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動き始める歯車に嘘をついた鬼
第ニ話
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夕暮れももうすぐ終わりを告げる帰り道、一つの影を長く伸ばし蓮は静かに道を歩いていた。砂利を踏む音以外聞こえる音のない世界。ただ前を見て歩くだけの彼は周囲に人がいないのを肌で感じるとその口を動かす。
「ねえ」
誰かに問いかけるかのようなその音は風に乗ってただ消えていくだけかのようにも見えた。だが、
「なに」
男が何処からともなく現れる。男は問いかけられるのを待ち構えていったかのようにニヤニヤと不気味な笑みを浮かべていた。
「……一昨日のあれは、」
一瞬だけ言うか言うまいか悩んだすえ蓮が口に出した疑問に男の笑みは深まる。
「ああ、あれのこと」
知ったような口ぶりに蓮が男を見据える。やっぱりそうなのかとその目は問うている。そんな蓮の姿を観察しながら彼が知りたいことへの答えを返す。
「偶然ってあるものなんだね」
はっきりとは言わなかったが蓮にはそれで十分だった。男の言葉に確信し、そして、黒い目で男を睨み付けながら偶然ねと呟いた。その動作に男の口角は高く上がる。
「もしかして誰かの作為でも感じる。でもきっとそんな物は何処にもないよ。本当にただの偶然さ」
「作為とかは思ってない。得する人はいない」
蓮はそう答える。実際そうだと蓮は考える。今ここにいる男も今は施設にいるであろう女性もどちらも蓮が葉水学園に行くといったとき酷く驚いた上に歓迎している様子は見せなかった。むしろどことなく嫌がっていたようにも思う。そしてその二人以外蓮に何かを仕込む理由があるような存在などいないはずで。作為などあり得るはずもない。だが、それでもあまりにもタイミングはよすぎると蓮は思った。昨日襲われたのが偶然だとしても明らかに何かが起きているだろうこのタイミングで葉水学園に行くことになるなどそれ事態タイミングが良すぎる。まるで何かが謀ったような。
蓮はちらりと男を見上げる男は蓮がそんなことを考えているのは気付いていないのか、特に蓮の様子を気にすることもなく口元に笑みを浮かべて思い出したように笑っていた。
「だろうね。でも、見たあのこの驚いた様子。挙動不審で自分が犯人ですって言っているようなものだね」
「名前も同じだったしな」
「そうだね。馬鹿だな」
男が楽しげに言うのに、蓮も無意味なことは考えるのを止め同意を示す。それに男はますます笑いを深める。馬鹿にしきたようなその笑みを見つめながら蓮はまた短い同意の言葉を返す。
「ああ」
そう呟きながら蓮は口の奥で馬鹿だと繰り返し呟いた。男にも聞こえないような風のささやきよりもさらに小さな声で、
馬鹿だと。
自分も相手も。
「仕返し、しないのか」
少しだけ考えて蓮は問うた。伏したその目はだけどしっかりと男を見ていた。それに対して笑みをひっこめた男は残念そうに肩を落とす。
「したいのは山々なんだけど、僕、妖怪関係の問題は起こさないように厳重注意されているから。
なに、蓮はして欲しかった」
期待を込めたような眼をして男は蓮に問いかける。体も前のめりにして今にも抱き着きそうな体制で答えを待っていた。そんな男を前に蓮はただ普通に答えた。
「別に。ただ、不思議だったから」
淡々とした声。視線は男を見ているようでみていない。
「そう。残念な事ながら今回は無理なんだよ」
「そう」
「そうなんだ。だから、調子乗らないといいんだけど。でも」
男が不気味に笑うのを蓮は見た。冷たい眼差しを送る。
「無理みたいだね」
何が起きるかなど聞かない。男の手が蓮の頭を撫でる。
「僕、先に帰ってるよ、じゃあね」
笑っていた男から視線を外す。
男は消えていた。
2
男が消えても蓮はそこに立ち続けた。一秒二秒と心の中で秒数を数えながら立ち、空を見上げる。丁度十秒数え終わった時、それは蓮が見上げる空から降り立ってきた。
「見つけた」
昨日聞いたのと同じ少し舌足らずな子供の声。黒い羽根を広げ血のように赤い眼をした女の子が蓮のすぐ近くにある電柱の上へと降り立つ。まがまがしいその眼は蓮を見て嬉し気に細められる。辺りに詰めていた空気が流れ始める。
「懲りずにまた来たわけ」
現れた女の子を見つめ蓮は不適に笑いかけた。昨日の今日で油断するつもりはなく、すぐにでも動けるように腰を落として体勢を整えている。
「おいしそ」
そんな蓮の言葉や様子を気にすることもなく赤い眼の女の子、吸血鬼はうっとりと呟く。
「極上の餌。食べないと、最後の最後まで」
トンと女の子が軽やかに地面をけり飛ぶ。風に揺られてふわりと広がったスカート。それさえきにせず、地に落ちる勢いそのままで蓮に蹴りを入れようとした。だが、それは受け止められる。片手で蓮はその足を抑え込み、そして襲ってきた勢いをそのままに反対側へと投げ飛ばす。
空中を飛ぶ小さな躰。それは地面に叩きつけられる前に体勢を変え、投げられた勢いも吸収して蓮へと掴みかかっていく。だが、蓮はそれを軽く右によけることで簡単に避けた。女の子は壁にぶつかりかけながらも途中で大きく体を回転させることで防ぎまた勢いを増やして壁を蹴る。 今度も一直線で向かうのは蓮の首筋。
後少し と言うところで蓮が持っていた鞄に遮られ、力一杯鞄ごと横に投げ飛ばされる。勢いのつきすぎたそれは、吸血鬼だけではなくやった張本人の蓮さえも後ろに飛ばしてしまった。
そこそこ広い道でやりあっていた二人だが、衝撃はかなり強く二人とも建物の壁へと向かっていく。蓮は壁に両腕をつくことで激突を防いだ後。体勢を立って直し女の子を見据えた。女の子のほうはうまく受け身を取ることができず壁に衝突してしまう。大きな陥没が建物にでき、女の子はその中に埋もれる。だが多少呻く程度で、大した効果はないようだった。
すぐに同じように体制を立て直し女の子は蓮の動きを幼い瞳で見ていた。
「食べさせてくれないの?」
まるで食べさせて当たり前とでも言うその瞳はわがままな子供そのまま。 赤い眼が不思議に瞬いている。
「当たり前だろ」
不思議に満ちていた眼がその言葉により禍々しい笑みに変わる。
「それでも食べるよ」
ふっふと女の子らしからぬ禍々しさで吸血鬼が笑い。 それを見る蓮は、一つの違和感に気付いた。赤い眼がより鮮やかになっていているのだ。同時に暗いモノへともなっていていた
「食べる」
そう言って微笑む女の子。
「最後の最後まで」
言い終わるや否や襲ってくる。 その動きを止めようと前にでたが、それよりも前に女の子の身体が大きく揺れていた。がっくりと膝が落ちている。
「ぅあ!」
うめき声が漏れ、さらさらと長い金の髪が乱れる。
「ぅぁぁ」
痛々しく呻く吸血鬼のその眼が赤から青に変わる。そしてまた青から赤に変わっていく。それを何度も繰り返しながら吸血鬼は頭をかき乱しながらうめき続ける。 突然のそれに蓮はただ見ていることしかできない。
「ぅぅぅぁ………………、眷属」
青い眼の女の子が呼んだ。
「お呼びですか」
それと共にまるで初めから居たかのように2匹の蝙蝠が現れていた。一匹が声をかける。
「帰るよ」
「はい」
少し落ち着いた吸血鬼が立ち上がる。ふらふらとふらついては壁にもたれかかった。 青い眼の吸血鬼。それが少しだけ蓮を見た。その眼に黒いモノが混じりこむ。
「命拾いしたわね」
それだけ呟き吸血鬼が空に飛んだ。黒い翼、蝙蝠の羽がはえ大きく羽ばたく。それに続いて二匹の蝙蝠が飛び上がった。黒い羽が空に舞う。
それを見上げる蓮は、静かに静かに口を開いた。
「二回目……。愚かなのか、それとも」
思案するその声に闇が緩く揺れた
3
人通りの多い街の中にある研究施設。その一室に男と女性はいた。この間蓮が来たディスクと応接用のテーブルにソファしかない殺風景な部屋。今日もまた電気を付けることもしない。窓から入ってくる町を照らす人工的な光と、ディスクに置かれたパソコンの光だけが薄暗く部屋の中を照らしていた。 ディスクの前に座る女性の手はよどみなくキーボードを叩く、カチカチと音がやむことなくこだまする部屋で男は女性の後ろにもたれかかっていた。町にあふれる様々な色の光を見つめる。だがその中に男の欲しい色だけはない。
色鮮やかな明かりから逃げようと遠く上を男は見上げる。明かりに照らされる黒い空の中、さらに黒い何かを見つけて男はほぅと息を吐きだした。その間も女性はリズミカルに音をたたき出し続けていた。
「ねぇ、」
「なに」
闇を飲み込む光の中に掻き消えてしまいそうな声で男は呼びかけた。タイピングの音にさえ消されてしまいそうなわずかな声だったが、それでも女性の手は止まり男の呼びかけに答えた。男はそんな女性の後ろ疲れたように息を吐きだす
「本当に今回の件、なにもしないで見ているだけなの」
吐き出した息とともに問いかける男。夜の光を見ていたその眼は今は縋るように女性に向けられていた。女性の視線は変わることなく画面の中に向けられ、ただ手はキーボードから外されていた。
「ええ。今無闇に動いたら危ないからね」
女は静かに男が求めていない答えを口にする。口にされた男が悔しそうに唇を噛み締める気配を感じながらも動じることもなく前を見る。男があがくように提案してくるのにも女性は穏やかな笑みを浮かべた。
「せめてさ、交流会のほうだけでもやめさせようよ」
「いいじゃない。たまの息抜きをさせてあげなさい。縛りすぎているのよ。そんなのだと蓮がいつか倒れちゃうわ」
まるで子供を諭す親のような調子で男に女性は向けて語り掛けたる。だが大きな子供である男はそんな声にほだされたりはしない。駄々っ子のように頬を膨らませ女性にもたれかかる
「だって、あれは僕のものだもの」
男はそういう。子供のような無邪気さを装いながらも、大人にもない醜いゆがみを秘めた目をしながら。女性はそんな男の声を聴きながらも浮かべた笑みに変わりを見せなかった。
「分かってるわ。でも……、私が必要なのはあなたの物のあの子じゃないの」
女性もまた静かながらもエゴに満ちた言葉を吐き出す。
「僕にくれるって言った癖に。嘘つき」
「あげてるでしょ。それにこれからよ。全てが終わったらあなたに返してあげる」
「どうだか」
男が吐き出した言葉。女性はそれに笑いながら答えた。信じられないと呟く男。パソコンの青白い光に照らされる中、女性の瞳がわずかな陰りを見せる。女性から次の言葉が発せられることはない。しばしの間暗い部屋の中に静けさがが訪れた。人がいる。それすらも忘れ去りそうなほどの静寂が。
女性は何も喋ろうとしない。代わりに下ろしていた手をゆっくりと元合った位置、キーボードへと伸ばしていた。カタリとキーボードに指先が触れる音が静寂を破る。
「ねぇ」
音を発したキーボード。今にもそれを叩き出そうとする女性の指を止めたのは男の声だった。弱弱しい声は無視してもすみそうなほど小さかった。それでも女は動こうとしていた指を止めた。間を開けてその声にもこたえた。
「なに」
「僕はあの子が人に関わるのが大嫌いなんだよ」
「そう」
「うん。だって、あの子はどうやっても変わらないから」
男は話す。どうしようもないという思いを込めて。どうにもならないと分かりながらも、それでもあがき続ける男は悲痛な声で話す。どうしたらいいかという祈りを込めて。
女性はそんな男の声に……笑う。
「そう。良いことだわ」
男にとってはどうであろうと、女性にとっては求めているものであり続けることに。
「よくないよ」
今にも泣きだしそうな声が男からでた。男の目から涙は出ない。それでも苦しげな顔をして女性を見ていた。男の視線を感じているであろう女性は静かに笑みを浮かべ続ける。慈愛にも似たまなざしをしながら男を見ることもなしに呟く。
「良い事よ。私が必要としているのはそんなあの子。そんなあの子なら私の言うこと何でも聞いてくれるでしょ。感情がないより、感情がある方が扱いやすいのよ」
優しい声だった。風に乗って相手を包み込むようなそんな優しい声だった。その声で女性はひどくエゴイズムに満ちた言葉を口にする。縋っていた男は現実に帰されたかのように色をなくした。
「ふーーん。僕の物なのに」
「ええ、分かってる」
感情を感じさせない冷たい声が男から出ていき、女性はそれに対しても笑う。
4
ガタリと電気のついてない部屋に扉の開く音が響く。その後壁にもたれかかり座り込むずるずるとした音も鈍く響いた。誰の気配も感じさせないその部屋で赤と青が入り混じった眼をしたそれは浅い息を繰り返す。苦しげに体を丸めてはくはくと口を開ける。 苦しさに他ながらそれは一人別のことへと思いをはせる。熱を持ったように荒く跳ね続ける鼓動とは別に、冷たい何かが心臓を握りつぶし、今にも壊してしまいそうだった。 脳裏に少し前のことが思い起こされる。色のないような眼をしながらその時ばかりは好戦的な目で強く睨みつけてきた黒い瞳。それを持つ小柄な人影。そう簡単に倒されるはずがない己をいとも簡単に沈めた姿。 そしてその彼から漂った甘い香り。くらりくらりとめまいがしてしまいそうなほど甘いその香りは残酷なまでにそれを誘う。危ないと分かっていてもどうしようもないほどに惹かれて、腹の奥から湧き上がる欲望に抗えない。 ああ、やってしまったとそれは思った。頭の中で警鐘が鳴り響き続ける。 睨み続けてくる黒い瞳が忘れられない。
昼間は何事にも興味がないというようにずっと潜め続けているくせに、見上げる瞳は強く強く輝いて、何もかもがばれたのではないかとそう思わせる。
やってしまったと。
もう取り返しがつかないと。
それはそう考える。深い後悔がそれを襲う。ああ、と嘆きにもにた呻き声がそれから漏れ出て酷い痛みが体中を蝕んだ。内側から何かが食い破ろうと暴れだす。その何かを抑え込みながらそれは痛みの中で思う。
そもそも取り返しなど最初からつくことが出来なかったのだと。
頭の中でここしばらくの出来事が流れ続ける。その中に出てくる黒がじっとそれを見つめ続けてきて何もかも吐き出して消え去りたくなる。だが同時にそれは思う。まだここに居たいと。まだ、まだ消えたくないと。 苦しみ呻きながらそれは何が悪かったのか考える。考えたところで答えなんて到底見えやしない。 分かっていても考えて、薄れそうな意識の中、それは思う。 もし何かが悪かったのだとしたらその何かとは全てなのだろうと。自分を自分とさせる、とても好きな全てだろうと。愛しているのに、これで正しいと思っているのに、でもそれらは間違いだったのだろうかと。
体中の細胞に針を突き立てられたような激痛が身の内を襲う。もだえ苦しみそれは床の上を這いずり回る。喉の奥から吐き出せない何かがせり上がってくる。頭の中が熱く燃え滾り意識を蝕もうとすらしてくる。そんな中でもそれは考えることを止めない。痛みで何もかもが吹き飛ばされそうになりながら、思考だけがこびりついて離れない。 間違いだったのだろう。何もかも。
そうそれは考える。 そう考えてしまうことが哀しかった。だが哀しいよりも悔しかった。そして悔しいよりもただどうしてと思ってしまった。
どうしてこうなってしまったのか。それは永遠に答えが出ることのない問いで、後悔しようにももはや何を後悔すればいいのかもわからない。いっそのことすべてをやり直すことができたならと朦朧とする頭で思うけど、後戻りができやしないことはそれが何より知っていた。 後戻りなどできないところにそれは気付けばいたのだ。
ああ、だけどとそれは考える。せめてここしばらくのことだけでもリセットできたならと。黒い瞳。それを思い出すだけで息を忘れそうになる。何もかも暴かれるのではないかと恐ろしくてたまらなくなる。
気付かれるはずはない。気付かれるなどあり得ない。そう何度も己に言い聞かせながらも、それはその恐怖をぬぐうことができなかった。
痛みでのたうち回りながら、それは思い続ける。
なぜ、やってしまったのか。大丈夫だろうかと。きっと大丈夫そう思い込もうとする傍ら、心の奥で嗅いだあの匂いを求めてしまう。甘くてとても美味しそうなあの匂いを。
ぐるぐるとお腹が鳴る。
ああ、ああとそれは呻いた。喉が渇く。お腹がすく。頭が痛くて辛くて苦しい。がたりがたりと暗い部屋の中にそれがはい回る音が響く。荒い息が空間の中に満ちて、滝のように流れ落ちる汗が床を汚した。朦朧とした意識。それでも回り続ける思考。どうしようもない状況の中。それはかすかに聞こえた自分以外が建てた音に敏感に反応した。
体の動きが止まり、痛みや苦しさを殺して無理矢理にでも起き上がろうとする。力の入らない足が無様に床をはいずる。壁に手をついてでも立ち上がろうとしたそれのみみにドアが開く音が届く。方が揺れる。バクバクと心臓の鼓動が早くなった。息を飲み込んで奥にある扉を見つめるそれ…。
それの目の前で扉は開くことなく沈黙を保った。ただ扉の奥からは人が歩く音とドアの開閉音と水音が聞こえてくる。その間に体勢を立て直し、何とか力の入らない足でシンクまでへの移動を果たす。かすれた息が漏れるのを堪えながらそれは必死に時が過ぎるのを待った。
扉の向こう側からドアの開く音が聞こえる。誰かがあるく音がしてそれは扉の前で一度止まった。
「亜梨吹?」
扉は開けられない。だが声はかけられる。
「何しとるんや。はよ、ねえよ。いつも朝起きるの遅いんやき。夜ちゃんとねときよ」
「ああ、うん。水飲んでただけ、すぐ寝るき、鈴華ちゃん」
ならええけど。納得していないような声が耳に届く。それでも扉は開かれることなくパタパタと寝室に向かう足音が響いた。もう一つのドアの音が聞こえてやっと息を吐き出す。手足からはすっかり力が抜け立ち上がることのできない中、唇の端だけを笑みの形に引き上げた。
乾いた笑い声が自分を刺すように響く。
「ねえ」
誰かに問いかけるかのようなその音は風に乗ってただ消えていくだけかのようにも見えた。だが、
「なに」
男が何処からともなく現れる。男は問いかけられるのを待ち構えていったかのようにニヤニヤと不気味な笑みを浮かべていた。
「……一昨日のあれは、」
一瞬だけ言うか言うまいか悩んだすえ蓮が口に出した疑問に男の笑みは深まる。
「ああ、あれのこと」
知ったような口ぶりに蓮が男を見据える。やっぱりそうなのかとその目は問うている。そんな蓮の姿を観察しながら彼が知りたいことへの答えを返す。
「偶然ってあるものなんだね」
はっきりとは言わなかったが蓮にはそれで十分だった。男の言葉に確信し、そして、黒い目で男を睨み付けながら偶然ねと呟いた。その動作に男の口角は高く上がる。
「もしかして誰かの作為でも感じる。でもきっとそんな物は何処にもないよ。本当にただの偶然さ」
「作為とかは思ってない。得する人はいない」
蓮はそう答える。実際そうだと蓮は考える。今ここにいる男も今は施設にいるであろう女性もどちらも蓮が葉水学園に行くといったとき酷く驚いた上に歓迎している様子は見せなかった。むしろどことなく嫌がっていたようにも思う。そしてその二人以外蓮に何かを仕込む理由があるような存在などいないはずで。作為などあり得るはずもない。だが、それでもあまりにもタイミングはよすぎると蓮は思った。昨日襲われたのが偶然だとしても明らかに何かが起きているだろうこのタイミングで葉水学園に行くことになるなどそれ事態タイミングが良すぎる。まるで何かが謀ったような。
蓮はちらりと男を見上げる男は蓮がそんなことを考えているのは気付いていないのか、特に蓮の様子を気にすることもなく口元に笑みを浮かべて思い出したように笑っていた。
「だろうね。でも、見たあのこの驚いた様子。挙動不審で自分が犯人ですって言っているようなものだね」
「名前も同じだったしな」
「そうだね。馬鹿だな」
男が楽しげに言うのに、蓮も無意味なことは考えるのを止め同意を示す。それに男はますます笑いを深める。馬鹿にしきたようなその笑みを見つめながら蓮はまた短い同意の言葉を返す。
「ああ」
そう呟きながら蓮は口の奥で馬鹿だと繰り返し呟いた。男にも聞こえないような風のささやきよりもさらに小さな声で、
馬鹿だと。
自分も相手も。
「仕返し、しないのか」
少しだけ考えて蓮は問うた。伏したその目はだけどしっかりと男を見ていた。それに対して笑みをひっこめた男は残念そうに肩を落とす。
「したいのは山々なんだけど、僕、妖怪関係の問題は起こさないように厳重注意されているから。
なに、蓮はして欲しかった」
期待を込めたような眼をして男は蓮に問いかける。体も前のめりにして今にも抱き着きそうな体制で答えを待っていた。そんな男を前に蓮はただ普通に答えた。
「別に。ただ、不思議だったから」
淡々とした声。視線は男を見ているようでみていない。
「そう。残念な事ながら今回は無理なんだよ」
「そう」
「そうなんだ。だから、調子乗らないといいんだけど。でも」
男が不気味に笑うのを蓮は見た。冷たい眼差しを送る。
「無理みたいだね」
何が起きるかなど聞かない。男の手が蓮の頭を撫でる。
「僕、先に帰ってるよ、じゃあね」
笑っていた男から視線を外す。
男は消えていた。
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男が消えても蓮はそこに立ち続けた。一秒二秒と心の中で秒数を数えながら立ち、空を見上げる。丁度十秒数え終わった時、それは蓮が見上げる空から降り立ってきた。
「見つけた」
昨日聞いたのと同じ少し舌足らずな子供の声。黒い羽根を広げ血のように赤い眼をした女の子が蓮のすぐ近くにある電柱の上へと降り立つ。まがまがしいその眼は蓮を見て嬉し気に細められる。辺りに詰めていた空気が流れ始める。
「懲りずにまた来たわけ」
現れた女の子を見つめ蓮は不適に笑いかけた。昨日の今日で油断するつもりはなく、すぐにでも動けるように腰を落として体勢を整えている。
「おいしそ」
そんな蓮の言葉や様子を気にすることもなく赤い眼の女の子、吸血鬼はうっとりと呟く。
「極上の餌。食べないと、最後の最後まで」
トンと女の子が軽やかに地面をけり飛ぶ。風に揺られてふわりと広がったスカート。それさえきにせず、地に落ちる勢いそのままで蓮に蹴りを入れようとした。だが、それは受け止められる。片手で蓮はその足を抑え込み、そして襲ってきた勢いをそのままに反対側へと投げ飛ばす。
空中を飛ぶ小さな躰。それは地面に叩きつけられる前に体勢を変え、投げられた勢いも吸収して蓮へと掴みかかっていく。だが、蓮はそれを軽く右によけることで簡単に避けた。女の子は壁にぶつかりかけながらも途中で大きく体を回転させることで防ぎまた勢いを増やして壁を蹴る。 今度も一直線で向かうのは蓮の首筋。
後少し と言うところで蓮が持っていた鞄に遮られ、力一杯鞄ごと横に投げ飛ばされる。勢いのつきすぎたそれは、吸血鬼だけではなくやった張本人の蓮さえも後ろに飛ばしてしまった。
そこそこ広い道でやりあっていた二人だが、衝撃はかなり強く二人とも建物の壁へと向かっていく。蓮は壁に両腕をつくことで激突を防いだ後。体勢を立って直し女の子を見据えた。女の子のほうはうまく受け身を取ることができず壁に衝突してしまう。大きな陥没が建物にでき、女の子はその中に埋もれる。だが多少呻く程度で、大した効果はないようだった。
すぐに同じように体制を立て直し女の子は蓮の動きを幼い瞳で見ていた。
「食べさせてくれないの?」
まるで食べさせて当たり前とでも言うその瞳はわがままな子供そのまま。 赤い眼が不思議に瞬いている。
「当たり前だろ」
不思議に満ちていた眼がその言葉により禍々しい笑みに変わる。
「それでも食べるよ」
ふっふと女の子らしからぬ禍々しさで吸血鬼が笑い。 それを見る蓮は、一つの違和感に気付いた。赤い眼がより鮮やかになっていているのだ。同時に暗いモノへともなっていていた
「食べる」
そう言って微笑む女の子。
「最後の最後まで」
言い終わるや否や襲ってくる。 その動きを止めようと前にでたが、それよりも前に女の子の身体が大きく揺れていた。がっくりと膝が落ちている。
「ぅあ!」
うめき声が漏れ、さらさらと長い金の髪が乱れる。
「ぅぁぁ」
痛々しく呻く吸血鬼のその眼が赤から青に変わる。そしてまた青から赤に変わっていく。それを何度も繰り返しながら吸血鬼は頭をかき乱しながらうめき続ける。 突然のそれに蓮はただ見ていることしかできない。
「ぅぅぅぁ………………、眷属」
青い眼の女の子が呼んだ。
「お呼びですか」
それと共にまるで初めから居たかのように2匹の蝙蝠が現れていた。一匹が声をかける。
「帰るよ」
「はい」
少し落ち着いた吸血鬼が立ち上がる。ふらふらとふらついては壁にもたれかかった。 青い眼の吸血鬼。それが少しだけ蓮を見た。その眼に黒いモノが混じりこむ。
「命拾いしたわね」
それだけ呟き吸血鬼が空に飛んだ。黒い翼、蝙蝠の羽がはえ大きく羽ばたく。それに続いて二匹の蝙蝠が飛び上がった。黒い羽が空に舞う。
それを見上げる蓮は、静かに静かに口を開いた。
「二回目……。愚かなのか、それとも」
思案するその声に闇が緩く揺れた
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人通りの多い街の中にある研究施設。その一室に男と女性はいた。この間蓮が来たディスクと応接用のテーブルにソファしかない殺風景な部屋。今日もまた電気を付けることもしない。窓から入ってくる町を照らす人工的な光と、ディスクに置かれたパソコンの光だけが薄暗く部屋の中を照らしていた。 ディスクの前に座る女性の手はよどみなくキーボードを叩く、カチカチと音がやむことなくこだまする部屋で男は女性の後ろにもたれかかっていた。町にあふれる様々な色の光を見つめる。だがその中に男の欲しい色だけはない。
色鮮やかな明かりから逃げようと遠く上を男は見上げる。明かりに照らされる黒い空の中、さらに黒い何かを見つけて男はほぅと息を吐きだした。その間も女性はリズミカルに音をたたき出し続けていた。
「ねぇ、」
「なに」
闇を飲み込む光の中に掻き消えてしまいそうな声で男は呼びかけた。タイピングの音にさえ消されてしまいそうなわずかな声だったが、それでも女性の手は止まり男の呼びかけに答えた。男はそんな女性の後ろ疲れたように息を吐きだす
「本当に今回の件、なにもしないで見ているだけなの」
吐き出した息とともに問いかける男。夜の光を見ていたその眼は今は縋るように女性に向けられていた。女性の視線は変わることなく画面の中に向けられ、ただ手はキーボードから外されていた。
「ええ。今無闇に動いたら危ないからね」
女は静かに男が求めていない答えを口にする。口にされた男が悔しそうに唇を噛み締める気配を感じながらも動じることもなく前を見る。男があがくように提案してくるのにも女性は穏やかな笑みを浮かべた。
「せめてさ、交流会のほうだけでもやめさせようよ」
「いいじゃない。たまの息抜きをさせてあげなさい。縛りすぎているのよ。そんなのだと蓮がいつか倒れちゃうわ」
まるで子供を諭す親のような調子で男に女性は向けて語り掛けたる。だが大きな子供である男はそんな声にほだされたりはしない。駄々っ子のように頬を膨らませ女性にもたれかかる
「だって、あれは僕のものだもの」
男はそういう。子供のような無邪気さを装いながらも、大人にもない醜いゆがみを秘めた目をしながら。女性はそんな男の声を聴きながらも浮かべた笑みに変わりを見せなかった。
「分かってるわ。でも……、私が必要なのはあなたの物のあの子じゃないの」
女性もまた静かながらもエゴに満ちた言葉を吐き出す。
「僕にくれるって言った癖に。嘘つき」
「あげてるでしょ。それにこれからよ。全てが終わったらあなたに返してあげる」
「どうだか」
男が吐き出した言葉。女性はそれに笑いながら答えた。信じられないと呟く男。パソコンの青白い光に照らされる中、女性の瞳がわずかな陰りを見せる。女性から次の言葉が発せられることはない。しばしの間暗い部屋の中に静けさがが訪れた。人がいる。それすらも忘れ去りそうなほどの静寂が。
女性は何も喋ろうとしない。代わりに下ろしていた手をゆっくりと元合った位置、キーボードへと伸ばしていた。カタリとキーボードに指先が触れる音が静寂を破る。
「ねぇ」
音を発したキーボード。今にもそれを叩き出そうとする女性の指を止めたのは男の声だった。弱弱しい声は無視してもすみそうなほど小さかった。それでも女は動こうとしていた指を止めた。間を開けてその声にもこたえた。
「なに」
「僕はあの子が人に関わるのが大嫌いなんだよ」
「そう」
「うん。だって、あの子はどうやっても変わらないから」
男は話す。どうしようもないという思いを込めて。どうにもならないと分かりながらも、それでもあがき続ける男は悲痛な声で話す。どうしたらいいかという祈りを込めて。
女性はそんな男の声に……笑う。
「そう。良いことだわ」
男にとってはどうであろうと、女性にとっては求めているものであり続けることに。
「よくないよ」
今にも泣きだしそうな声が男からでた。男の目から涙は出ない。それでも苦しげな顔をして女性を見ていた。男の視線を感じているであろう女性は静かに笑みを浮かべ続ける。慈愛にも似たまなざしをしながら男を見ることもなしに呟く。
「良い事よ。私が必要としているのはそんなあの子。そんなあの子なら私の言うこと何でも聞いてくれるでしょ。感情がないより、感情がある方が扱いやすいのよ」
優しい声だった。風に乗って相手を包み込むようなそんな優しい声だった。その声で女性はひどくエゴイズムに満ちた言葉を口にする。縋っていた男は現実に帰されたかのように色をなくした。
「ふーーん。僕の物なのに」
「ええ、分かってる」
感情を感じさせない冷たい声が男から出ていき、女性はそれに対しても笑う。
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ガタリと電気のついてない部屋に扉の開く音が響く。その後壁にもたれかかり座り込むずるずるとした音も鈍く響いた。誰の気配も感じさせないその部屋で赤と青が入り混じった眼をしたそれは浅い息を繰り返す。苦しげに体を丸めてはくはくと口を開ける。 苦しさに他ながらそれは一人別のことへと思いをはせる。熱を持ったように荒く跳ね続ける鼓動とは別に、冷たい何かが心臓を握りつぶし、今にも壊してしまいそうだった。 脳裏に少し前のことが思い起こされる。色のないような眼をしながらその時ばかりは好戦的な目で強く睨みつけてきた黒い瞳。それを持つ小柄な人影。そう簡単に倒されるはずがない己をいとも簡単に沈めた姿。 そしてその彼から漂った甘い香り。くらりくらりとめまいがしてしまいそうなほど甘いその香りは残酷なまでにそれを誘う。危ないと分かっていてもどうしようもないほどに惹かれて、腹の奥から湧き上がる欲望に抗えない。 ああ、やってしまったとそれは思った。頭の中で警鐘が鳴り響き続ける。 睨み続けてくる黒い瞳が忘れられない。
昼間は何事にも興味がないというようにずっと潜め続けているくせに、見上げる瞳は強く強く輝いて、何もかもがばれたのではないかとそう思わせる。
やってしまったと。
もう取り返しがつかないと。
それはそう考える。深い後悔がそれを襲う。ああ、と嘆きにもにた呻き声がそれから漏れ出て酷い痛みが体中を蝕んだ。内側から何かが食い破ろうと暴れだす。その何かを抑え込みながらそれは痛みの中で思う。
そもそも取り返しなど最初からつくことが出来なかったのだと。
頭の中でここしばらくの出来事が流れ続ける。その中に出てくる黒がじっとそれを見つめ続けてきて何もかも吐き出して消え去りたくなる。だが同時にそれは思う。まだここに居たいと。まだ、まだ消えたくないと。 苦しみ呻きながらそれは何が悪かったのか考える。考えたところで答えなんて到底見えやしない。 分かっていても考えて、薄れそうな意識の中、それは思う。 もし何かが悪かったのだとしたらその何かとは全てなのだろうと。自分を自分とさせる、とても好きな全てだろうと。愛しているのに、これで正しいと思っているのに、でもそれらは間違いだったのだろうかと。
体中の細胞に針を突き立てられたような激痛が身の内を襲う。もだえ苦しみそれは床の上を這いずり回る。喉の奥から吐き出せない何かがせり上がってくる。頭の中が熱く燃え滾り意識を蝕もうとすらしてくる。そんな中でもそれは考えることを止めない。痛みで何もかもが吹き飛ばされそうになりながら、思考だけがこびりついて離れない。 間違いだったのだろう。何もかも。
そうそれは考える。 そう考えてしまうことが哀しかった。だが哀しいよりも悔しかった。そして悔しいよりもただどうしてと思ってしまった。
どうしてこうなってしまったのか。それは永遠に答えが出ることのない問いで、後悔しようにももはや何を後悔すればいいのかもわからない。いっそのことすべてをやり直すことができたならと朦朧とする頭で思うけど、後戻りができやしないことはそれが何より知っていた。 後戻りなどできないところにそれは気付けばいたのだ。
ああ、だけどとそれは考える。せめてここしばらくのことだけでもリセットできたならと。黒い瞳。それを思い出すだけで息を忘れそうになる。何もかも暴かれるのではないかと恐ろしくてたまらなくなる。
気付かれるはずはない。気付かれるなどあり得ない。そう何度も己に言い聞かせながらも、それはその恐怖をぬぐうことができなかった。
痛みでのたうち回りながら、それは思い続ける。
なぜ、やってしまったのか。大丈夫だろうかと。きっと大丈夫そう思い込もうとする傍ら、心の奥で嗅いだあの匂いを求めてしまう。甘くてとても美味しそうなあの匂いを。
ぐるぐるとお腹が鳴る。
ああ、ああとそれは呻いた。喉が渇く。お腹がすく。頭が痛くて辛くて苦しい。がたりがたりと暗い部屋の中にそれがはい回る音が響く。荒い息が空間の中に満ちて、滝のように流れ落ちる汗が床を汚した。朦朧とした意識。それでも回り続ける思考。どうしようもない状況の中。それはかすかに聞こえた自分以外が建てた音に敏感に反応した。
体の動きが止まり、痛みや苦しさを殺して無理矢理にでも起き上がろうとする。力の入らない足が無様に床をはいずる。壁に手をついてでも立ち上がろうとしたそれのみみにドアが開く音が届く。方が揺れる。バクバクと心臓の鼓動が早くなった。息を飲み込んで奥にある扉を見つめるそれ…。
それの目の前で扉は開くことなく沈黙を保った。ただ扉の奥からは人が歩く音とドアの開閉音と水音が聞こえてくる。その間に体勢を立て直し、何とか力の入らない足でシンクまでへの移動を果たす。かすれた息が漏れるのを堪えながらそれは必死に時が過ぎるのを待った。
扉の向こう側からドアの開く音が聞こえる。誰かがあるく音がしてそれは扉の前で一度止まった。
「亜梨吹?」
扉は開けられない。だが声はかけられる。
「何しとるんや。はよ、ねえよ。いつも朝起きるの遅いんやき。夜ちゃんとねときよ」
「ああ、うん。水飲んでただけ、すぐ寝るき、鈴華ちゃん」
ならええけど。納得していないような声が耳に届く。それでも扉は開かれることなくパタパタと寝室に向かう足音が響いた。もう一つのドアの音が聞こえてやっと息を吐き出す。手足からはすっかり力が抜け立ち上がることのできない中、唇の端だけを笑みの形に引き上げた。
乾いた笑い声が自分を刺すように響く。
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