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埋まらぬ距離に怒りの天罰
第三話
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葉水学園一年四組
そこは周りからはとても騒がしいクラスとして知られていた。学園で一、二を争うほどだとも言われていて、先生達も手を焼くほどである。そんなそこが一週間ほど前から静かなクラスに様変わりしていた。話し声はするがいつもと違いそこには弾けるようなものがない。空気もいつもは明るい空気なのと違い、ぴりぴりとした緊張感が走っているのだ。それは一週間前に転校してきた尾神蓮に発端するものだった。
彼は話し掛けてくるクラスメイト達に対して何の言葉も返さない。返さないどころかその言葉さえも聞きはしない。教室にいるときはいつも難しそうな顔をして本を読んでいるだけだった。それが彼のいつも通りの姿なのだが、それでも周りの空気を重くさせるには十分だった。
別段仲良くすることを義務づけられているわけでもないのだ。だが、それでも今までずっと中がよいクラスを続けてきたからか彼らの中には、仲良くすることしか方法がないと思えていたし、それが義務のように思えていた。
だから仲の良い空気を壊す尾神蓮は彼らにとって有害となっていた。
彼らが一週間、同じクラスで過ごして喋ったことはただの一度もない。尾神蓮という人物について一年四組が知ったことは何もない。
「尾神君」
いい加減疲れたように、蓮と一年四組の間に立つ三人が蓮に話し掛ける。この一週間、今にも爆発しそうな様子を見てきた三人は精神的に疲れていた。
「何」
話し掛けられ本から顔を上げる蓮に三人はため息を吐く。他の人に呼ばれても絶対にあげないのに、三人と部活の人に呼ばれたらたまに顔を上げるのだ。これも一年四組を怒らせる原因だろう。
「いい加減、話すぐらいはして」
「……」
誰をとは言わないのに蓮は吐息を吐き捨てる。
「いい加減諦めろって俺は言いたいけどね」
低い声が出ていたのに三人が強張り付く。
「尾神君!」
声を挙げた一人を見て彼はゆっくりとため息を吐いた。三人のうち、一人真里阿がそれに合わせるようにため息を吐く。
「尾神君」
「なに」
真っ黒な瞳が自分を見るのに真里阿はにっこりと笑みを深めた。
「尾神君。君が仲良くする気がないというのなら、こっちにも考えがある」
「は?」
見上げる蓮に向かい笑う真里阿の笑みは真っ黒だ。
「……恐い」
「ついに本気に……、おそろしや」
鈴果と亜梨吹など二人して身を寄せ合うほど。
「考え?」
「そう。あいつ等はあんたと仲良くしたがっている。+、あんたのことを知りたがっている。仲良くさせるのは無理だけど、私は簡単なあんたの情報なら持っている」
「……どんな。と言うか、どうして」
声が低い。睨み付けるような蓮の眼に対して、真里阿はにっこりと笑った。
「何だ。忘れたのか。そもそも私たちがあんたの事を転校する前から知ってるのは常先輩とその友達の元あんたの先輩が仲良かったからだ。なら常先輩に頼んで前の学校の先輩から情報を仕入れることもできる。+後は適当に嘘を混ぜておけばいい」
「おい!」
「こら! 真里阿!」
堂々と言い切った真里阿に蓮以外からツッコミが入った。怯えていた鈴果と亜梨吹の二人だ。
「何」
「何じゃないから、最初の方すげーって感動してたのに、後何やし」
「嘘付くなや」
「本当のことも交じってるから大丈夫よ」
「嫌々、真里阿さん」
「おちつこや、真里阿」
三人が仲間割れしているのを蓮は険しい目で見ていた。その目の中には輝きはなく何かを抑えようとしているようだ。蓮の口がゆっくりと開いていく。開いていた本を閉じた。
「別に勝手にして良いけど、それでも俺は」
静かに言葉を紡ぐ。闇の中にその声は溶けていく。
「仲良くなったりしないよ。あんた等もいい加減俺と関わるの止めたら。関わったらどうなるか。俺は知らないよ」
笑った蓮の笑みは禍々しい形をしていた。
教室内、四人の方を遠目で見ていたクラスメイト達が息を飲む込む。立ち上がった蓮は三人に向けてもう一度微笑んだ。酷く醜い形をした鬼の微笑みを。
「じゃあね。今日は部活に行かないで帰るから。先輩達に伝えておいて」
教室を去ろうとする蓮を三人は止めようとしなかった。正しく言えば止められなかった。先ほどの笑みで身体が動かない。それほどまでに恐かった。怒ったわけでもなくただ笑っただけのその行動が恐かった。
去っていくその背を追い掛ける。誰も止めないと思ったときだった。
「待ってよ」
一人が蓮を呼び止めた。周りが驚き止めようとするのをその人は意にも介さない。ふり返った蓮は呼び止めたその人をじっと見つめる。口は堅く閉ざして言葉を発しようとはしない。その様子に眉をひそめたその人。男だった。蓮よりは背が十?ほど高く綺麗な稲穂の色をした髪の少年。意志が強そうな蒲公英色の瞳は苛立ちをあらわにして蓮を睨んでいる。
「なあ」
少し高めの声が響く。蓮は何も言わずに佇んでいた。
「お前、仲良くするきないのかよ」
蓮はその問いに頷かない。だけどそれが下手に言葉を発するよりも、雄弁に物事を語っていた。黒い目がただ少年を見る。少年は不快に顔を歪めた。
「そうかよ。分かった。俺、お前嫌いだ」
真っ直ぐに言葉を紡いだ少年が抱いている感情は嫌悪。それに向けられる本人は笑った。
「大嫌いだ」
吐き捨てられる言葉。周りの空気が凍り付いた。
2
その少年は嫌いという言葉をあまり使うことのない少年だった。だが好き嫌いは激しい。それは人にも同じ事だ。好きになった人には存分に優しく、それがどんなことでも困っていたら力を貸す。嫌いになった人には人でできる限りのことはする。笑顔で話すことはなくても言葉を掛けられたら掛け返す。それぐらいはする。ただ、それは嫌いと言葉を出さなかったときに限りである。
少年はいつも無邪気で自分に素直ではあり思ったことはすぐに口に出すが、嫌いという感情だけはなかなか口にしない。そんな少年が一度、嫌いという言葉を口に出すとき、それは何者であろうとどんな人であろうと、『潰す』という明確な意志が込められる。
それが、蓮に向かって大嫌いと言葉を発した少年、尾瀬ゆうきだった。
そして、その事を知る亜梨吹に鈴果、真里阿はと言うと、翌日、朝から蓮を拉致していた。
「大変なことになったわ」
学校に登校してきた蓮を教室に入る前に捕まえ、校舎の裏側に連れてきた三人は重い溜息と共に言葉を吐いた。
「蓮君、何て事してくれたんや」
「その前になんとかできんかった私らも私らやけど、でも……」
項垂れる三人。蓮はその三人に醒めた視線を送る。
「何でそんなに悲壮感出しているわけ」
訳が分からないと紡ぐその口に、亜梨吹が噛みつきそうな勢いで言い返した。
「これが悲壮感ださんわけないろう! どれだけ大変なことになったと思いゆうが!」
耳にうるさいその音に顔を顰め、納得のいかない表情を見せた。
「何が大変だって言うの。どうせ昨日のことだろうけど、俺は何が起ころうと別に良いの。余計なお節介は止めてくれる」
煩わしそうな口調。それは蓮の本音なのだろう。だけどそれを受け入れることは、彼女らにも、そして一年四組全体にもできないのだろう。
「残念だけど」
重苦しい口調で真里阿が告げる。
「それは無理だ。うちらのクラスは明るいことをモットーにしてるからね。一人、暗いやつ、うち解けていない奴が居ることはどうやっても我慢できない。みんな余計なお節介をしてくるし、我慢できない奴は昨日のように切れる。あれはそうだね、最終警告みたいなものさ」
受け止めたその言葉に対して蓮は吐き捨てるような様子を見せた。
「ほんと、嫌なクラス」
漏らされたものに頭に血が上る鈴果と梨吹を真里阿が止めた。その眼が穏やかでいて強い光を持っていた。
「悪かったね。それから蓮、大変なことになったって話だけど。アイツ、尾瀬ゆうきは嫌いといった奴に対して、何をしでかすか分からないから、気をつけておくことだね」
「ふーーん。何をしでかすか分からないね」
「ああ。分からない。これは本当だ。石をぶつけられるかもしれないし。水を掛けられるかもしれない。あるいは座っている机を蹴飛ばされるか。もしくは殴りかかられるか。まあ、何にせよ、良いことは一つも起こらない」
事実を淡々と紡ぐ口調の真里阿の後ろでは、他の二人が居心地の悪そうに俯いていた。別に彼女たちが悪いわけでもないだろうに。
その様子を見ながら蓮は鼻で笑う。
「何だ。そんな事」
まるでどうでも良いと言わんばかりの口調だった。
「そんな事って」
「そんな事だよ」
慌てる真里阿に蓮は冷静に返す。
「用は苛めまがいのことしてくるんでしょ? 俺、そう言うのに慣れてるから。いくらでもやってきたらいい。それで折れる俺じゃないし、それで誰かと話すようになる俺でもないし、転校する俺でもない。それぐらいで俺を追い出そう、もしくは俺を痛めつけようなんて百年早いよ」
口にされた音に三人が驚いた。凄絶に笑う蓮に誰もが声を出せなかった。
「まあ、忠告ありがとう。じゃあね」
教室に向かって歩き出す蓮を見ながら、三人のうちの誰かがもしかしてと呟いた。
4
真っ黒に塗り潰された机。
それを視認した人は全員、顔を歪めた。こうなることは分かっていた。だけどいきなりこれはやりすぎではないのかと思われた。それをやった張本人は我知らずと机の上に顔を伏せ眠っている。何かを言うべきかとも思った。だが、彼らからは何も出て行かなかった。教室の中に生徒が入ってくる。塗りつぶされた机の生徒だ。
彼、蓮は机を見た。
暫く机の前で佇む彼に、周りが息を止める。顔を上げた彼は笑みを浮かべていた。酷く歪で、でも怒っているわけではなく、穏やかな子供のように嬉しそうな笑みだった。
何故、何故そんな笑みを浮かべることが出来るのか。蓮が思っていることがこの場にいる誰にも分からなかった。怒ると思っていた。悲しむと思っていた。もしくは、無表情を貫くかと思っていた。
それなのに見せたのは全く正反対の笑み。
狂っている。何かが、狂っているとここにいる全員が分かった。
がらりと教室に入ってきた誰かの動きが止まる。そちらを向いた蓮はほらねと口にした。何がほらねなのか言われた本人達さえ分からないけど、分かったのはただ一つ何かがまともではなかったこと。
「さてと、」
小さな声を出して教室を出て行く蓮を全員の視線が追い掛ける。だけど、誰も声は掛けなかった。
5
廊下を歩く蓮はもとの無表情に戻っていた。笑い声が聞こえてくる。
「何。何のよう」
蓮の問いかけに男は姿を現さない。だが聞こえてくる笑い声は男のものである。眉をひそめるそのほほに姿の見えぬなにかが触れる感触がする。
「さあね。取り敢えずもっと人目がないところにいこうか。ここはいつひとが通るか分からないから」
男に言われたまま蓮は歩く。きたのは校舎裏だった。
「ここしか選択しないの」
「俺、校内詳しくないから
「それもそうだね」
男が楽しそうに笑う。何がそんなに楽しそうなのか、蓮には分かっていた。ゆっくりと伸ばされてくる手に彼は避けない。この先何が起きるのか分かっていても。男の手が蓮の首を絞める。決して緩くない力だ。
「ねぇ、何で嬉しそうだったの」
「分からないの」
男の問いに冷たい眼差しをした蓮が答える。
「いいや、分かるよ」
楽しそうな男の声が響く。喋れるように力加減をしながらもそれでも苦しみを与えようと絞めている。その顔が歪んでいる。
「触らないからだろう」
蓮の口元が緩く上がる。微笑まれるのに男は眉を寄せた。
「気色悪い」
「悪かったな」
「君の笑顔は気色悪い」
「そうだろうよ」
男の言葉に返しながら蓮の中から表情が消えていく。それに安堵したように男の手が僅かに緩んだ。だけど、蓮は緩んだ隙間から逃げようとはしないし、緩んでも息を詰めていった。男がその様子にニヤニヤと笑う。同時に先ほど自身が口にしたことをもう一度確認する。
「触られないから。これであってるよね」
「それ以外にどんな理由があるの」
睨み付けるような瞳。男は満足げなため息を吐く。
「ないよ。でもね、尾神蓮。僕は一つだけ君に聞かなくちゃいけないことがある」
「何」
「君は、僕が触らない限りは何をしても許すと思っているのかな。僕との約束忘れた? 僕が何をするのか忘れた?」
答えはもうずっと前から男は知っている。それが変わることがないことをすっと知っているのに、それでも繰り返して訪ねるのは何故なのか。歪んだ笑みを口元に浮かべながら己ほど醜い者は居ないのだろうと思った。
「そんな訳ないだろ。
だけど、あの人が言っていたこともある。それがある以上あんたはある一定の行動は制限される。あれぐらいで誰かを殺すようなことはしない。いや、出来ない。亜梨吹たちが良い証拠だ。あいつらとは何度も話してるし、亜梨吹に至ってはこないだのことだってある。それなのにあいつらは今も普通に生きている。それを考えると滅多なことがない限りは大丈夫だって分かる」
男の目が冷ややかに冷えた。その様子を見ても蓮に怯えは見えない。それが余計に彼を腹立たせる。
「なるほど。やけにあの三人と話すとは思っていたけど試していたわけか僕を。しかも絶対に手を出さないとわかった上で」
指先に力がこもる。学ランの上からですら皮膚を突き破りそうなほど、骨を折りそうなほどの力。蓮の口から濁った音が飛び出す。
「だけどさ蓮。僕があの吸血鬼に手を出さなかったのはあれが妖怪だったからよ。君も知ってるだろ。僕は昔から妖怪にだけは手を出すなって言われてるからね。だから、ね」
笑みが広がる。ニヤニヤニヤニヤと。だけどその笑みはすぐに消え去った。血の気を失った青白い顔をしながら蓮が笑ったから。
手のひらから力が消え失せる。膝から崩れ落ちた蓮は咳き込みながら笑みをやめない。男とはまた違う黒い目が見上げる。
「妖怪だからじゃないだろ。亜梨吹アイツに血を吸わせるより前、沙魔敷猫とか言う奴だって俺に触れてた。話だってした。それでもアイツは何もなく生きている。しかもあんたがなにも起こすなってあの人に言われる前のことだ。あんただって分かってたってことだろ。この学園に何があるかは知らないけど、問題を起こすべきじゃないって。だからあんたはこんなことじゃなにもやらないよ」
黒い目を愕然と見つめた。細い息が男から漏れる。唇の端に浮かべられた笑みが憎たらしくて仕方ない。
衝動のまま男は蓮の首を締め上げる。ぎりぎりと骨がきしむ嫌な音がする。今まで何度も同じようなことをして来た。何度も何度も。つい先までだってやっていたことだった。だけど今までのどれとも今やっている行為は違った。時に怒りを感じるときだってあった。力のままに絞め殺そうとしたときだってあった。だけどこんなにも純粋な感情で男が蓮の首を絞めたことはなかった。
いつも、さきまでだってほんの遊びだった。子供がお気に入りの玩具で遊んでいるようなそんな感覚だった。苦痛に歪む蓮の顔を見てそれを楽しむ。決して振り払わない手に支配欲をみたす。可愛いげのない子供の遊びだったのだ。
だが今は違う。今男は純粋な怒りで蓮の首を握りしめていた。このまま首を落としてやろうかとすら思うほどの怒りで。
最初から蓮は分かっていて、百%と知りながらそれでも男を試していたのだ。
何のためにどうして。真っ赤に燃えた頭のなかその言葉が浮かび上がる。
手加減なしで首を絞める男に蓮の顔は青ざめ色をなくし口の端から泡が垂れていた。それなのに目だけがらんらんと輝いている。
虚無感が男を襲った。虚しさが哀しさが寂しさが男を突き抜け、力を奪っていく。咳き込む蓮を光ない目が見つめる。
「そうだよ。この場所で僕は好き勝手できやしない。
だけど忘れるな。僕は我慢が出来ない達なんだ。短気なんだよだから。いつまでも我慢し続けるとおもうな」
いつもと違う震えた声だった。
「分かってるよ。今回はただ試してみただけだ。俺はなにも望んでなんかいない」
掠れた声が応えた。黒い瞳同士が重なる。男が見る蓮の姿はいつもと何ら変わらない。首にかかった手を今は力をいれてなくともいついれて握りつぶすか分からぬそれを振り払おうとしない。細い吐息が男の口から漏れた。それには深い安堵が交じっていて、男はいつもの笑みをうかべだす。
「蓮。良く覚えていて。君は僕のもの何だ 。だから、君を傷つけて良いのは僕だけだ。君に所有の印を付けって良いのは」
握りしめていた首に掛かる手が少し変わる。学ランに爪を立てまた強く力をいれてきた。本日三回目の本気の力。蓮の意識が遠のきそうになる。だがその寸前、手は放された。驚きの眼差しで蓮は男を見る。放して貰えるとは思っていなかった。首もとに当てた手。その手がちで濡れないことに僅かに眉をひそめた。
「何、痛い思いしたかったのマゾだね。でも、ほらそこは覗き込んだりしたとき人に見えるでしょ? いつもは傷つけるならここって決めてるんだけど、今回は仕方ないから変えてあげる。だって救急道具持ってきてないしね」
そう言って男が掴んだのはは肩だった。握りしめながら、長く鋭い爪を突き立てる。眉が寄せられるのにくすりと笑みを浮かべながら。血が溢れてくるのが感触で解っても止まらない。時たま抉るように動き男は笑う。苦痛に歪める蓮の顔を見るのはこれ以上ないほどの快感だった。
「君は僕のものだよ」
いつものようにおきまりの言葉をささやけば、いつもとの同じ返事が返ってくる
「知っている」
それが男は嬉しかった
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「ちょっと、そこの人。止まりンしゃいな」
帰り道だった。地獄から沸いて出てきたような低い低い声が後ろ、それもすぐ耳元から聞こえてきたのは。
パッと前を向く。
「あ……」
引きつった声が尾瀬ゆうきから漏れた。
目の前にあるのは人差し指が一つ。銃を撃つような形にされたそれが、目から数?も離れていないところにある。その後ろから見える人は尾瀬ゆうきの知っている人で、山中理矢だった。彼女がにっこりと笑うのに悪い予感を覚えた。
「尾瀬ゆうき。ちょっとお話ししようしゃいか」
「俺、何も悪いこと」
「何か言う前から話すって事は、そう言う話をされるんだなって理解出来たって事だよね。悪い事してるって自覚あるしゃいね。良かったしゃいよ」
にこやかに笑う理矢にゆうきはあっと言う顔をした。驚き焦ったあまり言わなくても良いことを言ってしまったのは間違いない。冷や汗を垂れ流すゆうきに理矢がため息を吐いた。
「ここじゃ、何だし、事務所行くしゃいか」
「嫌だ」
「即答しゃいね」
怯えていた癖に問いにはすぐさま答えた。その姿を見て半目になる理矢。ゆうきは疲れたように首を振った。
「だってよ、あそこ自然がないんだもん。もっと自然な空気入れようぜ」
抗議に聞きたくないと言うような顔をした理矢は耳を塞いだ。そこをチャンスとばかりに突くゆうきだったが、反論はすぐに帰ってくることとなる。
「うるさいしゃいよ。そもそも自然を入れたら妖怪達がもっとやってきてうるさいことになるのは目に見えているしゃいから、私は事務所に自然を入れないようにしているんしゃいよ。その努力をわかりんしゃい。と言うか、もし事務所に自然を一杯にしたらあんた毎日毎日無駄に遊びに来るしゃいでしょうが。仕事の邪魔しゃい」
「え、俺だけじゃないし、良いだろ」
「良くないしゃいから」
またも即答したゆうき。はあと深いため息を吐いた理矢はくるりと後ろふり向いた。やっと離れた指からゆうきがホッと息をはく。
「どこいくの」
「何処かそこら辺しゃいよ。じっくり話し聞きたいしゃいから」
ホッと吐いたはずの息も凍った。身震いをしたゆうきはどう逃げようかと考えたほどだ。
だが逃げることもできず気づけばゆうきは公園へとつれてこられていた。観念してブランコに座り込む。
「で、話してなんだよ」
「わからないしゃいか」
黙りこむ姿。にこりと笑うゆうきから見たら悪魔の笑み。答えないゆうきに痺れを切らした。
「あんた、転校生相手にけんかしてるらしいしゃいね」
いわれた言葉にゆうきの肝は冷えた。何でと声こそ出なかったものの口元は語っていた。何でばれたのかと。
「委員長と心が教えてくれたんしゃいよ」
「余計な」
「余計なことじゃないしゃいから。まったく人が見ていないのをいいことに喧嘩して」
「喧嘩じゃねえよ。ただの追い出し」
「もっと悪いしゃいよ。嫌うなとは言わないしゃいけど、それを表に出すな。自分が周りに与える影響わかっているんしゃいか」
理矢の目は真剣な色をしていた。真っ直ぐに見つめてくる刃のような瞳にゆうきは一方後ろに下がった。恐ろしい、とても恐ろしい者と相対している気分だった。
「分かってるけどよ」
「なら、止めんしゃい」
言われる言葉に彼は迷う素振りを見せなかった。
「無理」
「……ゆうき」
半目になる目に怯えながらも彼にも譲れないものはある。
「俺は嫌いな者は嫌いなの! 胸の中にため込むとか絶対出来ないんだよ! と言うか、俺にどうこう言うなら最初からあんな奴俺のクラスに入れるなよな! アイツが俺のクラスになるように仕向けたのお前だろうが! もっと仲良くできる、いや、百歩譲ってみんなと仲良くする気がある奴を入れろよ」
ゆうきは叫んだ。それは彼の全てだ。嫌いな物は嫌い。至ってシンプルで至って簡単。全てを吐き出すタイプのゆうきにはそれをため込むことは出来ない。尾瀬ゆうきの本気の叫びを前に理矢は浅いため息を吐いた。それは聞き分けのない子供に母親がする物と同じだった。
「あんたね、少しは辛抱てものを身につけなしゃい。もう今は昔と違う。あんたは社会に出てるンしゃいよ。それも誰が強制したのでもない、自分自身の意志で。
今は学生ですんでるけど、いつかは働くかもしれないんしゃいよ。もっと辛抱して、大人になりんしゃい。決めるのはあんたといえ、人せ……この世界何が起きるのかわからないんしゃいから」
「うるさい……。つうか、それよりも問題はアイツだってあの、えっと、尾神蓮とかいう奴」
「ああ、……人には色々と理由という物があるンしゃい。尾神蓮が抱えるそれが何か私にも まだ分からないしゃいけど、一つだけ分かることがあるしゃいよ。それは、アイツが異常だって事。だから、あんた達のクラスなの。わかりんしゃい。
きっと何かあるんしゃいよ。そう思ってアイツを受け入れてあげるンしゃいよ」
「無理」
無表情で即答されたことに理矢は分かっていたと言葉にした。そして諦めた顔で笑う。
「もう何も言わないしゃいけど、ただ程ほどにするんしゃいよ。自分が世界に与える影響を忘れるなしゃい」
そこは周りからはとても騒がしいクラスとして知られていた。学園で一、二を争うほどだとも言われていて、先生達も手を焼くほどである。そんなそこが一週間ほど前から静かなクラスに様変わりしていた。話し声はするがいつもと違いそこには弾けるようなものがない。空気もいつもは明るい空気なのと違い、ぴりぴりとした緊張感が走っているのだ。それは一週間前に転校してきた尾神蓮に発端するものだった。
彼は話し掛けてくるクラスメイト達に対して何の言葉も返さない。返さないどころかその言葉さえも聞きはしない。教室にいるときはいつも難しそうな顔をして本を読んでいるだけだった。それが彼のいつも通りの姿なのだが、それでも周りの空気を重くさせるには十分だった。
別段仲良くすることを義務づけられているわけでもないのだ。だが、それでも今までずっと中がよいクラスを続けてきたからか彼らの中には、仲良くすることしか方法がないと思えていたし、それが義務のように思えていた。
だから仲の良い空気を壊す尾神蓮は彼らにとって有害となっていた。
彼らが一週間、同じクラスで過ごして喋ったことはただの一度もない。尾神蓮という人物について一年四組が知ったことは何もない。
「尾神君」
いい加減疲れたように、蓮と一年四組の間に立つ三人が蓮に話し掛ける。この一週間、今にも爆発しそうな様子を見てきた三人は精神的に疲れていた。
「何」
話し掛けられ本から顔を上げる蓮に三人はため息を吐く。他の人に呼ばれても絶対にあげないのに、三人と部活の人に呼ばれたらたまに顔を上げるのだ。これも一年四組を怒らせる原因だろう。
「いい加減、話すぐらいはして」
「……」
誰をとは言わないのに蓮は吐息を吐き捨てる。
「いい加減諦めろって俺は言いたいけどね」
低い声が出ていたのに三人が強張り付く。
「尾神君!」
声を挙げた一人を見て彼はゆっくりとため息を吐いた。三人のうち、一人真里阿がそれに合わせるようにため息を吐く。
「尾神君」
「なに」
真っ黒な瞳が自分を見るのに真里阿はにっこりと笑みを深めた。
「尾神君。君が仲良くする気がないというのなら、こっちにも考えがある」
「は?」
見上げる蓮に向かい笑う真里阿の笑みは真っ黒だ。
「……恐い」
「ついに本気に……、おそろしや」
鈴果と亜梨吹など二人して身を寄せ合うほど。
「考え?」
「そう。あいつ等はあんたと仲良くしたがっている。+、あんたのことを知りたがっている。仲良くさせるのは無理だけど、私は簡単なあんたの情報なら持っている」
「……どんな。と言うか、どうして」
声が低い。睨み付けるような蓮の眼に対して、真里阿はにっこりと笑った。
「何だ。忘れたのか。そもそも私たちがあんたの事を転校する前から知ってるのは常先輩とその友達の元あんたの先輩が仲良かったからだ。なら常先輩に頼んで前の学校の先輩から情報を仕入れることもできる。+後は適当に嘘を混ぜておけばいい」
「おい!」
「こら! 真里阿!」
堂々と言い切った真里阿に蓮以外からツッコミが入った。怯えていた鈴果と亜梨吹の二人だ。
「何」
「何じゃないから、最初の方すげーって感動してたのに、後何やし」
「嘘付くなや」
「本当のことも交じってるから大丈夫よ」
「嫌々、真里阿さん」
「おちつこや、真里阿」
三人が仲間割れしているのを蓮は険しい目で見ていた。その目の中には輝きはなく何かを抑えようとしているようだ。蓮の口がゆっくりと開いていく。開いていた本を閉じた。
「別に勝手にして良いけど、それでも俺は」
静かに言葉を紡ぐ。闇の中にその声は溶けていく。
「仲良くなったりしないよ。あんた等もいい加減俺と関わるの止めたら。関わったらどうなるか。俺は知らないよ」
笑った蓮の笑みは禍々しい形をしていた。
教室内、四人の方を遠目で見ていたクラスメイト達が息を飲む込む。立ち上がった蓮は三人に向けてもう一度微笑んだ。酷く醜い形をした鬼の微笑みを。
「じゃあね。今日は部活に行かないで帰るから。先輩達に伝えておいて」
教室を去ろうとする蓮を三人は止めようとしなかった。正しく言えば止められなかった。先ほどの笑みで身体が動かない。それほどまでに恐かった。怒ったわけでもなくただ笑っただけのその行動が恐かった。
去っていくその背を追い掛ける。誰も止めないと思ったときだった。
「待ってよ」
一人が蓮を呼び止めた。周りが驚き止めようとするのをその人は意にも介さない。ふり返った蓮は呼び止めたその人をじっと見つめる。口は堅く閉ざして言葉を発しようとはしない。その様子に眉をひそめたその人。男だった。蓮よりは背が十?ほど高く綺麗な稲穂の色をした髪の少年。意志が強そうな蒲公英色の瞳は苛立ちをあらわにして蓮を睨んでいる。
「なあ」
少し高めの声が響く。蓮は何も言わずに佇んでいた。
「お前、仲良くするきないのかよ」
蓮はその問いに頷かない。だけどそれが下手に言葉を発するよりも、雄弁に物事を語っていた。黒い目がただ少年を見る。少年は不快に顔を歪めた。
「そうかよ。分かった。俺、お前嫌いだ」
真っ直ぐに言葉を紡いだ少年が抱いている感情は嫌悪。それに向けられる本人は笑った。
「大嫌いだ」
吐き捨てられる言葉。周りの空気が凍り付いた。
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その少年は嫌いという言葉をあまり使うことのない少年だった。だが好き嫌いは激しい。それは人にも同じ事だ。好きになった人には存分に優しく、それがどんなことでも困っていたら力を貸す。嫌いになった人には人でできる限りのことはする。笑顔で話すことはなくても言葉を掛けられたら掛け返す。それぐらいはする。ただ、それは嫌いと言葉を出さなかったときに限りである。
少年はいつも無邪気で自分に素直ではあり思ったことはすぐに口に出すが、嫌いという感情だけはなかなか口にしない。そんな少年が一度、嫌いという言葉を口に出すとき、それは何者であろうとどんな人であろうと、『潰す』という明確な意志が込められる。
それが、蓮に向かって大嫌いと言葉を発した少年、尾瀬ゆうきだった。
そして、その事を知る亜梨吹に鈴果、真里阿はと言うと、翌日、朝から蓮を拉致していた。
「大変なことになったわ」
学校に登校してきた蓮を教室に入る前に捕まえ、校舎の裏側に連れてきた三人は重い溜息と共に言葉を吐いた。
「蓮君、何て事してくれたんや」
「その前になんとかできんかった私らも私らやけど、でも……」
項垂れる三人。蓮はその三人に醒めた視線を送る。
「何でそんなに悲壮感出しているわけ」
訳が分からないと紡ぐその口に、亜梨吹が噛みつきそうな勢いで言い返した。
「これが悲壮感ださんわけないろう! どれだけ大変なことになったと思いゆうが!」
耳にうるさいその音に顔を顰め、納得のいかない表情を見せた。
「何が大変だって言うの。どうせ昨日のことだろうけど、俺は何が起ころうと別に良いの。余計なお節介は止めてくれる」
煩わしそうな口調。それは蓮の本音なのだろう。だけどそれを受け入れることは、彼女らにも、そして一年四組全体にもできないのだろう。
「残念だけど」
重苦しい口調で真里阿が告げる。
「それは無理だ。うちらのクラスは明るいことをモットーにしてるからね。一人、暗いやつ、うち解けていない奴が居ることはどうやっても我慢できない。みんな余計なお節介をしてくるし、我慢できない奴は昨日のように切れる。あれはそうだね、最終警告みたいなものさ」
受け止めたその言葉に対して蓮は吐き捨てるような様子を見せた。
「ほんと、嫌なクラス」
漏らされたものに頭に血が上る鈴果と梨吹を真里阿が止めた。その眼が穏やかでいて強い光を持っていた。
「悪かったね。それから蓮、大変なことになったって話だけど。アイツ、尾瀬ゆうきは嫌いといった奴に対して、何をしでかすか分からないから、気をつけておくことだね」
「ふーーん。何をしでかすか分からないね」
「ああ。分からない。これは本当だ。石をぶつけられるかもしれないし。水を掛けられるかもしれない。あるいは座っている机を蹴飛ばされるか。もしくは殴りかかられるか。まあ、何にせよ、良いことは一つも起こらない」
事実を淡々と紡ぐ口調の真里阿の後ろでは、他の二人が居心地の悪そうに俯いていた。別に彼女たちが悪いわけでもないだろうに。
その様子を見ながら蓮は鼻で笑う。
「何だ。そんな事」
まるでどうでも良いと言わんばかりの口調だった。
「そんな事って」
「そんな事だよ」
慌てる真里阿に蓮は冷静に返す。
「用は苛めまがいのことしてくるんでしょ? 俺、そう言うのに慣れてるから。いくらでもやってきたらいい。それで折れる俺じゃないし、それで誰かと話すようになる俺でもないし、転校する俺でもない。それぐらいで俺を追い出そう、もしくは俺を痛めつけようなんて百年早いよ」
口にされた音に三人が驚いた。凄絶に笑う蓮に誰もが声を出せなかった。
「まあ、忠告ありがとう。じゃあね」
教室に向かって歩き出す蓮を見ながら、三人のうちの誰かがもしかしてと呟いた。
4
真っ黒に塗り潰された机。
それを視認した人は全員、顔を歪めた。こうなることは分かっていた。だけどいきなりこれはやりすぎではないのかと思われた。それをやった張本人は我知らずと机の上に顔を伏せ眠っている。何かを言うべきかとも思った。だが、彼らからは何も出て行かなかった。教室の中に生徒が入ってくる。塗りつぶされた机の生徒だ。
彼、蓮は机を見た。
暫く机の前で佇む彼に、周りが息を止める。顔を上げた彼は笑みを浮かべていた。酷く歪で、でも怒っているわけではなく、穏やかな子供のように嬉しそうな笑みだった。
何故、何故そんな笑みを浮かべることが出来るのか。蓮が思っていることがこの場にいる誰にも分からなかった。怒ると思っていた。悲しむと思っていた。もしくは、無表情を貫くかと思っていた。
それなのに見せたのは全く正反対の笑み。
狂っている。何かが、狂っているとここにいる全員が分かった。
がらりと教室に入ってきた誰かの動きが止まる。そちらを向いた蓮はほらねと口にした。何がほらねなのか言われた本人達さえ分からないけど、分かったのはただ一つ何かがまともではなかったこと。
「さてと、」
小さな声を出して教室を出て行く蓮を全員の視線が追い掛ける。だけど、誰も声は掛けなかった。
5
廊下を歩く蓮はもとの無表情に戻っていた。笑い声が聞こえてくる。
「何。何のよう」
蓮の問いかけに男は姿を現さない。だが聞こえてくる笑い声は男のものである。眉をひそめるそのほほに姿の見えぬなにかが触れる感触がする。
「さあね。取り敢えずもっと人目がないところにいこうか。ここはいつひとが通るか分からないから」
男に言われたまま蓮は歩く。きたのは校舎裏だった。
「ここしか選択しないの」
「俺、校内詳しくないから
「それもそうだね」
男が楽しそうに笑う。何がそんなに楽しそうなのか、蓮には分かっていた。ゆっくりと伸ばされてくる手に彼は避けない。この先何が起きるのか分かっていても。男の手が蓮の首を絞める。決して緩くない力だ。
「ねぇ、何で嬉しそうだったの」
「分からないの」
男の問いに冷たい眼差しをした蓮が答える。
「いいや、分かるよ」
楽しそうな男の声が響く。喋れるように力加減をしながらもそれでも苦しみを与えようと絞めている。その顔が歪んでいる。
「触らないからだろう」
蓮の口元が緩く上がる。微笑まれるのに男は眉を寄せた。
「気色悪い」
「悪かったな」
「君の笑顔は気色悪い」
「そうだろうよ」
男の言葉に返しながら蓮の中から表情が消えていく。それに安堵したように男の手が僅かに緩んだ。だけど、蓮は緩んだ隙間から逃げようとはしないし、緩んでも息を詰めていった。男がその様子にニヤニヤと笑う。同時に先ほど自身が口にしたことをもう一度確認する。
「触られないから。これであってるよね」
「それ以外にどんな理由があるの」
睨み付けるような瞳。男は満足げなため息を吐く。
「ないよ。でもね、尾神蓮。僕は一つだけ君に聞かなくちゃいけないことがある」
「何」
「君は、僕が触らない限りは何をしても許すと思っているのかな。僕との約束忘れた? 僕が何をするのか忘れた?」
答えはもうずっと前から男は知っている。それが変わることがないことをすっと知っているのに、それでも繰り返して訪ねるのは何故なのか。歪んだ笑みを口元に浮かべながら己ほど醜い者は居ないのだろうと思った。
「そんな訳ないだろ。
だけど、あの人が言っていたこともある。それがある以上あんたはある一定の行動は制限される。あれぐらいで誰かを殺すようなことはしない。いや、出来ない。亜梨吹たちが良い証拠だ。あいつらとは何度も話してるし、亜梨吹に至ってはこないだのことだってある。それなのにあいつらは今も普通に生きている。それを考えると滅多なことがない限りは大丈夫だって分かる」
男の目が冷ややかに冷えた。その様子を見ても蓮に怯えは見えない。それが余計に彼を腹立たせる。
「なるほど。やけにあの三人と話すとは思っていたけど試していたわけか僕を。しかも絶対に手を出さないとわかった上で」
指先に力がこもる。学ランの上からですら皮膚を突き破りそうなほど、骨を折りそうなほどの力。蓮の口から濁った音が飛び出す。
「だけどさ蓮。僕があの吸血鬼に手を出さなかったのはあれが妖怪だったからよ。君も知ってるだろ。僕は昔から妖怪にだけは手を出すなって言われてるからね。だから、ね」
笑みが広がる。ニヤニヤニヤニヤと。だけどその笑みはすぐに消え去った。血の気を失った青白い顔をしながら蓮が笑ったから。
手のひらから力が消え失せる。膝から崩れ落ちた蓮は咳き込みながら笑みをやめない。男とはまた違う黒い目が見上げる。
「妖怪だからじゃないだろ。亜梨吹アイツに血を吸わせるより前、沙魔敷猫とか言う奴だって俺に触れてた。話だってした。それでもアイツは何もなく生きている。しかもあんたがなにも起こすなってあの人に言われる前のことだ。あんただって分かってたってことだろ。この学園に何があるかは知らないけど、問題を起こすべきじゃないって。だからあんたはこんなことじゃなにもやらないよ」
黒い目を愕然と見つめた。細い息が男から漏れる。唇の端に浮かべられた笑みが憎たらしくて仕方ない。
衝動のまま男は蓮の首を締め上げる。ぎりぎりと骨がきしむ嫌な音がする。今まで何度も同じようなことをして来た。何度も何度も。つい先までだってやっていたことだった。だけど今までのどれとも今やっている行為は違った。時に怒りを感じるときだってあった。力のままに絞め殺そうとしたときだってあった。だけどこんなにも純粋な感情で男が蓮の首を絞めたことはなかった。
いつも、さきまでだってほんの遊びだった。子供がお気に入りの玩具で遊んでいるようなそんな感覚だった。苦痛に歪む蓮の顔を見てそれを楽しむ。決して振り払わない手に支配欲をみたす。可愛いげのない子供の遊びだったのだ。
だが今は違う。今男は純粋な怒りで蓮の首を握りしめていた。このまま首を落としてやろうかとすら思うほどの怒りで。
最初から蓮は分かっていて、百%と知りながらそれでも男を試していたのだ。
何のためにどうして。真っ赤に燃えた頭のなかその言葉が浮かび上がる。
手加減なしで首を絞める男に蓮の顔は青ざめ色をなくし口の端から泡が垂れていた。それなのに目だけがらんらんと輝いている。
虚無感が男を襲った。虚しさが哀しさが寂しさが男を突き抜け、力を奪っていく。咳き込む蓮を光ない目が見つめる。
「そうだよ。この場所で僕は好き勝手できやしない。
だけど忘れるな。僕は我慢が出来ない達なんだ。短気なんだよだから。いつまでも我慢し続けるとおもうな」
いつもと違う震えた声だった。
「分かってるよ。今回はただ試してみただけだ。俺はなにも望んでなんかいない」
掠れた声が応えた。黒い瞳同士が重なる。男が見る蓮の姿はいつもと何ら変わらない。首にかかった手を今は力をいれてなくともいついれて握りつぶすか分からぬそれを振り払おうとしない。細い吐息が男の口から漏れた。それには深い安堵が交じっていて、男はいつもの笑みをうかべだす。
「蓮。良く覚えていて。君は僕のもの何だ 。だから、君を傷つけて良いのは僕だけだ。君に所有の印を付けって良いのは」
握りしめていた首に掛かる手が少し変わる。学ランに爪を立てまた強く力をいれてきた。本日三回目の本気の力。蓮の意識が遠のきそうになる。だがその寸前、手は放された。驚きの眼差しで蓮は男を見る。放して貰えるとは思っていなかった。首もとに当てた手。その手がちで濡れないことに僅かに眉をひそめた。
「何、痛い思いしたかったのマゾだね。でも、ほらそこは覗き込んだりしたとき人に見えるでしょ? いつもは傷つけるならここって決めてるんだけど、今回は仕方ないから変えてあげる。だって救急道具持ってきてないしね」
そう言って男が掴んだのはは肩だった。握りしめながら、長く鋭い爪を突き立てる。眉が寄せられるのにくすりと笑みを浮かべながら。血が溢れてくるのが感触で解っても止まらない。時たま抉るように動き男は笑う。苦痛に歪める蓮の顔を見るのはこれ以上ないほどの快感だった。
「君は僕のものだよ」
いつものようにおきまりの言葉をささやけば、いつもとの同じ返事が返ってくる
「知っている」
それが男は嬉しかった
6
「ちょっと、そこの人。止まりンしゃいな」
帰り道だった。地獄から沸いて出てきたような低い低い声が後ろ、それもすぐ耳元から聞こえてきたのは。
パッと前を向く。
「あ……」
引きつった声が尾瀬ゆうきから漏れた。
目の前にあるのは人差し指が一つ。銃を撃つような形にされたそれが、目から数?も離れていないところにある。その後ろから見える人は尾瀬ゆうきの知っている人で、山中理矢だった。彼女がにっこりと笑うのに悪い予感を覚えた。
「尾瀬ゆうき。ちょっとお話ししようしゃいか」
「俺、何も悪いこと」
「何か言う前から話すって事は、そう言う話をされるんだなって理解出来たって事だよね。悪い事してるって自覚あるしゃいね。良かったしゃいよ」
にこやかに笑う理矢にゆうきはあっと言う顔をした。驚き焦ったあまり言わなくても良いことを言ってしまったのは間違いない。冷や汗を垂れ流すゆうきに理矢がため息を吐いた。
「ここじゃ、何だし、事務所行くしゃいか」
「嫌だ」
「即答しゃいね」
怯えていた癖に問いにはすぐさま答えた。その姿を見て半目になる理矢。ゆうきは疲れたように首を振った。
「だってよ、あそこ自然がないんだもん。もっと自然な空気入れようぜ」
抗議に聞きたくないと言うような顔をした理矢は耳を塞いだ。そこをチャンスとばかりに突くゆうきだったが、反論はすぐに帰ってくることとなる。
「うるさいしゃいよ。そもそも自然を入れたら妖怪達がもっとやってきてうるさいことになるのは目に見えているしゃいから、私は事務所に自然を入れないようにしているんしゃいよ。その努力をわかりんしゃい。と言うか、もし事務所に自然を一杯にしたらあんた毎日毎日無駄に遊びに来るしゃいでしょうが。仕事の邪魔しゃい」
「え、俺だけじゃないし、良いだろ」
「良くないしゃいから」
またも即答したゆうき。はあと深いため息を吐いた理矢はくるりと後ろふり向いた。やっと離れた指からゆうきがホッと息をはく。
「どこいくの」
「何処かそこら辺しゃいよ。じっくり話し聞きたいしゃいから」
ホッと吐いたはずの息も凍った。身震いをしたゆうきはどう逃げようかと考えたほどだ。
だが逃げることもできず気づけばゆうきは公園へとつれてこられていた。観念してブランコに座り込む。
「で、話してなんだよ」
「わからないしゃいか」
黙りこむ姿。にこりと笑うゆうきから見たら悪魔の笑み。答えないゆうきに痺れを切らした。
「あんた、転校生相手にけんかしてるらしいしゃいね」
いわれた言葉にゆうきの肝は冷えた。何でと声こそ出なかったものの口元は語っていた。何でばれたのかと。
「委員長と心が教えてくれたんしゃいよ」
「余計な」
「余計なことじゃないしゃいから。まったく人が見ていないのをいいことに喧嘩して」
「喧嘩じゃねえよ。ただの追い出し」
「もっと悪いしゃいよ。嫌うなとは言わないしゃいけど、それを表に出すな。自分が周りに与える影響わかっているんしゃいか」
理矢の目は真剣な色をしていた。真っ直ぐに見つめてくる刃のような瞳にゆうきは一方後ろに下がった。恐ろしい、とても恐ろしい者と相対している気分だった。
「分かってるけどよ」
「なら、止めんしゃい」
言われる言葉に彼は迷う素振りを見せなかった。
「無理」
「……ゆうき」
半目になる目に怯えながらも彼にも譲れないものはある。
「俺は嫌いな者は嫌いなの! 胸の中にため込むとか絶対出来ないんだよ! と言うか、俺にどうこう言うなら最初からあんな奴俺のクラスに入れるなよな! アイツが俺のクラスになるように仕向けたのお前だろうが! もっと仲良くできる、いや、百歩譲ってみんなと仲良くする気がある奴を入れろよ」
ゆうきは叫んだ。それは彼の全てだ。嫌いな物は嫌い。至ってシンプルで至って簡単。全てを吐き出すタイプのゆうきにはそれをため込むことは出来ない。尾瀬ゆうきの本気の叫びを前に理矢は浅いため息を吐いた。それは聞き分けのない子供に母親がする物と同じだった。
「あんたね、少しは辛抱てものを身につけなしゃい。もう今は昔と違う。あんたは社会に出てるンしゃいよ。それも誰が強制したのでもない、自分自身の意志で。
今は学生ですんでるけど、いつかは働くかもしれないんしゃいよ。もっと辛抱して、大人になりんしゃい。決めるのはあんたといえ、人せ……この世界何が起きるのかわからないんしゃいから」
「うるさい……。つうか、それよりも問題はアイツだってあの、えっと、尾神蓮とかいう奴」
「ああ、……人には色々と理由という物があるンしゃい。尾神蓮が抱えるそれが何か私にも まだ分からないしゃいけど、一つだけ分かることがあるしゃいよ。それは、アイツが異常だって事。だから、あんた達のクラスなの。わかりんしゃい。
きっと何かあるんしゃいよ。そう思ってアイツを受け入れてあげるンしゃいよ」
「無理」
無表情で即答されたことに理矢は分かっていたと言葉にした。そして諦めた顔で笑う。
「もう何も言わないしゃいけど、ただ程ほどにするんしゃいよ。自分が世界に与える影響を忘れるなしゃい」
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