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番外篇「暁みちる、紅の青春」

A. あの人がいなければ俺は

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 将彦。
 俺をそう呼ぶのはこの世にひとりしかいない。
 香坂将彦。
 俺をそう呼んでいいのは、この世にひとりしかいない。

   ◆  ◇  ◆

 俺の母親は俺のことを「まさくん」と呼ぶし、最近は「みちる」とも呼ぶ。姉は完全に「みちる」だ。父は他界している。
 愛してやまない妻の沙智代さんは「まーくん」だし、愛おしい息子・てるるんは「親父」なんて呼ぶ。

 俺はもう、すっかり暁みちるになっている。

   ◇  ◆  ◇

 愛しの息子・てるるんこと香坂単語てる輝が映画監督になって、最初にニューヨークで俺主演の映画を撮った時、てるるんはゴールデングローブ賞に監督賞と作品賞でノミネートはされたけど受賞には至らなかった。
 俺はそれが残念でならなくて、自分が二度目の主演男優賞を獲ってもそこまで喜べなかった。

 マネージャーのたぐたぐから、アカデミー賞用にスピーチを用意しておけ、と囁かれた時、俺は放心状態で、少しばかりセンチメンタルになっていた。
 メディアは、アジア人初の快挙更新とか暁みちるの美は健在とかうるさかったけど、どうしてか、俺は自分のための喜びを自分に与えることができずにいた。

 NYまでのフライト中に、もうすぐ俺は人の親どころか、『祖父』になるのだ、という事実を思い出した。てるるんの妻・詩日さんがもう臨月に入っているのだ。
 スピーチを書くために開いていた白い紙とペンが、段々とルーズリーフとシャープペンシルに見えてきて、嗚呼まずい。
 そう気づいた時には、俺は暁みちるではなく香坂将彦の過去の濁流に飲みこまれていた。

『将彦』

 なんであの人の声を、俺は未だにはっきりと覚えているのだろう。

 ただ、

 確実に言えることはただひとつ。

 あの人がいなければ、俺は暁みちるになれていなかったし、俺こと香坂将彦も、この年まで生き延びていたか怪しい。
 命の恩人?
 そうかもしれない。
 でも、あの人は過去の人だ。過去そのものだ。処理すべき存在だ。

『将彦』

 だから俺はあの人の声を、こんな風に思い出して懐古に走ってはいけないんだ。
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