壊れた空に白鳥は哭く

沈丁花

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危険な任務と思い人

懐かしい記憶と抑制剤

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少しでも危機を回避するため、食事はすべて持参したもので済ませることになっている。

この部屋はホテル、という割に、簡易なキッチンまで備わっており、もはや普通に生活可能な空間だ。洗濯機以外のものが一通り揃っている。

デネボラでは訓練が終わり正式に職務に着くようになると自炊が基本となる。

また、朝食は訓練生の間も自分たちでしっかり作るようにと釘を刺されており、すっかりアルには自炊の習慣がついていた。

手伝うというアランを制し、持参した食材を調理していく。

今日はもう外に出る予定もなかったためコンタクトは外し、ピカピカのシンクには2色の瞳がぼんやりと映されていた。

大嫌いだったこの瞳も、彼と出会ってからはそんなに嫌いじゃない。

あらかじめ切ってある冷凍野菜とベーコンのスープ、きのことソーセージのペペロンチーノ。大して健康なわけでもないが、栄養の取れる食事ではある。

「手際がいいな。」

「大したことはしていませんから。」

後ろからかけられる声に、ついつい無愛想に返答してしまう。ああ、本当に可愛げがない。

会わない方が良かったとしても、ずっと会いたかったのだ。もう少し愛想良くできないものかと自分にがっかりしてしまう。

「できました。」

「ありがとう、いただきます。」

テーブルに並べた食事を一瞥し、アランが礼を述べる。その言葉が、声が、3年前のあの時と同じで、うっかり涙が出そうになった。

幸せだったあの時間を壊したのは自分だ。けれど、今だけはそのことに想いを馳せても良いだろうか。

アルもいただきますをして、ソファに座る。

3年前と変わらず、彼の食べる姿は官能的で美しい。

スプーンでスープを唇の間に流し込む時、わずかに口端に残る水滴を自分が舐めとってしまいたいと思う。

パスタを食む時などわずかな油で恍惚とした唇が妖艶でたまらない。

ゆっくりと嚥下したあと呑み込む際に上下する、その喉仏の動きからすら、目を話すことができなかった。

「食欲がない?」

不意に聞かれ、我に帰る。いけない。クライアントに見とれていて食事の手が止まっていましたなんて冗談ではない。

「いえ、少し考え事を。」

「そうか。」

口からでまかせで言ったことだが、よく考えると何か忘れているような気がして、その存在に気付いた時アルはさぁっと青ざめた。

すぐさま胸ポケットからピルケースを取り出す。朝に半錠含んだ抑制剤の効果はおそらくもう切れているからと、もう半錠を水で流しこもうとした。

そのとき。

ぱしっと乾いた音が響いて、錠剤を含もうとしたアルの手がいきなり動きを止められた。

驚いて目を見開くアルの手を掴んだまま、彼は器用に携帯で文字を打ち、それをアルに差し出した。

‘ヒートか?’

‘違います。ただヒートじゃ無くてもフェロモンがきついみたいで、いつも少し含むようにしています’

なぜそんな事を聞くのだろうとアルは大きな目を瞬かせた。しかしアランは苦しそうに顔をしかめている。

そして。

‘今はいい。俺しかいないところでは飲まなくてもいい。’

そう、返してきた。俺しかいないところでは飲まなくていい、ということは、『お前の匂いでは俺は発情しない』、ということだろうか。

そういえばアルの抑制剤の効果が切れた後も、アランがその匂いに興奮する様子はなかった。そこでアルは一つ疑問を覚える。

…運命の番とは、互いに惹かれ合うものではないのか。アランがが自分の匂いに反応しないということは、一方的に自分が彼のことをそう思っているだけなのかもしれない。

‘違う。俺が抑制剤を飲んでるからだ。’

アルの考えていることを悟ったのか、彼はそう告げた。

…この人は何を言っているのだろう。先ほどまでぐるぐると考えていたアルの脳内は、そろそろ大混乱でパンクしそうで。

アランが抑制剤を?ますます意味がわからない。この人Ωだったっけととんでもない考えが過ったところで、アルは考えることを放棄する。

焦点の定まらないアルの前に、アランが見慣れない形の錠剤を見せた。

‘α用の抑制剤だ。俺が今これを飲んでいるからアルは飲まなくていい。’

そんなもの聞いたことがなかったから、アルは聞こうと口を開きかけた。しかし、

‘これについても、今回の件が終わったら話す。’

そこまで言われてやっと、アルは頷き、ピルをケースに戻した。

半分も食べていない食事を、慌てて食べ進めていく。パスタはもうだいぶ冷めていて、なんだかねとねとして美味しくない。

目の前ではアランが、目尻を下げ、なんとも優しげな表情でアルを見つめていた。

愛おしい、そう声に出さなくても伝わってくる。

…こんなに愛おしそうに自分を見てくるのに、求められたとき辛そうにしたのはどうして。

…やめよう。

とりあえず考えるのをやめようと、アルは思った。学会が終わるまで彼を守り抜き、話はそれからだ。

携帯の着信音が鳴り、メッセージが届く。

‘明日朝9時半にエントランス集合。貴重品は全てまとめて持ってこい。クライアントからは絶対に離れないこと。’

だいたいそんなことが長々とした暗号で書いてある。

内容をアランに伝えると、彼はわかったと頷いた。

食器を片付け、アランと交代でシャワーを浴び、二つあるベッドの片方に入る。

「俺、ソファーで寝なくて本当にいいんですか?」

寝る前に一応、もう一度確認してみる。

寝室でくらいゆっくりしたいだろうからとアルはソファーで寝ると提案したのだが、彼が断固として拒否したのだ。

「俺と同じ部屋で寝るのが嫌なら、俺がソファーで寝る。」

「そんなことはありませんが… 」

「おやすみ。目覚ましは8時にセットしておいた。」

「…ありがとうございます。おやすみなさい。」

ぱちり。

1番小さな明かりを残し、全ての照明を消すと、窓の外から人工的な光が差し込んでくる。

そのぼんやりとした明かりにアルは手を伸ばし、掴もうとした手は空を切った。

隣からやってくる甘やかな香りが鼻を掠め、身体が心地よい快楽に包まれる。

その香を胸いっぱいに吸い込んでから、アルはゆっくりと目を閉じたのだった。

…学会発表まで、あと6日。
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