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埋まらぬ距離に怒りの天罰
第四話
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蓮がゆうきから嫌いだと宣告を受けて2週間たった。相変わらず虐めは続いている。それは机が汚される、教科書が捨てられる、上履きが隠されるなどと言う幼稚な物でまだすんでいる。蓮はその事にいつも笑みを浮かべていた。
前まではまだ亜梨吹や鈴果、真里阿と言った蓮と少し関わりのある人物達が蓮をいさめようとしてたが、流石にもうしてこない。ただ、気になるのかちらちらと蓮を見てきては、何かを言い足そうにするだけだった。
そんな日々が続く。
ただ黙って全てを受け流す蓮に、相手のほうが苛立っている。そろそろ第2弾がくると蓮は心の中で身構えていた。
そんな時期だった、それが起きたのは。
その時、蓮は一人で帰っていた。周りに誰も人はいない。彼だけが黙々と歩いている。
静かな通学路。彼はいつも人目が少ない小さな道を選んで歩くのでそれが当然と言えば当然だけど、何かが少しだけおかしかった。
その原因を考えてすぐに答えは見えた。人が居ないのはいい。だが、人の気配すらしないのだ。いつもならそれぞれの家で人が暮らす営みの音が聞こえてくるはずなのに、今日はその音さえも聞こえてこない。静かすぎる。
その事に気づいたあとも蓮は暫くそのまま歩くが、有る一点に着くと立ち止まる。無言でじっと虚空を睨む彼は困っていた。そうとは見えないが困っていた。
(帰れない)
心の中で蓮はそう呟く。
この呟きの通り、今彼は帰ることが出来ない状況にいた。精神的に帰れないのではなくて、物理的に。
(閉じこめられた)
蓮がそう思うのも無理はない。蓮が目にやるその場所を彼はもう何回も目にしているのだ。先ほどから蓮は何回も同じ場所を行き来していた。自らの意志は関係なく、気付けばそこに戻っているのだ。様々な道に変えてみたがどれも無駄なことだった。
浅いため息を吐く。
(結界かな……)
そう心に呟く蓮はとても落ち着いていた。穏やかないつもと同じ表情をしている。非日常に慌てる様子はない。どう考えても普通ではないことだが、彼自身普通ではないことに身を置いている。
(さて、どうやって帰るか。待ってれば迎えが来るのは間違いない。だが……っ)
立ち止まり思考を繰り返す蓮は、不意に目を見開いたと思うと、その場から離れていた。直後、蓮が今までいた場所の地面に何かが突き刺さる。それを見た蓮の眼は見開かれた。
突き刺さったのは何かの植物の葉っぱだったのだ。細長く少し薄い黄緑。
(あれは、稲の葉)
蓮がそれが何の葉であるか検討をつけた時、さらに襲ってくる何かを避けていく。地面に突き刺さるのは全て、先ほどと同じ稲の葉だった。
(何で、こんな物が)
必死に考えながら逃げる蓮は壁に追い込まれていた。もう何個か飛んでくる葉が見える。
壁を蹴り、斜め前に逃げる。その逃げた場所にも稲の葉は襲ってくる。
(一体何処から)
向かってくる方向を探すが、どれもバラバラな方向から飛んできていた。
(チッ)
周囲から一斉に襲ってきた葉に逃げ場はなく、蓮は鞄を振り上げる。
何とか防げたが、鞄はずたぼろに破れて中身がどさどさと落ちていく。気にしている暇もない。
再びやってくる攻撃に避ける。
辺りは突き立った稲の葉で一杯になっている。素早く周囲に視線を巡らせるが、どんどん針山になっていくこの場にはもう逃げ場と呼べる物があまりない。
何を思ってか近くにあった突き立つ稲の葉に手を伸ばした蓮は、そのまま先端を撫でていく。手を離した指先は血に濡れている。
(普通の稲の葉でないことはもう間違いないか。一体、誰が)
逃げていく彼は思考を巡らす。追いつめられていくこの状況での挽回方法を、犯人を捜し出す方法を。思考を巡らす。
その中で一つの変化に目がいき、蓮は逃げていた足を止める。やってくる葉を最小限で避け、周りをみる。
周りに突き刺さった葉が小刻みに揺れていた。
(何だ、何が起きる)
場を見極めようと睨み付ける蓮。小刻みに揺れていた葉は、ある時一斉に地面から抜かれ、空中の中で全てが蓮に向かった。一斉に襲いかかってくる葉の刃。逃げれないと歯を噛みしめた彼は、何も持たない腕を向かってくる刃に向けて一閃した。
甲高い男が響いた。
鋭い葉は蓮の皮膚を切り裂き肉を貫くかと思ったが、それとは真逆に先端が折れバラバラと落ちていく。
他の葉も腕をなぎ払い蓮は落としていく。
ぐしゃぐしゃに切り裂かれた黒の学ラン。その切り裂かれた部分から独特の輝きを持つ黒の何かが覗いている。それは年の割に細い蓮の手首には不釣り合いな鉛の板だった。
落ちた葉から距離とり、周りを見渡す。また襲ってくる刃に蓮は逃げる。遠くまで逃げようとするのに、葉は回り込んで来て、上手くいかない。襲いかかるスピードが徐々に速くなっていた。
(クソ、これじゃ、逃げ切れない。……仕方ない)
一度攻撃が止んだ隙間、蓮の手が足首に伸びた。かちりと何かを外した音が左右から一つずつ響く。足を払ったそこにドスリと重いものが落ちる音。鉛の板だった。
(これで各二十?。合わせて四十?。行けるかどうかは分からないが、まずはこれで試して、行けないようなら次は太股の重り。各四十?。合わせて八十?。最終手段としては学ランを脱いで重りを外す。100?。全部合わせると220?これなら間違いなく行ける。だが、この重りを外したことはない……。 頼むから、外させるな)
願いながら彼は動いた。襲ってくる稲の葉に反応する速度は先ほどよりも速い。今度は稲の方が追いつけていないほどだ。口元にゆったりとした笑みを浮かべ彼は逃げる。地面がえぐれ、時には壁までも破壊される中、彼以外の誰の声も聞こえないのは、ここが遮断された場所だからだろう
(普通の場所とは違う。異次元と考えるべきか)
動きながらも蓮は考えることを止めない。考えて答えを見つけない限り永遠にこの時間が続くから止まることができない
(ここから出るためにはどうしたらいい。何か違いを見付けないと。いつもと違うところ)
稲の葉が蓮を狙ってくる。
(この位置に俺は何度も戻されている。つまり、ここが始まりなり何なり、何かのポイントであることは間違いない。後は犯人らしき人を捜さなければ。ここにもし俺以外の気配があれば、それが犯人でまず間違いない 探せ違いを。人の気配を)
そうして鋭い瞳で辺りを見渡そうとする蓮に、それを覆い隠すようにたくさんの葉が襲いかかる。逃げずにそれを受け止める。ふっと足下にやってくる何かの気配に気付いた。
気配から逃げるように刃の間を無理矢理通る。その時僅かながらに傷を負ってしまった。蓮が逃げ出した何かはまだ襲ってくる。それは長く長く伸びる稲だった。まるで蔓のように長く伸びた稲が蓮を狙ってくる。
葉と稲両方が襲ってくる。段々追いつめられてくる中、蓮の手は太股に伸びていた。
外すか外さまいか蓮が考える一瞬。
その時、蓮を狙っていた葉たちが一斉にたたき落とされていた。響いたのは銃声。
聞こえてきたところを蓮が見ればそこには見覚えのある少女が一人、拳銃片手に立っていた。
名前は中川理矢。蓮が通う高校の制服を着ているが実際に通っているかどうかは不明。あやし事務所という妖怪事件を専門とする会社の社長だった。
「大丈夫しゃいか」
理矢が問うのに太股にかけていた手を外しながら頷いた。その時の目はまるで約に立たない物を見るような目だった。
「ちょ、何その目しゃい。これでも私急いで来たんしゃいよ」
「あ、そう」
「本当しゃいよ」
蓮を狙い襲ってくる葉を理矢が打ち落とす。
「尾神蓮! こいつらは私がどうにかするしゃいから、あんたは今すぐ逃げるしゃいよ」
「はあ、逃げるって何処から」
「これ!」
疑問を口にする蓮に理矢は何かを投げる。投げて寄越されたのは何かの札が着いた古びた鍵だった。
「その鍵を適当な空間でまわしんしゃい。結界解除の御札が貼ってあるから、この結界から逃れるしゃいよ」
「分かった」
葉が襲ってくる戦いの場から蓮は急いで離脱する。逃げようとする蓮を多うと稲も走るが、ちょっと力を込めた蓮の走りに追いつくことが出来ていなかった。
追っ手のいない空間で鍵を回す。きらりと鍵を回した場所が光ったと思えば、彼は先ほどいた場所に戻っていた。
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そこは紛れもなく彼が先ほどまで葉と稲に襲われていた場所だ。だが、そこには誰もいなかった。襲われた後である地面が抉られたような傷もない。
結界から外へでられていたのであった。
暫く外の世界で息を整えていた蓮は、後ろをふり返る。そこには結界など何処にも存在しないかのような日常が佇んでいる。
余計な事になる前にでられた事は嬉しかった。だが、結局物事は何一つ解決していないのだ。
結界の中にいる人物が犯人だと蓮は思っていた。そして彼が出会ったのは理矢という名の少女。但し理矢が犯人である可能性は低い。そうであれば蓮を助けたりはしないし、外に出したりもしない。理矢は言っていた。『急いできた』と、何処からどうやってきたのかは分からないが、だが、多分理矢は外から結界の中に侵入してきたのだろうと考えられる。
(なら、犯人はあの人じゃないとして、どこに居るんだ。……時間もなかったしでてきたけど、少し早まったか。もうすこし中で犯人を捜すべきだった)
じっと虚空を探すが、入り口になりそうな物は見つからない。結界の中にはいるのは難しいだろう。
(仕方ないか。今日はもう帰ろう)
そうして踵を返した蓮は己の格好を見下ろしたのだ。裾は破れている。鞄は手に持っていない。持っていたとしてもずたぼろで使える事はないだろう。両足がいつもより軽くスースーする。ため息を吐くしかなかった。
(重りは回収したら使えるとして、いつ回収できるかだな。今日中に出来ればいいが……。鞄は買い換えるしかないか。中に本が入っていたんだよな。それも回収できたらいいけど……。切れてる可能性もあるな。咄嗟に受け止めったが止めたほうが良かったな。ああ、後学ランも買い換えないと。予備があるから明日はそれを着ていけばいいか)
考え事をしながら帰り道を歩く蓮には風を切る何かの音が聞こえた。それは地面すれすれを走っている。バッと斜め後ろに飛び、その音の何かから回避する。
それは先ほどまで蓮を襲っていた。稲と全く同じだった。うにゃうにゃと伸びて彼を狙う。
(な、もう一人いたのか。それとも結界が破られたのか。だが、そうならアイツの姿もあるはず、だが、ない。やっぱりもう一人。だが、例えそうだとしても何かがおかしい。
何がだ、何がおかしい)
襲ってくる稲を避ける。幸いな事に今回襲ってくるのは稲だけだった。周りに気付かれる事を心配しているのか、攻撃も結界の中のより何倍も大人しい。
だけど、攻撃には先ほどよりも的確な意志があるように思えた。後ろに後ろにと追いつめ、前に進ませようとしない。道も稲が先回りして蓮に誘導しているようなところがある。
何があるのかと彼は後ろを見た。その眼が納得とばっかりに強い輝きを持った。蓮の後ろ数メートル先、大きな川が流れてた。
稲達はそこに彼を誘い込もうとしているのだ。
(そうは行くか)
前にでようと一歩を強く踏み込む。邪魔してくる稲の上に飛び乗った。稲が振り落とそうと大きくうねるのに、彼は体勢を崩すことなく走っていた。このままこの稲を操る者の元に行こうと考えていた。
だけど、突風が吹き荒れた。
(な)
目を開けておくのも不可能なほどの突風。咄嗟に体を支えるがここはうねる稲の上。バランスが取れるわけもない。彼は後ろに押し出された。川の直前まで押し出されながら、ギリギリで耐える。強い風がさらに強く吹いた。
押し出されそうになった蓮に、最後の一押しとばかりに稲が数本、襲いかかってきた。それは蓮を押し飛ばし、自らも蓮の体に縛りついていく。
腕を上げる事も出来ない。彼は川の中に落ちていた
3
冷たい水が体中に巻き付いている。
喉の奥に侵入しようとやってくる。
噤んでいた口は息が出来なくなってもう開けている。
意識は全て遠のいているのに、それでもまだ気絶できない。
呼吸の出来ない苦しさ。
口の中、別の気管支に水が入り込んでくる痛み。 そんなものが彼を襲う中も目を開けて耐えている。
川は思っていた以上に深くて、どんどん沈んでいく。
上に上がろうと藻掻こうにも、体に巻き付いた稲が邪魔で出来ない。
ただ、沈んでいく事しかできなかった。
やがて体がコトリと冷たい川の底に着いた。薄れていく意識の中でそれを感じる。全てが水で満たされて、息が全くでなくて、苦しいのに彼はまだ意識があった。
それでも薄れている意識は考える事が出来ていなかった。
ゆっくりと瞼が閉じていく
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コツコツと何かが体に触れる感触で蓮は目覚めた。
体中が冷たく痛い。
水に圧迫されている。
目を開けても水の中、暗くてよく見えない。稲はまだ絡みついていて動けそうになかった。
コツコツと何かが蓮の体を触ってくる。そこに意識を向けようとしても、慣れぬ痛みで上手くいかない。ただ、遠くに人の形のような朧気な影だけが見えた。
だけれど、こんなところに人が居るわけもない。なんだとじっくりと見ようとする。やはり影である事しか分からない。誰だと問おうと口を開けるも、水が吐いてきて言葉にもならない。少しだけ噎せれば人影がびっくりと動く。
「やっぱり、生きてる」
その声が確かに聞こえた。
人影の声。
(人……なのか、だが、水の中で……。 それより……あの声、何処かで聞いた事があるような……)
記憶の中を思い出そうと巡る。確かに聞いた覚えはある。どこでかと、彼が思い出しかけた時、もう一度問いかけられた。
「あ、あの、人間ですか?」
何とも変な問いだ。だが、この場合は仕方ないのだろう。僅かに首を動かして肯定する。
「じゃ、じゃあ、あの恐い人じゃないですよね……」
また問われた問い。今度は少しの間迷った。一体何を基準に恐いと恐くないかを決めるのか。
何が恐くて何が恐くないのか。
蓮にはそれが少しわからなくって。恐い人じゃないかと聞かれても、自分がどう思われているのかなどよく知らない。
(まあ、恐いとは思われているみたいだが、それよりも嫌われてるの方が近い。
恐いか、恐くないか……。分からないな)
頷く事も首を横にふる事も出来ず横たわったまま。問いかけた人が困ったように辺りを見ていた。
「えっと、取って喰ったりしませんよね」
一体何を心配しているのか。 思わず蓮は笑ってしまった。妖怪でもあるまいし、人を取って喰うような趣味は蓮にはない。それ以上にどう食べればいいのかも知らない。首を横にふる。
相手はホッと息を撫で下ろしたようで、恐る恐る彼に近付いてきていた。
「えっと、本当にしませんね」
最後の問いに頷く。その時、彼はこの声を何処で聴いたのかを思いだした。
影が彼を覗き込む。
「あれ? 尾神蓮君……」
影が呆然と呟いた。
(こいつは、一年四組の……)
影は今連が通う高校の制服を着た少年。蓮と同じクラスに通う名を知らない少年だった。
「え、何で、尾神蓮君が。え、ええ、っへ、え、ど、どどどどどういうこと。どうしてこんなところに」
えらく混乱している少年。蓮も同じように混乱していた。何故この少年が水の中にいるのか。そして、まるで地上と変わらないように過ごしてるのか。
「えっと、えっと、えっと。ああぁ、こう言うときどうしたらいいんでしたけ。あわああああ。あ、そうです。まずは理矢ちゃんに連絡を」
蓮を置いて慌てる彼はポッケトから取り出したケータイで何処かに連絡をかけている。普通なら水の中では使えない。普通なら。
だが、彼はどうやら普通ではないらしい。
彼が一体何なのか。蓮は段々理解していた。
理矢と呼ばれた少女。妖怪というなの人ならざる不可思議な存在を専門にする会社。水の中で息をして話しているその不可解さ。
(そうか。こいつは妖怪なのか)
蓮はそう理解した。
「あ、はい。もしもし代川薫(しろかわかおる)です。理矢ちゃんですか。あ、はい。ちょっと急用なんですけど。……忙しいですか。あ、ありがとうございます。
で、用事なんですけど、その人が川の中にいて。え? 死体じゃないですよ。生きた人です。そうなんです、そうなんですよ。人ってボンベもなしで川の中で五分間も生きていられるんですか。そんなもんでしたか? 違いますよね。どうなってるんですか。何が……え? はあ……。 すぅーー はぁーーーーーー すぅーー はぁーーーーーー すぅーー
はぁーーーーーー
ぁ、はい。落ち着きました。ちょっとあせていたみたいです。と言うか、まだちょっとあせているんですけど。大丈夫ですよね。あ、そうですか。分かりました。その言葉を信じます。あ、はい、誰かは分かりますけど。それが……尾神蓮君でして。僕等のところに転校してきた。理矢ちゃんも知っていますよね。……え? あ。はい。間違いなく彼ですけど、何か問題でも。……あれですか。持っていますけど。分かりました。あ、はい。では待っています。……はい。はい。分かりました。では、そう言う事で」
電話は終わったのだろうケータイを閉じた少年、代川薫は改めて蓮に向かい合った。その手に何処からか海藻のようなものを持ちながら、彼の口に手をかける。
「すいません。口開けて貰えますか」
何をするつもりなのかと半目になる蓮。薫はそれにも気付かず、開けて貰えますかともう一度口にする。何のつもりかも分からない薫に口を開けるのを躊躇っていると、しびれを切らしたのか、それとも勘違いしたのか、薫の手が蓮の口を半ば強引に開けた。喉の奥に水が入り、はき出せもしない何かがでる。
「ぁ、ごめんなさい」
謝りながらも薫は開いた口に手に持っている海藻を押し込んだ。そして、口を閉める。
「どうですか。息できますか?」
薫がそう聞いた。口を閉ざした蓮は目を丸く見開いて何かに驚いていた。
「ああ」
声が出た。
「そうですか。よかった。
それは水を吸って酸素を作るちょっと特殊な妖怪の草でして、それがあれば普通の人も水の中で息をする事が出来るんですよ」
「そうか……。お前は」
何だと問うてくる鋭い眼差しに、薫はちょっとだけ困った様子を見せた。
「その、あんまり僕自分の正体言いたくないんですが、でも、こうなってしまっては仕方ありませんね 僕はカッパです」
「成る程。カッパなら水の中でも動けるか……」
「あれ? それだけですか!? 僕が言うのもあれですけどカッパなんて非現実的ですよ。普通の人間はそんな物信じませんよ」
「それを言うなら普通の人間は川の中で長時間生きていたりできない」
「……それもそうですね」
まあ、つまりは両方とも普通の人間からはかけ離れているのだった。息が出来、自由に動けるようになった蓮はもぞもぞと拘束されている体を動かす。
「ぁ、それきりましょうか」
「いや、いい」 薫が申し出てきたのを断り、蓮は自分の両腕に力を込めた。稲の拘束を破ろうと外側に力を入れていく。
「いや、それだけでは破れないんじゃ」
強く拘束している稲を見て薫はそう言ったが、そのちょっと後にはピッシリという音と共に体を拘束していた稲は千切れてた。
浅い息を吐いて蓮は満足げに笑う。それを見ていた薫の頬は引きつっていた。本当に破れるとは思っていなかったのだ。
蓮は立ち上がろうとした。立ち上がろうとして足下が揺れ倒れていく。
「大丈夫ですか」
それを咄嗟に抱えながら薫は顔を咄嗟に顰めた。重い。予想していた体重の倍重かった。
「ああ」
答えながら蓮は困った顔をしていた。
「この川はかなり深いんだな」
「ええ、まあ、そこそこには」
「水圧が重いな」
「大丈夫ですか」
「まあ、何とかはなる」
会話をしながら薫は不思議な感覚に襲われていた。彼が今話しているのはクラスで話題の転校生だ。クラスではまだ一度も声を聞いた事のない転校生。
そんな彼が今、目の前にいて、そして話している。とても不思議な感覚だった。
「尾神蓮君も話すんだね」
それは当たり前な事だとも言えよう。何せ、人なのだから。だけど、それでもそう聞いてしまうぐらいには彼にとって以外だった。
「何、話しちゃいけないの」
「いや、そう言う訳じゃないんですけど。尾神蓮君が話してるところ見たことないから。学校じゃいつもみんなの事無視するし。真里阿ちゃん達は話した事あるようだったけど、なんか信じられないでいたんだよね」
ふっと蓮は目を丸くしていた。
その顔は血が全てなくなったのではないかと思えるほど青白い。
「尾神蓮君」
名前を恐る恐る呼べば、焦点の合ってない蓮の眼が薫を見る。
「悪い……」
「え?」
「……いないから」
「いないって何が?」
少しだけ声は震えていた。覗いては行けない何かを覗いている気分だった。青ざめた顔で口を閉ざした蓮は暫く動く事をしない。
「尾神蓮君」
「……」
何処かを見つめた瞳は浅いため息を吐いた。
「帰る」
「へっ?」
「帰る」
短く蓮が口にした言葉。それに薫は酷く慌てた。
「ぁ、待って、待ってください」
「なに」
「まだ、帰らないで」
「なんで」
短く返してくる蓮は不機嫌と言うよりもどうして良いのか分からないようだった。それに薫は縋り付く。
「理矢ちゃんに自分が来るまで尾神蓮君を帰さないようにいわれているんです。ここで帰られたら僕がりやちゃん何をされるか分からないんです」
「勝手にされてたら」
「ちょ、それは酷いですよ。帰られたら困るんです。ここにいてください」
「俺も帰らないと困るんだ」
「それは分かりますけど、まあ兎に角お願いします」
「嫌だ」
蓮の態度は頑なだ。話している今でさえ帰ろうとしているぐらい。そんな蓮に薫はため息を吐いた。
「仕方ありませんね」
そう言った薫は指先を蓮のもとに向ける。
水が川の流れに逆らって動いた。蓮の周りで蜷局を巻き、そして、からみつき、蓮の体を拘束する。ほどこうにも強く絡みついてくるそれは千切れない。
「なっ」
「ほんとうにちょっと、理矢ちゃんがくるまででいいんで」
そう言って両手を合わせる薫に蓮は顔を酷く歪ませていた
前まではまだ亜梨吹や鈴果、真里阿と言った蓮と少し関わりのある人物達が蓮をいさめようとしてたが、流石にもうしてこない。ただ、気になるのかちらちらと蓮を見てきては、何かを言い足そうにするだけだった。
そんな日々が続く。
ただ黙って全てを受け流す蓮に、相手のほうが苛立っている。そろそろ第2弾がくると蓮は心の中で身構えていた。
そんな時期だった、それが起きたのは。
その時、蓮は一人で帰っていた。周りに誰も人はいない。彼だけが黙々と歩いている。
静かな通学路。彼はいつも人目が少ない小さな道を選んで歩くのでそれが当然と言えば当然だけど、何かが少しだけおかしかった。
その原因を考えてすぐに答えは見えた。人が居ないのはいい。だが、人の気配すらしないのだ。いつもならそれぞれの家で人が暮らす営みの音が聞こえてくるはずなのに、今日はその音さえも聞こえてこない。静かすぎる。
その事に気づいたあとも蓮は暫くそのまま歩くが、有る一点に着くと立ち止まる。無言でじっと虚空を睨む彼は困っていた。そうとは見えないが困っていた。
(帰れない)
心の中で蓮はそう呟く。
この呟きの通り、今彼は帰ることが出来ない状況にいた。精神的に帰れないのではなくて、物理的に。
(閉じこめられた)
蓮がそう思うのも無理はない。蓮が目にやるその場所を彼はもう何回も目にしているのだ。先ほどから蓮は何回も同じ場所を行き来していた。自らの意志は関係なく、気付けばそこに戻っているのだ。様々な道に変えてみたがどれも無駄なことだった。
浅いため息を吐く。
(結界かな……)
そう心に呟く蓮はとても落ち着いていた。穏やかないつもと同じ表情をしている。非日常に慌てる様子はない。どう考えても普通ではないことだが、彼自身普通ではないことに身を置いている。
(さて、どうやって帰るか。待ってれば迎えが来るのは間違いない。だが……っ)
立ち止まり思考を繰り返す蓮は、不意に目を見開いたと思うと、その場から離れていた。直後、蓮が今までいた場所の地面に何かが突き刺さる。それを見た蓮の眼は見開かれた。
突き刺さったのは何かの植物の葉っぱだったのだ。細長く少し薄い黄緑。
(あれは、稲の葉)
蓮がそれが何の葉であるか検討をつけた時、さらに襲ってくる何かを避けていく。地面に突き刺さるのは全て、先ほどと同じ稲の葉だった。
(何で、こんな物が)
必死に考えながら逃げる蓮は壁に追い込まれていた。もう何個か飛んでくる葉が見える。
壁を蹴り、斜め前に逃げる。その逃げた場所にも稲の葉は襲ってくる。
(一体何処から)
向かってくる方向を探すが、どれもバラバラな方向から飛んできていた。
(チッ)
周囲から一斉に襲ってきた葉に逃げ場はなく、蓮は鞄を振り上げる。
何とか防げたが、鞄はずたぼろに破れて中身がどさどさと落ちていく。気にしている暇もない。
再びやってくる攻撃に避ける。
辺りは突き立った稲の葉で一杯になっている。素早く周囲に視線を巡らせるが、どんどん針山になっていくこの場にはもう逃げ場と呼べる物があまりない。
何を思ってか近くにあった突き立つ稲の葉に手を伸ばした蓮は、そのまま先端を撫でていく。手を離した指先は血に濡れている。
(普通の稲の葉でないことはもう間違いないか。一体、誰が)
逃げていく彼は思考を巡らす。追いつめられていくこの状況での挽回方法を、犯人を捜し出す方法を。思考を巡らす。
その中で一つの変化に目がいき、蓮は逃げていた足を止める。やってくる葉を最小限で避け、周りをみる。
周りに突き刺さった葉が小刻みに揺れていた。
(何だ、何が起きる)
場を見極めようと睨み付ける蓮。小刻みに揺れていた葉は、ある時一斉に地面から抜かれ、空中の中で全てが蓮に向かった。一斉に襲いかかってくる葉の刃。逃げれないと歯を噛みしめた彼は、何も持たない腕を向かってくる刃に向けて一閃した。
甲高い男が響いた。
鋭い葉は蓮の皮膚を切り裂き肉を貫くかと思ったが、それとは真逆に先端が折れバラバラと落ちていく。
他の葉も腕をなぎ払い蓮は落としていく。
ぐしゃぐしゃに切り裂かれた黒の学ラン。その切り裂かれた部分から独特の輝きを持つ黒の何かが覗いている。それは年の割に細い蓮の手首には不釣り合いな鉛の板だった。
落ちた葉から距離とり、周りを見渡す。また襲ってくる刃に蓮は逃げる。遠くまで逃げようとするのに、葉は回り込んで来て、上手くいかない。襲いかかるスピードが徐々に速くなっていた。
(クソ、これじゃ、逃げ切れない。……仕方ない)
一度攻撃が止んだ隙間、蓮の手が足首に伸びた。かちりと何かを外した音が左右から一つずつ響く。足を払ったそこにドスリと重いものが落ちる音。鉛の板だった。
(これで各二十?。合わせて四十?。行けるかどうかは分からないが、まずはこれで試して、行けないようなら次は太股の重り。各四十?。合わせて八十?。最終手段としては学ランを脱いで重りを外す。100?。全部合わせると220?これなら間違いなく行ける。だが、この重りを外したことはない……。 頼むから、外させるな)
願いながら彼は動いた。襲ってくる稲の葉に反応する速度は先ほどよりも速い。今度は稲の方が追いつけていないほどだ。口元にゆったりとした笑みを浮かべ彼は逃げる。地面がえぐれ、時には壁までも破壊される中、彼以外の誰の声も聞こえないのは、ここが遮断された場所だからだろう
(普通の場所とは違う。異次元と考えるべきか)
動きながらも蓮は考えることを止めない。考えて答えを見つけない限り永遠にこの時間が続くから止まることができない
(ここから出るためにはどうしたらいい。何か違いを見付けないと。いつもと違うところ)
稲の葉が蓮を狙ってくる。
(この位置に俺は何度も戻されている。つまり、ここが始まりなり何なり、何かのポイントであることは間違いない。後は犯人らしき人を捜さなければ。ここにもし俺以外の気配があれば、それが犯人でまず間違いない 探せ違いを。人の気配を)
そうして鋭い瞳で辺りを見渡そうとする蓮に、それを覆い隠すようにたくさんの葉が襲いかかる。逃げずにそれを受け止める。ふっと足下にやってくる何かの気配に気付いた。
気配から逃げるように刃の間を無理矢理通る。その時僅かながらに傷を負ってしまった。蓮が逃げ出した何かはまだ襲ってくる。それは長く長く伸びる稲だった。まるで蔓のように長く伸びた稲が蓮を狙ってくる。
葉と稲両方が襲ってくる。段々追いつめられてくる中、蓮の手は太股に伸びていた。
外すか外さまいか蓮が考える一瞬。
その時、蓮を狙っていた葉たちが一斉にたたき落とされていた。響いたのは銃声。
聞こえてきたところを蓮が見ればそこには見覚えのある少女が一人、拳銃片手に立っていた。
名前は中川理矢。蓮が通う高校の制服を着ているが実際に通っているかどうかは不明。あやし事務所という妖怪事件を専門とする会社の社長だった。
「大丈夫しゃいか」
理矢が問うのに太股にかけていた手を外しながら頷いた。その時の目はまるで約に立たない物を見るような目だった。
「ちょ、何その目しゃい。これでも私急いで来たんしゃいよ」
「あ、そう」
「本当しゃいよ」
蓮を狙い襲ってくる葉を理矢が打ち落とす。
「尾神蓮! こいつらは私がどうにかするしゃいから、あんたは今すぐ逃げるしゃいよ」
「はあ、逃げるって何処から」
「これ!」
疑問を口にする蓮に理矢は何かを投げる。投げて寄越されたのは何かの札が着いた古びた鍵だった。
「その鍵を適当な空間でまわしんしゃい。結界解除の御札が貼ってあるから、この結界から逃れるしゃいよ」
「分かった」
葉が襲ってくる戦いの場から蓮は急いで離脱する。逃げようとする蓮を多うと稲も走るが、ちょっと力を込めた蓮の走りに追いつくことが出来ていなかった。
追っ手のいない空間で鍵を回す。きらりと鍵を回した場所が光ったと思えば、彼は先ほどいた場所に戻っていた。
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そこは紛れもなく彼が先ほどまで葉と稲に襲われていた場所だ。だが、そこには誰もいなかった。襲われた後である地面が抉られたような傷もない。
結界から外へでられていたのであった。
暫く外の世界で息を整えていた蓮は、後ろをふり返る。そこには結界など何処にも存在しないかのような日常が佇んでいる。
余計な事になる前にでられた事は嬉しかった。だが、結局物事は何一つ解決していないのだ。
結界の中にいる人物が犯人だと蓮は思っていた。そして彼が出会ったのは理矢という名の少女。但し理矢が犯人である可能性は低い。そうであれば蓮を助けたりはしないし、外に出したりもしない。理矢は言っていた。『急いできた』と、何処からどうやってきたのかは分からないが、だが、多分理矢は外から結界の中に侵入してきたのだろうと考えられる。
(なら、犯人はあの人じゃないとして、どこに居るんだ。……時間もなかったしでてきたけど、少し早まったか。もうすこし中で犯人を捜すべきだった)
じっと虚空を探すが、入り口になりそうな物は見つからない。結界の中にはいるのは難しいだろう。
(仕方ないか。今日はもう帰ろう)
そうして踵を返した蓮は己の格好を見下ろしたのだ。裾は破れている。鞄は手に持っていない。持っていたとしてもずたぼろで使える事はないだろう。両足がいつもより軽くスースーする。ため息を吐くしかなかった。
(重りは回収したら使えるとして、いつ回収できるかだな。今日中に出来ればいいが……。鞄は買い換えるしかないか。中に本が入っていたんだよな。それも回収できたらいいけど……。切れてる可能性もあるな。咄嗟に受け止めったが止めたほうが良かったな。ああ、後学ランも買い換えないと。予備があるから明日はそれを着ていけばいいか)
考え事をしながら帰り道を歩く蓮には風を切る何かの音が聞こえた。それは地面すれすれを走っている。バッと斜め後ろに飛び、その音の何かから回避する。
それは先ほどまで蓮を襲っていた。稲と全く同じだった。うにゃうにゃと伸びて彼を狙う。
(な、もう一人いたのか。それとも結界が破られたのか。だが、そうならアイツの姿もあるはず、だが、ない。やっぱりもう一人。だが、例えそうだとしても何かがおかしい。
何がだ、何がおかしい)
襲ってくる稲を避ける。幸いな事に今回襲ってくるのは稲だけだった。周りに気付かれる事を心配しているのか、攻撃も結界の中のより何倍も大人しい。
だけど、攻撃には先ほどよりも的確な意志があるように思えた。後ろに後ろにと追いつめ、前に進ませようとしない。道も稲が先回りして蓮に誘導しているようなところがある。
何があるのかと彼は後ろを見た。その眼が納得とばっかりに強い輝きを持った。蓮の後ろ数メートル先、大きな川が流れてた。
稲達はそこに彼を誘い込もうとしているのだ。
(そうは行くか)
前にでようと一歩を強く踏み込む。邪魔してくる稲の上に飛び乗った。稲が振り落とそうと大きくうねるのに、彼は体勢を崩すことなく走っていた。このままこの稲を操る者の元に行こうと考えていた。
だけど、突風が吹き荒れた。
(な)
目を開けておくのも不可能なほどの突風。咄嗟に体を支えるがここはうねる稲の上。バランスが取れるわけもない。彼は後ろに押し出された。川の直前まで押し出されながら、ギリギリで耐える。強い風がさらに強く吹いた。
押し出されそうになった蓮に、最後の一押しとばかりに稲が数本、襲いかかってきた。それは蓮を押し飛ばし、自らも蓮の体に縛りついていく。
腕を上げる事も出来ない。彼は川の中に落ちていた
3
冷たい水が体中に巻き付いている。
喉の奥に侵入しようとやってくる。
噤んでいた口は息が出来なくなってもう開けている。
意識は全て遠のいているのに、それでもまだ気絶できない。
呼吸の出来ない苦しさ。
口の中、別の気管支に水が入り込んでくる痛み。 そんなものが彼を襲う中も目を開けて耐えている。
川は思っていた以上に深くて、どんどん沈んでいく。
上に上がろうと藻掻こうにも、体に巻き付いた稲が邪魔で出来ない。
ただ、沈んでいく事しかできなかった。
やがて体がコトリと冷たい川の底に着いた。薄れていく意識の中でそれを感じる。全てが水で満たされて、息が全くでなくて、苦しいのに彼はまだ意識があった。
それでも薄れている意識は考える事が出来ていなかった。
ゆっくりと瞼が閉じていく
4
コツコツと何かが体に触れる感触で蓮は目覚めた。
体中が冷たく痛い。
水に圧迫されている。
目を開けても水の中、暗くてよく見えない。稲はまだ絡みついていて動けそうになかった。
コツコツと何かが蓮の体を触ってくる。そこに意識を向けようとしても、慣れぬ痛みで上手くいかない。ただ、遠くに人の形のような朧気な影だけが見えた。
だけれど、こんなところに人が居るわけもない。なんだとじっくりと見ようとする。やはり影である事しか分からない。誰だと問おうと口を開けるも、水が吐いてきて言葉にもならない。少しだけ噎せれば人影がびっくりと動く。
「やっぱり、生きてる」
その声が確かに聞こえた。
人影の声。
(人……なのか、だが、水の中で……。 それより……あの声、何処かで聞いた事があるような……)
記憶の中を思い出そうと巡る。確かに聞いた覚えはある。どこでかと、彼が思い出しかけた時、もう一度問いかけられた。
「あ、あの、人間ですか?」
何とも変な問いだ。だが、この場合は仕方ないのだろう。僅かに首を動かして肯定する。
「じゃ、じゃあ、あの恐い人じゃないですよね……」
また問われた問い。今度は少しの間迷った。一体何を基準に恐いと恐くないかを決めるのか。
何が恐くて何が恐くないのか。
蓮にはそれが少しわからなくって。恐い人じゃないかと聞かれても、自分がどう思われているのかなどよく知らない。
(まあ、恐いとは思われているみたいだが、それよりも嫌われてるの方が近い。
恐いか、恐くないか……。分からないな)
頷く事も首を横にふる事も出来ず横たわったまま。問いかけた人が困ったように辺りを見ていた。
「えっと、取って喰ったりしませんよね」
一体何を心配しているのか。 思わず蓮は笑ってしまった。妖怪でもあるまいし、人を取って喰うような趣味は蓮にはない。それ以上にどう食べればいいのかも知らない。首を横にふる。
相手はホッと息を撫で下ろしたようで、恐る恐る彼に近付いてきていた。
「えっと、本当にしませんね」
最後の問いに頷く。その時、彼はこの声を何処で聴いたのかを思いだした。
影が彼を覗き込む。
「あれ? 尾神蓮君……」
影が呆然と呟いた。
(こいつは、一年四組の……)
影は今連が通う高校の制服を着た少年。蓮と同じクラスに通う名を知らない少年だった。
「え、何で、尾神蓮君が。え、ええ、っへ、え、ど、どどどどどういうこと。どうしてこんなところに」
えらく混乱している少年。蓮も同じように混乱していた。何故この少年が水の中にいるのか。そして、まるで地上と変わらないように過ごしてるのか。
「えっと、えっと、えっと。ああぁ、こう言うときどうしたらいいんでしたけ。あわああああ。あ、そうです。まずは理矢ちゃんに連絡を」
蓮を置いて慌てる彼はポッケトから取り出したケータイで何処かに連絡をかけている。普通なら水の中では使えない。普通なら。
だが、彼はどうやら普通ではないらしい。
彼が一体何なのか。蓮は段々理解していた。
理矢と呼ばれた少女。妖怪というなの人ならざる不可思議な存在を専門にする会社。水の中で息をして話しているその不可解さ。
(そうか。こいつは妖怪なのか)
蓮はそう理解した。
「あ、はい。もしもし代川薫(しろかわかおる)です。理矢ちゃんですか。あ、はい。ちょっと急用なんですけど。……忙しいですか。あ、ありがとうございます。
で、用事なんですけど、その人が川の中にいて。え? 死体じゃないですよ。生きた人です。そうなんです、そうなんですよ。人ってボンベもなしで川の中で五分間も生きていられるんですか。そんなもんでしたか? 違いますよね。どうなってるんですか。何が……え? はあ……。 すぅーー はぁーーーーーー すぅーー はぁーーーーーー すぅーー
はぁーーーーーー
ぁ、はい。落ち着きました。ちょっとあせていたみたいです。と言うか、まだちょっとあせているんですけど。大丈夫ですよね。あ、そうですか。分かりました。その言葉を信じます。あ、はい、誰かは分かりますけど。それが……尾神蓮君でして。僕等のところに転校してきた。理矢ちゃんも知っていますよね。……え? あ。はい。間違いなく彼ですけど、何か問題でも。……あれですか。持っていますけど。分かりました。あ、はい。では待っています。……はい。はい。分かりました。では、そう言う事で」
電話は終わったのだろうケータイを閉じた少年、代川薫は改めて蓮に向かい合った。その手に何処からか海藻のようなものを持ちながら、彼の口に手をかける。
「すいません。口開けて貰えますか」
何をするつもりなのかと半目になる蓮。薫はそれにも気付かず、開けて貰えますかともう一度口にする。何のつもりかも分からない薫に口を開けるのを躊躇っていると、しびれを切らしたのか、それとも勘違いしたのか、薫の手が蓮の口を半ば強引に開けた。喉の奥に水が入り、はき出せもしない何かがでる。
「ぁ、ごめんなさい」
謝りながらも薫は開いた口に手に持っている海藻を押し込んだ。そして、口を閉める。
「どうですか。息できますか?」
薫がそう聞いた。口を閉ざした蓮は目を丸く見開いて何かに驚いていた。
「ああ」
声が出た。
「そうですか。よかった。
それは水を吸って酸素を作るちょっと特殊な妖怪の草でして、それがあれば普通の人も水の中で息をする事が出来るんですよ」
「そうか……。お前は」
何だと問うてくる鋭い眼差しに、薫はちょっとだけ困った様子を見せた。
「その、あんまり僕自分の正体言いたくないんですが、でも、こうなってしまっては仕方ありませんね 僕はカッパです」
「成る程。カッパなら水の中でも動けるか……」
「あれ? それだけですか!? 僕が言うのもあれですけどカッパなんて非現実的ですよ。普通の人間はそんな物信じませんよ」
「それを言うなら普通の人間は川の中で長時間生きていたりできない」
「……それもそうですね」
まあ、つまりは両方とも普通の人間からはかけ離れているのだった。息が出来、自由に動けるようになった蓮はもぞもぞと拘束されている体を動かす。
「ぁ、それきりましょうか」
「いや、いい」 薫が申し出てきたのを断り、蓮は自分の両腕に力を込めた。稲の拘束を破ろうと外側に力を入れていく。
「いや、それだけでは破れないんじゃ」
強く拘束している稲を見て薫はそう言ったが、そのちょっと後にはピッシリという音と共に体を拘束していた稲は千切れてた。
浅い息を吐いて蓮は満足げに笑う。それを見ていた薫の頬は引きつっていた。本当に破れるとは思っていなかったのだ。
蓮は立ち上がろうとした。立ち上がろうとして足下が揺れ倒れていく。
「大丈夫ですか」
それを咄嗟に抱えながら薫は顔を咄嗟に顰めた。重い。予想していた体重の倍重かった。
「ああ」
答えながら蓮は困った顔をしていた。
「この川はかなり深いんだな」
「ええ、まあ、そこそこには」
「水圧が重いな」
「大丈夫ですか」
「まあ、何とかはなる」
会話をしながら薫は不思議な感覚に襲われていた。彼が今話しているのはクラスで話題の転校生だ。クラスではまだ一度も声を聞いた事のない転校生。
そんな彼が今、目の前にいて、そして話している。とても不思議な感覚だった。
「尾神蓮君も話すんだね」
それは当たり前な事だとも言えよう。何せ、人なのだから。だけど、それでもそう聞いてしまうぐらいには彼にとって以外だった。
「何、話しちゃいけないの」
「いや、そう言う訳じゃないんですけど。尾神蓮君が話してるところ見たことないから。学校じゃいつもみんなの事無視するし。真里阿ちゃん達は話した事あるようだったけど、なんか信じられないでいたんだよね」
ふっと蓮は目を丸くしていた。
その顔は血が全てなくなったのではないかと思えるほど青白い。
「尾神蓮君」
名前を恐る恐る呼べば、焦点の合ってない蓮の眼が薫を見る。
「悪い……」
「え?」
「……いないから」
「いないって何が?」
少しだけ声は震えていた。覗いては行けない何かを覗いている気分だった。青ざめた顔で口を閉ざした蓮は暫く動く事をしない。
「尾神蓮君」
「……」
何処かを見つめた瞳は浅いため息を吐いた。
「帰る」
「へっ?」
「帰る」
短く蓮が口にした言葉。それに薫は酷く慌てた。
「ぁ、待って、待ってください」
「なに」
「まだ、帰らないで」
「なんで」
短く返してくる蓮は不機嫌と言うよりもどうして良いのか分からないようだった。それに薫は縋り付く。
「理矢ちゃんに自分が来るまで尾神蓮君を帰さないようにいわれているんです。ここで帰られたら僕がりやちゃん何をされるか分からないんです」
「勝手にされてたら」
「ちょ、それは酷いですよ。帰られたら困るんです。ここにいてください」
「俺も帰らないと困るんだ」
「それは分かりますけど、まあ兎に角お願いします」
「嫌だ」
蓮の態度は頑なだ。話している今でさえ帰ろうとしているぐらい。そんな蓮に薫はため息を吐いた。
「仕方ありませんね」
そう言った薫は指先を蓮のもとに向ける。
水が川の流れに逆らって動いた。蓮の周りで蜷局を巻き、そして、からみつき、蓮の体を拘束する。ほどこうにも強く絡みついてくるそれは千切れない。
「なっ」
「ほんとうにちょっと、理矢ちゃんがくるまででいいんで」
そう言って両手を合わせる薫に蓮は顔を酷く歪ませていた
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