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八壁ゆかり

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村雨カズヤ

村雨カズヤ+推理+真犯人?

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13.

 柊病院の広大な敷地に足を踏み入れ、受付で面会申込書を記入し、通過許可証を貰ってからしばし待つ。第六病棟から許可が下りてから、許可証をパスにして病棟まで向かう。ここに来るのは三度目だが、やはり嬉々として訪れたい場所ではない。
 エレベーターで目的の階まで上る。エレベーターを降り、ホールの片隅のインターホンを押す。目の前には厳重に施錠された扉。
 名前を名乗り許可証を見せると、中に通される。看護師にボディチェックと持ち物検査をされる。問題無く終了すると、面会室に通された。二年前と同じ、殺風景な部屋。テーブルと椅子が二脚、荷物を置く棚、手の届かない位置にある窓。
 俺はバッグを棚に置いて、椅子を引いて着席した。
 カズヤがどんな状態でやって来ても対応出来るように、腹をくくる。もしかすると前みたいに話もろくに出来ないかもしれない。それでも俺はカズヤと話したかった。
 村雨家はいわゆる名家だった。昔大臣にまで登り詰めた政治家も居たらしいし、他にも敏腕弁護士や実業家、或いは小説家や音楽家などの文化人も多く輩出してきた。
 カズヤはその一族の面々からも『天才』と呼ばれる存在だった。
 IQは200近いと言われ、小学五年生にして大学までの一般教育を終え、その後は気の赴くままに哲学や文学、犯罪心理学、そして精神医学を学んでいった。誰もがカズヤの将来に期待していた。カズヤならきっととんでもない歴史的偉業を成し遂げるだろう、と。
 それが、カズヤが十七才で統合失調症と摂食障害、解離性障害を発症した事で、事態は一変した。
 幻聴幻覚等の症状が現れ奇行が見られるようになると、カズヤの両親はすぐに病院へ連れて行ったが、どの医者もカズヤに言い負かされた。カズヤは実家を飛び出した。遠縁である俺の家に転がり込んできたのもその時期だ。
 しかしその後自傷行為が悪化し、措置入院が決まった。それから数年間、カズヤはこの柊病院の閉鎖病棟に落ち着くまで、病院を移る以外一度も外に出ていない。
 カズヤは保護室の常連になった。保護室とは、特に症状が悪化し、自分や周囲に危害を加える可能性のある患者を収容する部屋で、言ってしまえば独房だった。
 村雨家は由緒正しい名家だからして、大半の人間がカズヤの病気を恥と考えた。二十一世紀のこの時代に、だ。両親でさえ滅多に面会には来ないし、弟のシンヤに至ってはそれまで兄が受けていた親族の寵愛を一身に受けて嬉しそうにしている。誰もがカズヤの存在を忘れようとしていた。俺にはそう見えた。『あんな異常者は村雨家には要らない』と。
 だが、カズヤの知能は落ちていない。
 解離性障害の所為で記憶は曖昧な事もあるが、IQは医者も驚くほどだった。
 保護室の天才。
 俺の、最後の頼みの綱。
 何分経っただろう。俺にはえらく長く感じられた。
「村雨さん、ほら、親族の方ですよ」
 面会室のドアがほんの少し開き、女性の看護師の声がした。
「……うるせえな、分かってるよ」
 その声に、俺はドキリとする。あのハスキーな声だけは、どんなになっても変わらない。
 そして、黒いパジャマを着た、異様に痩せこけた男が姿を現す。
 風が吹いたらポキッと折れそうな足で一歩ずつこちらに近付いてくる。ゆっくりと首を動かし、そのぎょろりとした濁った眼が、俺を捉える。
「よう、イツキ」
 村雨カズヤだ。


「人間の嗜好は実に多岐に渡る。ヘテロ、ホモセクシャル、バイセクシャル、エイセクシャル、もしくは他諸々のフェティシズム。或いは俺が知らない、全く新しい形のセクシャリティもあるかもしれない。ニューエイジ。俺は最近自分がえらく歳を取ったと感じる事が多い。若い患者と話してると特にね。ニューエイジは驚異だよ。生まれた時からハイヴィジョンTVと携帯電話とPCがそこにあるんだ、歪まず育てという方が無理な話だと、俺は思うね。マリリン・マンソンは1998年のアルバム『メカニカル・アニマルズ』で『神はTVの中に居る』と歌ったが、そうなると今神はどこに居るんだろうね。考えてみると面白くないか? 何の話だっけ? 嗜好? そう、タバコや酒と同じだ。人間の嗜好は実に多岐に渡り……」
「カズヤ、その話はもういい」
 俺はそれだけ言った。
 幸いカズヤは最低限の会話は出来る状態だった。黒い半袖のパジャマには白いフケが目立つが、それよりもズタズタに切り裂かれた跡、ケロイドが残る細い両腕に目が行く。カズヤは全身を切り刻んでいた。数年経ってまだこれだけ跡が残っている事に、俺は驚いた。
 会話は出来たが少々ハイなようだった。俺の言う事を聞いているのかいないのか、時折立ち上がっては大きな声を出したり饒舌に何かを語ったりした。それでもよかった。俺は必死にこの数日間の悲劇をひたすら語った。なるべく正確に、客観的に。
 血を抜かれた野良猫と、三人の人間。
 そしてそれに付随して露呈させてしまった人々の闇。
 親父の話をする時、俺は思わず涙ぐんでしまった。
「……そうか、博紀さんはそういう人だったか」
 カズヤの声が、俺は好きだった。見た目は運動不足や薬の所為でボロボロになってるけど、その錆の利いた美声だけは不変だった。それが嬉しかった。
「泣けよイツキ。おまえは今、ここで泣くべきだ。博紀さんの為じゃない。おまえ自身の為にだ」
 無関心そうに言うと、カズヤはボリボリと頭を掻いた。フケが辺りに舞う。
 でもそんな事はどうでも良かった。
 俺は泣いた。
 せいたんがあんな目に遭った事実に。
 冷蔵庫の中の九崎を見た瞬間の為に。
 涼香さんの悲痛な叫びに。
 集中治療室での竜太郎の姿に。
 親父のあんな表情を見てしまった事に。
 五條や石橋、そして実の父親の闇までも暴いてしまった自分の為に。
 カズヤは俺が涙を流し続ける間、黙って俺を見詰めていた。視線がかち合うと、少し不思議そうな顔をした。
「ああ、イツキか。そうだ、面会に来たんだ。久々だな」
「うん、久しぶりだ」
「『柚ヶ丘の吸血鬼』ね。俺はそれ自体が間違ってると思うけど」
「え?」
 思わず顔を上げると、カズヤは横を向いて鼻を掻き始めた。
「『誰も橋に近付かない事を知っていてそこに隠した』、それは正しい。でもそんな情報、いくらでも漏れるだろ。まして住民が噂好きなら尚更だ。根拠としては余りに脆弱だな」
「だったら……」
「確かに被害者は皆柚ヶ丘ニュータウンの住民だ。そう思ってしまうのも仕方ないだろう。でもそうじゃないんだよ。そんな先入観に囚われるから正確な推理が出来なくなるんだ。推理といえばこの前面白い本を読んでね、作者が作品内で……」
「カズヤ、ニュータウン住民の犯行じゃないなら一体どうやって犯人を特定すればいい?」
 俺が言うと、カズヤはまた茫洋と虚空を見詰めた。真っ赤に腫れた唇から唾液がこぼれる。しばし待つと、カズヤはこっちの世界に帰ってきて続けた。
「残念ながら俺はネロ・ウルフでも何でもないんでね、ここでいきなり『はい、この人が犯人です』と名前を言う事は出来ない。イツキ、昔言っただろう、他人に期待するなって」
 言われた記憶は無かったがとりあえず頷いておいた。
「まあ、ヘマトフィリアの犯行だろうね。ヘマトディプシアと言った方が正確か」
 カズヤはあっさりとそう言って、今度は爪を噛み始めた。
「ヘマト……何だよそれ」
「ヘマトフィリア、血液嗜好症の事だ。フェティシズムの一種さ。血液に異様な執着を見せたり、性的興奮を覚えたりする人種の総称だよ。さっき言ったろ? 人間の嗜好は実に多岐に渡るものなんだよ。例えば俺のこのフケに欲情する人間も居るかもしれないし、おまえのそのダサいデニムに性的興奮を覚える奴も居るかもしれない」
 俺は呆然としていた。
「ヘマトフィリアで瀉血(しゃけつ)依存症の人間を探せばいい。そんなに難しい事じゃないだろ」
「何、依存症?」
「瀉血だよ、しゃ・け・つ。血液を抜く事だ。瀉血療法って聞いた事無いか? 古くからある医療の一つだよ。俺が言ってるのはそれじゃないけどな」
「カズヤ、頼むから分かり易く話してくれ。犯人はその瀉血療法ってのをやってるのか?」
 俺は思わずカズヤの肩を掴んだが、その感触にぞっとした。ほとんど骨と皮だけだった。
「俺が言ってるのは自傷行為の一種としての瀉血だよ。自分で自分の血液を抜く行為だ。リストカットやアームカットと違って傷跡がバレにくいが、環境を整えるのが難しい。針がなかなか入手出来ないし、抜き過ぎてブラックアウトすれば大変な事になる。まあ瀉血では死ねないけどな。経験者は語るってやつだ」
 そう言ってカズヤは笑った。
「その瀉血っていうのは、何の為にやるんだ?」
「おいおい、自傷行為に理由付けをしろってのか? おまえもその辺の精神科医みたいな事を言うのはやめろよ。自傷の理由なんてそいつ次第だ。周りの気を引く為でもあれば、本気で死にたい奴も居る。最近じゃ『病んでるアタシかっこいい』みたいに勘違いしてやる奴も居るし、自分の肉体の一部を擬人化して傷付けるケースもある。十人十色だよ。理由なんて一概に決められない」
「じゃ、じゃあ瀉血をしてる血液嗜好症の奴が、自分の血じゃ足りなくなって猫や人間にまで手を伸ばした……って事か?」
「そう考えるのが至極真っ当だと、俺は思うね。今はどうだか知らないが、ネットも奥に潜れば針を売ってる闇業者も居るし、別に注射針じゃなくてもニードルで代用する事も出来る。俺は両方試したがね。まあ少し暴論ではあるけどな。いくら注射器で自分の血管をヒットさせる腕を磨いても他人に刺すのは大違いだからね。でも医療関係者と決めつけるよりはマシなんじゃないか?」
 カズヤは爪を噛み続けながら言う。血が滲む。俺は続きを待つ。
「思うに、犯人は学習してる。せいたんの血を抜き過ぎた事で、九崎や竜太郎からの摂取量を減らしたんじゃないか? それに瀉血には時間がかかる。俺は量を計った事はないが、チアノーゼを起こす程抜くには相当の時間がかかる。それも考えたのかもしれないな。だって非効率的だろ」
 カズヤは淡々と、普通の喫茶店で話すような口調で言った。俺はただ呆然とそれを聞いていた。
 ヘマトフィリア。瀉血。
 自分の血では飽き足らなくなり、猫と人間三人を襲った犯人。
「村雨さん、そろそろご飯の前のお薬の時間ですよ」
 先程の女性看護師が入ってきて優しくそう言った。
「申し訳ありません、面会はそろそろ……」
「あ、すみません」
 俺は慌てて立ち上がり頭を下げた。
「ほら、村雨さん」
「……分かったよ、うるせえな」
 カズヤは顔をしかめながら立ち上がった。俺の方を見もせずに部屋を出ようとする。
「カズヤ」
 俺はその黒いシルエットに呼びかける。
「ありがとう」
「イツキ、サプレッサーを装着しろよ?」
 振り向きもせずぶっきらぼうにそう言って、カズヤは去って行った。


 柊病院からバスで最寄り駅まで行く間、俺はずっと考えていた。
 血液嗜好症? そんな奴どうやって探せばいいんだ?
 大体瀉血なんてのは見た事も聞いた事もない。自分で自分の血を抜くなんて行為、俺には想像も付かない。
『今こそ歌え! 終わりはもう見えている!』
『春はすぐそこだ』
『こんなプチプラ、他では有り得ない!』
 突然声が聞こえてきた。そういえばカズヤと話してる間は声がしなかったな。
 俺はヘッドフォンを装着し、MP3プレイヤを再生した。
『ヘモグロビンって何?』
『アタシ、貧血っぽいんだよね~』
『人間の身体の何割が水分か知ってるか?』
 意味もなく、動悸がしてきた。声が大音量で脳内に響き、俺はMP3プレイヤの音量を上げる。なのにリフレクターズのハードなギターリフが段々遠ざかっていく。
『自分で血を抜いてたら絶対血ぃ足りなくなるよね』
『カズヤなら一発で分かるだろうに』
 嫌な予感を覚える。物凄く、嫌な予感。鳥肌が立つのが分かる。このバスは冷房が効きすぎている。寒い。俺は両腕で自分を抱きしめる。
 俺はどこかで分かってたのかもしれない。
 分かっていて、その真実に辿り着くのをどこかで拒否していたのかもしれない。
『怒りはエネルギーになるけど判断力を鈍らせる』
 コウの声がした。
『私、もうどうしたらいいのか分かんないよ』
 モトノ。
『僕にも協力させてくれないか?』
 竜太郎さん。
『はは、幕切れは存外にあっさりしてたな』
 五條。
『貴方達は私を壊したのよ』
 石橋。
『夏子、すまない』
 親父。
『貴方、結構な事をしてくれたわ』
 涼香さん。
 気が付いたら視界がぼやけていて、涙が落ちていた。他に乗客が居なくて良かった。
 脳内の、サプレッサー。
 音の遮断装置。或いは、鎮圧者。
『ほうれん草をよく食べると良いよ』
『血液には嘔吐を促す作用があります』
『鉄分のサプリとか飲んでる?』
『凝固した九崎伸二の血液』
 俺は涙を拭いて立ち上がり、バスを降りた。
『ほら、もう分かっただろ?』
  ああ、分かったよ。
 雨が降り始めた。
 俺は駅に入り、柚ヶ丘とは逆方面の電車に飛び乗った。
 それから約三十分、俺は祈り続けた。
 何の為かは分からない。誰の為かも分からない。
 ただ、この悪夢が早く終結してくれる事を、居るかも怪しい神らしき存在に祈り続けた。
  目的の駅で電車を降り、改札を抜ける。
 雨は本格的に降っていた。俺はヘッドフォンが濡れるのも気にせずに、そのままゆっくり、一歩ずつ足を進めた。
 動悸がする。
 心臓に石が埋め込まれてて、それが今にも心臓をぶち破って飛び出してきそうな不快な息苦しさがあった。
  だが、そんなものに負けてる場合じゃない。
 普段は絶対にしないが、俺は歩きながらタバコを取り出して火を付けた。タバコの味はいつもと全く変わらない。今は、それでいいと、思えた。
 体内のマグマは心臓と脳に集中しているようだった。頭がガンガンしていて、心臓はフルマラソン状態だった。
 目的の建物が視界に入った瞬間、俺の足は止まってしまった。
 俺は、これから一体、何をしようとしてる?
『爆音で揺らせ』
『傷跡は本当に消えるか?』
『早く続き見ようよ~』
 俺は足に命じた。踏み出せ、と念じた。また涙が溢れていた。自慢のジョージ・コックスのラバソが滲んで見えた。
 しばらく立ち尽くしてすっかりずぶ濡れになった後、ようやく右足が動いた。
 建物の階段を昇り、目的の部屋のインターホンを押そうとすると、今度は腕が動かなくなった。
 心臓は破裂寸前だった。
 脳内で、この数日間のフラッシュバックが見えた。映画のトレイラーみたいだった。
 もう、いい。もううんざりだ。
 俺の指がインターホンを押す。ほどなくしてドアが開く。
「おや少年、どうした? そんな濡れ鼠で」
 霧島先輩はいつも通りの青白い顔で俺を迎えてくれた。
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