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動き始める歯車に嘘をついた鬼
最終話
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さんさんと降りしきる日の光を背中に感じ理矢は今にも干物になってしまいそうだとため息をつく。干物になってしまいそうなのではなく干物になってしまいたいのだけど。背中に感じる日の光よりも脇の方から感じる視線の方がチクチクチクチク刺してきて痛い。目の前にある書類を進めながらも、ちらちらとつい見てしまう。いつも通り穏やかで完璧な笑顔。その癖言いたいことを全て視線だけで伝えてくる。脇に控える清水の姿に胸の奥がちりちりと痛む。
「社長」
何時間脇からの視線に耐えて書類仕事だけをしていただろう。静かな声が名前を呼んだ。これ以上なにも言わせるなよと言わんばかりの声。これ以上はもう待ってないぞと告げる視線。たった一言の名前なのに強い響きを持っている。その声と視線を前に無視して書類仕事を続けることもできない。
「なあに」
わざと伸ばした声で理矢は答えた。それは理矢なりのなにもしないという意思表示でもあった。多く言葉は語らない。それでも通じるということは分っている。その通りに視線が強くなる。笑顔はなに一つかわらない。その瞳さえ優しげにまるで何もかもを包み込むように柔らかく微笑まれたまま。それなのに責め立ててくるのが分かるものだから器用なやつだと感心する。そんな心の余裕あるわけもないのだけど。
「あなたは何をしているんですか」
「何をって書類整理しゃいけど。それ以外の何に見えるんしゃい」
出きる限り単調な声で理矢は答えた。震えそうになる声を抑えてじっと視線を書類に向ける。その代わりに書類に書いた文字が少し歪んだ。冷たい目は代わらず刺し続けてくる。
「そう言うことを聞いてないことはあなたが一番わかっているはずですが、もう時間はない。どれだけ長く見積もっても後半月持ったない。その前に事が起きる可能性もあります。だからこそ早くしなければならない。それはあなたのやるべきことです」
ああと細い息が漏れた。相も変わらず突き付けてくるのがうまい。どうしようもない現実。見たくもないもの。だが忘れた訳じゃない。ただ目をそらし続けたものを一切の容赦もなしに眼前に突き付けてくる。分かってる。だけど。
「今日だけしゃいよ」
細い声だった。我ながら酷い声だと自嘲にも似た笑みが浮かんでは消えた。
昨日のことを思い出す。バカみたいに強い目をしていた。真っ直ぐに前だけを見つめて本気でどうにかしようとしていた。どうにかして見せんるじゃないかと本気で思えた。そんはずがないことは他の誰より理矢自身が知っているのに。どうしようもない運命を変えようと走り回った日々がある。
突き刺さる視線。ぎゅっと唇を噛み締めた。
「バカみたいだって思うけど、でもそれでも私はバカを信じてみることにしたんしゃい。アイツが何をするつもりなのかも知らない。それでも一日だけ、今日一日だけあのバカに猶予をあげることにしたんしゃい
今日が終わればそう今日が終われば亜梨吹に会いに行くわ。
そこで全部終わりよ」
間が空いた。次の言葉を言うのが怖くてしんどくて吐き出しそうだった。それでも。
唾を飲み込んだ。
始めてそこで清水を真っ正面から見つめた。湖畔のように静かで綺麗な目には理矢の姿がくっきりとうかんでいる。それはとても歪んだものだった。嫌いだと嫌悪すら感じた。
それでも
「私は亜梨吹を殺すしゃい」
藤色の目は歪んだ理矢を写し出す。そして優しく微笑む。
「そうですか。決めたならいいんです」
吐き出した息が重く漂う。これでもう逃げられない。明日殺さなければならない。涙がこぼれ落ちそうになって必死にこらえた。
かつてのことを思い出す。人が吸血鬼に襲われたと言う話を聞いて訪れた高知。そこで出会った馬鹿な吸血鬼亜梨吹。生きたい。だけど人間でありたい。人を殺したくない。でも化け物にもなりたくない。そう言って涙を流した。
酷い奴だったと理矢は自分自身をそう思う。そんな亜梨吹に言ったのは馬鹿みたいな言葉だけ。
「人をね、襲うななんて私は妖怪に言うつもりはないんしゃい。だってそれは妖怪がいきるために必用なことだもの。だけどねやり方は考えろ。殺すのだけは絶対にダメしゃい。それだけはいいきかけせてる。貴方をね助けてあげたい。だけどやっぱり人を殺すのはダメなんしゃい。それを許すことはできない。
だからね、いつかその日が来るその前に私が終わらせてあげる。貴方を殺してあげる。
あなたが変わる。その前に。化け物になる前に私が。だから、安心してあんたは今を生きるといいしゃい。今を精一杯余計なことはなにも考えず人間として生きるといい。化け物にだけはならせないから」
下らない約束だ。残酷なことしか言ってない。だけど亜梨吹は笑った。ありがとうって泣きながら笑った。
その後理矢は必死に亜梨吹を助ける方法を探しもした。西から東、日本だけにはとどまらず外国にも言った。亜梨吹が住んでいたと思われるドラキュラ伯爵の城にだって足を運んだ。だけど助ける道だけはみつからなかった。悔しくて悔しくて八つ当たりじみたことを人にしたこともある。それでも諦めず何年も何年も探し続けて見つからないままここまで来てしまった。
もうどうしようもなく約束を果すしかないと分かりながらそれをするのが恐くて理矢は逃げ続けた。約束でなかったとしてもやらねばならないこと。必要なこと。そう分かりながらも。
もう逃げることができない。そうなってやっと動き出したところで理矢は蓮にあってしまった。強い目を焼き付けられてしまった。
託してみることにした。ほんのわずかな時間だけだけど。それでどうなるのか見たくなったのだ。
それがうまくいかなかったその時は約束を果す覚悟を決めて。
瞳のなかに写る自分の姿をこれ以上見たくなくて理矢は目をそらした。そうして目の前に広がったどこまでも青い空にほぅと吐息が漏れる。明日も明後日もこの調子なら快晴だ。
この世界にさよならするにはきっと絶好な日。青い空の上、さよならする全てを焼き付けて。きっと天にも飛んでいける
そこまで考えて理矢はまた嘲笑する。託すなんていいながら欠片も信じてないことに気付いて。
だってしょうがないじゃないか。なかったんだから。そうやって自分に言い訳しながら見つめる青い空。その下に広がるいつもと何らかわりのない町の風景。明日も明後日もかわらない。そしてそれと同じように理矢自身の日常もなにも変わることはないのだろう。ただ淡々と処理して生きる。そう考えて
吐き気を覚えた。だけどそうやって生きていかねばいけないことを知っている。きっと優秀な部下は無理矢理にでも理矢にそうさせる。いやなところにまで来てしまったと思った。だけどそれは理矢が求めた代償だ。これから先も求め続ける以上受け入れていくしかない。もう後戻りはできぬところまで来ているのだから。
とおくとおく青い空はきっと人間になりたがったおろかな吸血鬼だけでなく、理矢の心の一欠片すらも連れていくのだろう。
いきゆくばしょ、そこが亜梨吹と同じところならいい。ほんの少しだけ理矢はそう思った。
まだもう少し空を見ていたい。そう思いながらも理矢は横目で清水を見る。もう前のような一切の容赦を感じない鋭い目はしていないけれど、チクチクと視線が肌を指してくるのはかわらない。机の上の書類を見る。嫌になるほどたくさんある。視線は早くそれをやれと攻め立てている。
はぁとため息をついた。仕方なく机へと向き直る。置いていたペンを取り、途中だった書類を見る。さあ、やるかと息を大きく吸い込んだ
prrrprrr
「ちょ、誰しゃいよ。こんなときに……って亜梨吹?」
2
蝋燭の光が部屋を照らす。オレンジ色の光に包まれた薄暗い部屋。その部屋の中央。背中を向け安楽椅子に座った老父がいた。しわくちゃの顔を厳つく歪めた老父は彼を横目で見て口許だけを歪ませる。
「とうとうわしとお前だけになってしまったか」
ゆらゆらと蝋燭の日が揺れ、影が揺れる。二人分の影が決して近付くことはなく揺れる。老父の声は穏やかでありながらどこか寂しげだった。
「わしも近いうちいくじゃろう。だがなお前だけは、お前だけは生きろ。例え生きることがどれだけ苦しく寂しかろうと。辛く痛みの耐えない日々であろうとお前だけは生きろ。自分らしさを自分の強さを捨てずに、おのが思うままに生きていけ。誰に縛られようと誰にも負けずに生きていけ。
そしたらきっと」
老父の影が揺れる。とてもとても酷い言葉を吐き出しながらその影は涙をこぼしたように見えた
ぼんやりと開けた視界。写るのは白い壁の姿。それがどこかの部屋の天井だと気付くと蓮は深いため息をついた。やってしまったと思うと同時に胸に掬うのは清々しいまでの開放感で余計に重く感じる。染み一つない天井すらのしかかってくるなにかに思える。
ゆらゆらと蝋燭の日が揺れる幻影がみえる気がする。その奥にいるのは老父の姿。老父の目は決して蓮を見なかった。蓮が生まれて、老父が死ぬまで一度たりともみなかった。あの時すらもみなかった。
それなのにそれなのに言葉は胸の奥中心に突き刺さり抜けないままそこに存在し続けている。死後すらもその言葉生き続けている。
「死者の言葉はいつまで有効なのか」
浮かんでくる姿に思わず蓮は呟いてしまった。
「一生しゃいよ」
そしてそれに答えが返る。はっとして蓮は声のした方を見る。そこには扉を開いたばかりの理矢の姿があった。
「おきたんしゃいね。おはよう」
笑みを浮かべる彼女。蓮は覚めた顔をつくって理矢を見つめる。そんな蓮の姿に理矢は苦笑にも似た笑みをこぼした。扉を閉める。
「一生しゃいよ」
また同じ言葉を繰り返した。なにも言わない蓮を前にさらに言葉を続ける。
「死者の言葉はそれを聞いた生者が覚えている限り一生続く呪いにも似た言葉よ。生きている者がその人を大切に思い続けている限り、その言葉を忘れることができない限り一生続いていく
だけどそれは去り行くものが大切な誰かに贈るその人が生きていくために必要な言葉。あんたもその言葉を大切にしんしゃいよ」
「何で大切な人ってわかるの」
「そりゃあわかるしゃいよ。だってどうでもいい人の言葉なんて心には響かないもの。心に響いたってことはその人にとって大切な人ってことしゃいよ」
蓮の無表情は変わらない。だがその奥で彼は苦虫を噛み潰したよう思いをしていた。重く酸っぱく苦いどろどろとしたものが口どころか体中を犯す。
大切かなんて分からない。老父は決して蓮をみることをしなかった。触れることもしなかった。ただいつも寂しげに苦しげにそのいかつい顔を歪めていた。話したのだってほんの僅かな夢の中のかいわていど。それなのに母よりも父よりもその老父の言葉を覚えてる。大切かなんて分からない。だけど忘れられない。
理矢は呪いにも似た言葉と言った。その通りだと思う。まさしく呪いだ。聞かなくてたって一生忘れることなんてなく背負い続けて生きていくことを蓮は知っているのだから。
体が心が重い。それをなんとか振り払うように蓮は理矢をみた。
「ここはどこなの」
「ここは私の会社の一室。まあ医務室しゃいよ。あんたはここに運び込まれたの」
急な蓮の問い。だけどそれがわかっていたというように理矢は答える。
「あんた、びっくりしゃいよ。亜梨吹から要領が全くわからない電話がくるから急いでみたらあんた倒れてるし。正直死んだと思ってたんしゃいけど、亜梨吹と鈴華が生きてるだとか死んでるだとかこれまた要領のわからないこといいだして、そしたらうちの社員の一人がまだ生きてるとか言うしゃいから、それを信じてやってみたら本当に生き帰りやがって。まあ、生きてること自体は良いことなんしゃいよ。悪いのは普通なら死んでいるべきだって言うところ
あんたの血は全部一回吸われたんだからね。血がなくなったら人は生きていけない。
ねえ、一体、あんたはなんしゃい」
長々と話す理矢の話を蓮は殆ど聞いていなかった。聞く必要もないことだと思っていた。だけどわざとらしくおちゃらけた様子で話していた最後だけをトーンを落として真っ直ぐに蓮をみて問うその言葉は聞こえた。それには答えないわけにはいかなかった。
「俺が、何? 俺は人間だよ。それ以外にはなれない」
夕暮れ時の目と夜の闇の目がかち合う。探り会うように二対の目はお互いの中を覗き込み、そして夕暮れ時の目が視線をそらす。ため息が聞こえた。
「わかったしゃいよ。でも最後に質問。
あんたのそれは」
ゆっくりと彼女の手が持ち上げられ蓮を指す。
「どこにあるんしゃい」
問いが落ちる。唇のはしに笑みが浮かぶ。薄い薄い自分とそしてそれ以外の何かをわらう笑み。
「さあ?」
弛く風が吹く。蓮はそちらの方向をみた。窓がひとつ空いていてそこから吹き込んでくる。細められた目はどこを見ているのか。理矢はそれを詮索することをやめた。踵を返し、閉めたドアノブに手を伸ばす。
「退院は明後日だからそれまで安静にしておりんしゃいよ」
「ああ」
目にやった青い空はいたいほど澄んでいた。
やってしまったとため息を吐きこれからどうなるのかに思いを馳せる。いい結果にならないことは知っている。それでも気持ちは清々しかった。
部屋を出て行こうとした理矢が一度だけ立ち止まる
「そうそう亜梨吹達、今日はいつもと同じように学校いったしゃいよ。
ありがとしゃいね」
「社長」
何時間脇からの視線に耐えて書類仕事だけをしていただろう。静かな声が名前を呼んだ。これ以上なにも言わせるなよと言わんばかりの声。これ以上はもう待ってないぞと告げる視線。たった一言の名前なのに強い響きを持っている。その声と視線を前に無視して書類仕事を続けることもできない。
「なあに」
わざと伸ばした声で理矢は答えた。それは理矢なりのなにもしないという意思表示でもあった。多く言葉は語らない。それでも通じるということは分っている。その通りに視線が強くなる。笑顔はなに一つかわらない。その瞳さえ優しげにまるで何もかもを包み込むように柔らかく微笑まれたまま。それなのに責め立ててくるのが分かるものだから器用なやつだと感心する。そんな心の余裕あるわけもないのだけど。
「あなたは何をしているんですか」
「何をって書類整理しゃいけど。それ以外の何に見えるんしゃい」
出きる限り単調な声で理矢は答えた。震えそうになる声を抑えてじっと視線を書類に向ける。その代わりに書類に書いた文字が少し歪んだ。冷たい目は代わらず刺し続けてくる。
「そう言うことを聞いてないことはあなたが一番わかっているはずですが、もう時間はない。どれだけ長く見積もっても後半月持ったない。その前に事が起きる可能性もあります。だからこそ早くしなければならない。それはあなたのやるべきことです」
ああと細い息が漏れた。相も変わらず突き付けてくるのがうまい。どうしようもない現実。見たくもないもの。だが忘れた訳じゃない。ただ目をそらし続けたものを一切の容赦もなしに眼前に突き付けてくる。分かってる。だけど。
「今日だけしゃいよ」
細い声だった。我ながら酷い声だと自嘲にも似た笑みが浮かんでは消えた。
昨日のことを思い出す。バカみたいに強い目をしていた。真っ直ぐに前だけを見つめて本気でどうにかしようとしていた。どうにかして見せんるじゃないかと本気で思えた。そんはずがないことは他の誰より理矢自身が知っているのに。どうしようもない運命を変えようと走り回った日々がある。
突き刺さる視線。ぎゅっと唇を噛み締めた。
「バカみたいだって思うけど、でもそれでも私はバカを信じてみることにしたんしゃい。アイツが何をするつもりなのかも知らない。それでも一日だけ、今日一日だけあのバカに猶予をあげることにしたんしゃい
今日が終わればそう今日が終われば亜梨吹に会いに行くわ。
そこで全部終わりよ」
間が空いた。次の言葉を言うのが怖くてしんどくて吐き出しそうだった。それでも。
唾を飲み込んだ。
始めてそこで清水を真っ正面から見つめた。湖畔のように静かで綺麗な目には理矢の姿がくっきりとうかんでいる。それはとても歪んだものだった。嫌いだと嫌悪すら感じた。
それでも
「私は亜梨吹を殺すしゃい」
藤色の目は歪んだ理矢を写し出す。そして優しく微笑む。
「そうですか。決めたならいいんです」
吐き出した息が重く漂う。これでもう逃げられない。明日殺さなければならない。涙がこぼれ落ちそうになって必死にこらえた。
かつてのことを思い出す。人が吸血鬼に襲われたと言う話を聞いて訪れた高知。そこで出会った馬鹿な吸血鬼亜梨吹。生きたい。だけど人間でありたい。人を殺したくない。でも化け物にもなりたくない。そう言って涙を流した。
酷い奴だったと理矢は自分自身をそう思う。そんな亜梨吹に言ったのは馬鹿みたいな言葉だけ。
「人をね、襲うななんて私は妖怪に言うつもりはないんしゃい。だってそれは妖怪がいきるために必用なことだもの。だけどねやり方は考えろ。殺すのだけは絶対にダメしゃい。それだけはいいきかけせてる。貴方をね助けてあげたい。だけどやっぱり人を殺すのはダメなんしゃい。それを許すことはできない。
だからね、いつかその日が来るその前に私が終わらせてあげる。貴方を殺してあげる。
あなたが変わる。その前に。化け物になる前に私が。だから、安心してあんたは今を生きるといいしゃい。今を精一杯余計なことはなにも考えず人間として生きるといい。化け物にだけはならせないから」
下らない約束だ。残酷なことしか言ってない。だけど亜梨吹は笑った。ありがとうって泣きながら笑った。
その後理矢は必死に亜梨吹を助ける方法を探しもした。西から東、日本だけにはとどまらず外国にも言った。亜梨吹が住んでいたと思われるドラキュラ伯爵の城にだって足を運んだ。だけど助ける道だけはみつからなかった。悔しくて悔しくて八つ当たりじみたことを人にしたこともある。それでも諦めず何年も何年も探し続けて見つからないままここまで来てしまった。
もうどうしようもなく約束を果すしかないと分かりながらそれをするのが恐くて理矢は逃げ続けた。約束でなかったとしてもやらねばならないこと。必要なこと。そう分かりながらも。
もう逃げることができない。そうなってやっと動き出したところで理矢は蓮にあってしまった。強い目を焼き付けられてしまった。
託してみることにした。ほんのわずかな時間だけだけど。それでどうなるのか見たくなったのだ。
それがうまくいかなかったその時は約束を果す覚悟を決めて。
瞳のなかに写る自分の姿をこれ以上見たくなくて理矢は目をそらした。そうして目の前に広がったどこまでも青い空にほぅと吐息が漏れる。明日も明後日もこの調子なら快晴だ。
この世界にさよならするにはきっと絶好な日。青い空の上、さよならする全てを焼き付けて。きっと天にも飛んでいける
そこまで考えて理矢はまた嘲笑する。託すなんていいながら欠片も信じてないことに気付いて。
だってしょうがないじゃないか。なかったんだから。そうやって自分に言い訳しながら見つめる青い空。その下に広がるいつもと何らかわりのない町の風景。明日も明後日もかわらない。そしてそれと同じように理矢自身の日常もなにも変わることはないのだろう。ただ淡々と処理して生きる。そう考えて
吐き気を覚えた。だけどそうやって生きていかねばいけないことを知っている。きっと優秀な部下は無理矢理にでも理矢にそうさせる。いやなところにまで来てしまったと思った。だけどそれは理矢が求めた代償だ。これから先も求め続ける以上受け入れていくしかない。もう後戻りはできぬところまで来ているのだから。
とおくとおく青い空はきっと人間になりたがったおろかな吸血鬼だけでなく、理矢の心の一欠片すらも連れていくのだろう。
いきゆくばしょ、そこが亜梨吹と同じところならいい。ほんの少しだけ理矢はそう思った。
まだもう少し空を見ていたい。そう思いながらも理矢は横目で清水を見る。もう前のような一切の容赦を感じない鋭い目はしていないけれど、チクチクと視線が肌を指してくるのはかわらない。机の上の書類を見る。嫌になるほどたくさんある。視線は早くそれをやれと攻め立てている。
はぁとため息をついた。仕方なく机へと向き直る。置いていたペンを取り、途中だった書類を見る。さあ、やるかと息を大きく吸い込んだ
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「ちょ、誰しゃいよ。こんなときに……って亜梨吹?」
2
蝋燭の光が部屋を照らす。オレンジ色の光に包まれた薄暗い部屋。その部屋の中央。背中を向け安楽椅子に座った老父がいた。しわくちゃの顔を厳つく歪めた老父は彼を横目で見て口許だけを歪ませる。
「とうとうわしとお前だけになってしまったか」
ゆらゆらと蝋燭の日が揺れ、影が揺れる。二人分の影が決して近付くことはなく揺れる。老父の声は穏やかでありながらどこか寂しげだった。
「わしも近いうちいくじゃろう。だがなお前だけは、お前だけは生きろ。例え生きることがどれだけ苦しく寂しかろうと。辛く痛みの耐えない日々であろうとお前だけは生きろ。自分らしさを自分の強さを捨てずに、おのが思うままに生きていけ。誰に縛られようと誰にも負けずに生きていけ。
そしたらきっと」
老父の影が揺れる。とてもとても酷い言葉を吐き出しながらその影は涙をこぼしたように見えた
ぼんやりと開けた視界。写るのは白い壁の姿。それがどこかの部屋の天井だと気付くと蓮は深いため息をついた。やってしまったと思うと同時に胸に掬うのは清々しいまでの開放感で余計に重く感じる。染み一つない天井すらのしかかってくるなにかに思える。
ゆらゆらと蝋燭の日が揺れる幻影がみえる気がする。その奥にいるのは老父の姿。老父の目は決して蓮を見なかった。蓮が生まれて、老父が死ぬまで一度たりともみなかった。あの時すらもみなかった。
それなのにそれなのに言葉は胸の奥中心に突き刺さり抜けないままそこに存在し続けている。死後すらもその言葉生き続けている。
「死者の言葉はいつまで有効なのか」
浮かんでくる姿に思わず蓮は呟いてしまった。
「一生しゃいよ」
そしてそれに答えが返る。はっとして蓮は声のした方を見る。そこには扉を開いたばかりの理矢の姿があった。
「おきたんしゃいね。おはよう」
笑みを浮かべる彼女。蓮は覚めた顔をつくって理矢を見つめる。そんな蓮の姿に理矢は苦笑にも似た笑みをこぼした。扉を閉める。
「一生しゃいよ」
また同じ言葉を繰り返した。なにも言わない蓮を前にさらに言葉を続ける。
「死者の言葉はそれを聞いた生者が覚えている限り一生続く呪いにも似た言葉よ。生きている者がその人を大切に思い続けている限り、その言葉を忘れることができない限り一生続いていく
だけどそれは去り行くものが大切な誰かに贈るその人が生きていくために必要な言葉。あんたもその言葉を大切にしんしゃいよ」
「何で大切な人ってわかるの」
「そりゃあわかるしゃいよ。だってどうでもいい人の言葉なんて心には響かないもの。心に響いたってことはその人にとって大切な人ってことしゃいよ」
蓮の無表情は変わらない。だがその奥で彼は苦虫を噛み潰したよう思いをしていた。重く酸っぱく苦いどろどろとしたものが口どころか体中を犯す。
大切かなんて分からない。老父は決して蓮をみることをしなかった。触れることもしなかった。ただいつも寂しげに苦しげにそのいかつい顔を歪めていた。話したのだってほんの僅かな夢の中のかいわていど。それなのに母よりも父よりもその老父の言葉を覚えてる。大切かなんて分からない。だけど忘れられない。
理矢は呪いにも似た言葉と言った。その通りだと思う。まさしく呪いだ。聞かなくてたって一生忘れることなんてなく背負い続けて生きていくことを蓮は知っているのだから。
体が心が重い。それをなんとか振り払うように蓮は理矢をみた。
「ここはどこなの」
「ここは私の会社の一室。まあ医務室しゃいよ。あんたはここに運び込まれたの」
急な蓮の問い。だけどそれがわかっていたというように理矢は答える。
「あんた、びっくりしゃいよ。亜梨吹から要領が全くわからない電話がくるから急いでみたらあんた倒れてるし。正直死んだと思ってたんしゃいけど、亜梨吹と鈴華が生きてるだとか死んでるだとかこれまた要領のわからないこといいだして、そしたらうちの社員の一人がまだ生きてるとか言うしゃいから、それを信じてやってみたら本当に生き帰りやがって。まあ、生きてること自体は良いことなんしゃいよ。悪いのは普通なら死んでいるべきだって言うところ
あんたの血は全部一回吸われたんだからね。血がなくなったら人は生きていけない。
ねえ、一体、あんたはなんしゃい」
長々と話す理矢の話を蓮は殆ど聞いていなかった。聞く必要もないことだと思っていた。だけどわざとらしくおちゃらけた様子で話していた最後だけをトーンを落として真っ直ぐに蓮をみて問うその言葉は聞こえた。それには答えないわけにはいかなかった。
「俺が、何? 俺は人間だよ。それ以外にはなれない」
夕暮れ時の目と夜の闇の目がかち合う。探り会うように二対の目はお互いの中を覗き込み、そして夕暮れ時の目が視線をそらす。ため息が聞こえた。
「わかったしゃいよ。でも最後に質問。
あんたのそれは」
ゆっくりと彼女の手が持ち上げられ蓮を指す。
「どこにあるんしゃい」
問いが落ちる。唇のはしに笑みが浮かぶ。薄い薄い自分とそしてそれ以外の何かをわらう笑み。
「さあ?」
弛く風が吹く。蓮はそちらの方向をみた。窓がひとつ空いていてそこから吹き込んでくる。細められた目はどこを見ているのか。理矢はそれを詮索することをやめた。踵を返し、閉めたドアノブに手を伸ばす。
「退院は明後日だからそれまで安静にしておりんしゃいよ」
「ああ」
目にやった青い空はいたいほど澄んでいた。
やってしまったとため息を吐きこれからどうなるのかに思いを馳せる。いい結果にならないことは知っている。それでも気持ちは清々しかった。
部屋を出て行こうとした理矢が一度だけ立ち止まる
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ありがとしゃいね」
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