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第一章 出発(たびだち)

1-4  一ヶ月の重さ

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「さてアンリ様、考えは少しはまとまったのでしょうか?」

 タニアがぼくにお茶を出してくれながらそう言った。ぼくはといえば、彼女の授業のあと、机に突っ伏している。最近では珍しくない光景だ。そして珍しくない光景の中から、ぼくは飛び出そうともがいている。




 ぼくが「観察者」と会ってから一ヶ月ほどが過ぎている。この一ヶ月の間の変化といえば、……ぼく自身に関することを除いては、特にない。

 これまでのぼくのアンリとしての日常は、本を読んだり、外で遊んだり、いろいろな人と話したり、が中心で、その中でなんとなく能力が伸びてきていた。タニアの授業もあったが、時間的にはそんなに長くなかった。

 しかし、あの翌日、タニアはぼくに宣言したのだ。

「アンリ様は八歳になれば、王立の幼年学舎に入学することになるでしょう。伯爵領から出て、王都で過ごされることになります。そうなれば、アンリ様は学舎が与える環境の中でご自分を成長させねばなりませんが、学舎が与えられるものなど、たかがしれております」

「ず、ずいぶんだね。だいじょうぶだよ。自分の行く末にかかわることだし、自分でしっかり頑張るさ」

「アンリ様はご自分がどういう存在であったかお忘れですか? わたしの目が届かない環境に移られたあとは、ご自慢の『中途半端』とやらが猛威を振るうという未来しか見えないのですが」

 忘れていたわけではない。もちろん忘れていたわけではないのだが、そんな身もふたもない言い方をしなくてもいいじゃないか。

「あの、それはそうかもしれないけど、さすがに自分の命がかかってるし、ぼくだってがんばろうと思ってるし……」

「なので、アンリ様が学舎での生活をどのように送られてもよいように、その前にしっかりと鍛えてさしあげようと思います。どうぞ、中途半端に学舎生活をお楽しみください」

 ぼくの言葉はまったく届いていない。そして、まだ具体的な話は何も聞いていないのに、身体の震えが止まらない。

「ど、どういうことかな?」

「どこかで能力の伸びが止まる、というのなら、この五年でそれを限界まで伸ばしてしまいます。そうすれば、あとはユルい学舎生活でもなんとかなるでしょう。これまでは、子供らしい生活の中でアンリ様がご自分の能力を伸ばしてゆければよいと考えておりました。ですが、子供扱いをする必要がないとわかったのですから、なんの遠慮もいらないでしょう」

「いや、身体は子供だし、少しは遠慮してくれるとうれしいのだけど」

「ご心配なく。頭の方も鍛えてさしあげるつもりですので。それから、これまでアンリ様が触れる機会のなかった魔法もです。魔法においても本来のアンリ様はたぐいまれな才能をお持ちだったとおっしゃってましたね。ならば、これを鍛えはじめるのに、早すぎると言うことはありません」

「……はい」

「それからアンリ様。わたしに相談いただくのは問題ございませんが、ご自分がどのようにして生き延びようとしていらっしゃるのか、その基本的なプランはございますか? ご自分がどうなさりたいのかぐらいは、わたしに話をお振りになる前にご自分でお決めください」

「……はい」

「それもお決めになれないようでしたら、いっそ無力化……」

「決める! 決めるからちょっと待って! 無力化はやめて!」 

「では、一ヶ月ほどお待ちいたします。その間におおまかな方向だけでも示せるようにしてください。よろしいですね?」

「わかった。でも一ヶ月も待ってくれるんだ。意外だな」

 タニアの目が光った。何度目だろう。

「一ヶ月という時間がどれほど短いか、アンリ様は十分に理解されることになるかと思います。これまでの人生でアンリ様がどれほどの時間を無駄にされてきたか、こればかりはご自身で感じていただくしかありません」

「がんばるよ。タニアを失望させたくないしね」

「そのお言葉に期待させていただきます」

 そして、地獄のようなひと月が始まった。




 一ヶ月あれば十分だと、あのときは思った。そして、タニアの言葉が真実だと思い知ることになった。これまでの人生でこれほど密度の濃い時間を過ごしたのは、はじめてだ。
 ついこの間までは、勉強といっても年齢なり、せいぜいそれにプラスアルファ程度の本を使った読み書きと算術、身体は散歩と遊びでうまく鍛えられるよう、タニアが工夫してくれていた。

 いまは、より高度な読み書きと応用段階の算数のようなもの、それにいまぼくがいる世界の歴史と社会構造、はては諸々の儀礼までを、毎日詰め込まれている。

 歴史といっても、いつごろ何があった、というような話ではない。時間の流れを自分で組み立てなければ答えられない質問を投げかけてくる。そして、そこからいまの社会のあれこれに話が及んでいくのだ。常に頭を回転させていなければついていけない。ついていけなければ、ヤマほどの課題が待っている。


 ヤマほどの課題を課せられたとして、身体の鍛練が免除されるわけではない。これまでは散歩といっても、家の敷地の中を歩き回るだけだった。だが、いまは敷地の外の森に出る。当然、起伏が大きく、幼児にはなかなか厳しい。そこを、最初に教え込まれた身体強化の魔法をかけながら歩くのだ。

 散歩のコースがキツい、というのもあるが、魔力を思うように使う感覚を覚えることも狙いだそうな。そのほかにも、森の中でおりにふれて豆知識を教えてくれたりもする。サバイバル的なものもあったりするのがすごい。



 また、もうひとつ目的があるらしい。

「どのような魔法を今後学んでいくにせよ、あつかえる魔力の容量をふやさないことには話になりません。魔族は生まれたときから呼吸と同じように大気の中の魔素を無意識に使いながら成長していきますが、人間はそうではありません。意識して魔素を取りこんで魔力に変換して使う練習をしなければ、容量は小さいままです」

 あー、このへんは転生もののラノベにあったな。MPを使い切ると、すこし最大MPがふえる、っていうのはよく見た気がする。MPが使える魔力の量、最大MPが使える魔力の最大量ということか。ちなみに、いまのぼくではすぐに魔力切れを起こすが、そのせいでちょっとめまいを起こしている間にタニアが自分の魔力を分け与えてくる。

「アンリ様のひとりやふたりが使う魔力など、わたしには微々たるものですから」

 自分の魔力を他人に分け与えるなんていうのは、特別なスキルがないとできないことかと思っていたけど、彼女には普通のことらしい。もちろん、彼女が特別である可能性もあるが、いいかげん、妙な固定観念から離れた方がいいのだろうと思う。



 魔素のある世界で森の中を歩いていると、当然のように魔獣なるものが出てくる。見てくれはちょっといびつに成長した獣、という感じだ。狼であったり、猿であったり。魔素を異常な形で取りこみ続けた結果らしい。それらの魔獣は、タニアともうひとりの「たびのおとも」がサクサク片づけていく。

「そのうち、魔獣の処理もアンリ様におまかせしますので」

「うん、それはいいんだけど、その……ひとはなに?」

 ひと、といったが、その「たびのおとも」は、どう見てもぼくと同じ人間ではない。いってしまえば、骸骨だ。

「わたしが使役しているスケルトンです。以前、さる迷宮をフラフラ散歩していたときに出くわしました。いきなり斬りかかってきたので、無力化して隷属させました。過去を探ったら、騎士崩れのA級冒険者でした。ですので腕はたしかです」

 突っこみどころは多いが、いろいろあきらめた。腕ききの護衛がいてうれしい、と思っておくしかないのだろう。



  森の奥、少し開けたところまで来ると、そこで剣術の鍛錬である。相手はスケルトンだ。もう、なにもいうべきことはない。

「もと騎士ですので、剣術はしっかりした基礎をもっています。攻撃はしないように言ってありますので、遠慮なく打ち込んでください」

  剣術の基礎はこの一年ほど、ロベールが仕込んでくれている。とはいえ、ぼくが握るのはあくまで三歳児が振れるような短いものだ。相手に届く間合いまで近寄ると、骸骨を下から見上げる形になる。なかなか新鮮な経験だが、あまり嬉しくない。

  一発打ち込む。軽くいなされる。続けてもう一発。これも簡単に受けられる。

  その瞬間、強烈な寒気が身体を駆け抜けた。ぼくが反射的に後ろに飛びすさると、次の瞬間、スケルトンの剣がぼくのいたあたりを横薙ぎに薙いだ。剣の風圧をまともに受けたぼくは叫ぶ。

「タニア、タニア!  攻撃しないって言ったじゃない!」

「おっと、反撃もなし、と言い聞かせるのを忘れておりました。でも、うまく回避なさいましたね。そういう感覚を大事になさいませ」

  タニアはぼくが握っていた剣をスッと取ると、次の瞬間、スケルトンをなますのように切り刻んだ。バラバラになったスケルトンは、そのまま光の粒になって消える。

「き、消えた? 死んだの?」

「もうとっくに死んでおります。いまは、わたしがいつもあれを飼っている空間に戻しただけです。明日からまた働いてもらわないといけませんしね」

「またあれとやるんだ……」

「慣れてきましたら、改めて反撃を許可しますので、そのおつもりで」


 そんなこんなで一ヶ月があっという間に過ぎていった。

 この濃密な時間でなにが変わったのだろう? 知識? 技術? うん、それももちろん身についていっている。だがそれ以上に、それらをどう使うか、考えることを学んだ。

 そして、あいた時間に、本当の課題である「これからどうするか」を考える。人間とはなんなのか、魔族とはなんなのか、そして、英雄とはなんなのか。英雄になるはずのものが英雄とならずに終わる条件とはなんなのか。

 そうしている中で、考える、という作業が簡単ではないことを思い知った。これまでのぼくの「考える」は、せいぜい「悩む」「迷う」で、だいたいの場合は、考えるふりしてきっかけが外からあらわれるのを待っていただけだ。材料を集め、組み立てて、完成させる。それを否定する材料を探す。また組み立てる。ぼくはいつしか、その作業にとりつかれていった。


 
 そして、タニアがぼくにくれた一ヶ月が過ぎ、机に突っ伏したままぼくは、タニアの問いにこう答えた。

「ごめん、まだ」

 タニアの目から人間らしい色が消えていくのがわかった。これはまずい。なにが起こるのかわからないが、とにかくまずい。なんとかしないと英雄になる前に死ぬ気がする。

 ぼくは必死で頭を回しはじめた。
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