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序章
7.運命の邂逅
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「美味いッ……!」
突然、歓喜の叫び声を上げた美少女に、周囲の客たちの視線が集中した。長い漆黒の髪を揺らしながら、美しい貌に満面の笑みを浮かてショートケーキを頬張る姿は、違和感しかなかった。
『ちょっと……! そんなに大声上げないでよッ!』
恥ずかしさのあまり真っ赤に顔を染めながら、咲希が文句を言った。その言葉を聞き流して、紅い苺を噛みしめながら咲耶が満足そうに告げた。
(何という美味じゃッ! 世の中にこれほどの馳走があるとは、知らなんだッ!)
制服姿のまま一人で喫茶店のテーブル席に座り、咲耶は一心不乱にショートケーキを食べ続けた。
(こっちが、プリンか……? この紅いのは何じゃ?)
あっという間にショートケーキを平らげると、プリンの皿を目の前に引き寄せながら咲耶が訊ねた。
『サクランボよ。その茎を摘まんで、赤い実だけを食べるの。中に大きな種があるから、それは出してね……』
咲希に説明されたとおり、咲耶はサクランボを口の中に入れた。
(……ッ! 何じゃ、これはッ……! 甘さと酸っぱさが絶妙に絡み合っておるッ! こんな果物があったとはッ……!)
『そこの白い紙を取って、早く種を出しなさいッ! みっともないでしょッ!』
いつまでも舌の上で種をしゃぶり続けている咲耶に、咲希が呆れながら叫んだ。
(何故ひとつしかないのじゃ? 貴重な果物なのか?)
手に取ったナプキンの上に吐き出した種を、名残惜しそうに見つめながら咲耶が訊ねた。
『いいから……、早くプリンも食べちゃいなさいッ! まったく……』
(何を怒っておるのじゃ……? んッ……! うぉおおッ……! 何じゃ、これはぁ……ッ!)
スプーンで掬ったプリンを一口食べた瞬間、黒曜石の瞳を限界まで見開いて咲耶が叫んだ。
(ツルンとした食感と、絹のように滑らかな舌触りッ……! この黒蜜と混ざり合った絶妙な甘さッ……! 噛みしめるほどに迸るこの恍惚と至福感ッ……!)
『ち、ちょっと……、咲耶……』
想像以上の咲耶の反応に、咲希は驚きと呆れをない交ぜた表情で彼女を見つめた。
(素晴らしいッ……! 二千年以上に及ぶ私の長い生の中でも、これは文句なしの逸品じゃッ! これが、プリンかッ……!)
神々しいほどの至福の表情を浮かべると、閉じた咲耶の目尻から涙が溢れ出て、白い頬を伝って流れ落ちた。
『な、何、泣いてるのよッ? ちょっと、咲耶ッ……!』
驚愕のあまり、咲希は動転して慌てふためいた。いまだかつて、プリンを食べて涙を流した者など見たことも聞いたこともなかった。
気づくと店中の視線が咲耶に集中していた。
神々しいほどのオーラを放つ絶世の美少女が、美しい涙を流しながらプリンを食べて至福の表情を浮かべているのだ。それは、異様という言葉を通り越して、シュールな光景以外の何物でもなかった。
(もはや、何も思い残すことなどありはせぬ……)
『咲耶ッ……! 何、わけわかんないこと言ってるのッ!』
突然、悟りを開いたかのように異世界へ旅立とうとした咲耶を、咲希は慌てて引き留めた。
『プリンくらいで涅槃に入ろうとしないでよッ! この世界には、もっと美味しい物がたくさんあるんだから、戻ってらっしゃいッ!』
咲希の言葉にピクンッと全身を震わせると、咲耶は黒曜石の瞳をカッと見開いた。
(何じゃとッ……! それは真実かッ……?)
「本当よッ! 明日のデートだって、きっと美味しい物が食べられるわよッ!」
(何とッ……! デートというのは、美味を追求するものじゃったのかッ……!)
咲耶の中に、新しいデート観が確立した瞬間であった。
(咲希……)
『何よ……?』
疲れ切った表情で答える咲希に向かって、咲耶が真剣な口調で告げた。
(頼みがあるのじゃ……)
『頼み……? イヤよ……』
次に告げる咲耶の言葉を予想して、咲希が即座に否定した。だが、咲耶はそれを無視すると、大真面目な表情で告げた。
(七日と言わず、この体をずっと貸してくれぬかッ……?)
『馬鹿言ってんじゃないわよッ! 食べ終わったんなら、さっさと帰るわよッ!』
剣道の練習以上にグッタリと疲れを覚えると、咲希は大きくため息をついた。
こんなへっぽこ女神の生まれ変わりだなんて、絶対に信じたくない……。まるで、悪い夢を見てるようだわ……。
「カレーというのも、悪くないのう。最初は辛くて驚いたが、食べているうちにその辛みが癖になってゆく……。不思議な食べ物じゃのう」
夕食のカレーライスを満足そうに完食すると、二階の自室に戻って咲耶がその味を思い出しながら感想を述べた。
『あたしも食べたかった……。大好物なのよ、カレーって……』
「私が食べれば同じことじゃろう? 体は一つなのじゃから……」
ジト目で不満を漏らす咲希に、咲耶は楽しそうな笑顔を浮かべながら言った。
『そうだけど、ケーキやプリンだって咲耶だけ味わうなんて、何か納得いかないわ』
お互いに意思の疎通はできるが、味覚や食感などの感覚までは共有できないのだ。
「プリンか……。あれは実に旨いものじゃったッ! 毎日でも食べてみたいのう……」
『お金を出すのはあたしなんだからね! ケーキセットとプリンで、千四百円もするのよ!』
毎日、剣道部で練習をしている咲希は、アルバイトをしている時間がない。お小遣いは親からもらっている月に一万円だけだった。その中から服や化粧品代を捻出する咲希にとっては、千四百円というのは痛い出費なのだ。
『明日の映画代も一人千円かかるし、喫茶店や食事代を考えたら五千円くらいかかるのよ! それをあんたのために出すんだから、ちゃんと協力してよね!』
「分かっておる。桐生と仲良くなればよいのじゃろう? 任せておけ……」
自信に満ちた表情で、胸を反らせながら咲耶が請け負った。
『間違っても、口づけとか同衾とか、絶対に禁止だからねッ!』
昨日、咲耶に揶揄われたことを思い出し、咲希は心配になって念を押した。
「心配するでない。若い男など、ちょっと体を触れ合わせればイチコロじゃ」
『体を触れ合わせるって……?』
咲耶の言葉に驚いて、咲希が顔を赤らめながら訊ねた。その様子を見て、咲耶が意地悪そうにニヤリと微笑んだ。
「何を期待しておる? ちょっと手を繋いだり、体に触れるだけじゃ。お前が期待しているようなことはせぬぞ」
『き、期待なんて、してるはずないでしょ!』
カアッと真っ赤に顔を染めながら、咲希が叫んだ。
「そんなことよりも、昼間私が言ったことを覚えておるか?」
『昼間言ったこと……? あの、桐生先輩が建御雷神の守護を受けているかも知れないって話……?』
咲耶は、顧問の齋藤か桐生のどちらかが建御雷神の守護を受けている可能性があると言っていたのだ。そして、齋藤ではないことが判明したため、消去法で考えれば桐生の可能性が高いはずだった。
「私のように、桐生本人に建御雷神が入っていることは考えにくい。昼間も言ったように、建御雷神は素戔嗚と双璧を成す最強の武神じゃ。もし桐生に建御雷神が入っていたら、桐生本人も日本で最強の剣士になっているはずじゃ……」
『それって、強い守護神が付いていたら、本人の努力に関係なく強くなるって言うこと?』
咲耶の言葉にショックを受けて、咲希が訊ねた。もしそうであれば、咲希がインターハイで準優勝したのも咲耶のおかげということになるからだ。
「その通りじゃが、心配せずともよい。お前の場合は、五歳の時から一昨日まで私を封印していた。だから、咲希が強くなったのは純粋に自分の努力の成果じゃ。私はお前に何もしておらぬ……というか、封印されている間は何もできなかったのじゃ」
『そうか……。よかった……』
咲耶の説明を聞いて、咲希はホッと胸を撫で下ろした。十年間の努力が無駄にならなくてよかったと思った。
「話を戻すぞ……。桐生自身には建御雷神は入っておらぬが、恐らくその守護を受けていることは間違いないと思う。会えばどの程度の守護を受けているか分かるが、もし強力な守護を受けていたら問題じゃ……」
咲耶は腕組みをすると、真剣な表情で告げた。その言葉の意味が分からず、咲希が首を捻って訊ねた。
『どうして守護が強いと問題なの……?』
「守護する力は、距離に影響する。守護が強いということは、桐生の近くに建御雷神がいるということじゃ。そして、もし近くにいたら、間違いなく建御雷神は私の存在に気づく」
『神様って、人間を守護するのが仕事なんでしょ? それなら、どの神様が誰を守護しようが問題ないんじゃないの?』
咲耶の言葉を疑問に思って、咲希が訊ねた。
八百万の神という言葉は、八百万柱の神がいるという意味ではない。数え切れないほど無数の神々が存在するという意味だ。
日本の人口が一億二千五百万人だとして、その全員が何らかの神に守護されているのであれば、神同士が近づく可能性も大きいはずだった。その場合、お互いに別の人間を守護しているのであれば、何ら問題はないのではないかと咲希は考えた。
『咲希の言うとおり、どの神が誰を守護しようが問題はない。じゃが、単なる守護でなく、私のように守護する人間の中に入っていることは問題なのじゃ。まして、その人間と意思を交わしたり、入れ替わっていたりすることは神々の禁忌に触れるのじゃ』
「……!」
咲希は昼間、守護神が人間の中に長期間入ると、その人間と同調する可能性があると言われたことを思い出した。そして、その行為はタブーとされ、記憶を消されたり、消滅させられたりするほどの重罪になると聞いた。
『咲耶ッ! 大事なことだから正直に教えてッ! あたしが表に出ていれば、咲耶があたしの中にいることって他の神様に分からない?』
「相手がすぐ目の前にいない限りは……たぶん、分からないはずじゃ。じゃが、建御雷神ほどの神であれば、ある程度近くにいたら気づくかも知れぬ……」
額に縦皺を刻みながら、咲耶が答えた。だが、少なくても咲耶が表面に出ているよりは、バレる可能性が低いことは確かなようだった。
『もう一つ教えてッ! 建御雷神が咲耶の気配に気づくのと、咲耶が建御雷神に気づくのとでは、どっちの方が早い?』
「比べてみたことがないので、はっきりとは言えぬが……。建御雷神の神気は膨大じゃし、私は気を読むことにかけては自信がある。恐らく、奴の気に気づくのは、私の方が早いと思う……」
『明日の作戦は決まったわッ!』
咲耶の話を聞いて、咲希が有無を言わさない口調で告げた。
「作戦……?」
『そう、作戦よ! 明日、デートの間は咲耶はあたしの中にいて!』
「そんな……? 映画はどうするんじゃ……?」
情けない声で、咲耶が縋り付いた。
『映画どころじゃないでしょッ! 咲耶があたしに替わっていることが建御雷神にバレたら、二人とも処分されるかも知れないんでしょッ!』
この期に及んで、映画に執着する咲耶の神経が理解できなかった。
『だから、咲耶は明日、ずっとあたしの中で大人しくしていなさいッ!』
「そんな……」
へっぽこ女神の面目躍如とでも言うべき態度で、咲耶が涙目になった。
『言うことを聞かないんなら、今すぐあたしから出て行きなさいッ! そうしないと、天照皇大御神様にチクるからねッ!』
「わ、分かった……! それだけは勘弁してくれッ!」
咲希の剣幕に、咲耶が折れた。
『それともう一つッ! 万一、建御雷神が近くにいたら、あたしの中で大人しくしていること! 話しかけるのも、絶対にダメよッ!』
咲耶の話から推測すると、神々はお互いの神気を探って相手を確認するようだ。それならば、神気を使わなければ相手にバレないのではないかと咲希は思った。
「話しかけるくらいは問題ないのでは……?」
『だって、話をしたら建御雷神にバレちゃうんでしょ?』
(大丈夫じゃ。私は咲希の中にいるから、こうやって心で話している分には他の神に気づかれることはない)
咲耶が実際に心話を使って、咲希に説明した。
『そうなの……? でも、あたしが天照皇大御神様を呼ぼうとすると、本気でビビるのは何故……?』
(それは、咲希がまだ神気を上手く扱えないからじゃ。だから、興奮して大声で叫ぶと、咲希は無意識に神気を放っているのじゃ)
咲耶の説明を聞いて、咲希はニヤリと笑みを浮かべた。
『そうなんだ。ということは、あたしが大声を出せば、天照皇大御神様に聞こえる可能性があるってことよね?』
(そ、それは……!)
咲希の言葉に、咲耶が顔を引き攣らせながらどもった。その様子を見て、咲耶はこの手が有効であることを確信した。
『まあ、いいわ……。とにかく、明日はあたしが表に出ているからね。咲耶は大人しくしていなさい』
(分かった……。それにしても、神に命令する人間など見たこともないわ……)
ブツブツと文句を言いながらも、咲耶は咲希の作戦に従うことを了承したのだった。
夢を見ていた。
それが夢だと分かっていても、目が覚めることはなかった。
夢の中で、咲希は五歳の少女に戻っていた。漆黒の黒髪を襟元で切り揃え、可愛らしいフリル付きのピンクのブラウスを身につけていた。エンジ色のスカートに紅い靴を履いたその姿は、まるで愛らしい人形のようだった。
その人形の小さな手を、毛むくじゃらの大きな手が掴んだ。愛情の欠片さえ感じない強い力に痛みを覚え、咲希は眉を顰めながら悲鳴を上げた。
「いたいッ! はなしてッ!」
小さな黒い瞳に怒りを湛えながら、咲希は男の顔を見上げた。
男には顔がなかった。
いや、正確に言えば、顔全体が真っ黒に塗りつぶされていた。
(顔を覚えていないんだ……)
その情景を俯瞰しているもう一人の咲希が、男の顔が黒い理由に気づいた。
不思議な感覚だった。五歳の少女になった咲希と、それを上空から見ている十六歳の咲希が存在した。その両方ともが紛れもない咲希自身なのだ。二つの意識が何の違和感もなく、一つの時空に存在していた。
「君、可愛いね。本物の人形みたいだ。おじちゃんと一緒に遊ぼう。とっても面白いことをしてあげるよ……」
真っ黒な顔の中で、男がニヤリと笑みを浮かべた。その笑いに秘められた淫猥な想いを感じ取り、咲希の全身に鳥肌が沸き立った。
「やだ……! あっちにいって! さきはさくやとあそぶの!」
男から走って逃げ出そうとしたが、掴まれた左手を手繰り寄せられ、咲希は男に抱き締められた。
「いやッ! はなしてッ! んッ……!」
小さな体を抱きかかえられ、咲希はバタバタと足で宙を蹴った。大きな右手が顔を覆い尽くし、咲希は悲鳴を上げようと開いた口を塞がれた。
「さきちゃんっていうのかい? 暴れるなんて、悪い子だね。悪い子には注射しないといけないな。おじちゃんは、お医者さんなんだよ……」
そう告げると男は掴んでいた咲希の左手を放し、上着のポケットから白い布を取り出した。そして口を押さえていた右手の代わりに、左手で白い布を顔に押しつけた。
ツンとした匂いが鼻の奥を刺激した瞬間、咲希はバタつかせていた足をダランと下ろした。そして、力が抜けた全身をグッタリとさせて、男の胸に体を預けた。
「そうそう……。女の子は、そうやって大人しくしていないとダメだよ。おじちゃんの病院はすぐ近くにあるんだ。検査をしてあげるから、一緒においで……」
男は咲希の体を抱き上げながら、遊歩道を外れて茂みの中へと進んでいった。
(やっぱり、これはあの時の記憶だッ! あたしはこの後、男に服を脱がされて……。そして、あれが起こる……)
幼い自分が拉致される状況を上空から見つめながら、咲希はかつて体験した恐ろしい出来事を思い出した。全身がガタガタと震え、体中に鳥肌が沸き立った。
咲希の体を草むらに横たえると、男はフリル付きのブラウスのボタンをナマコのような太い指で丁寧に外していった。そして、中に着ているノースリーブのシャツを捲り上げると、白い胸に佇む淡紅色の小さな突起を見つめて、満足そうな笑みを浮かべた。
「咲希ちゃんのおっぱいは、まだ膨らんでないんだね。ツルツルと滑らかで、とっても可愛いよ。乳首もちっちゃくて、綺麗なピンク色だ……」
ミットのような太く大きな手を広げて、男がはだけた咲希の胸をゆっくりと撫で回し始めた。
(やだ、こわい……! たすけて、ママ……!)
ボーッとする意識の中でも、男の行動が異常であることが咲希には分かった。草むらの中で服を脱がすお医者さんなんて、いるはずがなかった。
「どれ、下も検査してあげよう。女の子は大事なところにバイ菌が入りやすいんだ。おじちゃんがキレイに消毒してあげるよ」
そう告げると、男はエンジ色のスカートの腰にあるフックを外し、器用にジッパーを引き下げた。そして、咲希の背中に手を入れて持ち上げながら、するりとスカートを脱がせた。
まだ穢れを知らない五歳の少女が、白い下着一枚の姿を男の目に晒された。
(このひと、へんしつしゃだ……)
咲希の脳裏に、今朝、母親がテレビを見ながら告げた言葉が蘇った。
『怖いわねえ。変質者が出るみたいよ。小さな子供にいたずらするんだって……。咲希も気をつけなくちゃダメよ。変な人に会ったら、大声で助けを呼ぶのよ……』
(でも、こえがでないの……。からだもうごかない。ママ、はやくたすけにきて……)
恐怖のあまり、咲希はギュッと眼を閉じた。寒くもないのに、全身がガタガタと震えだした。
白い肌を撫で回していた男の手が、咲希の脇腹をなぞりながら腰に下りてきた。そして、最後に残った白い下着の両サイドを摘まみ上げると、ゆっくりと脱がし始めた。
(いやぁああッ! たすけてぇえッ! さくやぁあッ!)
そう叫んだ瞬間、咲希は急速に意識が心の奥底に沈んでいくのを感じた。その代わりに、もう一人の自分の意識が浮上すると、小さな手で男の両手首をガッシリと掴んだ。
「な、何だ……? 何で、動けるんだ?」
男が驚愕に眼を見開きながら、目の前に横たわる少女の顔を見つめた。十分にジエチルエーテルを染み込ませたガーゼを嗅がせたのだ。短時間で回復することなど、あり得なかった。
「あとは私に任せるがよい、咲希……」
『さくや、たすけにきてくれたんだ……』
もう一人の自分……咲耶が出て来たことに安心すると、咲希は心の底から安堵の笑顔を浮かべた。
『このひと、へんしつしゃなの。やっつけて……』
「分かっておる。幼子を手籠めにしようとする輩など、絶対に許しておけぬッ! この罪、命を持って償うがよいッ!」
咲耶は男の両手を握り締めると、五歳の少女とは思えぬ力で男の体を宙に放り投げた。
「うわぁああ……!」
手足をバタつかせながら悲鳴を上げると、男は五メートルも先の地面に背中から落下した。激痛のあまりむせ返った男が半身を起こすと、目の前には厳しい表情を浮かべた半裸の少女が立ちはだかっていた。
その少女の右手には、白銀に輝く美しい日本刀が握られていた。
「な、何だ……お前は……? そんな物、どこから……」
驚愕の視線を日本刀に向けながら、男が茫然と呟いた。しかし、男の言葉は途中で途切れた。
次の瞬間、男の頭部が鮮血の糸を引きながら、弧を描いて宙を舞った。そして、二メートルも先に落下するのと同時に、首あとから凄まじい勢いで血を噴出させた男の体がドサリと地面に倒れた。
咲耶が<咲耶刀>で残心の血振りをすると、ピシャッという音とともに白銀に輝く刃先から真っ赤な血が地面に散った。
『さくや……ころした……の……?』
目の前で起こった惨劇を見つめ、ガクガクと全身を震わせながら咲希が訊ねた。
「やっつけてと言ったのは、お前ではないか?」
人ひとりの首を斬り落としたにも拘わらず、咲耶は平然とした微笑を浮かべながら咲希に告げた。
「私の名は咲耶……。木花咲耶という。お前の守護神じゃ。覚えておくがよい……」
紅に燃え上がる夕映えが咲耶の身体を照らし、その背後に長い影を作った。漆黒の髪を風に靡かせながら、咲耶の全身から神気とも言えるオーラが立ち上った。
その黒曜石のように輝く瞳を通じて、咲希は目の前に横たわる首のない死体を見つめながら思った。
(あたし、ひとを……ころしたんだ……)
次の瞬間、凄まじい恐怖の感情が咲希の心を覆い尽くした。
「いやぁああ……!」
両手で頭を抱えると、咲希は涙を流しながら絶叫した。そして、硬直していた全身を弛緩させると、ガクリと膝を付いて倒れ込んだ。そして、暗闇に沈む意識の中で、咲希は咲耶の記憶を心の奥底に封印した。
(そうだ……。あの日、あたしは生まれて初めて、人を殺した……)
心の奥底に封じ込めていた記憶が、咲希の脳裏に鮮明に蘇った。
幼い頃から、咲希は自分の中にいる咲耶の存在を知っていた。だが、小さな子が人形遊びで架空の人格を作るように、あの日までは頭の中で思い描いた咲耶と遊んでいたのだ。
(そして、あの日、初めて咲耶と逢って言葉を交わしたんだ……)
しかし、その出逢いは五歳の咲希には衝撃が大きすぎた。だから、咲耶が人を殺したことを無意識に隠蔽し、記憶の奥底に封印したのだ。
(あの後、あたしは警察に保護され、駆けつけたお母さんに抱き締められた。あたし自身も何が起こったか覚えていなかったし、警察も五歳の少女が大人の男を斬り殺したなんて考えもしなかった。凶器である<咲耶刀>も、咲耶と一緒に消失していたし……)
結局、犯人は特定できず、事件は迷宮入りとなった。ニュースでは、『少女を助けた正義の味方が、犯人を斬殺』などと騒がれた。
(しかし、咲耶が……あたしが、人を殺したことは確かだ。咲耶はあたしであり、あたしは咲耶だ……)
昼に聞いた輪廻転生の話を思い出し、咲希は咲耶と一心同体であることを痛感した。昨夜も咲耶は、咲希を襲った六人の男たちを殺そうとした。咲希が止めなければ、今頃は大量殺人事件として報道されていたに違いなかった。
(守護神である咲耶にとっては、あたしを傷つけるものは敵なんだ。これからも咲耶は、あたしを守るために誰かを殺すかも知れない。それを防ぐためには、咲耶の力を借りなくてもいいくらいあたし自身が強くならないと……)
咲耶は七日間、身体を貸せば、確実に<咲耶刀>が出せるようになると告げた。そして、<咲耶刀>の力を引き出すためには、修行が必要だと言っていた。
(<咲耶刀>を使えるようになろう……。二度と咲耶に人殺しはさせない。どんな危険な眼に遭っても、咲耶に頼らないだけの力を付けよう。それが咲耶を守ることになり、あたし自身を守ることになるはず……)
そう決意した瞬間、五歳の咲希とその周囲の情景が揺らぎ始めた。そして、蜃気楼のように忽然と姿を消した。
(やはり、これは夢だったんだ……。もしかしたら、咲耶が見せてくれた夢……?)
宙に浮いていた咲希の意識が、ゆっくりと心の奥底に沈んでいった。
闇の中を進んで行くと、遠くに眩しい光が見えてきた。その光に近づくに従って、それが女性のシルエットであることが分かった。
長い漆黒の髪を靡かせながら、その女性は美しい容貌に優しい微笑みを浮かべていた。全身に神気とも言える光を纏うと、彼女は右手に持った白銀の神刀を頭上高く掲げた。神刀が闇を切り裂き、眩いほどの光輝を放った。その様は紛れもなく美しき戦女神そのものだった。
咲希は大きく手を振りながら、女神の元に向かって闇の中を走り出した。
突然、歓喜の叫び声を上げた美少女に、周囲の客たちの視線が集中した。長い漆黒の髪を揺らしながら、美しい貌に満面の笑みを浮かてショートケーキを頬張る姿は、違和感しかなかった。
『ちょっと……! そんなに大声上げないでよッ!』
恥ずかしさのあまり真っ赤に顔を染めながら、咲希が文句を言った。その言葉を聞き流して、紅い苺を噛みしめながら咲耶が満足そうに告げた。
(何という美味じゃッ! 世の中にこれほどの馳走があるとは、知らなんだッ!)
制服姿のまま一人で喫茶店のテーブル席に座り、咲耶は一心不乱にショートケーキを食べ続けた。
(こっちが、プリンか……? この紅いのは何じゃ?)
あっという間にショートケーキを平らげると、プリンの皿を目の前に引き寄せながら咲耶が訊ねた。
『サクランボよ。その茎を摘まんで、赤い実だけを食べるの。中に大きな種があるから、それは出してね……』
咲希に説明されたとおり、咲耶はサクランボを口の中に入れた。
(……ッ! 何じゃ、これはッ……! 甘さと酸っぱさが絶妙に絡み合っておるッ! こんな果物があったとはッ……!)
『そこの白い紙を取って、早く種を出しなさいッ! みっともないでしょッ!』
いつまでも舌の上で種をしゃぶり続けている咲耶に、咲希が呆れながら叫んだ。
(何故ひとつしかないのじゃ? 貴重な果物なのか?)
手に取ったナプキンの上に吐き出した種を、名残惜しそうに見つめながら咲耶が訊ねた。
『いいから……、早くプリンも食べちゃいなさいッ! まったく……』
(何を怒っておるのじゃ……? んッ……! うぉおおッ……! 何じゃ、これはぁ……ッ!)
スプーンで掬ったプリンを一口食べた瞬間、黒曜石の瞳を限界まで見開いて咲耶が叫んだ。
(ツルンとした食感と、絹のように滑らかな舌触りッ……! この黒蜜と混ざり合った絶妙な甘さッ……! 噛みしめるほどに迸るこの恍惚と至福感ッ……!)
『ち、ちょっと……、咲耶……』
想像以上の咲耶の反応に、咲希は驚きと呆れをない交ぜた表情で彼女を見つめた。
(素晴らしいッ……! 二千年以上に及ぶ私の長い生の中でも、これは文句なしの逸品じゃッ! これが、プリンかッ……!)
神々しいほどの至福の表情を浮かべると、閉じた咲耶の目尻から涙が溢れ出て、白い頬を伝って流れ落ちた。
『な、何、泣いてるのよッ? ちょっと、咲耶ッ……!』
驚愕のあまり、咲希は動転して慌てふためいた。いまだかつて、プリンを食べて涙を流した者など見たことも聞いたこともなかった。
気づくと店中の視線が咲耶に集中していた。
神々しいほどのオーラを放つ絶世の美少女が、美しい涙を流しながらプリンを食べて至福の表情を浮かべているのだ。それは、異様という言葉を通り越して、シュールな光景以外の何物でもなかった。
(もはや、何も思い残すことなどありはせぬ……)
『咲耶ッ……! 何、わけわかんないこと言ってるのッ!』
突然、悟りを開いたかのように異世界へ旅立とうとした咲耶を、咲希は慌てて引き留めた。
『プリンくらいで涅槃に入ろうとしないでよッ! この世界には、もっと美味しい物がたくさんあるんだから、戻ってらっしゃいッ!』
咲希の言葉にピクンッと全身を震わせると、咲耶は黒曜石の瞳をカッと見開いた。
(何じゃとッ……! それは真実かッ……?)
「本当よッ! 明日のデートだって、きっと美味しい物が食べられるわよッ!」
(何とッ……! デートというのは、美味を追求するものじゃったのかッ……!)
咲耶の中に、新しいデート観が確立した瞬間であった。
(咲希……)
『何よ……?』
疲れ切った表情で答える咲希に向かって、咲耶が真剣な口調で告げた。
(頼みがあるのじゃ……)
『頼み……? イヤよ……』
次に告げる咲耶の言葉を予想して、咲希が即座に否定した。だが、咲耶はそれを無視すると、大真面目な表情で告げた。
(七日と言わず、この体をずっと貸してくれぬかッ……?)
『馬鹿言ってんじゃないわよッ! 食べ終わったんなら、さっさと帰るわよッ!』
剣道の練習以上にグッタリと疲れを覚えると、咲希は大きくため息をついた。
こんなへっぽこ女神の生まれ変わりだなんて、絶対に信じたくない……。まるで、悪い夢を見てるようだわ……。
「カレーというのも、悪くないのう。最初は辛くて驚いたが、食べているうちにその辛みが癖になってゆく……。不思議な食べ物じゃのう」
夕食のカレーライスを満足そうに完食すると、二階の自室に戻って咲耶がその味を思い出しながら感想を述べた。
『あたしも食べたかった……。大好物なのよ、カレーって……』
「私が食べれば同じことじゃろう? 体は一つなのじゃから……」
ジト目で不満を漏らす咲希に、咲耶は楽しそうな笑顔を浮かべながら言った。
『そうだけど、ケーキやプリンだって咲耶だけ味わうなんて、何か納得いかないわ』
お互いに意思の疎通はできるが、味覚や食感などの感覚までは共有できないのだ。
「プリンか……。あれは実に旨いものじゃったッ! 毎日でも食べてみたいのう……」
『お金を出すのはあたしなんだからね! ケーキセットとプリンで、千四百円もするのよ!』
毎日、剣道部で練習をしている咲希は、アルバイトをしている時間がない。お小遣いは親からもらっている月に一万円だけだった。その中から服や化粧品代を捻出する咲希にとっては、千四百円というのは痛い出費なのだ。
『明日の映画代も一人千円かかるし、喫茶店や食事代を考えたら五千円くらいかかるのよ! それをあんたのために出すんだから、ちゃんと協力してよね!』
「分かっておる。桐生と仲良くなればよいのじゃろう? 任せておけ……」
自信に満ちた表情で、胸を反らせながら咲耶が請け負った。
『間違っても、口づけとか同衾とか、絶対に禁止だからねッ!』
昨日、咲耶に揶揄われたことを思い出し、咲希は心配になって念を押した。
「心配するでない。若い男など、ちょっと体を触れ合わせればイチコロじゃ」
『体を触れ合わせるって……?』
咲耶の言葉に驚いて、咲希が顔を赤らめながら訊ねた。その様子を見て、咲耶が意地悪そうにニヤリと微笑んだ。
「何を期待しておる? ちょっと手を繋いだり、体に触れるだけじゃ。お前が期待しているようなことはせぬぞ」
『き、期待なんて、してるはずないでしょ!』
カアッと真っ赤に顔を染めながら、咲希が叫んだ。
「そんなことよりも、昼間私が言ったことを覚えておるか?」
『昼間言ったこと……? あの、桐生先輩が建御雷神の守護を受けているかも知れないって話……?』
咲耶は、顧問の齋藤か桐生のどちらかが建御雷神の守護を受けている可能性があると言っていたのだ。そして、齋藤ではないことが判明したため、消去法で考えれば桐生の可能性が高いはずだった。
「私のように、桐生本人に建御雷神が入っていることは考えにくい。昼間も言ったように、建御雷神は素戔嗚と双璧を成す最強の武神じゃ。もし桐生に建御雷神が入っていたら、桐生本人も日本で最強の剣士になっているはずじゃ……」
『それって、強い守護神が付いていたら、本人の努力に関係なく強くなるって言うこと?』
咲耶の言葉にショックを受けて、咲希が訊ねた。もしそうであれば、咲希がインターハイで準優勝したのも咲耶のおかげということになるからだ。
「その通りじゃが、心配せずともよい。お前の場合は、五歳の時から一昨日まで私を封印していた。だから、咲希が強くなったのは純粋に自分の努力の成果じゃ。私はお前に何もしておらぬ……というか、封印されている間は何もできなかったのじゃ」
『そうか……。よかった……』
咲耶の説明を聞いて、咲希はホッと胸を撫で下ろした。十年間の努力が無駄にならなくてよかったと思った。
「話を戻すぞ……。桐生自身には建御雷神は入っておらぬが、恐らくその守護を受けていることは間違いないと思う。会えばどの程度の守護を受けているか分かるが、もし強力な守護を受けていたら問題じゃ……」
咲耶は腕組みをすると、真剣な表情で告げた。その言葉の意味が分からず、咲希が首を捻って訊ねた。
『どうして守護が強いと問題なの……?』
「守護する力は、距離に影響する。守護が強いということは、桐生の近くに建御雷神がいるということじゃ。そして、もし近くにいたら、間違いなく建御雷神は私の存在に気づく」
『神様って、人間を守護するのが仕事なんでしょ? それなら、どの神様が誰を守護しようが問題ないんじゃないの?』
咲耶の言葉を疑問に思って、咲希が訊ねた。
八百万の神という言葉は、八百万柱の神がいるという意味ではない。数え切れないほど無数の神々が存在するという意味だ。
日本の人口が一億二千五百万人だとして、その全員が何らかの神に守護されているのであれば、神同士が近づく可能性も大きいはずだった。その場合、お互いに別の人間を守護しているのであれば、何ら問題はないのではないかと咲希は考えた。
『咲希の言うとおり、どの神が誰を守護しようが問題はない。じゃが、単なる守護でなく、私のように守護する人間の中に入っていることは問題なのじゃ。まして、その人間と意思を交わしたり、入れ替わっていたりすることは神々の禁忌に触れるのじゃ』
「……!」
咲希は昼間、守護神が人間の中に長期間入ると、その人間と同調する可能性があると言われたことを思い出した。そして、その行為はタブーとされ、記憶を消されたり、消滅させられたりするほどの重罪になると聞いた。
『咲耶ッ! 大事なことだから正直に教えてッ! あたしが表に出ていれば、咲耶があたしの中にいることって他の神様に分からない?』
「相手がすぐ目の前にいない限りは……たぶん、分からないはずじゃ。じゃが、建御雷神ほどの神であれば、ある程度近くにいたら気づくかも知れぬ……」
額に縦皺を刻みながら、咲耶が答えた。だが、少なくても咲耶が表面に出ているよりは、バレる可能性が低いことは確かなようだった。
『もう一つ教えてッ! 建御雷神が咲耶の気配に気づくのと、咲耶が建御雷神に気づくのとでは、どっちの方が早い?』
「比べてみたことがないので、はっきりとは言えぬが……。建御雷神の神気は膨大じゃし、私は気を読むことにかけては自信がある。恐らく、奴の気に気づくのは、私の方が早いと思う……」
『明日の作戦は決まったわッ!』
咲耶の話を聞いて、咲希が有無を言わさない口調で告げた。
「作戦……?」
『そう、作戦よ! 明日、デートの間は咲耶はあたしの中にいて!』
「そんな……? 映画はどうするんじゃ……?」
情けない声で、咲耶が縋り付いた。
『映画どころじゃないでしょッ! 咲耶があたしに替わっていることが建御雷神にバレたら、二人とも処分されるかも知れないんでしょッ!』
この期に及んで、映画に執着する咲耶の神経が理解できなかった。
『だから、咲耶は明日、ずっとあたしの中で大人しくしていなさいッ!』
「そんな……」
へっぽこ女神の面目躍如とでも言うべき態度で、咲耶が涙目になった。
『言うことを聞かないんなら、今すぐあたしから出て行きなさいッ! そうしないと、天照皇大御神様にチクるからねッ!』
「わ、分かった……! それだけは勘弁してくれッ!」
咲希の剣幕に、咲耶が折れた。
『それともう一つッ! 万一、建御雷神が近くにいたら、あたしの中で大人しくしていること! 話しかけるのも、絶対にダメよッ!』
咲耶の話から推測すると、神々はお互いの神気を探って相手を確認するようだ。それならば、神気を使わなければ相手にバレないのではないかと咲希は思った。
「話しかけるくらいは問題ないのでは……?」
『だって、話をしたら建御雷神にバレちゃうんでしょ?』
(大丈夫じゃ。私は咲希の中にいるから、こうやって心で話している分には他の神に気づかれることはない)
咲耶が実際に心話を使って、咲希に説明した。
『そうなの……? でも、あたしが天照皇大御神様を呼ぼうとすると、本気でビビるのは何故……?』
(それは、咲希がまだ神気を上手く扱えないからじゃ。だから、興奮して大声で叫ぶと、咲希は無意識に神気を放っているのじゃ)
咲耶の説明を聞いて、咲希はニヤリと笑みを浮かべた。
『そうなんだ。ということは、あたしが大声を出せば、天照皇大御神様に聞こえる可能性があるってことよね?』
(そ、それは……!)
咲希の言葉に、咲耶が顔を引き攣らせながらどもった。その様子を見て、咲耶はこの手が有効であることを確信した。
『まあ、いいわ……。とにかく、明日はあたしが表に出ているからね。咲耶は大人しくしていなさい』
(分かった……。それにしても、神に命令する人間など見たこともないわ……)
ブツブツと文句を言いながらも、咲耶は咲希の作戦に従うことを了承したのだった。
夢を見ていた。
それが夢だと分かっていても、目が覚めることはなかった。
夢の中で、咲希は五歳の少女に戻っていた。漆黒の黒髪を襟元で切り揃え、可愛らしいフリル付きのピンクのブラウスを身につけていた。エンジ色のスカートに紅い靴を履いたその姿は、まるで愛らしい人形のようだった。
その人形の小さな手を、毛むくじゃらの大きな手が掴んだ。愛情の欠片さえ感じない強い力に痛みを覚え、咲希は眉を顰めながら悲鳴を上げた。
「いたいッ! はなしてッ!」
小さな黒い瞳に怒りを湛えながら、咲希は男の顔を見上げた。
男には顔がなかった。
いや、正確に言えば、顔全体が真っ黒に塗りつぶされていた。
(顔を覚えていないんだ……)
その情景を俯瞰しているもう一人の咲希が、男の顔が黒い理由に気づいた。
不思議な感覚だった。五歳の少女になった咲希と、それを上空から見ている十六歳の咲希が存在した。その両方ともが紛れもない咲希自身なのだ。二つの意識が何の違和感もなく、一つの時空に存在していた。
「君、可愛いね。本物の人形みたいだ。おじちゃんと一緒に遊ぼう。とっても面白いことをしてあげるよ……」
真っ黒な顔の中で、男がニヤリと笑みを浮かべた。その笑いに秘められた淫猥な想いを感じ取り、咲希の全身に鳥肌が沸き立った。
「やだ……! あっちにいって! さきはさくやとあそぶの!」
男から走って逃げ出そうとしたが、掴まれた左手を手繰り寄せられ、咲希は男に抱き締められた。
「いやッ! はなしてッ! んッ……!」
小さな体を抱きかかえられ、咲希はバタバタと足で宙を蹴った。大きな右手が顔を覆い尽くし、咲希は悲鳴を上げようと開いた口を塞がれた。
「さきちゃんっていうのかい? 暴れるなんて、悪い子だね。悪い子には注射しないといけないな。おじちゃんは、お医者さんなんだよ……」
そう告げると男は掴んでいた咲希の左手を放し、上着のポケットから白い布を取り出した。そして口を押さえていた右手の代わりに、左手で白い布を顔に押しつけた。
ツンとした匂いが鼻の奥を刺激した瞬間、咲希はバタつかせていた足をダランと下ろした。そして、力が抜けた全身をグッタリとさせて、男の胸に体を預けた。
「そうそう……。女の子は、そうやって大人しくしていないとダメだよ。おじちゃんの病院はすぐ近くにあるんだ。検査をしてあげるから、一緒においで……」
男は咲希の体を抱き上げながら、遊歩道を外れて茂みの中へと進んでいった。
(やっぱり、これはあの時の記憶だッ! あたしはこの後、男に服を脱がされて……。そして、あれが起こる……)
幼い自分が拉致される状況を上空から見つめながら、咲希はかつて体験した恐ろしい出来事を思い出した。全身がガタガタと震え、体中に鳥肌が沸き立った。
咲希の体を草むらに横たえると、男はフリル付きのブラウスのボタンをナマコのような太い指で丁寧に外していった。そして、中に着ているノースリーブのシャツを捲り上げると、白い胸に佇む淡紅色の小さな突起を見つめて、満足そうな笑みを浮かべた。
「咲希ちゃんのおっぱいは、まだ膨らんでないんだね。ツルツルと滑らかで、とっても可愛いよ。乳首もちっちゃくて、綺麗なピンク色だ……」
ミットのような太く大きな手を広げて、男がはだけた咲希の胸をゆっくりと撫で回し始めた。
(やだ、こわい……! たすけて、ママ……!)
ボーッとする意識の中でも、男の行動が異常であることが咲希には分かった。草むらの中で服を脱がすお医者さんなんて、いるはずがなかった。
「どれ、下も検査してあげよう。女の子は大事なところにバイ菌が入りやすいんだ。おじちゃんがキレイに消毒してあげるよ」
そう告げると、男はエンジ色のスカートの腰にあるフックを外し、器用にジッパーを引き下げた。そして、咲希の背中に手を入れて持ち上げながら、するりとスカートを脱がせた。
まだ穢れを知らない五歳の少女が、白い下着一枚の姿を男の目に晒された。
(このひと、へんしつしゃだ……)
咲希の脳裏に、今朝、母親がテレビを見ながら告げた言葉が蘇った。
『怖いわねえ。変質者が出るみたいよ。小さな子供にいたずらするんだって……。咲希も気をつけなくちゃダメよ。変な人に会ったら、大声で助けを呼ぶのよ……』
(でも、こえがでないの……。からだもうごかない。ママ、はやくたすけにきて……)
恐怖のあまり、咲希はギュッと眼を閉じた。寒くもないのに、全身がガタガタと震えだした。
白い肌を撫で回していた男の手が、咲希の脇腹をなぞりながら腰に下りてきた。そして、最後に残った白い下着の両サイドを摘まみ上げると、ゆっくりと脱がし始めた。
(いやぁああッ! たすけてぇえッ! さくやぁあッ!)
そう叫んだ瞬間、咲希は急速に意識が心の奥底に沈んでいくのを感じた。その代わりに、もう一人の自分の意識が浮上すると、小さな手で男の両手首をガッシリと掴んだ。
「な、何だ……? 何で、動けるんだ?」
男が驚愕に眼を見開きながら、目の前に横たわる少女の顔を見つめた。十分にジエチルエーテルを染み込ませたガーゼを嗅がせたのだ。短時間で回復することなど、あり得なかった。
「あとは私に任せるがよい、咲希……」
『さくや、たすけにきてくれたんだ……』
もう一人の自分……咲耶が出て来たことに安心すると、咲希は心の底から安堵の笑顔を浮かべた。
『このひと、へんしつしゃなの。やっつけて……』
「分かっておる。幼子を手籠めにしようとする輩など、絶対に許しておけぬッ! この罪、命を持って償うがよいッ!」
咲耶は男の両手を握り締めると、五歳の少女とは思えぬ力で男の体を宙に放り投げた。
「うわぁああ……!」
手足をバタつかせながら悲鳴を上げると、男は五メートルも先の地面に背中から落下した。激痛のあまりむせ返った男が半身を起こすと、目の前には厳しい表情を浮かべた半裸の少女が立ちはだかっていた。
その少女の右手には、白銀に輝く美しい日本刀が握られていた。
「な、何だ……お前は……? そんな物、どこから……」
驚愕の視線を日本刀に向けながら、男が茫然と呟いた。しかし、男の言葉は途中で途切れた。
次の瞬間、男の頭部が鮮血の糸を引きながら、弧を描いて宙を舞った。そして、二メートルも先に落下するのと同時に、首あとから凄まじい勢いで血を噴出させた男の体がドサリと地面に倒れた。
咲耶が<咲耶刀>で残心の血振りをすると、ピシャッという音とともに白銀に輝く刃先から真っ赤な血が地面に散った。
『さくや……ころした……の……?』
目の前で起こった惨劇を見つめ、ガクガクと全身を震わせながら咲希が訊ねた。
「やっつけてと言ったのは、お前ではないか?」
人ひとりの首を斬り落としたにも拘わらず、咲耶は平然とした微笑を浮かべながら咲希に告げた。
「私の名は咲耶……。木花咲耶という。お前の守護神じゃ。覚えておくがよい……」
紅に燃え上がる夕映えが咲耶の身体を照らし、その背後に長い影を作った。漆黒の髪を風に靡かせながら、咲耶の全身から神気とも言えるオーラが立ち上った。
その黒曜石のように輝く瞳を通じて、咲希は目の前に横たわる首のない死体を見つめながら思った。
(あたし、ひとを……ころしたんだ……)
次の瞬間、凄まじい恐怖の感情が咲希の心を覆い尽くした。
「いやぁああ……!」
両手で頭を抱えると、咲希は涙を流しながら絶叫した。そして、硬直していた全身を弛緩させると、ガクリと膝を付いて倒れ込んだ。そして、暗闇に沈む意識の中で、咲希は咲耶の記憶を心の奥底に封印した。
(そうだ……。あの日、あたしは生まれて初めて、人を殺した……)
心の奥底に封じ込めていた記憶が、咲希の脳裏に鮮明に蘇った。
幼い頃から、咲希は自分の中にいる咲耶の存在を知っていた。だが、小さな子が人形遊びで架空の人格を作るように、あの日までは頭の中で思い描いた咲耶と遊んでいたのだ。
(そして、あの日、初めて咲耶と逢って言葉を交わしたんだ……)
しかし、その出逢いは五歳の咲希には衝撃が大きすぎた。だから、咲耶が人を殺したことを無意識に隠蔽し、記憶の奥底に封印したのだ。
(あの後、あたしは警察に保護され、駆けつけたお母さんに抱き締められた。あたし自身も何が起こったか覚えていなかったし、警察も五歳の少女が大人の男を斬り殺したなんて考えもしなかった。凶器である<咲耶刀>も、咲耶と一緒に消失していたし……)
結局、犯人は特定できず、事件は迷宮入りとなった。ニュースでは、『少女を助けた正義の味方が、犯人を斬殺』などと騒がれた。
(しかし、咲耶が……あたしが、人を殺したことは確かだ。咲耶はあたしであり、あたしは咲耶だ……)
昼に聞いた輪廻転生の話を思い出し、咲希は咲耶と一心同体であることを痛感した。昨夜も咲耶は、咲希を襲った六人の男たちを殺そうとした。咲希が止めなければ、今頃は大量殺人事件として報道されていたに違いなかった。
(守護神である咲耶にとっては、あたしを傷つけるものは敵なんだ。これからも咲耶は、あたしを守るために誰かを殺すかも知れない。それを防ぐためには、咲耶の力を借りなくてもいいくらいあたし自身が強くならないと……)
咲耶は七日間、身体を貸せば、確実に<咲耶刀>が出せるようになると告げた。そして、<咲耶刀>の力を引き出すためには、修行が必要だと言っていた。
(<咲耶刀>を使えるようになろう……。二度と咲耶に人殺しはさせない。どんな危険な眼に遭っても、咲耶に頼らないだけの力を付けよう。それが咲耶を守ることになり、あたし自身を守ることになるはず……)
そう決意した瞬間、五歳の咲希とその周囲の情景が揺らぎ始めた。そして、蜃気楼のように忽然と姿を消した。
(やはり、これは夢だったんだ……。もしかしたら、咲耶が見せてくれた夢……?)
宙に浮いていた咲希の意識が、ゆっくりと心の奥底に沈んでいった。
闇の中を進んで行くと、遠くに眩しい光が見えてきた。その光に近づくに従って、それが女性のシルエットであることが分かった。
長い漆黒の髪を靡かせながら、その女性は美しい容貌に優しい微笑みを浮かべていた。全身に神気とも言える光を纏うと、彼女は右手に持った白銀の神刀を頭上高く掲げた。神刀が闇を切り裂き、眩いほどの光輝を放った。その様は紛れもなく美しき戦女神そのものだった。
咲希は大きく手を振りながら、女神の元に向かって闇の中を走り出した。
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