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第一章 出発(たびだち)

Interlude 2  アンリ

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 ぼくはアンリ・ド・リヴィエール。マリエール母様がくれたアンリという名前は,わりと気に入っている。まだうまく話せないのでお礼は言えないけど、ぼくをアンリと呼び、慈しんでくれるマリエール母様やタニアのことがぼくは大好きだ。



 まわりの様子が少しだけわかるようになってまもなく、ぼくは身体が動かせなくなった。正確にいうと、ぼく以外のだれかが身体を動かしたり、話したり、考えたりしていて、ぼくはそれを外から見ている、という感じになってしまっている。笑ったりしたいときも、泣いたりしたいときも、ぼくはもうひとりのぼくがそうしてくれるのを待っているしかない。とてももどかしい。



 マリエール母様やロベール父様、そしてタニアはぼくをとてもかわいがってくれる。ぼくも、マリエール母様やタニアにもっと甘えてみたいし、ロベール父様に頭をなでてもらいたい。でも、もうひとりのぼくはあまりそういうことに興味がないみたいだ。タニアとも話すときも、大人の人みたいに話す。不思議な気分だ。ぼくが理解できない内容を、もうひとりのぼくはいつもタニアやマリエール母様に話している。もっと楽しい話もしたらいいと思うんだけど、すこしつまらない。



 もうひとりのぼくが、家の外に遊びに出るようになった。外の世界はすごく新鮮だ。
いままで知らなかったものがあちこちにある。寒くて身体をすくめたり、暑くて汗をたくさんかいたり,そんなことも楽しい。ぼくやマリエール母様たちとは全然違う生き物が動いていたり、お部屋に飾ってある花とは全然違う花や草が生えている。お部屋の中とは違うにおいも新鮮だ。もうひとりのぼくが、もっといろんなことをしてくれたら、ぼくもいろんなことを見たり、聞いたり、感じたりできる。ぼくはなにもできないけど、もっといろんな経験がしたいな。



 タニアはぼくにいろいろな勉強をさせてくれるようになった。むずかしい話がいっぱいだ。もうひとりのぼくも、ときどき音をあげてタニアに怒られている。でも、いろいろなことを知るのは、けっこう楽しい。もうひとりのぼく、頑張って勉強してね。



 もうひとりのぼくが、ロベール父様と剣の訓練をするようになった。もうひとりのぼくも、なかなか頑張っている。ときどき、「あ,そうじゃないよ」と思うこともあるけど、悪くないんじゃないかな。これからも応援してあげよう。



 もうひとりのぼくが、ころんで頭をぶつけた……と思ったら、どこか遠くに飛ばされた。もうひとりのぼくの気配は感じないんだけど、なぜかだれかの声が頭に響いてくる。いったいどうなっちゃったんだろう。このままからだが動かなくなったら、すごくイヤだ。



 頭に響いている声は、どこかでもうひとりのぼくと話している。



 もうひとりのぼくは、どこか遠くの世界から飛ばされてきたらしい。よりによって、ぼくと入れ替わることないじゃないか、と少しだけ思ったけど、まあいいや。ぼくにいろいろなことを体験させてくれたし、けっこういいやつみたいだしね。

 それからぼくは、「英雄」とかになるはずだったらしい。頭の中の声は、もうひとりのぼくにいろいろむずかしい話をしている。もうひとりのぼくは、とても悩んでいるみたいだ。どうしたんだろう?



 もうひとりのぼくが、タニアと真剣に話をしている。「英雄」にはならないらしい。もうひとりのぼくは、マリエール母様やロベール父様、タニアや本家のシャルロット様、兄様や姉様、使用人たちや領民のことを考えたりして悩んでいる。

 もうひとりのぼくが、ぼくの好きな世界を守ってくれるなら、ぼくはもうひとりのぼくを応援しよう。もうひとりのぼくは、ときどきぼくを感じているみたいだけど、それはきっとよくない。もうひとりのぼくは、これからずっと戦っていかなきゃならない。ぼくが感じるもどかしさを、もうひとりのぼくが感じるようになれば、それはよくない。ぼくがいないほうが、アンリの、そしてみんなのためにいいんだ。


 マリエール母様、ロベール父様、タニア、大好きな人たち、そしてもうひとりのぼく。短い間だったけど、楽しかった。アンリ、これからはきみだけがアンリだ。みんなをよろしくね。さようなら。

 そしてぼくは、本能的に知っていた方法で意識を閉じた。





 目が開いた。おかしいな。二度と外の世界に触れることはないと思っていたし、そもそもなぜ意識が残っているのだろう?

 黒い目と長い黒い髪の女性がぼくをのぞきこんでいる。

「ほら杏里くん、ママですよ~」

……ママってなんだろ?
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