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12. 出会う

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「えっと……」
 詩雨ママは大きな目を見開いて俺の顔をまじまじと見詰めていた。
「輝くん……ごめん、ホントごめんね、いいの?」
「ここで言わなきゃいつ言うんだよ。別に隠しごとじゃないし」
 俺は努めて笑顔を作り、絶品具だくさんカレーをほおばった。
 まるでそれが合図だったかのように、詩雨ママが両手で顔を覆った。
「ご、ごめんなさいね……まさか輝くんのお父さまが、あの、あの暁みちるだなんて……」
「大丈夫ですよ、よくあることです。それに恐いくらいに年を取らないバケモノだという意見には僕も同意します」
 詩雨ママはだいぶ動揺していたが、俺がカレーを平らげる頃には、自らの失言よりも芸能人、それも世界レベルの有名人の息子としての俺に、さらなる興味を持ったようだ。

『輝くんが生まれてからも女性の格好してたの?』
『アカデミー賞は惜しかったわね~』
『じゃあ輝くんも将来俳優さんになるの?』
『言われて見れば目元が似てる!』

「母さん!」
 詩雨が、聞いたことのない音量の声で叫んだ。

 その時、怖気がするほど温度の低い声が聞こえた。

「何の騒ぎ? 暁みちるがどうとかって」

「姉さん……」
 詩雨がほっとした様子でそう呼びかけた。
 リヴィングのドアに半身を預けている彼女は、恐ろしく色が白く、不健康にすら見え、フレームのないメガネをしていた。髪は綺麗な黒だったが、決してよく手入れされているようには見えなかった。服装も、無地の黒いTシャツにスキニーデニム。
「詩雨のお友達?」
「あ、はい。香坂輝と申します。お邪魔してます」
「ねえねえ詩日うたか! 輝くんのお父さん、暁みちるなんですって!」
 詩雨ママはまだ興奮冷めやらぬ様子だったが、詩雨の姉は微塵も驚きや動揺を感じさせない表情だった。
「だから何? 私、手洗いしたら部屋に戻るから」
 重い沈黙の中で、俺は開いた口がふさがらなかった。
 そして俺は見てしまう。詩日さんの、レンズ越しの眼。

 絶対零度の瞳。

 あやめや他の女子のように不自然なまでに上向きじゃない睫毛と、華やかさはないが芯の強さをうかがわせる奥二重の真下にあるその瞳は、恐ろしいほど冷たくて、まるでこの世界がどうなろうと知ったことじゃないとでも言いそうな色合いだった。

「ごめんね輝くん、あの子無愛想で……」
「いえ、大丈夫です」
「輝くんもカレー食べ終えたし、僕らも二階に行くよ」
 詩雨が言うので、俺も立ち上がった。もしかしたら早く俺と母親を引き離そうと思っているのかもしれない。
 廊下に出ると、詩雨の姉がちょうど階段に片足をかけたところだった。
「姉さん、ありがとう」
「何が?」
「いや、母さんがその、色々言ってるのを止めてくれて」
「別に助けたつもりじゃないけど」
 二階に到着し、目の前のドアを詩雨が開けた。詩雨の姉は何も言わずに廊下の先に進んでいった。


 詩雨の部屋は本に占拠されていた。
 足の踏み場がないとはまさにこのことだ。本を置く部屋がある俺とは違い、おそらくこの一戸建てには本を収納できる余裕がないのだろう。
 天井まで届きそうな本棚、スライド式の本棚、ハードカバー専用と思われるどっしりとした低い本棚。そしてそこにすら収納不可能だったであろう本は、いくつもの段ボールにきちんと著者の名前順に入れられていた。

「ここまで来ると圧巻だな」
 素直な感想を述べると、詩雨ははにかむように笑った。
「つまらなかった本でも、古本屋に売らないんだ、ぼくは。もしかしたら数年後に読み直したら面白く感じられるかもって思って」
「分かる!」
 そんな入り口から、俺らは本の話に熱中していた。俺はあまり海外文学に明るくないから、詩雨が勧めてくるものを読むことが多い。
「この前貸したサキはどうだった?」
「あれはヤバい、ヤバいっていう言葉しか出てこない自分が情けないけど、凄いよあれは。あれだけの長さであれだけのブラックユーモアとか勧善懲悪を展開するなんて」
「輝くんならそう言うと思ってたよ。同じ短編作家としてO・ヘンリと比較されるけど、サキの作品は殺傷力が違うっていうか……」
 こんな感じで俺と詩雨はラインでは伝わりにくい生の会話に熱中した。


 帰り際、玄関まで見送りに出てくれた詩雨ママが、
「輝くん、さっきは私騒ぎ過ぎちゃってごめんね。これに懲りずまた遊びにいらして」
 と頭を下げた。
「僕も是非そうしたいです。カレー、とても美味しかったです」
 決して悪い人ではないのだ、詩雨ママは。彼女の昼間のリアクションは、俺が幾千万回と体験してきたことだ。それでも駅まで送ってくれた詩雨は何度も謝っていた。
 俺は改札で詩雨の肩を叩き、
「おまえが嫌がってもまた来るからな」
 と言って帰路についた。
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