。
「そだ! ねぇ美雨、放課後うちに来ない? 今日高校休みだから、兄貴もいるし!」
少年の無愛想な表情を思い出し、一瞬ためらう。しかし、傘を貸してくれたお礼は直接言いたい。
美雨は勇気を出して、頷いた。
――
その日の放課後。美雨は麻緒に連れられ、通学路を引き返していた。
道路の水溜まりはすっかり乾き切り、穏やかな日差しが降り注ぐ。同じように下校する生徒は皆、傘など持っていない。真っ黒な傘を持つ自分が浮いているような気がして、少しだけ恥ずかしかった。
家に向かう途中、麻緒は『兄貴』について詳しく説明してくれた。
近所の高校に通っていること。部活動はしていないこと。ショッピングモールの飲食店でアルバイトをしていること。口うるさいだのケチくさいだの、笑いながら文句を言う麻緒は、その人物を『マヤ』と呼んでいた。
二人は二階建てアパートの階段を上り、三軒先の玄関で止まる。ここが麻緒の家のようだ。
「ただいまー」
麻緒はドアを開け、美雨を手招きする。室内に入ると、小学校低学年ほどの少女が駆け寄ってきた。
「ねーちゃん、お帰りー! その人はお友達?」
「うん。あっ、妹の麻穂だよ。ちっちゃいけど小四なんだ」
よく似た姉に頭を撫で回され、麻穂は「ちっちゃいって言うなー!」と反抗する。美雨は彼女の目線までしゃがみ、自己紹介した。
「おっ。あんたが友達を連れてくるなんて、珍しいね」
突如聞こえたハスキーボイスに、麻緒は「げっ」と声を上げる。現れたのは、髪を無造作に纏め上げた背の高い女性だ。
「母さん、いたの?」
「今日も夜勤だって言ったじゃん。……いらっしゃい、美雨ちゃん。ゆっくりしてってね」
麻緒の母親は制服についたネームプレートを見て、表情を和らげる。美雨が丁寧にお辞儀すると、彼女はいきなり笑い出した。
「そんなかしこまらなくていいから! 私のことは『麻子さん』って呼んでもいいんだよ?」
杉林家は、母親と三兄妹の四人家族である。麻穂が生まれて間もなく両親が離婚し、看護師の母親が一人で幼い子供達を育て上げたそうだ。『うちの母さん激しいからなぁ』という麻緒の言葉通り、彼女は豪快な性格のようだ。
すると、麻子は美雨の手元の黒い傘に目を留めた。
「あれっ、この傘って……」
「当たりー! 昨日貰ったんだって!」
「へぇー、あいつ『誰かに持ってかれた』って言ってたくせに、なるほどねぇー」
答える間もなく麻緒に暴露され、麻子はにやにやと笑みを零す。親子の会話について行けずに困っていると、麻子は美雨をリビングに押し出した。
「あいつなら部屋にいるから、直接渡しなよ!」
大きなダイニングテーブルの上には、サイズもデザインも異なるコップやら計算ドリルやらが広がっている。生活感のあるリビングに入るや否や、麻子は声を張り上げた。
「まぁーやぁー! あんたにお客さんが来てるよー!」
呼びかけから二秒後、部屋の奥にあるドアが開く。黒いTシャツを着たあの少年がだるそうに現れ、美雨を見た途端大きく目を見開いた。
母親と二人の妹は同時に吹き出し、テーブルを叩いて大笑いする。少年は赤面しながら、声を絞り出した。
「な、なっ、なんでこいつが……」
「あたしと同じクラスの子なんだよねー。美しい雨って書いて、美雨っていうんだよ」
麻緒は美雨の肩に手を乗せ、勝手に紹介する。挙動不審な様子の彼を前に、美雨は何故か緊張した。
「そんで、これが兄貴の麻矢。麻薬の麻に、弓矢の矢」
「麻薬言うな」
妹の紹介にツッコミを入れる、よく似た兄。美雨は一歩前に出て、黒い傘を差し出した。
「き、昨日は傘を貸してくれて、ありがとうございました」
相変わらず真っ赤な顔のまま、麻矢は傘を受け取った。外野の三人は笑いを堪えきれず、再度吹き出す。
「昨日ずぶ濡れで帰ってきてカッコわるって思ったけど、こーんなイケメンぶったことしてたなんて思わなかったよ、『お兄ちゃん』?」
麻緒がわざと煽ると、麻矢は「うるせー!」と逆上する。取っ組み合う兄妹に呆然としていると、麻子に肩を叩かれた。
「いつものことだから気にしないで。せっかくだからおやつでも食べてってよ!」
「あー! だったら美雨、麻穂の宿題手伝って! あたしより頭いいし、すぐ終わるって!」
「おい麻緒、逃げんなよ!」
喧嘩の途中ですり抜けた妹の背後で、兄が呆れている。母は冷蔵庫を物色し始め、末の妹がその背に飛びつく。
笑いと怒号が飛び交う非常に騒がしい光景だが、美雨はこの家族の関係を羨ましく思い、自然と笑顔になった。
――
杉林家から帰る頃には、空は眩い夕焼け色に染まっていた。
帰宅すると既に母親がキッチンに立っており、美雨は急いで駆け寄る。母は夕方までのパート勤務であり、普段なら美雨より帰宅が遅いはずなのだ。
「おかえり。遅かったけど何かあった?」
彼女の母、晴は食材を切る手を止め、美雨の顔を伺う。数時間前の喧騒が頭に浮かび、思い出し笑いをしてしまった。
「友達に誘われて、家に遊びに行ってたの」
「あら、珍しいじゃない。その様子だと楽しかったようね」
自分の楽しげな顔を見て、微笑みが返される。すると晴は何かを思い出したのか、顔色を変えた。
「そういえば、今日職場の人に塾をおすすめされたんだけど……美雨も受験生になるんだし、行ってみる気はない?」
美雨は言葉を詰まらせる。晴れ渡った心の中に、雨粒が落ちた気がした。
「……ごめん、ちょっと、考えさせて」
母に背を向け、キッチンを出る。そのまま急いで階段を駆け上がり、自室に入ってドアを閉めた。
部屋は真っ暗。外はまだ夕日が差しているはずだが、カーテンは閉めきられている。
美雨は一人っ子である。両親と三人暮らしだったが、父親は昨年から単身赴任で家を空けている。それでも特別仲が悪い訳ではなく、ごく普通の家庭環境だったように思う。
二ヶ月ほど前に中学三年生になり、『受験』という言葉が出始めるようになった。そろそろ志望校を決める時期に入っているが、美雨は志望校はおろか、将来の夢すら持っていなかった。
周りの子と同じように進学し、夢に向かって勉学に励む。両親も自分の将来を、そう思い描いているに違いない。部活動に入っていたら、その道の強豪校に進むのだろう。しかし、美雨は帰宅部であり、習い事も特にしていない。
そんな自分が、なんとなく進学しても許されるのか。
心の中の雨は次第に強まり、止みそうにない。美雨は先の見えない進路を想い、暗い部屋の中で立ち尽くすのだった。
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